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桜井章一の名言

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桜井章一のプロフィール

桜井章一、さくらい・しょういち。雀士、作家。東京出身。雀士として20年間代打ちをしたのち「雀鬼流漢道麻雀道場 牌の音」を開設。「雀鬼会」を設立。また多数の本を執筆した。

桜井章一の名言 一覧

大きな一番になればなるほど、一つの見落としが命取りになる。相手のちょっとした表情の変化とか、場の流れから少しでも多くのことを「気づいた」人が運をも呼び込むことができるんだ。


運というものは、初めからそこに流れている、いわば風のようなものなんだ。吹いてくる方向も強さもわからない。常に変化していて、目には見えない。逆らわないで、ただ瞬間、瞬間の変化を感じることが大切だ。


頭で考えることがいかに感覚の邪魔をしているか。人間は考えれば考えるほど間違う。もともとそこにある運が見えなくなってしまう。自分で感じることが大切なんだ。


運が欲しいなら、「運なんかいらないよ」というぐらいの気持ちでいることだ。「運が欲しい! 運が欲しい!」と求めるから、かえって入ってこないんだ。


平常心を失うと、運を持っていかれてしまう。


お利口さんは複雑に考えるよね。将来どうなるってことばかり考えてる。でも、そんなこと考えたって、自分の不安を濃くするだけだ。


他人の評価なんてどうでもいい。俺は「雀荘のオヤジ」でいい。社会が見れば下等な立場で十分。そこにいるからこそわかるんだよ。下の人の気持ちがさ。


不安の強い人は自分を守ろうとしていろいろなものを身につけ、自らを重くしてしまう。重い荷物を抱えている人に運は味方しない。


人間だから、不安を完全になくすのは無理だろう。しかし、危ない状況を自ら楽しむ意識があれば、不安はうんと小さくなる。


運というものは、誰かの中に眠っているものではない。環境や人間関係によって刻々と変化して、近づいたり離れたりする。


1つのことに集中するのは、とらわれている状態。変化に気づけなくて危険だ。同時に複数のことに意識を向ける「拡散する集中」こそが本当の集中力なんだ。「二兎を追う者、一兎をも得ず」と言うけれど、百兎ぐらい追った方がいい。自分の能力も広がって、それが余裕を生み出すことにもなる。


いつの時代も、世の中で変わらないものなんて何もない。明日、どうなるかわからないのが人生。


考え方を固定しないこと。物事の判断をいつも白か黒かの両極に分けることはお勧めできない。両極ばかりに目が行き、その間に目がいかなくなるから。


心がまったく揺れ動かない人はいません。でも、いくら心が揺れても、最後には収まればいいのです。


会社や肩書きから離れた場を自分の中に設けるようにしてもらいたい。それが自分を一歩引いた立場から眺め、心のバランスを取ることにつながるはず。


硬直した思考からは、硬直したもろい心しか生まれない。


自分に降りかかってきた困難や課題に対しては、あえて飛び込む覚悟を持つことで、活路を見いだせることもあるはず。


世の中には、あえてリスクという「懐」に飛び込むことで得られるものがある。


ときにはあえて困難に飛び込む勇気を持つことで、自然と平常心を身につけられるのではないかと思う。


大一番では、一つの見落としが命取りになる。相手のちょっとした表情の変化とか、場の流れから、少しでも多くのことを「気づいた」人が運をも呼び込むことができる。


麻雀を打つ時に私は頭で考えていない。一瞬で打つ。一瞬にすべてを凝縮させる。道場生にも「1秒ルール」を設けて、瞬間で打つようにトレーニングさせている。


運を感じるには、日々できる限り、気分よく過ごすことが大切だ。気分を良くしておくと、なぜか運が入ってきやすくなる。私が大自然が好きなのも、気分が良くなるからだ。


避けようとするから余計に追ってくる。ならばあえて反対の行動、つまり「相手の懐に入ってしまう」。こうなると、物理的にも殴りにくいもの。


運というものは、求めるものじゃなくてね。運のほうから、しかるべき人を選んでやってくると思ったほうがいい。運に選ばれる人というのは、小さなことにもよく気づくし,それには感覚を研ぎ澄ませないといけない。


若い人をはじめ、多くの人が「将来が見えない、見えない」って不安そうな顔をするけど、大半の人は現実を見ていないだけなんだって。いや、「見たくない」っていったほうがいいのかな。


必然の運というのは、日頃の行動や気持ちの持ちようで呼び込むことができる。まず仕事でも何でも「準備・実行・後始末」をちゃんとする。準備をしていれば失敗のない実行ができ、後始末をきちんとすることで、次の準備へと繋がっていく。


何が起ころうと、その日、その日を自分の足で必死に生きている人は「将来がどうの」なんて愚痴ったりしない。仕事にしてもなんでも、今日、自分でやったことだけが明日につながっていくのだということを知っているからね。


先行きなんて、俺にもわからない。ただ、いま生きている現実をよく見ていると、「この先、こうなっていくんじゃないの」っていうイメージは湧いてくるよ。だって将来というのは、決まっているものじゃなくてさ。いま見ている現実が反映して形づくられていくもんだろう。


麻雀というのは、私にとっては生命線みたいなもんだ。そのおかげで金にも恵まれたし、それ以上に、麻雀から教わったことってものすごく多い。努力してもどうしようもないことがあるとかさ、学校や会社では教えてくれないようなものを山ほど。


ため込んだものはすべて腐ってしまうと考えた方がいい。お金でも何でもそうだ。もし、100万円あったとして、3日で腐るとしたら、「私はそんなにいらない。皆で分けようよ」と思うだろう。そういう心がけが大事なんだよ。


完璧主義の人、100%の力を出し切る人ほど、もろい。力が入りすぎて、運を感じ取れなくなるからだろう。たとえ全力を出していても、気持ちは80%の状態だと思うようにする。この20%の心の余裕があれば、全体を見渡す余裕を失わずに済んで、運が入ってきやすくなる。


知識やデータよりも自分の感性を信じること。感性が研ぎ澄まされるのが、気分の良い時なんだ。「何かイヤだな」「おかしいな」と違和感を覚えたら、その場を離れて、気分の良い方向へ行くといい。実際、私はそうやって災難を免れたことが何度もある。


私が助かったのは、自分の欲や損得ではなく、「仲間を助けなければ」という思いがあったからだ。仲間を助けるためなら、命を落としたって構わないと思っている。それが好運に結び付いて、死の淵から生還することができた。


世間にはいろいろな人がいます。要領の悪い人、人を騙す人……。けれど、彼らからも学ぶ部分はあります。なぜ彼は効率が悪いのか。嘘をつく人にはどんな特徴があるのか。そう考えれば、いろいろな人がいたほうがラッキーだと思いませんか。


私は「負け」にも流儀があると思っています。もし、どうしても勝てそうにないという局面になったとしても、「あきらめる方法」は百も二百もあるはず。その中の一つか二つにもっと「良いあきらめ方」があるかもしれません。単に勝負を投げるのと、最善手を模索した結果、撤退するのとでは、まったく違います。私自身、そんな「センスの良いあきらめ方」をする対戦相手には常に一目置いていました。


勝負をすべて「勝ち」と「負け」の両極だけで考えるとどうなるか。負けが見えた瞬間、自暴自棄になってあきらめてしまいます。これでは勝てる勝負も勝てなくなる。


私の中の「軸」の一つは、「勝ち負けの結果だけではなく、いい勝負がしたい」という想いです。その軸があったからこそ、ヤクザに「負けろ」と脅されるような修羅場に陥っても、どこか自分を客観視することができ、冷静に勝負ができたのだと思います。


いくら激しく心が揺れていても、「軸」があれば徐々にその揺れは収束していく。いわば「自分の軸はブレずに、感情だけが揺れている状態」です。一方、軸がなければ、際限なく揺れ続けます。


不安は、何かを守ろうとしたり損をしたくないという心理から生まれる。そうした現実的な損得にかかわることを一つ行ったら、損得の入らないことを二つ、三つ行うとよい。バランスが取れ、不安を押し込めることができる。


私にとって運は、勝利や利益をもたらしてくれるものではない。運とは、絶体絶命のピンチに陥ったときに何気なく助けてくれるもの。つまり負けから救ってくれるのが運である。


勝ったり儲けたりしても、精神の幸せにつながるとはかぎらない。私は人生の成功者と言われる人たちから相談を受けることがあるが、見た目の華やかさと違って、内実はボロボロであることも多い。彼らの悩みを聞いていると、勝ったことが不運だったのではないかとさえ思えてくる。


自分のものにしようと近づいていくと嫌われて逃げられる。運に近づきたければ、つかまえるというより、触れさせていただくという気持ちでやわらかくアプローチする。それが肝要だ。


ツキとか運が「欲しい」というときは、大抵は欲からだろう。でも、ツキとか運っていうのは、欲で取るもんじゃないんだ。じゃ、どうしたら掴むことができるのか? 考えて手にはいるもんじゃない。むしろ、どこにでも漂っていて、ある瞬間、ペタッと人間にくっつくようなものだ。感じる力がないと逃がしてしまうんだな。なんにも気づかないまま。


一生懸命、「頑張って努力する」のは良くないな。だいたい、「力」というのはウソっぽいんだよ。力なしでやるのが一番いい。勝負する時も、ちょっと体調が優れないぐらいの方が勝てるものだ。体調がいいと、どうしても力みが入ってしまって、だんだん崩れていく。風邪を引いたりして少し調子が悪いと、いい具合に力が抜ける。


ウソの自分を賢く見せて築いた信頼なんて偽物だよ。たとえば、猛獣に襲われたときに金の力で助かるかい? いまの会社の上司が身体を張って助けてくれると思うかい? 自然の前では、ウソの自分なんて通用しない。賢いも、バカも関係ない。裸の自分ではじめて、本当の信頼関係が築けるんだ。


みんな上を向いて暮らしすぎだな。たまには、自分より下に目を向けてみなよ。オレの教師はね、下等な動物たちなのさ。人間から教わることはあんまりないからな。たとえば、身体の動かし方なんかは魚の泳ぎ方や葉っぱの落ち方、波の起こり方から学んだよ。人間から見れば、魚とかバカでしょ。下等動物だよな。でも、その大きな自然から勉強すれば、むしろ上等な人間がやってることのほうがバカに見える。


40代って、自分の楽しみを追求するだけじゃなく、その楽しみをまわりに配っていく番なのかもな。「いや、そんな余裕ないです。自分のことで精一杯です」っていう声が聞こえてきそうだけど(笑)、わかるよ、俺たちのころよりも、いまの40代のほうが大変だというのも。スマホやなんやと情報に振り回されて、自分でいっぱいいっぱい。でもね、一度肩の力を抜いて、まわりを見渡してごらん。家族や部下にも、あなたに声をかけてもらいたいと思っている人が、意外といるんじゃない? 自分のことばかり考えるんじゃなくて、仕事の喜び、楽しみをまわりに配ろうとしてみなよ。景色が変わっていくだろうから。


40代をどう過ごすかっていうのは、男にとって人生の大事なキーワードかもしれないな。私自身の人生を振り返ってみても、転機というか、一番大切な節目だったと思うよ。「雀鬼」という異名を授かった、麻雀の代打ちをやめたのも、40歳を迎える数年前のことだった。勝って、勝って、勝ち続けていても、あるときから喜びが広がっていかない。結局自分一人の満足でしかないじゃない? 自分のためじゃなくて、家族をはじめ、まわりの人たちを喜ばせたほうが人生は楽しいな、と思うようになっていったんだよ、40歳を前にして。


運というものは、世間一般では「得ること」だと思われている。つまり、欲望が叶えられれば、「運がいい」というわけだ。特にビジネスの世界では、業績が上がったり、人よりも多く何かが得られたりすれば、「運がいい」と言う。だから、奪うことや根こそぎ取ることを「努力」や「能力」だと言っている。しかし、そういう手前勝手なご都合主義で運がつかめるはずがない。一時的には得られても、いつか必ず失う。得たものは失うのが道理だからだ。


勝負の世界では、急に動きが早くなった、手が早くなったと感じたときは、ササッと牌を並び替えて整理し始めるから、相手にいい手が入ったということだ。逆にぐちゃぐちゃで悪い手のときは整理しない。人は欲望やそれまでに学んだことが麻雀にも出てくる。相手の手の内を読もうと思うのではなく、自然に感じることが大事なのである。何か違和感があり、それで感覚的に身体が動いて行動に移す。そうしていい結果に結び付く。運とは、そういうものだと思っている。


私のことを、勘が鋭いと言う人は多いが、私が感じるのは勘というより違和感だ。あまり良くないことが起こる、それは嫌なもの、悪いものだと感じる。海の中の魚の群れは、危険を察知すると瞬時に身をかわす。あれは技術や運動能力で泳いでいるのではなく、本能だ。人間ももともとは生き抜くためにそうした本能が備わっていたはずだ。だが、便利な生活と引き換えに感覚が薄れてしまったのだ。この感覚はどこで感じるのか。例えば、手のひらや指先はものをつかんだり、日常いろいろなことに使うので敏感だが、ここではこの微妙な感覚を感じ取ることはできない。実は、通常あまり使うことのない手の甲など身体の中の日常使わないところに鋭い感覚はある。


桜井章一の経歴・略歴

桜井章一、さくらい・しょういち。雀士、作家。東京出身。雀士として20年間代打ちをしたのち「雀鬼流漢道麻雀道場 牌の音」を開設。「雀鬼会」を設立。また多数の本を執筆した。