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田﨑史郎(田崎史郎)の名言

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田﨑史郎(田崎史郎)のプロフィール

田﨑史郎、たざき・しろう。日本のジャーナリスト、政治評論家。福井県出身。中央大学法学部法律学科卒業後、時事通信社に入社。政治部記者、政治部部長、整理部部長、編集局次長、解説委員長などを務めた。また、テレビのコメンテーターとしても活躍。

田﨑史郎(田崎史郎)の名言 一覧

どんなときもね、まじめにやってれば誰かがきっと見ていてくれて、拾ってくれるもんですよ。


40代半ばまでなら、たとえ失敗しても復活するチャンスは十分にあると思いますよ。人生、熱中できることさえ見つけられれば、何とかなるもんです。


取材のアポ取りも出演依頼を受けるのも1人でやっています。やはり自分で直に獲った情報じゃないと、見る人、聞く人には伝わりませんよ。これからも自分の足で取材します。


僕の性格上、ある瞬間「これは自分しかできない!」と思うと、見境がなくなるというか、目の前の壁が見えなくなっちゃうんですよ。


(会社で冷や飯を食わされて)以来、捨てられるのではなく、こちらが会社を捨ててやるという感覚になり、モノを書くことに専念するようになったんです。それまでは完璧な会社人間だったけど、会社以外に情熱を燃やせるものがないと、自分が潰れるなと。それが44歳のときです。


相手に食い込むために、心がけたのは、とにかく誘われたら、絶対に断らないこと。それがゴルフだろうと、なんであろうと。「今夜、空いてるか?」と言われたら、すぐに「はい!」と言ってついて行く。女房に「その日は約束してたのに……」と言われるのは、もうしょっちゅうでしたよ。


政治記者として一番難しいのは、やはり「どうやって相手に食い込むか」です。そのために、ほかの記者とは同じ場所で仕事をしないことを心がけました。たとえば懇談会では、政治家一人に対して十数人の記者がいるわけでしょう。それじゃ意味がなく、いかに一対一、一対二、三人ぐらいの形で話せるかが大事です。


テレビ出演は、やっぱり最初はうまくいかなかったんですよ。しゃべり出すと、1分半くらいずっとしゃべっちゃう(笑)。半年ぐらい経ってからは、新聞の見出しをつくるように、最初に大事なことをパッと言い、その中身を30秒くらいで話すというのが、やっと身についてきました。


いまは会社じゃなくて、国会記者会館に拠点を移しました。取材現場の近くに席を置きたいですからね。


(『小沢一郎との訣別』を書いたときに)一番厳しい対応だったのが会社です。懲戒免職の次に重い罰の「2週間の出勤停止処分」。復帰後も、まったく仕事のない時期が3年ぐらいあって、その後は整理部に移って8年ほど冷や飯を食らいましたよ。でもいい勉強になりました。組織というのは、過去にどれだけ実績があっても、一つのミスでバサッと切るもんなんだと。


テレビに出始めて少し経った頃、当時総理大臣だった福田(康夫)さんと民主党の代表だった小沢(一郎)さんとの間に大連立構想が持ち上がった。そのとき、突然「報道ステーション」から電話がかかってきて「出演してくれませんか」と。理由は、当時政治コメンテーターだった朝日新聞の人がたまたまアメリカに行っていたからなんです(笑)。だから、ちょっとした偶然が重なりあっていまの自分がある。


政治記者として幸運だったのは、最大派閥の田中派の担当になったことです。1982年当時は、田中角栄さんの最後の絶頂期でね。当時の政治の取材は、田中派の動きが一番の重要なポイントだっただけに、どの新聞社も一番できるであろうと思われるエース記者を張り付けていました。しかし田中派は、一番食い込みにくい派閥でもあったんです。どうすれば食い込めるのか? 僕はまず、田中さんの側に仕える早坂茂三秘書の信頼を得ようと思ったんです。でも、はじめて話しかけたときは「ネクタイがゆるんでいる」と言われ、二度目もまともに相手にされず、三度目からですか、ようやく会話が成り立つようになったのは。以来、どんなに取っつきにくい相手でも、取材しなければならない相手なら、「最低3回はアタックしよう」と決めたんです。


浦和支局時代、衆参同時選挙のときに、ほかにやることもなかったし、全候補者に会って話を聞いてまわってね。選挙情勢を事細かくメモにして、本社の政治部選挙班に上げたら、「なかなか見所のあるヤツが浦和支局にいる」と目をとめてくれた人がいた。それで、政治部が拾ってくれて本社に戻ることになったんです。正直言って、自分に務まるのか、不安でした。だって政治記者っていうと、国会議員とも友達のように付き合うような人たちだったし、態度もデカかったですからね。はじめは萎縮しました。いつしか自分もそうなっていましたが(笑)。


田﨑史郎(田崎史郎)の経歴・略歴

田﨑史郎、たざき・しろう。日本のジャーナリスト、政治評論家。福井県出身。中央大学法学部法律学科卒業後、時事通信社に入社。政治部記者、政治部部長、整理部部長、編集局次長、解説委員長などを務めた。また、テレビのコメンテーターとしても活躍。

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