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城岡陽志の名言

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城岡陽志のプロフィール

城岡陽志、しろおか・きよし。日本の経営者。機械部品メーカー「太陽パーツ」創業者。愛媛県出身。高校卒業後、大阪の商社勤務を経て太陽パーツを創業。ユニークな経営手法で同社を大きく成長させた。

城岡陽志の名言 一覧

企業は環境に適応していかなくてはならない存在。環境はどんどん変わっていくのだから、組織も絶えず変わっていかないといけない。新しいことにチャレンジしなければ変われない。


チャレンジしない会社は生き残れません。失敗しても減点はしない。むしろ加点して金一封出すことで、絶えずチャレンジする社風を育てています。


三流の会社は、三流のところと取引するしかない。だからこんな目に遭う。一流にならなあかん。
【覚え書き|たちの悪い会社に商品をだまし取られそうになったことを振り返っての発言】


私は、チャレンジして失敗することをリスクだとは考えていません。何もしないことこそが、最大のリスク。じつは私も一度設備投資を失敗して「大失敗賞」をもらっているんですよ(笑)。


社長も大失敗すると思えば社員も安心する。失敗なくして社長になっている人なんか、いないんじゃないの?


大失敗賞の受賞者の選定には注意が必要。この賞は下手をすると大変嫌みな賞になる。自分の失敗を明るく乗り越えられる人にしか渡せない。深刻に受け止めるような人には絶対に渡してはいけない。


失敗が多い人ほどノウハウをたくさん持っている。大失敗賞(失敗をした社員を称える賞)を作ってから、うちはいろいろな業界と取引できるようになった。部品メーカーにとって完成品を丸ごと作るのは夢。それが実現できたのも大失敗賞のおかげ。


バブル景気に沸いたころ、どの会社も仕事がいっぱいで、取引先の注文を「もうできません」と断っていました。でも、私は営業社員に、「その仕事を全部取ってこい」とハッパをかけました。当社の下請けの中には、注文でいっぱいになっているところもありましたが、なんとかして取引先のニーズに応えたんです。その効果が表れたのはバブルが弾けたあと。好景気のとき仕事を受けてくれたと取引先から感謝され、不況になってからも仕事を回してくれました。


私自身もチャレンジ好きで、挑戦しては失敗していました。新しいことをするから、失敗が多い。よく上司に怒られました。でも、同僚の一人は、何もチャレンジしないから失敗もしない。そのために、挑戦している私より社内の評価が高いんですよ。これはおかしいと思いました。そんな会社にしてしまったら、社員はだれ一人挑戦しなくなります。


失敗を力に変え、もう一度奮起させればいい。そのために、会社の度量の大きいところを見せよう。そう、考えたんです。そこで思いついたのが「失敗賞」。ただの失敗では面白くないから、「大」を付けて「大失敗賞」にしました。社員に伝えたかったのは、一回の失敗で諦めたら、もう二度と前に進めなくなる。失敗したくらいで会社は怒らない。だから、どんどんチャレンジしてほしいという思いでした。
【覚え書き|社員の調査不足で大損失を出してしまったときを振り返っての発言。この社員は奮起して、のちに海外に大きな生産拠点を築いた】


実家はみかん農家だったんですが、両親が入退院をくり返すなかでしだいに食えなくなり、「なんとかせなあかん」という状況になりました。ですが、こちらもサラリーマンの身。親に十分な援助ができません。そこで決意したのが、いつかは独立して親を楽にしようという考え。そのために、三十歳で課長になるという目標を定めました。もし課長になれたら、自分には非凡なものがあるはず。逆になれなければ平凡だという証しだから、諦めて一生サラリーマンをしようと思っていました。


城岡陽志の経歴・略歴

城岡陽志、しろおか・きよし。日本の経営者。機械部品メーカー「太陽パーツ」創業者。愛媛県出身。高校卒業後、大阪の商社勤務を経て太陽パーツを創業。ユニークな経営手法で同社を大きく成長させた。

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