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岩下尚史の名言

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岩下尚史のプロフィール

岩下尚史、いわした・ひさふみ。日本の作家、俳優。熊本県出身。國學院大學文学部卒業後、新橋演舞場、シスカンパニーを経て作家に。和辻哲郎文化賞を受賞。バラエティ番組やラジオでも活躍。

岩下尚史の名言 一覧

自分にはあれができそう、これがしたいと分析しても何の役にも立ちません。どんな選択も必ず相手のあることだから、悩んでいても仕方がないの。結局、誰もがその時々の与えられた場所で、「それはできません」と言わないような玄人であるべきなのだと思います。


人生というものは、何事も思うようにはならないもので、何がどのように結びつくかもわからないもの。思わぬ人がチャンスをくれる一方で、身近な頼りになりそうな人ほど、頼りにならない。


人生は巡りあわせで、「自分はこうやりたい」と思っても、道は塞がれることがほとんどです。世の中、何ひとつ、こうなりたいということは叶わない。そのかわり、自分では思いがけない道も開ける。一寸先は闇の世の中で、先入観で考えるから悩むことになるんです。


私の場合、好きな道楽はありましたが、やりたい仕事は特になく生きてきました。だからか私は悩んだことがありません。困ったことは山ほどありますよ。ただ事が決まった以上、やるしかありません。人生、じつはそんなことの繰り返しで1日、1日が過ぎていくわけでしょう。


最近、出かけたことや食のうんちくなどを得意気に語る人が増えていますが、それは野暮というものです。趣味や嗜好は自分が楽しむもので、豆知識やこだわりをひけらかすものではないのですから。


あくまで好きなのは「人」。伝統芸能にこだわっているわけではないんです。ライブにも行きますよ。


私は不安に備えた行動なんてしません。伝統芸能についても、学校で演劇を勉強したわけでなく、すべて、少年時代から見物してきた新旧の舞台の印象や記憶だけが資本です。「将来は仕事にしたいから」と目論んで、その時々に見た舞台を記録していたわけではありません。好きで見ていただけのこと。


道を歩いていて声をかけていただくことはありますが、バラエティ番組に出て、とくに変わったことはありません。ただ、普段は家で原稿を書き、人に会わない仕事をしていますから、テレビ局、ラジオ局でスタッフや出演者の方とお目にかかるのはうれしいもの。何か活気が出ますね。


中年を過ぎてから人の上に立つ位置ができ、金持ちになったとしても、何の自慢にもなりません。「長生きも芸のうち」なんて、じつに惨めな言い草です。30代の間に時を惜しんで稼ぎ、きれいに遊んで、したいことをしていれば、中年を過ぎて他人や世間を嫉(そね)んで心が歪み、人相まで悪くなるようなことはなく笑顔でいられると思います。


お金に関して言うと、最近は捨てる快感を知らない人が多すぎるように思います。経済成長期の男の働くエネルギーってお金を使うことにあったと思うの。たとえば私は着ていない服がどれだけあっても、気分が好かったり悪かったりするとあつらえる。向こうにしてみれば、カモがきたってことですけど。そういう時の「いらっしゃいませ」「お待ちしておりました」を聞き、「そうだろうね」と思う、喜び。一人の人が4、5時間、私のために一生懸命採寸してくれるわけですから。金額は惜しくないんですよ。


多くの人が悩んでいるふうなことを言いますよね。たとえば、「将来が不安です」とか。でも、不安も何も、みんなその日暮らしなんですから当たり前。そうじゃない人は日本に何人かです。仮に貯金が2、3000万円あったとしても、家族があったらその日暮らしです。その蓄えでは、何か事が起きたら1年と持ちません。何年先にどうなるかは誰にもわからないもの。自分の身も家族の身も、世の中も。それなのに、みんな自分本位で、自分を基準に考えていることに違和感があります。


テレビ出演時に心がけているのは、わるく気取らないことくらいでしょうか。バラエティ番組で広い世間に顔を晒したからには、すましていてもスタッフさんの要望に応えることができません。自身が消費されることを受け入れていくなかで、元々薄かったちっぽけなこだわりとかが、もっとなくなってきた気がして、それは私にとってはありがたい気がしています。


昔からの無邪気な知人に「初老になってから活躍できるようになってよかったね」などと言われますが、それは僻目(ひがめ)というもので。男は50を過ぎていいことなど、ひとつもありません。心身ともに、20代から30代の頃が男として最も幸せでした。当時は会う人ごとに不平ばかり申しておりましたが、それは口先だけのことで男としてあんなに幸福な時期はなかったのです。


どうして歌舞伎をはじめ伝統芸能を見るようになったのか、ですって? 何の理屈もありません。皆さんが思春期に女の子のおっぱいを触りたいと思ったのと同じことですよ。中村歌右衛門が見たくて歌舞伎に行き、水谷八重子が見たくて新派に、藤山寛美を見たくて松竹新喜劇を見ていた。いつも入口は、人でした。俳優や女優の芸や風貌に惹かれ、どうしても見たいものだけを、親や他人には知られないように見に行ったものでした。


テレビに出る前から、いくつかの出版社から著作の依頼をいただいていましたが、何だか自身の思いを披歴するのがあさましいような、はずかしいような気がして保留にし続けていたのです。でも、バラエティに出るようになってからは、「もうとぼけちゃあいられない」と腹が決まり、出版社からの依頼に対して億劫がらず、本を出すことも雑誌に寄稿することも引き受けるようになりました。これは大きな変化かもしれません。


新橋演舞場に入社してすぐ岡副(おかぞえ)社長の名代(代理人)として邦楽舞踊の家元や歌舞伎俳優のリサイタルなどに、祝儀を預かり、「おめでとうございます」と見に行くようになりました。すると、20代の若造が演舞場の社長の席という特等席で、前後左右をお歴々に囲まれます。次第に界隈で「あの人は……」と知られるようになると、社長は名代を済ませて帰ってきた私に、公演の様子だけでなく、衣装や美術から踊りの振りなど、細かなことをだんだんお聞きになるようになりました。「わかりません」と言って叱られるわけではないですけれど、答えられないのも嫌じゃないですか。自分で調べるようになり、わからないことは演じられた本人か裏方のところへ聞きに行っていました。それも岡副さんのと認知されていたからできること。そんなふうにして、社長からは芸や芝居はもちろん、美術や料理、服飾や社交のあれこれまで、手取り足とり、何もかも教えていただきました。


岩下尚史の経歴・略歴

岩下尚史、いわした・ひさふみ。日本の作家、俳優。熊本県出身。國學院大學文学部卒業後、新橋演舞場、シスカンパニーを経て作家に。和辻哲郎文化賞を受賞。バラエティ番組やラジオでも活躍。

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