市村清の名言

市村清のプロフィール

市村清、いちむら・きよし。日本の経営者。リコーの初代社長。戦前の財閥である理研コンツェルンの中心的人物。佐賀県出身。日中合弁銀行の大東銀行に入行するため中央大学中退し北京に渡る。昭和金融恐慌で大東銀行が破たんしたため帰国。富国徴兵保険(のちの富国生命保険)のフルコミッションセールスマンになり、大きな実績を残す。理研が開発した感光紙の販売の代理販売業を行ったのち理研にヘッドハンティングされ本社感光紙部長に就任。同部を独立させ理研感光紙(のちの理研光学からリコー)となり社長に就任。その後、理研グループ内で社長3社、専務4社、平重役5社を兼任し、同グループの中心的な人物となる。その後、理研光学(リコー)、飛行機特殊部品、旭精密工業3社を理研グループから切り離し社長に就任。太平洋戦争後、小売店三愛やデパート業、結婚式場、石油会社なども立上げグループを形成した。五島昇、盛田昭夫ら若手経営者や、大宅壮一、邱永漢、今東光、升田幸三などが教えを乞い、経営の神様と呼ばれた

市村清の名言 一覧

人生というものは、たとえいかなる逆境・悲運に遭遇しても、希望さえ失わなければまったく消えてしまうものではない。


できない理由を考える前に、できる方法を考えてくれ。


明治記念館を経営してみて、私が悟ったことがひとつある。それは、「儲ける」と「儲かる」の違いである。儲けるのはどんなに上手くても限度があるが、儲かるということは無限だ。そして道にのっとってやるのが、この「儲かる」ことなのである。明治神宮の名でやるのだから暴利はい絶対にいけない。飲食物も3割以上の利をみてはいかんと言いつけてある。それが大衆の心をとらえたのだ。
【覚書き|戦後、明治神宮の結婚式場を立上げ、経営したときを振り返っての発言】


仕事は諦めてはいけない。最後の一押しが成否を決めるのだと、紙一重の差を私はそこで悟った。
【覚書き|富国徴兵保険のフルコミッションセールスをしていた時代、初契約をとりつけたとき振り返っての発言。当初はまったく契約が取れず、辞めようと思った直後に初契約がとれ、その後、大きなセールス実績を打ち立てた】


いったいこのカタログにはなんと書いてあるのですか、これ以上のものはないと書いてあるじゃないか、それが売れないというのは、携わる人の熱と努力が足りないのだ。僕は人の嫌がる保険募集でも成功した。仕事の熱意と努力では人に負けないつもりだ。


いまになって思い返すと、生きてゆくための障壁にぶつかって苦しんだひとつひとつの経験が、私の信念というか、処世の哲理と生活信条を形作ってきたようである。


敗戦という厳しい現実の前にこそ、私たちは愛情を持って団結してゆかねばならないと思う。店の名を三愛としたのも、「人を愛し、国を愛し、勤めを愛する」という人道的なスローガンを示しているのです。ぜひ協力を願いたい。
【覚書き|戦後焼けてしまった銀座に、のちにアパレルメーカーとなる小売店「三愛」を立ち上げた当時銀行に協力要請をした発言。三愛精神は氏の経営哲学でもある】


さんざんいじめられ抜かれたあとだけに、敵愾心(てきがいしん)をともなって、仕事に対する闘志が火のように湧きあがった。士は己を知る者のために死す。大河内先生(大河内正敏第三代理化学研究所所長)の好意に対しても報いなければ、私の男が立たぬ。私はそれこそ武者震いをして立ち上がり、妻も驚くような勢いで仕事に熱中した。
【覚書き|理研の感光紙部長にヘッドハントされた当時、本社社員たちに嫌がらせを受けたため、感光紙部を独立会社にした当時を振り返っての発言】


ほかの代理店主からはよく「市村さんは実に店員の運に恵まれていますね」などと言われたが、それは運ではなかったのである。私の店の経営の基本方針は利益三分主義で、一は店員に、一は将来のための積立、残りの一を危険負担というふうにしていた。
【覚書き|理研の感光紙販売の九州総代理店をやっていたときを振り返っての発言】


私の関係している会社はどこにも組合というものがない。全部で約7000人の社員がいるのにどこにも組合がない。これは私が徹頭徹尾「三愛主義(人を愛し、国を愛し、勤めを愛する)」で貫いているからで、それも口先だけでなく本当にそう思っていることを社員たちが理解しているからであろう。


私は店員をどんなに若くても××君と呼び、妻には××さんと呼ばせた。使用人ではない、仕事の協力者という扱いである。食事も三食とも皆で一緒にする。私は少年のころ、叔母の家で食べ物の差別に苦しんだことも決して忘れていなかった。食事の点だけは、妻は猛反対して、たまにはあなただけに鯛の刺身でもつけたいなどと言ったが、私は承知しなかった。彼らへの愛情は、子供に対する愛情をもってしなければ不徹底だと思ったからである。


初めて自分で人を使う立場になったとき、私はいろいろ考えた。私のように特別の学歴も人のつながりもなくやってきた者が、今後伸びようとするには、結局従業員が心から協力をしてくれるかどうかにかかっている。そのためには、彼らの待遇を物質的にも精神的にも他より優遇してやることが必要だ。


このときの監房生活で私が得た貴重な体験は、人間は何もないところでも、工夫によっては何でもできるものだということ、もうひとつは、度を超えた苦痛を耐えていると、気が狂う前に人間には気絶という保身の道があるということであった。ふたつとも、負けるものかという不屈の精神を受け付けた体験である。
【覚書き|銀行員時代、横領の容疑をかけられ4か月半ほど中国の刑務所で暮らした経験を振り返っての発言。その後無罪になる】


最初の東京の生活は苦しいものだったが、そのころ私はひとつの生活信条を自分に課していた。絶対に他人の世話にはならないという誓いである。月給日前に金がなくなってしまうこともよくあったが、一食の料金も人から借りることは肯(がえ)んじなかった。
【覚書き|大学生時代を振り返っての発言】


ははあ、女というものはトイレなんかで秘密のことでもなんでも話すんだなと私は感じた。銀行会社のトイレは無数にある。ここから戦後の若い働き方を探れば何か出てくるなと私は思った。


私は過去の体験から、従業員を使用人でなく事業の協力者だと思っているし、物心両面からできるだけの待遇を実行している。そしていつも彼らが勤めを楽しい面白いこととして愛するようにと導いているつもりだ。働くことに何の心配もつきまとわない、世界のどこにも類例のない独特の市村産業団というものをつくりあげていきたい。


市村清の経歴・略歴

市村清、いちむら・きよし。日本の経営者。リコーの初代社長。戦前の財閥である理研コンツェルンの中心的人物。佐賀県出身。日中合弁銀行の大東銀行に入行するため中央大学中退し北京に渡る。昭和金融恐慌で大東銀行が破たんしたため帰国。富国徴兵保険(のちの富国生命保険)のフルコミッションセールスマンになり、大きな実績を残す。理研が開発した感光紙の販売の代理販売業を行ったのち理研にヘッドハンティングされ本社感光紙部長に就任。同部を独立させ理研感光紙(のちの理研光学からリコー)となり社長に就任。その後、理研グループ内で社長3社、専務4社、平重役5社を兼任し、同グループの中心的な人物となる。その後、理研光学(リコー)、飛行機特殊部品、旭精密工業3社を理研グループから切り離し社長に就任。太平洋戦争後、小売店三愛やデパート業、結婚式場、石油会社なども立上げグループを形成した。五島昇、盛田昭夫ら若手経営者や、大宅壮一、邱永漢、今東光、升田幸三などが教えを乞い、経営の神様と呼ばれた

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