吉田忠裕の名言

吉田忠裕のプロフィール

吉田忠裕、よしだ・ただひろ。日本の経営者。「YKK」社長・会長。富山出身。創業者・吉田忠雄の長男として誕生。慶應義塾大学法学部卒業、ノースウェスタン大学でMBAを取得。その後、吉田工業(のちのYKK)に入社。取締役、専務取締役、取締役副社長などを経てYKK AP社長、YKK社長に就任。そのほか黒部商工会議所会頭などを務めた。

吉田忠裕の名言 一覧

顧客や取引先の利益を生み出さなくては、我々の商売が成り立たず、会社の繁栄はない。


事業を通じて新たな価値を創造し、提供していくことが、顧客や取引先の繁栄につながり、さらには社会の繁栄にも貢献し、それが巡り巡って自社のもとに還ってきて、自社を発展させることができる。


技術力で新しい価値を創造できなければ、淘汰される。


他人に依存して「商売しやすい環境をつくって欲しい」と言ってどうにかなるものではない。


今の日本を含む、世界の国々の動きはそこまで読み切れませんから、厳しい状態が今後も続いていく前提で、我々は事業を強化し、実績を出すことを考えていく。


危機感は持っていますが、逆に変化の時ですからチャンスもある。


縛りがある中で新しいものを、別の角度から作っていく。


ダイバーシティは当社のテーマ。ダイバーシティだから思いがけない発想が出てくる。その発想を取り込むことで組織を活性化させる。


セグメントごとに、お客様が求める新たな価値を作り、きちっと商品を納めていく。それが、今のYKKの地位を作りました。


技術者は、より高品質なものを目指すことに生きがいを感じてきました。しかし、より低価格で良いものを実現するのも、また技術でしょう。


研究開発だけではなく、営業も一体となってイノベーションを起こさなければならない。


創業者の精神である「善の巡環」は、これからも不変です。特に海外でのビジネスでは理念が重要です。国や文化、価値観が異なる中で当社がどんな考えの会社なのかという話になると、やはり思想が大事になります。


我々の業界は世界がどんなに激しく変化しても、お客様に必要とされるものを提供し続けなればなりません。これをどのような市場でもやらなければいけない。そのレベルも高級品からスタンダードまで含めてです。


良い理念、立派な理念で経営すれば、必ずしも経営が上手くいくわけではありません。でも、こうした精神を社員全員が共感し、実践していかないと経営は上手くいかないのも事実。


一つの問題に対して、Aという人もいれば、正反対のBと答える人もいる。私はその中で答えを出さなければいけませんが、出しすぎるのもどうかと思いましたし、でも、なるべく言い過ぎないように心掛けてきました。


よく社員教育をどうしていますか、と尋ねられますが、みんなで高め合っていると言うしかないですね。その教材は、昔から失敗を事例にしています。だから、失敗は大きいほうが教材としてはいいんです。


吉田忠雄(創業者)は、NOとは言わない人でした。「いいんじゃないか、でも……」というような話し方で、相手の興味を探っていくんです。


カリスマ創業者の形だけ真似てもうまくいかない。


どんなにありがたい話でも、自分自身が体験していないことは、いくら熱弁を振るっても共感は呼べない。


どうすれば、仕事で大切な、教科書やマニュアルに書いていない基本を学べるのか。それはもう、やってみて失敗して心に刻むしかない。


カリスマ創業者の言葉だけを真似ても、人の心は動かせない――。 考えてみたら当たり前のことですよね。でも、その当たり前のことになかなか気づくことができないのも人間です。


本やマニュアルを見れば、工場を作ったり販売会社を設立したり、形のうえでは拠点を作ることは可能です。でもそれだけでは海外事業はうまくいきません。商売のルールから入づき合いまで、現地の顧客や従業員が納得する行動原理を企業として身につけないといけない。それは失敗から学ぶしかない。


父はとにかく多弁でね。社員の前で話を始めると1~2時間は覚悟しなければならなかった。なんでそんなに長く話ができるかというと、次から次へと社員の失敗のケーススタディーを話していたんですね。失敗した本人は針のむしろです。失敗の共有こそが企業を強くするというのが父の考えで、「叱るのも諭すのも、人前でなく個室でやったらどうか」と意見されても聞かなかった。私は父のようなことはしません。失敗が社内で共有される仕組みを別に築いています。


立派なブランド、会社が突如としてとんでもない事態になった例が日本にもいくつもあります。その怖さを意識しながら、全体を見て、驕ることなく経営を進めていきます。


最終的には業者さんではなく、生活者の方にそれをよしとして買っていただいて、使っていただかなくてはならない。


商品開発というのは本当に難しい。永遠に続いていくのでしょう。


当社には「野戦の一刀流」という言葉があります。実戦、つまりOJT(職場内訓練)で修羅場を経験したほうが鍛えられるという考え方です。近年は修羅場を経験する機会が日本全体で減っていると思いますが、野戦が重要なのは言うまでもないでしょう。


教える側にとっても道場(新人の育成機関)の存在は大切です。ベテランがこれまで修羅場で得た知識や経験を社内で共有できるからです。それを体系化したうえで、次の世代の人材に伝えていく。そうした役割を道場には期待しています。


海外赴任する前に基礎が身についていると、その後の伸びが全然違ってきます。外国語にたとえてみるとよくわかるでしょう。前提知識がまったくない人が現地で学んだ場合と、ある程度の基礎がある人とではその習得スピードに大きな差がついてきます。


設立が早い海外拠点では、何十年も当社で働くベテランの現地従業員がいます。場合によっては親子3代がYKK社員というところもあります。そこに何も知らない若手が赴任しても同等には働けません。「現地採用した社員が成長してくれればいい」という考え方もありますが、あくまでYKKの総本山は日本にあります。そこからやってくる人材が、現地従業員の足元にも及ばないようではグローバルで企業の力が落ちてしまうでしょう。


YKKが海外展開を始めてすでに50年以上が経過しました。20~30年間にわたって海外で修羅場を経験してきた世代が、次々と赴任先を離れています。彼らに代わって新たに若手社員が海外に出ることになりますが、現場での実戦だけを通じて彼らの成長を待っていたのでは近年の事業スピードには対応できないでしょう。道場である程度の基礎ができるまでは育成する必要があります。


当社は、問題が起こったら現場の全員が課題解決に挑みます。上司だけ、担当だけの「誰か」が考えるわけではないんです。「誰も」が考える組織なのです。そういった意味では一人一人がリーダーだといえるでしょうね。


東京一極集中というのは良い面と、悪い面がある。ビジネスも政治も全部集まっていること自体は効率的でいいと思うが、全ての役所や会社機能が東京にいた方がいいとは限らない。場合に応じて東京と地方それぞれに役割分担をすべきだ。


当社にとって重要課題である教育や研究のベースは人にある。人が高みを極めていくのに、東京のように周囲にたくさんの人がいるようなところは好ましくない。製造拠点のある黒部のように、都会とは隔離された場所の方がいい場合がある。


東日本大震災は想定を超える自然災害ですが、想定が低すぎたことを今更悔やんでも仕方がありません。この後、起きたことにどう対応するかが大事。


当社は現在4万4千人の社員がいる中で、1万7千人が日本、あとの2万7千人が海外です。多くの社員が入社して数年で海外に赴任します。彼らが外国人のスタッフやお客様との会話の中で「どんな考えを持っているのか」と聞かれる。そこで最終的には理念に行きつく。ですから時代が変わっても基本理念が大事なのです。


これまで当社はハイファッションやハイファンクションに強みを発揮してきたのですが、アジアを見ると、そうではないマーケットが非常に増えてきていると。それに対する供給力をきちんと強め、量的成長をしていかなければならなくなりました。


(フィリップ)コトラー先生とは卒業後も、折に触れて直接会ったり、手紙をやり取りしたりして、情報を交換し合い、交流を深めてきた。その際に当社の事業の調子や取引先との関係などを根掘り葉掘り聞かれる。その飽くことのない探究心にいつも感心し、刺激を受けてきた。いまだに新しいコンセプトを世に示すことができるのも、そうした姿勢があってこそだろう。先生は81歳になるが、その高齢でも頭は柔軟で、マーケティングに対する情熱は一向に衰える気配がない。そうした先生と知り合い、40年以上にわたって親交を続けてこられたのは、非常に幸せなことだと受け止めている。


お客様に喜ばれ、社会に評価され、社員が誇りと喜びを持って働ける。そうした会社であるために、商品、技術、経営の質を高める。その実践にあたって常に根底にあるのが「公正」であり、これを価値基準として経営判断を行っていく必要がある。


ジーンズの米リーバイ・ストラウスはかつて、部材については自社商品の生産に支障を来さないように2~3社から同等のモノを仕入れることができるようにする方針だった。ところが、当社からファスナーを購入するようになってからは当社1社にしたいと言ってきた。いいモノを責任を持って供給してくれるので、リスクヘッジのため複数社に発注するよりもYKK1社の方がいいという判断だった。


競合がいるので価格が高くては売れない。しかし企業向けのBtoBビジネスで、顧客の商品の製造コストに占める割合は2~3%程度。それほどシビアな値下げを求められることはなく、競合に比べて価格が5%や10%高くても買っていただける顧客はいる。だから価格はリーズナブルでなければならないが、必ずしもライバルの下を目指すような値決めをいつもするわけではない。


納期については、顧客が欲しい時に提供できないと、相手のビジネスが成り立たない。特に衣料品は商品の入れ替えが速く、開発期間も非常に短い。注文を受けてから納品するまでのリードタイムが長いと、「別のところに頼むよ」と言われて商機を逸してしまう。なので、「Delivery must be yesterday(1日前納期)」という言葉を掲げて、納期の短縮に努めてきた。


東日本大震災が起こり、リスク分散の観点からも拠点は各地にあった方がいいという議論も高まりました。YKKの拠点は世界71カ国・地域。世界中のオペレーションに支障があってはなりません。


魅力ある街でなければ今後の移転も進まないでしょう。地方移転というのは、法人税を優遇すれば進むような簡単な話ではないのです。


技術的に進んでいると思われる地域ばかりではなく、昔から取り組んでいる場所にもいいヒントがあるかもしれない。それが今の技術社会の中でもう一度評価され、それを活用することで問題が解決されたとなると、今後の建築の手法も変わってきます。


当社が「窓学」という言葉を作って取り組みを始めてから、もうすぐ10年になります。この10年で様々な分野の先生方にご協力いただいてきました。学問にも通じるような切り口で取り組めば、新しい分野が広がるのではないかという思いです。


お客様が反応を示すくらいの商品は何なのか、アピールができる技術は何なのかを考えています。バーがどんどん高くなる中で我々がメーカーとしてできるのは、そこに尽きます。


以前から黒部が「技術の総本山」と言っていますが、本山がたくさんあってこその総本山です。ですから総本山と、それぞれの本山の役割があります。


当社にとっては社長こそが会社のトップ。私は社長の邪魔をしないように心掛けています。やはり、役員にとっては社長がいたとしても、前社長や前々社長が目の前にいたら、どっちを見て話をすればいいのか分からなくなる。そういうのは良くないので、私はできるだけ仕事の比重を減らすようにしているんです。


当社は1960年代から本格的に海外市場に進出し始めましたが、創業者(吉田忠雄)は海外に送り出す社員に「土地っ子になれ」と言っていました。つまり「その国で生まれた人間だと思って向こうに行ってくれ。間違えても、日本の習慣や食事と比較して不平不満を言ってはいけないぞ」と。


創業者(吉田忠雄)は自分がつくって開発したものを、次にはぶっ壊して、また新しいものをつくっていくことをしていました。前につくったものが絶対価値ではなく、どんどん新しいものにつくりかえていく。これは商品もそうだし、技術もそう。その連続だったんです。こうして技術力を高めてきました。


吉田忠雄(創業者)にとっては社員すべてが子供でした。「あいつは子供で、あそこにいるのは兄貴の子供だから一族かもしれないが、私にとっては社員全員が子供だ」と、よく言っていましたよ。だから、私だけでなく社員みんなに平等に厳しかった。


今のように商圏が世界中に広がり、様々な宗教や文化を持つ人たちを相手に商売をするようになると、「失敗から得る教訓」がとても貴重になってきます。実際、YKKグループの海外現地事業は、半世紀以上の歴史を持つわけですが、振り返れば、父の代も私の代も失敗の積み重ねでした。例えばイスラム圏では、パートナーの家に招かれた際、「奥様、キレイですね」と軽口を叩いただけで信用を失います。女性は近親者以外には目立ってはいけないという相手の文化を否定することになりかねないからです。


我々は利益を出し続けるために徹底した商品開発、生産・供給体制を作る。それでもグループの中でビジネスが伸びない会社があれば、何か合っていないのかもしれないと自問自答する。そして、軌道修正していく。


世界の国・地域によって状況が違いますから、日本(の本社)でコントロールしようとしてもできません。基本は、考え方を合わせた上で任せるということ。


それぞれのお客様にとって必要な品質、価格にミートするファスナーを提供できるのが一番いいわけですが、それはそのお客様にとってベストだとしても、別のお客様にとってベストであるかどうかはわかりません。そうすると、究極はワン・トゥー・ワンになります。ファスナーもコモディティ化してくるのですが、やはり「あなたのためのファスナーを提供します」という活動が重要になります。


日本のような気候の中では、暖冷房を使わずに窓を開けておいた方がいいという場合もあります。トータルのエネルギーの使い方という意味では、閉鎖性のみを追求し、1年中閉鎖した空間を作って熱のコントロールをすることだけが果たして良いのかどうか分からない。もちろん、こういった設備があった方がいいはずです。ただし、それさえも使わないようにすることも大事ではないかと。そこに気付いて欲しいと思いますね。そうすれば、電気その他のエネルギーソースを使わないで済むわけですからね。私たちはそういう発想で「窓」というものを考えています。


ボリュームゾーンを攻略したいという思いは、15年ほど前からありました。どのレベルの単価を狙うべきか、ずっと議論してきました。「安かろう、悪かろう」ではない、YKKらしい「安かろう、良かろう」を提供するには何をすべきか。逆に、それができなければ、いずれ、YKKはおかしくなる。そんな危機感がありました。


当社は東京にある必要が必ずしもない人事、経理などの本社機能をリスク分散の観点から東京から富山県黒部市へ移転した。既に230人が移住している。北陸新幹線が開業し、東京へは2時間半で行けるため、ほとんど問題は起きていない。今後も役割分担は進むだろう。


実際に住んだ時のデータを取り始めると、いろいろな材料が出て来ます。実際に住んでみてわかることや、データも違う取り方をしなければならなかったなど、いろいろわかることがあります。これを続けていくことで成熟したデータの取り方、さらには成熟した議論ができるのではないかと思います。


(社風の)原点は、創業者が富山の漁師町である魚津出身ということにあるのではないでしょうか。漁師の世界はいつ嵐になるか、天候が良くなるか分からないわけです。ですから、いつでも船を出せる、または船を港に戻す準備をしておかねばならないわけです。どんな状況になっても自らの判断で対処できるように、しっかり準備をしておくようにと言われていました。


例えばスポーツアパレルでは、業界のトップクラスはデザインも機能も品質も激しい競争の中でいろいろと努力されている。その中に部品としてのファスナーがある。ということは、ファスナーもあちらに提供したものをこちらに提供するということでは済まされません。個々のお客様のニーズに応えていく、それがワン・トゥ・ワンです。


これまで中国が重要な供給拠点だったのですが、人件費の高騰により、縫製市場が他のアジアにシフトしています。この動きに合わせて、当社もアジアでの供給体制を整え対応しています。加えて、中国や他のアジアの内需市場も重要になってきているのです。このような市場の変化に対応し、スタンダード向けの商品やものづくりに挑戦しています。開発体制も強化し、それぞれの地域でお客様の要望により迅速に対応できる体制も築いています。


私は「善の巡環」を実践するにあたって、「更なるコーポレート・バリューを求めて」という経営理念を考えました。これは更なる企業価値を求めて「社会、顧客、社員、公正、経営、技術、商品」という7つの分野に新たな質を追求するという考え方です。このポイントは7つのキーワードのど真ん中に公正(フェアネス)という言葉を置いていることです。どんな市場であっても何事にもフェアであれというのは、普遍的な考えだと思いますし、お客様とビジネスを行う時にも大事な基準だと。


私は「One to Oneマーケティング」という言葉をよく使っていますが、そうした多様なお客様のニーズの1つ、1つに対して、きっちりご要望にあった商品を提供していこうと考えています。だから、近年は当社が強みとしてきた付加価値の高い商品開発を追求し続ける一方で、これまで注力してこなかった安い価格帯の商品、スタンダードな領域にも挑戦しようと。それが今の事業方針なんです。


いまは事業が軌道にのり、皆さんに「すごい」と言っていただけますが、始める前はいろいろ言われました(笑)。社内でも「何を考えているんだ?」と思った人は多かったと思います。でも、これも創業者・吉田忠雄の精神に沿ったもので、社会に必要とされるものをつくろうと。事業を通じて新たな価値を創造し提供していくことが、顧客や取引先の繁栄につながり、さらには社会の繁栄に貢献することにつながる考えだと思っているんです。


社長に就任して特別何かを大きく変えようと考えていたわけではありませんでしたが、プレッシャーはすごくありました。私が真っ先に言ったのは、創業者と私を比較してくれるなと。私は創業者ではないと。「カリスマ」と呼ばれた創業者と比較されても困るんだということを皆さんにお願いしました。


現地の社員と語り合う場を設けています。例えば、中国の現地法人に行った時、私が席に着いた途端、ものすごい勢いで質問が始まりました。「お客様から価格が高いと言われたけれどどう改善すべきか」「リーダーになったばかりだが、どうやって組織をまとめていったらいいか」と。それに私はヒントやアイデアを与えるように答えていくんですが、このように彼らの口から出てくるのは実務に直結した悩みなんですね。通り一遍の質問など一つもありません。ですが、その日々の実務が理念の実践につながっているんです。


私や社長などの役員が世界中の拠点に出張するときには、アジアでもアメリカでもヨーロッパでも、現地の社員を20人ぐらい集めて語り合う場を設けるようにしているんです。社内ではこれを「車座集会」と呼んでいるんですけれど、ここで私は経営理念を語るというよりは、むしろ彼らの話を聞くようにしているんですね。すると、いきなり質問攻めにあうんです。


吉田忠雄が亡くなった後、私は創業者の考えはこういう意図があったんだよ、こういう結論に至った背景にはこういう考えがあったんだよ、ということを紐解いて社員に伝えてきました。そこで「なるほど」という感じで気づく社員を増やしていく。そういう努力を続けています。その甲斐あって、吉田忠雄と一切接点を持っていない若い社員にも、かなり創業者の考え方は理解されていると思います。


創業者が亡くなってから、「吉田忠雄記念室」という展示室で企画展を9回開催したのですが、私は第1回目のテーマに「創業者に叱られたこと」を提案しました。そのテーマに決定し、叱られたエピソードを社内で集めたら、多くの社員が手を挙げて「俺の話を聞いてほしい」と言うんです。叱られたこと、失敗したことを自慢したいんですね。それは、吉田忠雄との思い出を語りたいという気持ちと同時に、失敗というのが財産だということをみんなが気付いているからでしょうね。


吉田忠雄(創業者)の叱り方というのは、みんなの前で叱るやり方でした。ある時などは、1時間も立たされてコテンパンにやられた人がいました。まわりは仕事の手は休めるなと言われるのですが、気になって聞き耳を立ててしまう。叱られた人に、私は後で「君は会社に相当な貢献をしたと思うよ」と言うワケです。「社長は、向こう10年、君のこの失敗を事例に使うよ」と。つまり、これもケーススタディなんです。ただ、叱られたほうにしてみればたまりませんから、「いつ、この失敗が使われなくなりますかね」と聞いてきます。でも、「君以上の失敗が誕生した時まで待つしかないだろうね」と言うしかない(笑)。


以前、お客様から、「おたくの会社は変わっていますね。誰が社長だか分からない」って言われたことがあります。当時、社長だった私がいても、皆、我こそはと話し始める(笑)。ワンマンで有名な取引先の社長が来た時も、同じく皆が話し始めるのでビックリされていました。その社長から「吉田さん、大変ですね」と言われたのですが、「いつもこうなんで、慣れています」と答えました。そして、「私が下手なことを言えば、社員にコテンパンにやられますし、社員が間違っていれば私も言います。どんどん発言したって構わない、そう思っているんですよ」と伝えました。驚かれていましたね。


ファスナーを生産する機械の償却費はいくらなのか。安くつくるためには原材料も安くしていかないといけない、人件費を減らしていくにしても給料を下げるわけにはいかないから、効率を上げていかなければならない。さらに機械の使い方や仕事の仕方もからんでくる。不良品など、商品にならないものも出てくる。では、なぜ商品にならないものが出てくるのか、その元を正していくのです。汚れを例に考えれば、工場を歩き回り、白いハンカチで床を拭いてみると汚れている。この床に触れれば、ファスナーは汚れてしまい商品にならなくなってしまう。原価計算というコアな部分をしっかり理解することで、このような見えない部分の課題も探り出せるようになるわけです。


最初の配属先が原価計算の部署だったことは大きかったと思います。米国ではマーケティングを勉強しましたが、戻ってきたら来る日も来る日もソロバンと格闘して原価計算の日々でした。そして毎月、原価計算から月次損益をまとめるわけです。さらに、セクションごとに人を集めて、問題があればその原因はどこにあるのか、といったことを多くの人とディスカッションしていくのです。その話し合いには工場の稼働に影響が出ない範囲で、かなりの人数が参加し、品目ごとに話し合っていました。原価計算というのはメーカーにとって最もコアな部分です。だからこそ、創業者(父・吉田忠雄)も私をこの部署に配属したのだと思います。


YKKには、「全社員が経営者である」という言葉があるんですが、吉田忠雄(創業者)本人も自分は労働者であるとも思っていたでしょうし、同時に、経営者としては、自分と同じ考え方の人間が増えることによって、より大きな事業を行えると思っていました。そして、その考え方により、「良い製品を安くつくる」ことが実現できれば、その利益を顧客、取引先、自分たちの三者で分け、自分たちに配分された部分の一部をさらなる投資に充てていく、というYKK精神「善の巡環」につながっていくと考えていたのです。


吉田忠雄(創業者)は、中小企業の経営者のように会社のあらゆる仕事に目を配り、しかも確実に把握している人でした。そして、何でも自分で効率的にやる人でしたね。例えば、海外に出張に行っても、ホテルで自分の着た物を洗って、ズボンにはアイロンまでかけていました。また、私が、子供の頃に風呂からあがって、手ぬぐいを絞っていると、「その絞り方だと明日の朝までに乾かないぞ。こうやってしっかり絞りなさい」と言われたり、彼は庭いじりが好きだったのですが、鉢植えを行うにしても、作業工程を短くするにはどうすればいいかといったことを小学生の私に熱心に教えていたりしていました。それは家族だけでなく、社員でも誰に対してもそんな感じでしたので、今でもYKKでは役職者が部下を管理しているだけでは許されず、何でも自分で動くことが求められるんです。


吉田忠裕の経歴・略歴

吉田忠裕、よしだ・ただひろ。日本の経営者。「YKK」社長・会長。富山出身。創業者・吉田忠雄の長男として誕生。慶應義塾大学法学部卒業、ノースウェスタン大学でMBAを取得。その後、吉田工業(のちのYKK)に入社。取締役、専務取締役、取締役副社長などを経てYKK AP社長、YKK社長に就任。そのほか黒部商工会議所会頭などを務めた。

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