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小池龍之介(小池龍照)の名言

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小池龍之介(小池龍照)のプロフィール

小池龍之介、こいけ・りゅうのすけ。僧名・小池龍照、こいけ・りゅうしょう。日本の僧。山口出身。17歳で僧籍を取得。東京大学教養学部卒業後、寺院に勤務。その後、山口県にある浄土真宗正規寺第22代住職に就任。修行の傍ら、瞑想について教えた。主な著書に『考えない習慣』『ブッダにならう 苦しまない練習』『平常心のレッスン』『「自分」から自由になる沈黙入門』『貧乏入門 あるいは幸福になるお金の使い方』など。

小池龍之介(小池龍照)の名言 一覧

何か不安になることがあるときに意識するべきは「今」に集中すること。今おかれている状況や心の状態を客観視するのです。誰かに話を聞いてもらったらスッキリしますよね。同様に、自分で自分の心の声を聞き取ってあげるのです。


必ず変われる。さびしいまま続くことはありえない。すべて諸行無常なんですから。


「業」をためない、ムダな怒りの感情に支配されないためには、なにごとも「受け流す技術」を手に入れること。いちいち感情を起動させず、ほったらかす。


自分の心を分析すると、それだけで、問題から抜け出して、山の上からすっきり見渡すような感じになります。


これはどんな悩みについても共通して言えることですが、自分のストレスの出どころを正確に把握して腑に落としておけば、なんとなくイライラするよりも気持ちの整理がつきます。


怒りは、心理学で言う二次感情であることがほとんどです。プライドが傷ついたり、不安であったりという、認めたくない一次感情を隠すために現われるものなのです。


「今」に集中できない人は、周りに影響されやすく変化に弱いともいえます。ですから、まずは今できることに集中し、ベストを尽くす。そうすれば、結果がついてきて、その結果を積み重ねることで、外的な変化にも対応できるようになっていけるはずです。


案外、本音で話しても、本当の友達は離れないもの。


狂信的な方や、かたくなさだけでは瞑想も成長しない。ユーモアは仏教でも不可欠です(笑)。


私たちにとって、心と言葉や行動が一致していることは重要なこと。そこに矛盾があると心が混乱し、筋道だった考え方ができなくなり、記憶力や判断力が衰えていきます。それはとても疲れることで、ここで新たな怒りが生まれてしまう。そこでまた、ストレスを抱え込むというわけです。


欲望や怒りそのものを乗り越えるためにはまず、「自分が」「自分の」「自分に」「自分を」という自我を乗り越える必要があります。


たとえば、会社である企画を提案し、それについて議論が行われたとしましょう。企画と自分とは別次元のもの。企画が通ったとしてもそれはあくまで企画が認められたのであって、自分が認められたということではありません。逆に、企画が通らなくても、自分が否定されたと落ち込む必要もないのです。


未来の不安にとらわれるのは無駄なこと。それよりも今やるべきことに意識を集中するのが有益です。


「どういう状況でもなんとかなる」と、将来に向かってゆったりと心を開いていれば、人は強くなれます。貧乏になったらなったで生活を変えていけばいいんだと、現状に執着しない人のほうが、のびのびと能力を発揮できて、その結果、物事がうまくいくと考えられます。


自分から進んで差し出す行為は、自分の心を元気にしますが、嫌だなと思いながら出す行為は、心を疲れさせてしまいます。


人間も心身のメンテナンスをせずにこき使っていると、ダメになってしまいます。仕事最優先で、家族や友人あるいは自分一人で過ごす時間をないがしろにすれば、結果として、自己の再生産のための力が落ちていってしまうのです。


人は、不安でビクビクしたり、堅張していたりすると、冷静な判断ができなかったり、能力を充分に発揮できなくなるものです。つまり不安を抱くことで、自分のパフォーマンスを落としてしまうことになってしまうのです。


現代人は「目分のやりたいことができる立場になれ」とか、「会社の歯車になってはいけない」などと、洗脳されすぎているように感じます。出世できなくとも、会社の歯車になっても、それで平穏に生きるのが幸せな人もいるのです。自分の与えられた立場をまっとうすることが大事です。


煩悩により「いい人」ぶって偽善者の仮面を被るのは、自分の心に害を及ぼすものです。自分の本心とは違う言動をすると、ふたつの矛盾した思考が無意識的に衝突し合います。これは多大なストレスの発生源となります。


本当の幸福とは何か。ブッダは「褒められても心が浮つくことなく、非難されても決して落ち込むことなく、心が平静でいられるのが幸せである」と言っています。心が波打つ苦しみから解放されて、穏やかに安らいでいる状態。それが万人に共通する最高の幸せだと言います。


安らかな状態が継続的に維持できれば、「何々があったら幸福」ということではなく、何をやっていても幸福でいられると思います。


快感を得ることがすべて駄目と言うつもりは毛頭ありません。快感との付き合い方を考えるべきであり、快感を入力しない時間が必要だと思うのです。一時の快感で偽の幸福感を得て脳をいわばドーパミン漬けにしてきた現代人の支払うツケは、ドーパミンの効果が薄れて気持ちがそわそわしたり、イライラしたり。じつは苦しみのもとでしかないのです。


脳内の快楽物質は麻薬のようなものです。快感を連続して入力するということは、麻薬を絶えず脳内に分泌している状態なので中毒化します。言ってみれば、慣れが生じて同じ分量の快感物質では同じ気持ちよさを感じられなくなる。同じ気持ちよさを感じるためには、より大量の快感物質を必要とします。それができないと、現状維持をしているだけで前より状況が悪くなってはいないのに「自分は不幸だ」と感じるようになるのです。


何か不幸な出来事、悲しい出来事が起きたときに、それが一本目の矢として心に突き刺さります。しかし、多くの人は降りかかった現実をもとにそれを脳内で編集し、後悔や不安を交えながら不幸や悲しみを増幅させてしまう。いわば自分の心に第二の矢を突き立てて、いつまでも気に病むのです。第一の矢と第二の矢を区別して、「あ、いま、自分の頭の中で編集している」と気づくと気持ちは静まってきます。


セロトニンの神経回路を活性化するコツは、目的意識を持たないことです。目標を立ててそれに向かって突き進むと、「ああまだ達成できていない」という苦しみが、達成したときに緩和されて快感物質が発射される。これを避けるためには、ゴールに向かって走るという意識を捨てて、いま目の前で行っていることに意識を振り向けることが大切です。慣れていない人は、短い単位で同じことを反復する行為に集中することから始めましょう。


しょっちゅう携帯電話のメールチェックをしないと気が済まない人は、誰かとつながっていることを確認して快感を覚える、ある種の快感中毒といえます。携帯電話やパソコンで頻繁に情報にアクセスするのは、ドーパミンを連射しているようなもの。依存症やうつ病など精神的な疾患が増えているのは、そのあたりにも関連がありそうです。


現代では年収200万円で負け組と言われている人でさえ、その多くは貧窮しないで、昔の王様並みの生活ができます。ちょっとお金の使い方のバランスを変えれば、豪華な食事もできる。デジタルツールで瞬時に他人とつながることもできます。お金を出せばいくらでも自分の欲を満たせて脳内麻薬を生み出せる。歴史上、大半はそういう状況にない中で人間は自己形成されてきました。快感スイッチを連続入力するような現代の生活は、人間の生き物としての仕組みを壊してしまう気がします。


満たされないより満たされた方が幸せに決まっています。しかし、満たされたことで感じる快感も「苦」の情報を脳が書き換えて、快感スイッチを入れることで感じるバーチャルな感覚にすぎない。多くの人はそれを幸福感と錯覚しているのです。


一切皆苦という仏教の根本原理があります。人間の心と体を通じて知覚できる刺激は「苦」という感覚だけ。苦の量が増減するだけという考え方です。その苦が減じた状態を脳が勝手に情報処理して「快」と錯覚させる脳内物質を分泌します。欲望が満たされたり、目標が達成されたりすると、脳の神経回路が刺激され、快感物質のドーパミンが大量に発射される。それで「気持ちいい」と感じますが、神経には負荷がかかっていますので、苦なのだと申せるでしょう。


仏教で言う「慈悲」とは他者の苦しみに共感するということです。感情的に自分も涙するというのではなく、心を静めて相手の苦しみ、痛みにそっと手を当てて、苦しいんだねと理解し、受容することです。


目の前で起きていることや、そこから生まれた感情は、表面的な波であること。そして、波によって海という「本質」が壊されることはないと理解できれば、人は余計な恐れや迷いをスルーして平常心でいられます。すると、顧客のために役立とうなどの「世間的な覚悟」も自然と生じるものです。


創業した会社の業績が好調だったり、反対に、借金がかさむなどつらいことばかりが起きたりするのは、全て、海面のさざ波にすぎない。さざ波などはどうでもいいと理解できれば、ちょっとしたトラブルくらいでは動じないようになる。


頭で理詰めで考えたり、本で文章を読んだりして「平常心が大事だ」と思うことは、残念ながらたいして役には立たないのです。理詰めで考えることによって平常心でいられるようになるなら、修行など必要ありませんよね。理論を超えたところでの体験知こそが、ドドドンと精神を変容させる力を持つものなのです。


ブッダは自分の心を「城」にたとえ、堅固に守りなさいと説いています。出来事それ自体が悪なのではなく、それに対して過剰に反応する感情が悪魔となって城に攻めてくるのです。


没頭できるものは仕事で探すのがいいでしょう。なぜなら働くことはほかの行動に比べ、社会的承認を得られやすいから。人は、誰からも承認されないことを長く続けられるほど強くはありません。自分が没頭できるような適職に出合えれば、煩悩から解放され充実感を得ることができるでしょう。


ああ、自分は評価を欲しているんだなとか、以前のように評価が得られないからイライラしているんだなとか、もう自分は昇進できないと思ってモヤモヤしているんだな、と分類してみてください。自分の不快の正体がわかれば冷静になることができ、解決の糸口も見つかるはずです。


五感のどこかに集中して考えを止める。その究極が座禅ということになりますが、そこまでしなくても、普段の生活のなかで集中することはできます。たとえば、昼食のとき。ただ味わうことに集中して召しあがってみてください。ビジネスマンの方は、昼食ですら仕事をしながらデスクでとっている方もいらっしゃるでしょうから、そんなことをしたら時間の無駄だと思われるかもしれません。けれど、ときにはゆっくり味わってみると、心がとてもリフレッシュしたことを実感できるはずです。お試しください。


自分の気持ちをより客観化しやすくいたしますために、心のなかで繰り返し、たとえば怒っていますならば「怒っている、怒っている、怒っている……」と念じ続けるのが有効でしょう。認めてもらいたいという自己愛が出ているのなら「自己愛が出ている、自己愛が出ている、自己愛が出ている……」と念じ続けてみてください。いかなる感情も、気づいてすぐに客観化して切り離してしまえば、早いうちに消えてしまいます。ですから、自分の感情を見張る時間を長くして、間をおかずにその火を消し止める。そういうクセをつけますと、心が整理しやすくなり、気持ちがずいぶん落ち着くはずです。


自分の感情がいまどうなっているのかに気づくことが大切です。ですから、日ごろから自分の心を見張る時間をできるだけ増やすこと。そして、出てきた感情を徹底的に客観化すること。怒りを感じたら、それがどのように湧いてきて、どんな具合に心のなかで暴れているか見守ってみてください。すると、怒りの演劇を遠くから眺めているような具合になって、自分と怒りとが一体化せずにすみ、次第に怒りは威力を失って消えてしまいます。


私たちは四六時中、考えごとをしていますが、そのせいでイライラしたり、集中力が低下しているのではないかと私は思っています。仏道の立場からいいますと、考えごとは妄想であって、現実でも事実でもありません。そのなかで心を惑わせ、迷っているとしたら、生きていないも同然。リアルな現実を感じられなくなるので、ストレスが溜まって当然です。.日ごろから意識をして「考えない」ことを自分に課してみてください。仕事をしているときはこれが自分だとか、周囲に評価されるかどうかなどと考えず、目の前の作業にひたすら没頭する。そして考える代わりに、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れるといった五感を研ぎ澄ませるのです。五感のどこかに集中して考えを止める。その究極が座禅ということになりますが、そこまでしなくても、普段の生活のなかで集中することはできます。


「若々しく元気でいたい」との願望は、突き詰めれば「死にたくない」ということです。あらゆる生命体はいずれ死んでいきますが、「死にたくない、死ぬのは嫌だ」と思うほどに死がつらいものとなります。誰もが免れようのない老いや死を拒絶することは、老後の苦しみを増やすことになるのです。仏道の根本は、事実を事実として「受け容れること」ですが、年齢による衰えを受け容れ、老いを受け容れることは、この先の人生を穏やかにします。そうして老後が「安らか」になるという意味で「安心」といえるでしょう。


歳をとるほどに体力が落ちていくのは事実です。それを不安に思うか、思わないか。実のところ、「思う」「思わない」の選択の余地があるのに、現代人はあたかも選択の余地がないかのように「体力が落ちる=不安」と思わされていることが、問題なのではないでしょうか。現代人は「若々しく元気でいることがよく、老いるのはよくない」という価値観を植え付けられ、洗脳されているように思われます。


「勤めている会社が倒産したり、リストラされたら嫌だ」と思う本質は、「損をしたくないという思い」と「過去の自分の正しさへの執着」です。ちなみにこの2つは社会的に成功した人ほど強く、成功者はこれまでのスキルや過去の自分に対するこだわりがとくに強いといえます。言い換えればプライドが高いわけで、それが邪魔をして成功者は概して打たれ弱く、失業したりするとなかなか立ち直れません。こうした本質を理解して、「そうか、それだから嫌なんだな」とわかれば、むやみに不安がることなく、たとえ転職することになっても、プライドに邪魔されたりせずに、前向きになれるでしょう。


年老いてみじめになりたくないと、老後のことを不安に思う方も増えているようですが、まだ若いうちから「老後の資金はどれだけ貯めれば」などと心配するのも考えものです。少なくとも守りの態勢に入ってしまうことで、やはり創造性が奪われます。ちなみにいまの世の中には、成功者の情報がばらまかれ、それに引っ張られるようにして「みじめになりたくない水準」が高すぎる人が少なくないかもしれません。小池龍之介の名言|情報に振り回されていないか注意することの大切さ 年老いてみじめになりたくないと、老後のことを不安に思う方も増えているようですが、まだ若いうちから「老後の資金はどれだけ貯めれば」などと心配するのも考えものです。少なくとも守りの態勢に入ってしまうことで、やはり創造性が奪われます。ちなみにいまの世の中には、成功者の情報がばらまかれ、それに引っ張られるようにして「みじめになりたくない水準」が高すぎる人が少なくないかもしれません。


この先、世の中がどのようになるのかわかりませんが、社会の経済事情や自分の収入など、その時々の状況に合わせて柔軟にやっていけば、何も問題はありません。もしもいまより貧乏になったら、そのぶん節約すればいいのです。生活水準は「絶対に下げられない」ものではありません。大切なのは柔軟性で、状況に自分の身の丈を合わせればいいのです。


休むときには頭を切り替えることが、仕事のストレス解消になります。スポーツや登山など身体を動かすアクティビティは頭の切り替えに有効です。なお、甘いものやお酒を飲食するなとは申しませんが、癖になるのは問題です。仕事帰りの一杯がパターン化すると、お酒によるストレス発散の快感を味わいたいがため、無意識のうちに仕事のストレスを増やしたりもするのでご用心ください。


仏教的に申しますと、「欲望」は「苦しみ」から生じます。ストレスは心に苦痛を与えるもの。一方、欲望はそれを抱いたときにも満たしたときにも、心に大きな刺激を与えます。ゆえにストレスがたまると、その苦痛を紛らわそうとして、刺激をくれる欲望がわいてくるのです。つまりストレスが大きくなればなるほど、欲望が増大することになります。


概して現代人の消費は「ストレス解消のため」であることが多いように思われます。なかでも嗜好品の消費は、とくにストレス解消作用が大きいものです。たとえば、甘いものは精神をリラックスさせる働きがあり、お酒は神経を麻痺させます。なぜそうしたものが欲しくなるかというと、それだけ緊張している=ストレスがあるからです。


思うように貯金ができない理由は「使ってしまうから」でしょう。「給料が少ないから貯まらない」と思うのは錯覚で、給料が多くても、たくさん使ってしまったら貯まりません。まずは「自分がなぜお金を使ってしまうのか」を考える必要があります。人は自分の力を実感しようとしてお金を使うことが多いのです。自分の消費は常日頃の「無力感」によるストレスを忘れようとしてのものではないかと、心の内を探ってみましょう。


子育てにおいて親は、子供を叱ったり、口うるさくいったりするのは「子供のため」だと思っています。しかし、それは偽善であり、自分でも気づかないうちに「思い通りに育てたい」という支配欲にとらわれているのです。つまり「子供のため」ではなく、「自分のため、自分の力を実感するため」に叱ったりガミガミ言ったりの命令を下していることが大半だと思われます。子どもとの関係をよくするには、偽善の仮面の内側にある真の気持ち=「自分のため」を自覚すること。そうすれば、「こうしてほしい」「こうなってほしい」といった、子どもへの過剰な「期待」が薄れます。そして子どもには、「部屋が散らかっていると私が落ち着かないから、片づけてほしい」などと言うようにしたほうが、より伝わりやすいでしょう。


体もですが心がきちんと安まると、また仕事にしっかり向き合えるようになります。そのためには、仕事のことを完全に忘れていられる時間をつくることが大変重要です。たとえ十分な休みがとれたとしても、休みの間に仕事のことや職場の嫌な人のことなどを考えていては、心は安まりません。休みの多少にかかわらず、どれくらい仕事のことから離れていられるかがポイントになります。


現代人、とくに男性は「仕事での成功や収入で、自分の価値を測る」という面が強くなりすぎて、休めない、ということも考えられます。「自分の業績アップ」=「自己価値のアップ」というわけで、自分の価値を高めたいがために、ほかのことすべてを後回しにしてでも業績を上げたいという気持ちにとらわれるのです。業績を上げるのは、受験勉強の点致稼ぎと似通っており、最初はつらく感じたとしても、やがて自分の価値が数値によってダイレクトに表されることが快感になってきます。だから、とらわれやすい。しかしながら、受験勉強だけをあまりに必死でやっていると、性格が歪んだりすることがあるのは、ご存じの通り。業績アップにかまけるのも同様です。


一般的に、日々の生活で精神的に満たされていない人、自分の力を実感できない人ほど、その欠乏感や無力感を覆そうとして、買い物に走るケースが多いように見受けられます。こうした心のカラクリに気づけば、過度なローンを組んだり、買い物をしすぎたりといったことが、自戒できるようになるのではないでしょうか。


人はつい、より高級なもの、言うなれば、分不相応なものに手を伸ばしてしまいます。たとえば住宅の場合、3000万円の家なら自己資金と無理のないローンで買えるのに、背伸びして4000万円の家を買ってしまう。その結果、ローンの支払いが苦しくなったりします。もちろん、4000万円の家のほうが設備が整っていたり、交通の便がよかったりということがあるでしょう。しかし、つい背仰びをしてしまう心の内では往々にして、そのも自体がどうしても欲しいというよりも、そうした高級なものを手に入れることで「自分のグレードを上げたい、自分の価値を高めたい」との欲望が働いている場合が多いのです。これもまた「慢(自分の評価への執着)」の煩悩のなせる業です。


持っているお金が「少ない」「足りない」と思う理由としてはまず「欲しいものが買えない」ということが挙げられるでしょう。それは「欲しいものが多すぎる」せいかもしれず、「なぜそんなにも欲しくなるか」を、考えてみる必要があるかもしれません。


過去と未来は、現実ではない。過去は(1秒前のことすら)もう終わっていて、手で触れるようには確かめられず、未来は(1秒後のことすら)まだ生じておらず、確かめられない。


たとえば上司に理不尽に怒られてイライラしたときに、「この上司は、口ではもっともらしいことを言っているけれども、支配欲が満たされず不安だから怒っているのだな」と分析できれば、もう相手と同じ土俵にはいません。すっきりした気持ちになれるでしょう。


もらっている給料には、上司の価値観に自分を合わせて、上司に従う忍耐料が含まれていると考えてはいかがでしょうか。そうすれば、気休め程度かもしれませんが、自然とストレスに耐えやすくなるでしょう。


自分ができないことを認めて部下に補ってもらうのは、プライドが傷つくことです。でも、人にはいろいろな特性があって、自分にはできないこともあるのだと認めないと、自分とは違う発想や能力を持った人を活かせず、自分の欠点を補うこともできません。


部下の「ここができていない」「ここが足りない」というところに目を向けるのではなく、部下の特性が活かせる仕事を与えたり、自分が足りないところを素直に補ってもらったりする。それが優秀な上司でしょう。


私たちの心の中には、多かれ少なかれ、自分が持っている価値観は絶対に正しいという思い込みのようなものがあるのです。たまたま自分が採用していて、自分にはそれが向いているという価値観にすぎないのに、誰にとっても当てはまる普遍的なものだと思いたがる。だから、自分と違う価値観を採用していたり、自分と違う優先順位を採用していたりする人がいるとイライラする。自分の正しさを否定されたような気持ちになってしまいます。


SNSで承認し合うことでしかつながらない友達とは、本当に大切な友達なのでしょうか? SNSに限らず「空気を読んで皆に合わせる」ことが辛いのは、「心にウソをついている」からです。そしてウソをついてまで守っているのが、じつはたいした人間関係ではないという虚しさです。


瞑想をすると感情や思考から離れ、「ただ、そこにいる」感覚になれます。「俺が俺が」と認められたいと思っていたけれど、そもそも「俺」なんてものはないと気づく。脳に感情を動かされているだけのちっぽけさに気づけた。


仏教で言う「覚悟」は、皆さんが普段使っている「世間的な覚悟」とは、意味合いが大きく異なります。「覚」も「悟」も「さとる」という意味。つまり、仏教で言う覚悟とは、悟りを開くということになります。悟りを言葉で表すのは、きわめて難しいことです。あえて言うなら、「自分自身の記憶や感情、肉体やその感覚の全てが、どうでもいいものだと気づき、それらへの執着から解放される」ということでしょうか。


将来がどうなるかなんて誰にもわかりません。「今」と「将来」で、実在しているのは「今」だけ。「将来」に対する不安とは実在せず、脳が勝手につくった妄想にすぎません。自分が持っていた不安は脳が勝手につくった妄想で、現実じゃない、といい聞かせる。自分の脳の状態を客観視してあげることで、心も解放されていくはずです。


過去は、もうない。未来は、まだない。「もうない」と「まだない」の合間の、「今」のみ感じ、確かめることができる。そうやって「今」へと心を研ぎ澄ませていると、「これからどうなるだろう」とか「昨日、嫌なことがあった」などといった想念は、現実性が色あせて、どうでもよくなっていくものです。「あー、それらは、実在しない、脳の幻覚にすぎないことよなあ」とわかってくるからです。


これまでの人生で「こうしよう」「ああしよう」と計画したことを、どれくらいその通りに実現させてきましたか? おそらく実現しなかった数のほうがはるかに多いと思うのです。自分の心すらコントロールできないのに、他人の行動なんてコントロールできるはずがないですよね。他人は自分が思った通りには動いてくれない。それは大前提です。


人の心は、必ずどこかで帳尻を合わせようとします。心にウソをつけば、我慢した本音の感情の行き場がなくなり、心を病むかもしれない。別の場所でストレスを発散するため、他の誰かを匿名で傷つけたり、家族や部下など、周りの弱き者を攻撃し、吐き出している可能性も高い。そのほうがよほどリスキーです。自分にウソをついたときの「心のきしみ代」はかなり高いものです。無意味な同調からは足を洗ってもいいかもしれません。


仏教には「無我」という言葉があります。自我なんてものは人間の脳が作り出したフィクションで、そもそも存在しない、と。自我がないからこそ、比較することで、自我という幻を作ろうとするのです。つまり人と自分を比較して妬ましい、羨ましいなどと感じても、それは「私という存在」が抱いた感情ではなく、安定したい脳のシステムが作動しただけ。だから、負の感情に振り回されず、単なる脳の反応なんて「放ったらかし」にするのが正解。


平常心を取り戻すと脳にセロトニンというやすらぎを司る脳内物質が出ると言われます。反対に渇愛の煩悩によって得られる脳内物質は興奮性のドーパミン。ドーパミンは発生中は興奮できるけど持続できない。たとえば仕事で達成感を得られると「やったー!」と爆発しても、その反動で苦しさだけが強く残る。精力的で成果も出し、収入も高い人なのに、うまくいかないと、すぐにイラついてしまうのはそのため。散歩でも家族といる時でもニュートラルでいられる場を作る。それがあれば大げさな自己実現なんてしなくていいんです。平常心こそ持続的な幸福なのだから。


目の前にある「現実」のように見えるものをいかにも現実らしく見せているのも、心の作用です。それを突破して「空」を感じるためには、理詰めで考察するという脳の癖を停止する必要があります。脳みそが、脳みそにとって整合性が取れるように、様々なデータを理詰めで取捨選択した上で夢のような幻の世界をこしらえ、それが本物であるという印象をつくり上げているからです。知的に世界を把握しようとする脳の癖に風穴を開ける一つの手段として多くの人々に「わけがわからない」と思われている禅の公案が、実は役に立ちます。むしろ、「わけがわからない」ということが脳によってつくられた整合性のある幻の世界を夢と見破るためのヒントとして、決定的に重要なのです。


理解しなければいけないのは、私たちはみな「支配欲」を持っているということ。そのため、自分が指導しても思い通りに動かない部下に「なぜ私のいうことを聞かないんだ」とイライラする感情を持ってしまうわけです。指導する真の目的は部下や後輩を「成長させること」なのに、いつのまにか相手を思い通りに「支配すること」が目的になってしまっているんですね。こういうときはいったん指導するのをやめ、何もしないことです。これまでああだこうだと口うるさくいわれ続けて、後輩はあなたに対して不満を抱いているはず。その状態で指導を続けても、お互いにストレスがかかり、誰も幸せになりません。たとえ部下が失敗しても叱責せずに、まずは「そうだったんだね」と受け止めてあげる。すると部下は安心しますし、あなたへの信頼も回復へ向かう。部下との信頼関係が構築できたらようやく次のステップに進めるのです。


転職で気をつけなければいけないのは転職の目的は何かを知ることです。転職は新天地を求める行為。ですが多くの人は、今と同じ業種や職種を探してしまいがちです。それは「今の仕事を選んだことは正しかった」と思いたいからなんですよね。似たような仕事であれば失敗のリスクも少なく、自分は間違っていないと思うことができるから。これを「正しさの煩悩」といいます。正しさの煩悩に囚われて安易に結論を出さず、もっと多くの選択肢を検討するほうがよいのではないでしょうか。新天地は、「没頭できるかどうか」を基準に探してみましょう。やりがいや充実感を得るためには、何かに没頭するのが一番です。


「今」目の前にある現実に起こっていることへの対応に専念するべきです。たとえば最近よく耳にする北朝鮮が核ミサイルを撃ってくるかもという話も、「今」起こっていることではなく、将来を脳が勝手に予測して、自分のなかで心配しているにすぎないのです。実際に起こってもいないことを心配してもしょうがありません。もし、実際にミサイルが飛んできたとしても、飛んできて身の回りに変化が起こってから考えればいいのです。


瞑想は座禅を組んで、呼吸を整えることだけでもできます。私がオススメする簡単瞑想法は「小さなおっさん瞑想法」です。脳の中に、あなたとは別の「小さなおっさん」が住んでいると思ってください。普段は静かだけど、彼はたまに酔っ払いのように現れる。そして「俺はアイツと比べたらダメ人間だ」と誰かと自分を比べたり、「若手はなっていない」とイライラをグチったりします。ここで同調してはいけません。「へー、そっか~」「ふーん」と目の前でグチるおっさんを、適当にいなすイメージを持つのです。グチる小さなおっさん、つまり「脳内で勝手におしゃべりする感情」につき合って「そうだよ」「本当だよ」と同調すると、妬みや怒りの感情にとらわれます。酔っ払いにつき合うと、図に乗り、ますますタチが悪くなるのと同じ。だから、あくまでも軽く受け流してやる。すると、かまってもらえない酔っぱらいが自然と黙ってしまうのと同じように、負の感情も、いつの間にか静まるのです。これこそ座禅瞑想の極意です。


人は常に強い刺激を求めます。しかし「快」の刺激を与えすぎると脳のレセプターに耐性がついて気持ちよくなくなります。快感を本当に味わいたければ、回数を減らして一回一回をもっとじっくり味わうほうがいい。単純でしょ(笑)。食べる量、ネットに接続する時間を「減らす」んです。とくにいまは快楽にたどり着くスピードが早い、情報過食気味なんだから情報断食するしかないんです。そして意識して五感を研ぎ澄ましてみましょう。静かな雨音、爽快な風、優しい夏の夕方の香り……。私たちが鈍感になっただけで、世の中には五感で得られる情報が溢れています。わざわざどこかから強い刺激を脳内に持ってくる必要などない。むしろ五感による能動的感覚を忘れたせいで、たとえば目の前の誰かが表情や声のトーンや気から発している「心地悪そうな感情」や「好意を抱いている様子」などを見逃すこともある。無くした集中力と相まって仕事がデキない人を作る元凶だったりもするんです。


父が住職の浄土真宗の寺を継いで住職となる未来図は学生時代からありました。しかし仏門に入ってまもなくは「既存の仏教を壊す!」と新しいことに挑戦し続けました。それは、「閉鎖的な仏教界でオレ様はこんな特別な志を持ってるんだ」と自分を特別視し、いわば仏教界を通じて「自己実現」しようとする欲望だったと、振り返ってみると思います。そしてこの「自己実現しなきゃ」という強迫観念こそ、現代人に刷り込まれた苦しみの元凶なのです。その頃、SNSのひとつ、まだ草創期だったミクシイに参加しました。自分の書いた日記に対して「新しいコメントが1件あります」と表示されると嬉しくて、それがないとがっかりする。こうして一喜一憂するのは、脳を単に刺激して興奮しているだけだと気づいた。そしてそれは、時間が浪費されるどころか集中力をなくす可能性すら高い。なぜか? 「あの人から返信きてるかな」「俺のつぶやきリツイートされたかな」。そんなことに脳の容量と意識を使い、何も手につかなくなるから。本人にその自覚が無いのも問題です。


情報って快感の最大の入力源なんです。情報を正確かつ素早く得れば、生存確立を高められますからね。「あの周辺には食料がとれそうだ」「隣の集落は自分たちを攻めてきそうだ」、また「自分が周囲からどう思われているか」もそう。自分を攻撃する人間を早く見つけることは生き残りに繋がる。ただし、この情報には人の強烈な承認欲求を満たす力もあるんです。たとえばメールで丁寧で素早い返信があると「自分はこの人にこんなにも重要視された!」と舞い上がる。一方で返信がないと「ガーン! 自分は大切にされてないのでは!」となる。ツイッターやフェイスブックなどSNSはこの煩悩をさらに肥大化させた。個人的なメールでいいものを公の場で「返信」や「リツイート」するわけだから。結果「自分はこの人からコメントをもらうような重要な人物なのだ!」と、多数の第三者に自慢でき、承認欲求は十分に満たされる。裏を返せば「誰も『いいね!』と返してくれない」と渇愛を根にした苦しみも味わいます。


ストレス社会といわれ、年間3万人の自殺者が出ている根のひとつに仏道でいう「渇愛」という苦痛があります。それは欲しい、足りない、欲しい、足りない……という欠乏感のことです。苦痛なら求めることをやめればいい。しかしなかなかやめられないのは、それが同時に快楽だからです。たとえば空腹のとき何かを食べれば、満たされて快楽を感じます。ただし、食べ続けるうちに腹がいっぱいになり苦しくなる。当然ですよね? しかし食事の味や種類を変えると「ケーキは別腹」などとまた食べられる(笑)。実際は満腹で苦しいのに刺激によって苦しみがなくなったように錯覚するのです。問題はその欲望からは幸福を得られないこと。むしろ心の奥にストレスをためてしまう。


小池龍之介(小池龍照)の経歴・略歴

小池龍之介、こいけ・りゅうのすけ。僧名・小池龍照、こいけ・りゅうしょう。日本の僧。山口出身。17歳で僧籍を取得。東京大学教養学部卒業後、寺院に勤務。その後、山口県にある浄土真宗正規寺第22代住職に就任。修行の傍ら、瞑想について教えた。主な著書に『考えない習慣』『ブッダにならう 苦しまない練習』『平常心のレッスン』『「自分」から自由になる沈黙入門』『貧乏入門 あるいは幸福になるお金の使い方』など。