ファイティング原田の名言

ファイティング原田のプロフィール

ファイティング原田。日本人プロボクサー。17歳でデビューし全日本フライ級新人王に輝き、19歳で世界フライ級王者、22歳で世界バンタム級王者を獲得。日本人で唯一、アメリカボクシング殿堂入りを果たした。現役当時、日本の国民的英雄と称えられた

ファイティング原田の名言 一覧

全然、相手のパンチ力が違ったね。それだけじゃなく身長から体格まで違った。背が高いからパンチが届かないんだ。でも、そんなに人間変わらないと思って闘うしかない。
【覚書き:フライ級からバンタム級に移ったときの発言。その後、世界フライ級に続きバンタム級でも世界チャンピオンを獲得した。】


ファイティング原田の経歴・略歴

ファイティング原田。日本人プロボクサー。17歳でデビューし全日本フライ級新人王に輝き、19歳で世界フライ級王者、22歳で世界バンタム級王者を獲得。日本人で唯一、アメリカボクシング殿堂入りを果たした。現役当時、日本の国民的英雄と称えられた

他の記事も読んでみる

和田裕美

いわゆる飲みニュケーション、私は大切だと思っています。もし、行きたくないのなら、断る前に嫌な理由を挙げてみてください。と同時に、自分が人づき合いのなかで得たいものを並べてみる。飲む以外の目的が明確であれば、自分にとって飲み会に行く意味が見いだせるので、面倒じゃなくなります。気づいたら、嫌だったはずの飲み会も楽しいものに変わっているかもしれません。


アルベルト・ザッケローニ

イタリアでACミランを私が初めて率いたときのことです。当時チームは前年の順位が11位と、成績が低迷しており、みんなが同じ方向を向く状態ではありませんでした。自分が出場したいばかりにチームの和を乱す選手や、次の契約内容ばかりに興味を持つ選手もいました。でもシーズン終了まであと一カ月という時期になって、優勝の可能性が見えてきたんです。その途端、選手の意識が変わり、チーム全員が同じ方向を向くことができたのです。結果はみごとに優勝でした。


工藤公康

気持ちや気力ばかりが先行してもいけません。「心技体」という言葉がありますが、この3つのバランスを保ってはじめて納得のいくパフォーマンスにつながるんです。


藤井孝一

自分自身の稼ぐ力を養うことで、世の中がどんな変化をしても、ドンと構えていられる。


藤本秀朗

企業は一勝十四引き分けの論理です。企業というのは負けたら駄目。相撲だったら八勝七敗で番付からさがらない。ところが企業は八勝七敗より一勝十四引き分けの方がいいんです。たった一回の負けが命取りになる。


ムロツヨシ

人が笑っている時は100%喧嘩は起きない、相手を憎まない。それは幼少期に家族の問で確認したことで。僕にとって、喜劇は悲劇から逃れるものでもあるけれど、希望であり、夢なんです。


永守重信

世界にないものを開発する時は、まずは精神論から始まるんです。創業当時、実現できるかどうかわからない技術を目の前に、全社員で「できる、できる、できる」と千回言い続けた。すると、何となくできる気になってくるんですね(笑)。そんなもんです。できる、できないは、能力とは別の問題です。


河野貴輝

目指すのはバリューを創造し続ける会社です。二番煎じではなく、一番煎じのオリジナルを追求し続けるからこそ、そこに価値がある。


佐藤正浩(経営者)

どのような製品をつくるのかは、病院、医師と定期的にコミュニケーションを取って、現場からの要望を開発につなげています。


田原総一朗

幼いころ近江商人の「三方よし」という考えを教わったが、この意味が分かったのは40歳も過ぎたころです。まずは客に信頼される、次が社会または世間に信頼される、そして自分よし。川上にいる発想に立つと、まずは自分よしとなってしまう。そうではなく、よいかどうかを決めるのは客なのです。


田口一成

途中で投げ出さずに修正しながら続けていけば、必ず成功する。


松本康男(コンサルタント)

良くも悪くも社長は会社の顔です。専属の優秀な秘書が付く大企業ではないのですから、社長ご自身が周囲とのコミュニケーションを大切にしなければ、誰もフォローしてくれません。


藤野祐美

意識・行動の変化は長い道程です。それだけに、息切れしがち。当事者はともかく、周囲の支援を得続けるためにも、短期間で何らかの成果を見える化していくこと。社内外への広報が必要です。


堀之内九一郎

商売人の親に育てられたこともあって、私は若いころから、お客さんに対して腰を低くすることは自然にできました。それに加えて、借金の必要に迫られ、親戚や銀行に頭を下げることで、より一層、腰が低くなりました。が、それでも周囲から「あいつは計算高い」といわれることもありました。なぜ、計算高く見られてしまうことがあったのか。それは、腰の低さに心がこもっていなかったから……ではなく、腰の低さを24時間徹底できていなかったからです。つまり、相手によって腰の位置が変わっていたということです。それが、商売で成功する難しさを知るうちに、だんだんと誰に対しても腰の低さを保てるようになりました。自分に関わる人のすべてが、自分のお客さんや自分にプラスをもたらしてくれる人になるかもしれないと思えば、全員に対して自然に腰を低くできるんです。すべてが何らかの形で得につながるだろうという考え方。損得勘定を超える得々勘定です(笑)。


津村記久子

本格的に小説を書きはじめたのはいまの会社で2年ほど経った26歳の頃でした。大学時代に書いてた時期はあったけど、ずっと中断していたんです。私の26歳の誕生日の前日、きっとあの人は100歳ぐらいまで生きるだろうと周囲に言われて本人もそう思っていたおばあちゃんが84歳で死んでしまいました。それで何か、あ、人は死ぬんだ、それなら好きなことをやろうと。


ページの先頭へ