飯田亮の名言 一覧

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飯田亮のプロフィール

飯田亮、いいだ・まこと。日本の経営者。日本初の警備保障会社セコム創業者。東京出身。学習院大学政経学部経済学科卒業後、家業の酒販売会社「岡永」に入社。29歳で独立し、セコムを創業。警備保障業は日本ではまったくなじみのない新しい事業であったが、同社を大きく成長させ東証一部に上場させた。そのほか日本経済団体連合会常任理事、全国警備業協会顧問、特殊法人等改革推進本部参与会議座長などを務めた。

企業はそれぞれの領域で一生懸命やるしかない。政策に左右されようとされなかろうと、企業は知恵を絞って道を切り拓かなくてはいけない。


私は「将来が必ずよくなる」と信じています。重要なのは、どうなるかではなく、どうしたいかです。


明るいビジョンを掲げるのがリーダーの使命。


「こうすれば、みんなが明るくなって元気になれる」というビジョンを提案するのが、政治家であれ、企業家であれ、最も大切な仕事。


経営者は、明るくてせっかちな方がいい。


企業も国も変わらなければ生き残れない。


後世から見たら愚かなものかもしれません。しかし、できるだけのことはしなくては。


失敗を繰り返し、知恵と努力で克服してこそ、前へ一歩進める。


やめてしまっては何も残りません。問題を克服してこそ進歩がある。


心配していてどうにかなるものでもありませんよ。やればいいんです。知恵を出すんです。


愚痴をこぼしたらダメ。口をいっさい閉じて、我慢をすることで内面的な成長がある。


光明がなければ人間は生きていけないもの。生きていくために光明を一生懸命探し、見つけなければならない。


あらゆる面から考えてみると、全ての面が悪いことばかりではないはず。暗闇に思えても、どこか小さな光明があるはず。


泣き言を言わないことが大切。円高もですが、いつの時代だって泣き言のタネはたくさんあるもの。


順風満帆というものは、経営者にとって気持ち悪いもの。


いい流れはありますが、流れを掴むかどうかは企業の腕。


基礎がしっかりしてなきゃね。急いで稼ごうと思ったって出来るもんじゃない。


企業家っていうのは叩かれても仕方ないと腹を括ってやっている。叩かれたから嫌だなんて思っている人は企業家に向かない。


どんな企業もみんな打たれ強くなければ生きていけない。


どうしてマスコミに出る必要があるのですか。ジャーナリズムに出るも出ないも戦略のひとつでしょう。


それぞれの信念に基づいて頑張れ。そうじゃないと自由主義経済じゃない。


日本の国のあり方、考え方みたいなのものは、もっとしっかり考えないとダメ。どこかに頼って生きていくような感じじゃまずい。


可能性というのは空想が限界域です。だから可能な限り大きなデザインを描かなければならない。


突出していていい。人間はそれぞれ違っていて、それぞれ突出していてほしいという社会環境にならなければいけない。


変わってる人がいい。みんなで集まってから何か始めようとする群れる人間ではなく、社会の枠組みを蹴散らすパワーのある元気な若者が。


型にはめることを良しとする考えを正さなければ、日本の企業体の発展はない。


意思の疎通がうまくいかなければ、企業はすぐにつまづいてしまう。


人間は苦労しなければ成長しません。成功する経営者はみんなピンチ不感症。悲観的な考えは好みではありません。


ラグビーでもアメフトでも、練習を辛いと思ってやっている人間は続かない。続けられる人間は、辛いけれども面白くて仕方がないからやっているのです。


苦しみ楽しみは同義語。両方混在している。苦しみがなければ楽しみはない。


創業から50年、苦しいことも楽しいことも、たくさんの出来事がありました。いや、苦しかったといっても楽しかった。企業経営は面白い。


創業者はすっと消えていくのが一番いい。


企業は青春でなければ駄目です。青春とは逵巡しないで足がポッと前へ出ること。停滞しないこと、勇気でしょう。


一番大切なことは発想が純なること。そうすれば信用が生まれ、社会も評価してくれる。


邪念があっては駄目。邪念は見える。


無から有を生み出すのがベンチャー企業。


ビジョンを提案するのが、政治家であれ、企業家であれ、最も大切な仕事。


何かを捨てる時には、必ず新しいものが必要になります。


ただ安売り競争をやっている企業はダメ。安売りは商売をしているとは言いません。バッタ屋と言うのです。


最高の会社を作るには、様々な人間が必要です。性格もものごとを見る角度もビジネスのやり方も人それぞれ違います。それらが有機的に組み合わせることができたら最高です。


知恵を使わなければ、泥沼に入る。


大切なのは人であり、数値はあくまで結果にすぎません。数値やおカネが全てと、悪いファンドマネージャーのように拝金主義に染まった経営者は会社を潰すと思う。


社員は経営者の気持ちを育ててくれてる存在です。もし社員が10人くらいだったら、私は身勝手なことばかりしているでしょう。


営資源を集中するために、損してでも不要なものは売った方がいい。


お天道様が見ている。隠れて悪いことをしてはいけない。悪いことをすれば必ず天罰が下ります。天や神に対する恐れをどこかで感じながら生活していくことが必要です。


最後にあと5分考えろ、考え抜いたら大胆にやれ。


閉塞感なんていうのは、人の心に巣食うものです。実際の世の中に蓋がされているわけじゃないでしょう。理屈をこねる前に、一生懸命働くべきだと思います。


現状を悲観して「次代を担う人材がいない」と嘆くのは間違いでしょう。そんな中でも確かに優れた人材はいます。私は多くのベンチャービジネスの経営者と接してきましたが、可能性ある人にもたくさん出会いました。


私は終戦を経験しています。国は崩壊していて、頼りになるのは自らの力だけ。私が常識外の力を発揮できた背景には、こうした社会状況もあったのでしょう。


創業50周年のとき、なぜ自分はここまで会社を成長させることができたのか、改めて思いを巡らせてみました。「ひとつのことに熱中してきたから」とか「一生懸命に努力してきたから」などとも考えたのですが、どれも当たり前のことで、正直これといった理由が見つかりませんでした。結局、当たり前のことを当たり前にやっていたら成長していたんです。


漁師は釣れなければ狙う魚を変え、道具を変え、場所を変える。いつも同じところでじっとしていて、「魚がいないね」と嘆いているだけでは駄目だ。


セコムには事業と運営の憲法があります。それは、「正しいことをやる。間違ったことはやるな」「正しいこととは会社にとっての正しさではなく、社会にとっての正しさだ」というものです。経営者としてそういった正論を吐いてきたから、私は社員が胸を張ってやれる仕事だけを選んできました。


部下の育て方なんて、いくつもの方法があるわけではありません。経営者や幹部でありながら社員を信用できないなんて大変な不幸です。信じることが部下を育てることです。


うちでは現場にパートはいません。パートを雇っていた時代もありましたが、あるときから全部やめました。正社員とパート社員が混在していたら、セキュリティの質を保つことができないと思ったからです。


私は決して物わかりのいいタイプではありません。会議で私が提案したことを部下が全員反対したら、よし、やってやろうと考えます。逆に、部下が全員賛成した案件については、ちょっと待てよと思ってしまいます。部下の意見におもねることはしないから、物わかりのいい上司ではありません。


世の中の企業では「頭越しの指示をするな」と決まっているところがほとんどです。しかし、セコムでは「頭越しに指示をしてもいい」としています。そして、違う指示が出た場合は、上位者の指示に従うことに決めています。頭越しの指示を許容しているのはセコムがベンチャーだからです。


「部下を人前で怒鳴ってはいけない」なんて書いてある本もありますが、そんなのはおかしいですよ。怒鳴るときは怒鳴る。怒るってのは感情だから、抑制しない方がいいのです。怒ったり、泣いたり、笑ったり。そういうことが自然とできる上司に部下は親しみを感じるんです。でも、ねちねち怒ったりはしません。バーンと怒鳴って、それで終わりです。


日本警備保障という社名をセコムに変えると提案したとき、部下はみんな反対しました。私自身でさえ、せっかく浸透してきた社名を新しくするのは葛藤があったくらいだから、部下が反対したのももっともです。しかし、警備会社から社会システム産業へと変身するためには、社名を変えなければなりませんでした。それで、私は反対を押し切ってセコムにしました。


思うのですが、物わかりのいい上司の下では部下は育たないんじゃないか。部下は頑固な上司を説得することで自分の力をつけるんだ。上司に持つのなら物わかりの悪いタイプがいいのです。


若い組織でないと頭越しの指示はできません。普通の組織なら、中間管理職が「俺はそんな指示は聞いてないぞ」とグチャグチャ言ってくるに違いありません。政府の会議で座長をやっていたとき、官僚組織は絶対に頭越しの指示をしないことに気づきました。それは組織が老いているからです。


私はドロボー事件が起こったときでさえ、社員を疑ったことはありません。「こいつもやるんじゃないか」なんて顔で社員を見たことは一度もありません。社員のことはずっと信用していました。経営者や上司にできることというのは、社員を信頼することです。そうでなければ会社は崩壊してしまいます。


自分で自分を追い込む姿勢は重要なのです。起業に限らず、すべての仕事をやり遂げる要諦ではないでしょうか。


事業を起こし発展させていくために何が必要かと問われれば、まず心の奥から湧きあがるパッション(情熱)だ。絶対この事業を成し遂げるとの思いが沸々と湧き上がる。人間こうでなくては事業を成功には導けない。そして、パッションを支えるのがビジョン(展望)とロジック(論理)だと思います。


人間は弱い存在。多少の成功で満足してしまい、パッション(情熱)を維持するのは難しい。どうすればいいかというと、あえて自分を厳しいところへ追い込むのです。


私は30年のビジネスデザインを立て、まずは10年実行、そして10年後にまた新しいビジネスデザインを作ると考えていました。常に目標を持ち、自分を鼓舞する。一方で環境変化に合わせて目標を見直す。ビジネスとはこの繰り返しだと思っています。


いまの起業家は私が創業した60年代前半に比べ、一見恵まれています。規制はだいぶ緩和されたし、ベンチャーキャピタルによって資金は得やすくなった。人材流動化で優秀な人を採用しやすくなってもいる。不況も他社に差をつけるチャンスです。でも、規制に邪魔されない起業家は、国から弾圧を受けない非合法組織のようなもので迫力を欠きます。カネ余りは起業家を糖尿病にしてしまう。


思い描いているように企業規模が拡大したとして、社員数が何万人にもなったら管理できるだろうかと想像したとき、システム化は不可欠との結論になったのです。さらに、情報通信技術の発展ぶりから、機械でできる仕事はどんどん人手から機会に置き換わるとの確信がありました。いつまでも巡回警備に頼っていては、いずれ限界が来る。今後の飛躍のために、システム化を急ぐべきだと考えたのです。


私自身の中でも「巡回警備で十分儲かっている。何もリスクを負わなくても」と、もう一人の弱い私がささやくのです。両者を併用する安全策を取ってもいいじゃないか。しかし、逃げ道を作っていたのではもう一段上には上がれない。弱いもう一人の自分をいかに追い払うか。このときは事業を大きくしようという欲が、ビジョンとロジックを与えてくれ、その結果、弱い自分に勝つことができました。
【覚書き|主力の巡回警備から、まだ契約数の少ない機械警備に全面的にシフトすると決めたときを振り返っての発言】


セコムを創業して8年ほどたった1970年のことでした。当時の主力はガードマンが契約先を見て回る巡回警備でした。その4年前から、通信システムを活用して、異常が発生したときに当社の社員が駆けつける「SPアラーム」も始めていましたが、契約件数は巡回警備の4分の1にすぎない500件程度でした。そんなときに、私は「今後は巡回警備を廃止し、新規契約はSPアラーム一本で行く」と宣言したのです。社内からは、何で順調な巡回警備をやめて機械警備システムに絞るのか、といった反論が出ました。


企業は潰れるからいいんだと思う。経営に失敗しても救済されるというのでは、緊迫感がない。


役人をはじめとした、いわゆる「専門家」と称する人たちに制度設計を任せてしまったのが間違いものとだったと思います。国の将来を担う若者をどう育てるかという視点で、広く社会にもまれて生きる人々から意見を集めて制度をつくるべきだったのです。


近年若者は常識外の力を養ったり、発揮したりするチャンスを奪われていると思います。教育制度を筆頭に、目上の愚かな人々がつくってきた仕組みの中で生きていかざるを得ないのですから。


経営のトップにある者が最も嫌うべきことは「逡巡」ではあるまいか。決すべきことを決せないで逡巡し、一日延ばしにすれば、そのツケは後輩に回って、結局は経営を危うくしかねない。


会社ができると私はすぐ営業に駆け回りましたが、日本で初めての仕事ですから簡単にお客ができるはずがありません。セキュリティの必要さを説いて回っても、うんそれは面白い考えだと言われるばかりで注文はくれません。結局、はじめの六か月間は受注ゼロというありさまでした。


警備保障はなにしろ未知の仕事で、しかも料金は三か月前納という条件ですから、どの企業もおいそれとは乗ってくれません。しかし、実家の酒問屋での修業時代に貸し倒れの恐ろしさを知った私には、料金前納はこの仕事の絶対条件だと思っていました。やがてぼちぼちと契約が取れはじめ、社員数も増えてきて、日本の中に警備保障という言葉が認知され始めました。


私は生来、新しもの好きなところがあって、人がやらないことを夢中になってやる癖があります。


今は亡き父が私の独立への選別として贈ってくれた「初心忘るべからず」には「男がいったん決めたことは最後までやり通せ」という父の励ましと戒めの気持ちがこもっています。当初は親の意に背いて独り立ちする息子に対して戒めの意味で送ってくれたものと考えていましたが、いまでは父なりに励ましてくれたのだなとありがたく思っています。


「一念巌も貫く」といいますが、私がこれまでやってこれたのは「何が何でもやりぬく」という意志とともに、父から送られた言葉「初心不忘」が大きなエネルギーを私に与えてくれたからに他ならないと思っています。この言葉は、今でも私の机近くの壁に掲げられ、父の戒めとして私を見守っているのです。


滅入ったときには飲まない。酒で憂さを晴らすのは、生き方の美学に反する。まともに苦しさを受けるんです。誰にもあたれないですから、部屋に閉じこもって、壁に物をぶつけたり、二ヶ月くらい怒り続けている。いま自分の中で整理するより、人としゃべることを通じて、自分の感情を鎮めるパターンが出来ました。


「失速感」「閉塞感」。その言葉が若い経営者の口から出る度に私は怒っていました。それは自分で閉塞感を勝手に感じてるだけのことで、他の人はそんなこと構わず頑張っているぞと。


なるべく大きな空想、夢を描いて、ビジネス構築をするのが大切です。小さな夢で満足しないこと。大風呂敷を広げ、地道に着実に一歩ずつ積み重ねることが大切。


1963年の暮れ、大型商談が舞い込んできた。東京オリンピックの警備である。代々木の選手村を工事や整備の段階から警備してほしい、と言う。宣伝効果も期待できるので、引き受けることにした。ところが正式契約の段階で相手は「公的機関だから前金は払えない」という。こちらもギリギリの譲歩をし、「前金がダメなら、どんな非常事態になっても契約を履行すると一筆入れてほしい」。担当者はそれもできないと言う。そこで私はその場から当社の五輪担当者に電話をかけ、命令した。「おい、皆引き上げろ。前金を取れないから契約は破談だ。やめるぞ」。相手の担当者は狼狽し、すったもんだの末、1ヵ月の前金で契約を交わすことになった。


私は1962年に友人の戸田寿一とセキュリティ・ビジネスを始めたが、日本に先例がないこともあって、独自の事業プランを練り上げた。外国には先例がないわけではなかったがかそういうものを調べると、モノマネに終わってしまうので、一切調べず、自分たちだけで理想のセキュリティ・ビジネスを考えた。


事業の目的は何だと問われるなら、自己表現です。僕には事業をやるしか方法がないのです。


事業は利益のためだけにやるんじゃないですよ。利益は、良くやった通信簿のようなものです。


老いても、いいことは何もない。老いるのは嫌だ嫌だと言いながら、老いていくつもり。妥協はしない。これまで通り、若いつもりでやり続ける。


お客様に少しでも高く買っていただくには、売り手に知恵がなければいけない。安売り競争は知恵など必要ない。下請け苛めをするだけだからです。それで自分たちの商売がうまくいっていると思ったら大間違い。楽な道を進んでいるだけです。


M&Aを成功させるためには買収した企業体を自分のグループの中でどうやって生かしていくのかを考えることが大切です。買収して良くなるのであれば、従業員も良くなるし、顧客にとってもいいことです。それらが展望できない限り、買収はするべきではありません。


人間の社会における本質は情。組織は、この会社にいたい、仲間が好きだという情で結びついています。情で全てが動くのです。得てして理論や理屈で人を動かそうとする人がいますが、人は決してそんなものでは動かないと理解することが大切です。


理念がしっかりしていれば社員が何人いても平気です。会社は何のためにあって、会社の中ではどんな考え方をすべきか、我々はなぜ今の仕事をやっているのかといった理念がしっかりしていることが大切です。


これからの世界で最高の会社を作るには、世界中から人材を集めることが必要です。各国に進出すれば、考え方も文化も性格もものごとを見る角度もビジネスのやり方もそれぞれ違います。それらを有機的に組み合わせることができたら最高です。


規制や規則は大幅に撤廃するのがよい。細かい規制や規則があると、人間は創造的な仕事をのびのびとしなくなる。第一、規制や規則の中に人間が埋もれて活性化できない。遊ぼうとする柔軟さは管理職に求められる資質の一つ。上が仕事一途の堅い人だと下は息が詰まっちゃう(飯田亮、いいだ・まこと、29歳で日本初の警備会社・日本警備保障(現セコム)を創業、日本卓球協会会長、経団連常任理事)


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飯田亮の経歴・略歴

飯田亮、いいだ・まこと。日本の経営者。日本初の警備保障会社セコム創業者。東京出身。学習院大学政経学部経済学科卒業後、家業の酒販売会社「岡永」に入社。29歳で独立し、セコムを創業。警備保障業は日本ではまったくなじみのない新しい事業であったが、同社を大きく成長させ東証一部に上場させた。そのほか日本経済団体連合会常任理事、全国警備業協会顧問、特殊法人等改革推進本部参与会議座長などを務めた。

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