名言DB

9490 人 / 112001 名言

塚田公太の名言

Facebookボタン  Twitterボタン  はてなブックマークボタン  新着 名言

塚田公太のプロフィール

塚田公太、つかだ・こうた。日本の経営者。倉敷紡績(のちのクラボウ)社長。新潟出身。東京高等商業学校(のちの一橋大学)卒業後、三井物産に入社。ボンベイ支店に駐在しインド奥地で綿花の直接買い付けに従事、ボンベイ支店次長を経験したのち、三井物産の綿花部門が独立した東洋綿花(のちのトーメン)に移籍。ボンベイ支店長、大阪船場支店長、取締役、綿花部長、常務、専務を経て会長に就任。太平洋戦争終結後、貿易庁長官、富山紡績会長を経て、倉敷紡績社長に就任。綿花同業会会長、日本綿糸布輸出組合理事長。

塚田公太の名言 一覧

私にとっては、すべての先輩、友人が大恩人であったと言える。そこに善悪の別、成功と失敗の差はあっても、それぞれになにものかを教えてくれた。私がどうやらここまでやってこられたのは、まったく先輩の導きと同僚と後輩の友情のたまものであるということがしみじみと痛感される。


東洋綿花の発足とともに、これまで三井物産のボンベイ支店次長だった私が、支店長に昇格した。ほとんど例外なく次長は支店長へ、支店長が重役へと、一階級ないし二階級特進したものである。もともと綿花部には、仕事の性質上、血の気の多い若い人たちがひしめいていた。それらの人たちがこの異例の人事に刺激され、これまでの月給取り商売でなく、我々の仕事のためにやろうじゃないかと大いに張り切った。
【覚書き|三井物産綿花部が独立し東洋綿花(のちのトーメン)になった当時を振り返っての発言】


戦後いろいろと職名は変わったが、いつも恵まれた環境にあった。それも、これも、みんな友人知己の温情のたまものだと心から感謝している。


たった3回の経験だったが、大学時代に禅寺にこもったことは、私にとっては大きなクスリになった。おかげで後年、三井物産に入ってボンベイで社宅生活をするようになったとき、とにかく感情に左右されがちな環境の中にありながら、ちっとも苦しまずに過ごせたのは、あの禅寺における共同生活のたまものだと、いまも感謝している。


一橋(大学)時代、寄宿舎生活にはきちんとした規律もあり、またそれぞれ違った家庭事情や環境のもとに育ったものが一緒になっての共同生活は、社会勉強の上で大いに役立った。


私は子供のころ体が弱くて、しょっちゅう身内のものに心配をかけていたものだ。私はいつも「弱い弱い」と言われ通しだったので、世の中に出るまでに何とかして丈夫な体になってやろう、という願いが頭の中から離れなかった。そんな緊張感もプラスになったかもしれない。そんなことで、大学では選手にはならなかったが柔道とボートで体を鍛えたし、学校を出て渡印してからも、暇を見てはテニスをやった。こうして生きていて、どうやら元気で働いていられることは私は何かに感謝したいほど、嬉しく、ありがたい気持ちである。


イギリスからもらった名目だけのタイトルなんか返上したらどうか。日本にも明治33年までは居留地があって外人から見下されていたが、日本人自身の自覚と努力によって、ついにその壁を打ち破った。
【覚書き:英国領インドで綿花取引を行っていた際、現地のインド人ブローカーに言った言葉。このブローカーはのちにインド独立運動に身を投じ、ガンジー派の幹部として活躍した】


人はパンのみで生きるものではないとよく言われるが、個人主義の徹底した欧米諸国で、老人のための施設がいかに完備していても、そこに友情とか愛情と言う精神的糧が欠乏していては、人間は長生きできにくいのではなかろうか。


塚田公太の経歴・略歴

塚田公太、つかだ・こうた。日本の経営者。倉敷紡績(のちのクラボウ)社長。新潟出身。東京高等商業学校(のちの一橋大学)卒業後、三井物産に入社。ボンベイ支店に駐在しインド奥地で綿花の直接買い付けに従事、ボンベイ支店次長を経験したのち、三井物産の綿花部門が独立した東洋綿花(のちのトーメン)に移籍。ボンベイ支店長、大阪船場支店長、取締役、綿花部長、常務、専務を経て会長に就任。太平洋戦争終結後、貿易庁長官、富山紡績会長を経て、倉敷紡績社長に就任。綿花同業会会長、日本綿糸布輸出組合理事長。

他の記事も読んでみる

糸井重里

オンもオフも明確に分けることなく、「仕事」と「遊び」のあいだに、いい意味での「公私混同」があることが大切だと思う。


諸井貫一

私は社長に就任して一番強く決心したのは、戦争時代からの持ち古しの老朽設備をなんとか若返らせて、生産性の向上をはかりたいということであった。こんな設備は思い切って捨ててしまい、新工場でもつくった方がよいと思ったが、それには莫大な資金が必要なうえ、当時は必ずしも最新式の技術を導入できる段階でもなかったので、私はむしろ着実な方法を選んで、まず厳重な年次計画を立て、第一期、第二期という具合に資金計画とにらみ合わせながら工場の若返りと能力増加をはかっていった。


宗次徳二

誰もが納得する評価制度を作ることはものすごく難しいですが、評価制度は社員にとって、会社と自分の間をつなぐ信頼関係でもあります。そこで手を抜くことはできません。


鳥越俊太郎

「ラッキー!」。自分が大腸がんとわかった時、そう思ったんだよね。普通だったら、不安とか息苦しさを感じる状況だけど、ジャーナリストであるもう一人の自分がいてね。もちろん、不安を感じる面もあったけれど、「がんの不安を体験できる。本を書くネタができた」と心が躍った、というわけ。


大野直竹

企業は先の先を見て、手を打っていく。それがひいては世の中の役に立つ。このことを根幹の企業にしていきたい。


仙田満

建物は美しいハコではなく、人に使ってもらって、喜ばれるものでなくてはならない。建物=ハードだけではなく、使ってもらうためのソフトも自分たちでつくりたい。


田中和彦

部下の時間を管理しようと詳細に報告を求める人がいますが、あまり感心しません。たとえば日報を事細かく書かせても、毎日同じような内容が報告されるだけです。しまいには上司の方も読まなくなり形骸化してしまいます。何時にどこにいたというレベルまで管理するのは、やりすぎではないでしょうか。


築山節

遅くとも12時前に就寝し、6時間以上は寝る。そして、起床時間を一定にする。当たり前に思えるこの生活リズムをしっかり確立して、生活の原点をつくることが脳活動を安定化させるためにも大事です。朝時間のリズムを失うことは、強い言い方をすれば痴呆予備軍になるリスクがあると私は考えています。


田中稔一

決裁書類のハンコの数を半減させ、社内メールにつけるカーボンコピー(CC、同じ文面を複数人に送るメール)は極力少なくすることを訴えてきました。仮に30人にあまり重要でないCCを送ったとすると、一人がメールを開いて読むのに1分かかったとすれば、合計して30分、その人たち、つまり会社の時間を浪費したことになってしまうのです。


辻野晃一郎

たとえばクラウドサービスを使えば、会議の議事録をリアルタイムで作成し、その場で全社員に公開することができます。ところが課長、部長、担当役員と順番にハンコをもらわないと議事録公開が認められないような会社では、それができません。スピードは失われ、クラウド環境を使っている意味がありません。


伊藤正裕(起業家)

人間というのは、五感が感じた95%の情報は瞬時に忘れてしまうそうです。いま、みなさんはご自身が靴下をはいていることなんて意識していないでしょう?普通の人は、そういう当たり前の情報は遮断してしまうのです。ですが私は、人からすれば当たり前のことに対しても、常に「なんでだろう」と考えます。たとえば「こういう製品がないな」と思ったら、「なぜつくれないのだろうか」と発想する。そして、「つくるにはどうしたらいいのか」まで自分なりに考えて、答えを導き出していくのです。


森川宏平

「会社はどうやったら変わるのか」「そのために、自分は何ができるのか」を常に考えて仕事をしてきた。