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川淵三郎の名言

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川淵三郎のプロフィール

川淵三郎、かわぶち・さぶろう。日本のサッカー選手、監督、チェアマン。日本サッカー協会会長。大阪出身。高校時代にサッカーを始める。早稲田大学第二商学部商学科に入学後、同大学サッカー部で関東大学リーグ優勝。在学中から日本代表に選ばれ、ローマ五輪アジア大会、チリW杯予選などに出場。大学卒業後、古河電気工業に入社し同サッカー部でプレーする。日本代表として東京五輪でアルゼンチンからゴールを挙げるなどの活躍をした。現役引退後、古河電気工業サッカー部コーチ・監督、日本サッカーリーグ常任運営委員、古河電気工業伸銅事業部第1販売部課長、日本代表監督、谷商株式会社常務、古河電気工業・名古屋支店金属営業部長、古河産業取締役伸銅品部長、日本サッカー協会理事、プロリーグ検討委員会委員長、Jリーグ初代チェアマン、日本サッカー協会会長、日本サッカーミュージアム館長、日本将棋連盟非常勤理事、東京都教育委員、JFA(日本サッカー協会)アカデミー堺スクールマスターなどを歴任した。サッカー殿堂入り。

川淵三郎の名言 一覧

「夢があるから強くなる」。これは僕にとって支えとなる大事な言葉です。


解決すべき問題は山積み。でも、急いで結果を求めちゃダメなんだ。ひとつひとつクリアしていくしかないよね。


壁を乗り越えるには、批判されたとき、立ち向かうエネルギーが必要。僕の場合は、反対する人、傍観者となって動かない人、足を引っ張ろうとする人がいればいるほど、燃えてしまう。


仕事というものは、できないことにチャレンジして、できるようにしてみせることを言うんだ。


新しいことを始めるとき、抵抗があるのは当然。その壁を乗り越えるために必要なものは3つ。1つ目は、夢と理念。これがなければ向かう先が決まらない。2つ目は、実現のための方法。3つ目は、負けてたまるかという心意気。


僕はみんなに好かれようと思ってやっているんじゃない。


怒りが僕のエネルギー。怒っているから短期間でもガーッと思いっきり集中して取り組める。絶対に成功させてやるという執念も生まれる。


課題を明確にすることが一番大事。その上で、課題解決に向けて何をしないといけないのかという理論武装、堅実に実行できる方法をみんなに示していくことが重要。


説得できなきゃ意味がない。自分の意見に心から賛同してくれて、何とか成功させようとサポートする人を見つけないと、大きな改革はできない。


試合の中身はどうであれ、勝つか負けるかで大違いです。勝てばそのまま勢いが続きますし、負ければその後遺症が尾を引きます。


リーダーは、夢を語り、大きな目標を設定することが何より重要です。そのために理論武装をしっかり行い、メンバーを説得する必要もあります。


確固たる理念さえあれば、賛同してもらうための説得力や交渉力もおのずとついてくる。


理念を具現化する方法はその時代に合ったやり方にすべき。


定説や慣習から外れた奇抜なアイデアも、理念に基づいていれば道をそれる恐れはない。


いくら考えても解決できない時は、たとえ常識に反するとしても、考え方を180度変えてみる。つまり、コペルニクス的転回が必要。


議論が堂々巡りする時は、古い価値観や目先の利害にとらわれていることがほとんど。


能力ある人材が揃っていても、経営者に信念や戦略、リーダーシップがなかったら持てる力を生かすことは出来ない。


改革を断行するうえでは、スピードが最も重要で、走りながら考え、いいと思ったことは、どんどん前に進めることが大切です。間違ったと思ったら修正すればいいのです。


世の中は変化しているのに、同じ勉強の仕方や考え方ではいけません。将来の変化を予測し、新しいものの考え方を柔軟に理解し、自分の考え方を持てるように、大学で鍛えられなければいけません。


改革には苦労も伴いますが、僕には失うものは何もないから、強力にやっていこうと思います。


サッカーもバスケもプロ化させていく上で大切なことは同じ。Jリーグのときにやったように、地域を巻き込んで、そこに根付かせていくことが大事。


長い目で見た場合には、真摯さ、誠意、正直さが重要。人は1回でもその場しのぎをしてしまうと、同じような事態が起こった時にまた繰り返してしまうもの。どんな大きな不祥事も、始まりは小さなウソからです。


私はそれはもう、とても怖い上司だったと思います。でもね、怖いからこそ、ときどき褒めたときに効果があるのです。


出向、転勤、あるいは本人にとって嫌だと思われる人事異動のときこそ、必ず一対一でしっかりと伝える。上に立つ者は、絶対にそこから逃げてはいけないと思います。


古河電気工業サッカー部の監督時代、余計なプレッシャーなしに選手をリラックスさせ、伸び伸びとプレーをしてほしかったし、試合の中身にこだわろうという思いから、「負けてもいいから、いい試合をしてほしい」と言いました。ところが数か月後、ある選手に「あのとき、川淵さんに負けてもいいから、といわれてガックリきましたよ、あのミーティングまでは気合が入っていたんですが」と指摘されました。そうか、チームを統率する者が、どんな理由であっても「負けてもいいから」などと言ってはいけないんだと気づかされました。


不器用でも何でも、嫌な話ほど面と向かって話す。それが長い目で見て、信頼関係や組織の連帯につながります。


具体的な営業の数値や利益、どんな波及効果があるかといった目標は、もちろん重要だと思います。しかし、人や組織は効果や利益を追求する「定量的」発想だけでなく、情熱や一体感、喜怒哀楽といった「定性的」なものでこそ力強く動けるものなのかもしれません。上司としてはそういう目標を設定できるかどうかが重要なのではないかと考えています。


サッカーの監督時代に学んだのは、日ごろから選手の表情、様子、体調などをよく見ていることが必要だということでした。なんだかボールに勢いがない選手に「おい、どうした?」と聞くと必ず、「実は腰痛が」「子供の具合が」と答えが返ってきます。日ごろの観察力が的確な状況分析を導くし、その方向性において自分の軸なり芯がぶれなくなります。そうすれば、この人についていけば「絶対に」じゃなくても、「まあ、だいたいは間違いないかな」というくらいに部下から見てもらえるようになります。


何か営業目標があるとき、困難に向かっていかなくてはいけないとき、勇気付けであろうが、上司が「まあ最悪の場合、こうなってもいいから」とか、「結果は気にせず頑張れ」とか、言っている方は良かれと思っていても実は相手の気持ちを萎えさせるだけでまったくの逆効果です。


しっかりとしたサラリーマン教育を受けてきたからこそ、何もないところからプロサッカーを立ち上げたJリーグや日本サッカー協会で、難しい経営に携わることができたんだと思っています。


全国区でないと成り立たないようなクラブは、Jリーグにはいりません。根本的な考え方として、身の丈に合った経営というのをずっと言ってきました。入場料収入とテレビの放映権料、それにスポンサーからの支援で年間20億円の収入があったら、J1でもそれでやっていけるクラブでいいんです。だから、プロ野球チームのように年収以上の年俸を選手に払って、それで赤字に苦しむようなことは、Jリーグではあり得ません。


多くのビジネスでは、お客さんが欲しいから、最初に設定したハードルをすぐ下げてしまいます。でも、「イヤなら参加しなくてもいいですよ」というぐらいの気持ちで、ギリギリまで踏ん張らないと駄目です。仮にJリーグ発足時の参加チームが6チームぐらいしかなかったとしたら、主導権はチーム側にあるわけだから、参加資格の条件をどんどん下げなくてはいけなかったと思います。もしそうなっていたら、Jリーグは発足しても成功していなかったでしょう。


Jリーグは、プロ野球の真似をしても成功するわけがないと思っていました。当初、イメージとしてあったのは、ヨーロッパのクラブ組織です。地域の人々から愛されている地元密着型のクラブチームがあって、そのクラブが設置した施設で、地域の人々がスポーツを楽しむ。そういう環境が日本にあったらどんなにいいだろうと、ずっと夢見てきました。


W杯は日本のサッカーファンが熱狂するキラーコンテンツであることは否定しません。でも、僕はそもそもW杯を起爆剤にしようとは考えていません。予選で負けることだってあるわけだから、そんなものを当てにはできません。やるべきはスポーツ好き、サッカー好きの子供をどう育てていくか、優れた指導者をどう育てていくかという底辺づくりです。それなくしては、将来の日本のサッカーの発展はあり得ません。


Jリーグができたことで、「世界に羽ばたく」という夢が見えてきたんです。選手もファンも、子供たちにも。Jリーグが広く受け入れられた理由は、「この道は世界につながっているんだ」という夢をみんなが持てたことが大きかったのではないでしょうか。


プロ検討委員会設立を評議委員会に提案したとき、数人を除いて、あとは全部反対でした。とくに読売が、「プロ野球ですら赤字球団ばかりなのに、サッカーがプロで成功するわけがない」と声高に言うものだから、みんな黙っちゃいまして。やはり、評議委員会で話を進めて行くのは無理だと。評議委員会というのは、JSL(日本サッカーリーグ)に参加している各社の役員クラスばかりで構成されています。現場を運営している部長クラスだとサッカーの愛好者が多くて理解があるんだけど、評議委員はサッカーを十分に知っているわけじゃないんですよね。
【覚書き|Jリーグ発足前を振り返っての発言。この後、プロジェクトの管轄を評議委員会から日本サッカー協会に移し、プロ化が実現した】


危機や様々な環境変化に対応するには、不易流行(ふえきりゅうこう)に尽きると思います。「不易」とは決して揺らがないもの。Jリーグ開幕直後は我々の予想を超える反響でしたが、3年を過ぎる頃から観客動員が減り始め、経営危機に瀕したクラブの合併問題なども起こりました。チーム数を減らしてはどうか。そんな話も出ましたが、私は断固反対しました。それは、不易、つまり「豊かなスポーツ文化の振興及び国民の心身の健全な発達への寄与」という理念に反するからです。Jリーグはただ存続すればいいというものではない。理念を忘れるなと繰り返しました。そしてその一方、サポーターや時代のニーズ、つまり「流行」をとらえて改善する視点もなくてはいけない。


Jリーグ開幕当時から、私が、繰り返し発信してきたのは「地域に根差したクラブ運営」です。プロ野球は企業色を前面に出していますが、Jリーグは違うと。行政、市民、企業の三位一体の支援を得て、地域社会に愛される存在にならなければいけない。「空疎な理念」だともいわれましたが、指摘も批判もすべて推進力に変えて突っ走ってきた気がします。企業目線ではなく地域目線、サポーター目線での改革を繰り返してきたこと。これがこの20年間の原動力だったと思います。


最初から達成できそうな目標を立てても大きく躍進することはありません。そんな目標を立てても、つまらないと思いませんか。簡単には達成できそうもない大きな夢を語り、それを多くの人と共有していく。そのための目標を立て、いかに達成するかを必死に考え、チーム一丸となって目標に向かって進んでいく。その先頭に立つのがリーダーなのだと思います。


Jリーグが成功した最大の要因が何かと言えば、自分たちが実現したい理念を掲げ、目標設定が明確で、それらがまったく揺るがなかったことではないかと思います。


Jリーグの理念は、賛同する人が多かった一方、「理念では食えない」という批判もありました。そうした批判に対しても、一歩も引かずに理念を熱く分かりやすく語ることにおいて、私はだれにも負けない自信がありました。


夢や目標を力強く語ることができたのは、私にそれを身をもって体験し、目の当たりにした日々があったからでした。他人から借りた言葉ではなく、自分自身の言葉で、その素晴らしさを説明することができましたから、ほかの人が説明するのとは説得力が違ったと思います。


ワールドカップは、日本を世界にアピールするチャンスであり、文字を読めない人でも映像で見ることができるのですから、日本人のメンタリティーまで知ってもらえるチャンスです。もっと事前に僕らが、これをうまく利用しない手はないでしょう。


プロができて急にすべてが良くなっていくわけではありません。われわれJリーグは「百年構想」と言っていますが、100年かかって欧州に追い付いていかなければならないと考えています。


世界基準に沿って課題を突き詰め、定量的分析を基に改善策を具体的に明文化することが大事だ。それを各部門の専門家や各年代の指導者で共有することが未来への大きな布石となる。


僕はバスケットボールのルールについては知らない。トラベリングとか細かな反則のこともよく分からない。なんであのプレーで笛が吹かれるのかとかしょっちゅう尋ねるぐらい(笑)。けれども経営は別次元の話。僕は経営については誰にも負けない自信と経験を持っています。そのことも最初の会議ではっきりと伝えました。


最初は相当反発があるわけですよ。「外から来て何も知らないくせに好きなことをぬかしやがって」と。でも、話していることは理にかなっているな。この方向に進めばいいかもしれないという理解が広がれば、徐々に一緒にやっていこうと考えるようになる。敵が味方になるわけです。でも最初の課題設定がズレていればいつまでも反発が続くことになる。


協会の人間は派閥争いに明け暮れてばかり。むしろ外の人間じゃないと解決できない状況でした。ガバナンスが全くない状態で、2年間ずっと組織をどう変えていくのかという問題に取り組みました。Bリーグの立ち上げは新しいものを生み出す作業なので人に任せられます。でも組織改革は違う。そこでは独裁力が必要になります。


僕はバスケットボールのルール、競技の本質に関わることには一切口出ししません。だって素人だから。唯一の例外は、外国人選手出場枠の制限ルールでした。これだけは代表強化のために必要だと思ったので導入を決めました。例えば、Bリーグのロゴについて意見を求められたけど、あえて何も言わなかった。僕のセンスで決まったらロクなことがないしね(笑)。


「プロリーグができました」「華々しくスタートしました」というのは始まりであって、ゴールではありません。ファンが増え、選手が力を磨き、代表チームが強くなる。好循環を生み出すリーグを永続的に運営するためには、地味に見えるガバナンスが最も重要なポイントになってくるんです。ところが、日本の競技団体はこの部分が非常に弱い。


Jリーグを作るとき、僕はリーグの総務、経理の制度設計をシビアに進め、お金の扱いと流れの透明性を保つことにこだわりました。Jリーグには実務を担える人材がいませんでしたから、銀行から能力のある人を招き、ドイツのブンデスリーガやイングランドリーグを参考にガバナンスを整えていったんです。なぜ、僕がそこにこだわったかと言えば、経営基盤がしっかりしないまま、「百年構想」のような大きな夢を語っても実現は難しいからです。


仕事の上で困難に立ち向かうのは勇気のいることかもしれません。目の前の仲間や関係者、お客様の不興を買うこともあるでしょう。しかし、長い目で見れば、それがお互いの関係を良くしていく土台となっていきます。人と向き合うときも、事業に取り組むときも、一生懸命に勝るものはない。これが僕の仕事を通じて得た結論です。


したり顔で「時期尚早」と言う人は、やる気がないということ。それを正直に「私にはやる気がありません」とは情けなくて言えないから、「時期尚早」という言葉でごまかそうとします。「前例がない」と言う人は、「私にはアイデアがありません」と言えないから、「前例がない」という言葉で逃げようとします。これは仕事のできない人に共通している逃げ口上です。できない理由を探して、安穏とする。


新人として勤務した工場での品質管理業務に始まり、実業団サッカーや日本代表との二足のわらじ。激しい練習を終えてからスーツに着替え残務に取り組みました。現役引退後は営業成績を常に考え、転勤があり、出向もあり、コストカットを断行する立場も経験しました。こうした経験が、実務での交渉事の勘所を身につけることに役立ち、事業における数字の大切さに気づかせ、Jリーグのチェアマン時代、JFAのキャプテン時代につながっていったわけです。


いま、専門家の意見を聞きながら、どういうやり方が一番いいのか探っています。これで、バスケの日本代表の強化につながると同時に、ファンがバスケットボールの試合を観に行きたい思えるものにしないといけません。協会には、今まではそういった観点が抜けていたように思います。早く良い方法を見いだし、尽力していきたい。


当時はまだ貧しい時代で、選手村の食堂で出る料理がおいしくて、何よりも楽しみでしたね。あの時、選手村の料理人たちはいかにおいしい料理を新鮮に提供するか研究して、冷凍や解凍に関する技術が進みました。ほかにも、非常口などを示す絵文字。ピクトグラムと言いますが、言語が通じなくても場所や競技種目を伝えられ、日本から世界中に広まった。オリンピックというものは競技以外にも技術などが生まれるもの。きっと今回も新しい発明が生まれると思います。

【覚え書き|1964年の東京オリンピックに出場したことを振り返って】


川淵三郎の経歴・略歴

川淵三郎、かわぶち・さぶろう。日本のサッカー選手、監督、チェアマン。日本サッカー協会会長。大阪出身。高校時代にサッカーを始める。早稲田大学第二商学部商学科に入学後、同大学サッカー部で関東大学リーグ優勝。在学中から日本代表に選ばれ、ローマ五輪アジア大会、チリW杯予選などに出場。大学卒業後、古河電気工業に入社し同サッカー部でプレーする。日本代表として東京五輪でアルゼンチンからゴールを挙げるなどの活躍をした。現役引退後、古河電気工業サッカー部コーチ・監督、日本サッカーリーグ常任運営委員、古河電気工業伸銅事業部第1販売部課長、日本代表監督、谷商株式会社常務、古河電気工業・名古屋支店金属営業部長、古河産業取締役伸銅品部長、日本サッカー協会理事、プロリーグ検討委員会委員長、Jリーグ初代チェアマン、日本サッカー協会会長、日本サッカーミュージアム館長、日本将棋連盟非常勤理事、東京都教育委員、JFA(日本サッカー協会)アカデミー堺スクールマスターなどを歴任した。サッカー殿堂入り。