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塚本能交の名言

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塚本能交のプロフィール

塚本能交、つかもと・よしかた。日本の経営者。アパレルメーカーのワコールホールディングス社長。京都でワコールの創業者・塚本幸一の長男として誕生。芦屋大学を卒業後、ワコールに入社。伊藤忠商事貿易本部繊維貿易部に出向、ワコール取締役、営業企画部部長、オルガ事業部部長、新宿店店長、常務取締役などを経て社長に就任。そのほか公益財団法人京都服飾文化研究財団理事長などを務めた経営者。

塚本能交の名言 一覧

調子がいいときに挑戦してこそ、世間の話題にもなります。ブランドそのものが盛り上がっていきますから。


商品をより多くの人の手に届けるためには、売り場の態勢も盤石でなければなりません。販売店のスタッフのモチベーションを上げることも、リーダーである私の仕事です。


自分にいまできることを見極めて専念する。そうではないことまで経営者が手を伸ばそうとすると、周りまで疲弊させてしまいます。自分たちの強みを活かす経営を目指していきたい。


東京から離れているからこそ、一時的な流行に惑わされ過ぎず、ものづくりができるのかもしれません。
【覚書き|創業以来、本社を京都から移さない理由について語った言葉】


塚本能交の経歴・略歴

塚本能交、つかもと・よしかた。日本の経営者。アパレルメーカーのワコールホールディングス社長。京都でワコールの創業者・塚本幸一の長男として誕生。芦屋大学を卒業後、ワコールに入社。伊藤忠商事貿易本部繊維貿易部に出向、ワコール取締役、営業企画部部長、オルガ事業部部長、新宿店店長、常務取締役などを経て社長に就任。そのほか公益財団法人京都服飾文化研究財団理事長などを務めた経営者。

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