中村天風の名言

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中村天風のプロフィール

中村天風、なかむら・てんぷう。日本初のヨガ行者。東京都出身。旧制中学退学後陸軍の特殊工作員となり満州へ行く。日露戦争前に活躍し「人斬り天風」の異名をとった。その後、アメリカ、イギリスを経てインドに至り、インドヨーガの聖人カリアッパに弟子入りした。2年半の修業後、孫文の第二次辛亥革命を手伝った後、帰国し東京実業貯蔵銀行頭取などを務めた。その後、すべての財産を処分し天風会の前身である統一哲医学会を設立。政財界の実力者に大きな影響を与えた。

新しき計画の成就は、ただ不屈不撓(ふくつふとう)の一心にあり。さらばひたむきに、ただ想え。気高く強く、一筋に。


うちへ帰って鏡を見て笑って見ろ。おかしくも何ともなくてもいいから、誰もいないところで、人がいたら変な人だと思われるから。鏡に映して、へへへへ、ウフフフ、と笑って見ろ。どんなお多福でも、笑い顔は憎いものじゃありません。うちへ帰ってやってごらん。ウフフフ、エヘヘヘと、人知れずやってごらん。何となくおかしくなるから。おかしいな、という気分を出しただけでも、人間、心の中には愉快な爽やかさが出て来る。


ダイヤモンドの原石を見ると、真っ黒けの墨のかたまりみたいだが、磨いてるとあんな光が出てくる。それと同じように、心もやったらどうだい。心はもっと偉大な輝きをもっているんだから。


悲しいことやつらいことがあったら、いつにも増して、笑ってごらん。悲しいこと、つらいことのほうから逃げていくから。


人間の地獄をつくり、極楽をつくるのも心だ。心は、我々に悲劇と喜劇を感じさせる秘密の玉手箱だ。


本人が幸福化している以上は、不幸はありやしない。幸福というものは主観的断定だもの。


やれ運命がつまらないの、人生がつまらないのって人は、その考え方がつまらないんです。


幸福も健康も成功も、ほかにあるんじゃないんです。あなた方自身のなかにあるんです。


あなた方の心のなかの思い方、考え方が、あなた達を現在あるがごときあなた方にしてるんだ。


運が向こうから、皆さんのほうへお客のように来るんじゃないんですよ。すべての幸福や好運は、自分が呼び寄せなければ来やしないんです。


幸福や好運は、積極的な心持ちの人が好きなんです。


チャンスに直面した際、無駄に迷いためらわないこと。即ち颯爽たる決断力をもって、万難を排して、これをキャッチすべしである。


100人のなかで99人が間違っていても、間違いは間違いなんです。100人のなかでたった1人が正当を行っていれば、数が少なくても、正当は正当なんです。


宇宙の真理に背いた、自分本位の欲望でもって、しようとしたことは、そう滅多に成功するものではない。事業に成功するのは、自分が欲望から離れて、何かを考えたときに、また、その考えたことを実行したときに成功するのだ。


昔の歌に「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山」というのがあるね。富士山というのは、天気だろうが、曇って雲がかかろうと、そのもとの姿は変わらない。あの状態、あれがいわゆる絶対積極の気持ちなんです。


どんな頭のいい奴だって、いちどきに2つのことを思いもできなければ、行うこともできない。


「玉磨かざれば光なし」の歌にもあるけど、石も磨けば玉になることがあることを忘れちゃ駄目だ。「私なんか駄目だ」と捨てちゃ駄目だ。百歩譲って、いくら磨いてても玉にならないとしてもだよ、磨かない玉よりはよくなる。ここいらが非常に味のあるところじゃないか。


本当に考えきれないほどの喜びと楽しみに満ち満ちている光明世界である人生を、やれ気が重いの、つまらないの、面白くないの、晴れ晴れしないの、自分で自分の心のなかに風呂敷かぶせて、そして自由にならないって、もがいていることぐらい滑稽なことがありますか。


右見れば繚乱たる花園があり、左見ればゴミや糞がごろごろと転がっている。転がっている方面ばかりが見えるというときに、右見てればいいじゃないか。右見てれば、目にうるわしい花が己をたのしませてくれるのに、左ばかり向いていて、なんてこの世は醜いもんだと考えてる奴があったら、その人間を褒めるかい? 自分が嫌な運命のなかに生きてる場合でも、注意がもっと良い運命の方に振り向けられていれば、たとえどんな運命のなかにいたってそれを気にしなくなる。


病のとき心がもしも病に負ければ、治る病も治りはしません。反対に、医者がさじを投げ、だんぜん治らないと決められたような病でも、心が病に打ち克っているような、積極的精神の状態であると、その病が治らないまでも、医者がびっくりするほど長生きをするというような場合が、実際にしばしばあるものです。


我々は人間としてこの世に生を享けた以上、必ず死ぬものである。そして人生はオンリー・ワン・ページで、2ページ目はない。


一切の人生の果実は、その人の蒔いた種子のとおりに実現してくる。


ジンクスを気にしたり、易に依頼したり、縁起をかついだり、そのほか迷信的な行為をする人というものは、結局、自分に消極的な暗示をかけているんだよ。


もし、知識だけを磨いて人間が幸福になれるなら、学問を一生懸命勉強した人はみんな幸福になれそうなもんじゃないですか。そして、学問を勉強しない人はみんな不幸であるべきはずだが、そうじゃないでしょう。


清濁併せ呑むということのできない人は、広い世界を狭く生き、調和ある人生を、知らず識らず不調和におとしいれる人である。


人類55億の中で、一生に何人の人と出会えるかを考えてみても、他人とともに居ることは、これまた感謝の対象になろう。千年さかのぼってみると、あなたの両親、各々の両親とたどっていくと、5兆人を超えるという。いまここに生きること自体奇跡ではないか。ありがたいことだ。


生きる正しい法を知って生きたら、人生ぐらい愉快な、人生ぐらい恵まれた、人生ぐらいありがたいものはないんです。


船に乗っても、もう波が出やしないか、嵐になりはしないかしら、それともこの船は沈みはしないかしら、と考えていたならば、船旅の良さ、快適さは何もあるまい。人生もまたしかりなり。ああなりはしないか。こうなりはしないか。すべったの、ころんだの、と考えていたら、人間、一分一刻も、安心した刹那はないじゃないか。


貧乏な人は、ここいらで反省しなきゃ駄目だよ。「ああ、そうか、私は貧乏神と縁が切れない人間かと思ったら、そうじゃなかった。自分で招いたことなんだ」。そうですよ。あなた方のほうでもってウインクを与えるから、貧乏神が来るんだ。変なものにウインクを与えなさんなよ。


今日の人々は、いたずらに知識のみに重きを置いて、そして知識を増やすこと、磨くことばっかりを努力していて、「認識力の養成」ということをおろそかにしている。認識力のほうをおいてきぼりにして、知識ばかり説いていると、学べば学ぶほど苦しくなり、極めりや極めるほど迷ってくる。なぜかというと、正しい知識を分別する力がなくなっちゃう。どんなに、学問を勉強して、知識内容量を多くしても、心のもつ認識力というものがすぐれないと、本当の人生、幸福というものを自分のものにすることができない結果がくるんです。


同じ事業家でも、欲の固まりでやる者と、「この仕事で、世の中の人のために、本当に役立つものを提供しよう」という気持ちでやるのとでは、その結果が全然違う。


心のなかに常に正しい向上の希望をもたない人間は、流れない水に等しく、その人生に何の変化もなきゃ、また運命のごときも何のことはない、蓋をした壺のなかに入れておかれるのと同じで、さらに少しの意義も発揮しない。


物質本位の実利主義者は、「時は金なり」というこの言葉に心からの共鳴を惜しまないであろう。しかし、金は失っても取り返すことはあえて不可能ではないが、時はいったん失ったら永久に現在の意識に決して戻って来ない。


積極的精神というのは、決して先天的なものじゃない。言い換えると、後天的に人間の修行や努力では、どんなことをしても完全につくり上げることができないもののように、多くの人が思い込んでいるのは大変な間違いだということを、まず一番にはっきり自覚されたい。


今日以後の人生に対する計画、つまり明日どうしよう、今後どうしようということを考えることは非常に必要ですけれど、もっともっと大切なことがあるんだよ。それは何だというと、たった今を正しく生きるにはどうすりゃいいだろうということ。これをたいていの人が忘れちゃいないか? 明日はどこへ行こう、明後日は何をしようと考えて、現在ただいまを、ちっとも尊く生きていない人がありゃしないか。


人生を日々、極めて有意義に生きようとするのには、常に自分の人生理想を明瞭にその心に描いて、変えないことです。チョコチョコ変えちゃ駄目なんだよ。


理想には信念が必要なんです。信念がつかないと、どんな故障が出ようと、文字どおり万難を突破してもその理想の完成成就へと勇猛邁進しようとする力が、分裂しちまうんだよ。ところが、信念が出ると、理想の完成成就へと勇猛邁進させる力がその心にひとりでにもたらされるというより、ついてくる。


本当の人生の幸福とはどういう幸福だというと、簡単なんですよ。人生に何の悶えもないときが一番幸福なんだ。ああ、あれが欲しい、これがこうなりたいというときは、もう幸福じゃないんだよ。ひとつの要求が出てくると、それが満たされるまでは少しも幸福を感じやしない。


自分の念願や宿願、つまり現在自分がああなりたい、こうなりたいと思っていることが、叶う叶わないということは、それが外にあるのではなくして、みんなあなた達の命のなかに与えられた心の思う力、考える力のなかにあるんだ。


幸福というものは、決して、現在の自分の環境が変わったとか、あるいは富の程度が変わったからということで感じるものではない。なぜかというと、幸福というものは客観断定にあらずして、主観の断定にあるからです。はたからどんなに幸福そうに見えてもそれは幸福とは言えないんですよ。本人がしみじみ、ああ、私は幸せだと思えないかぎりは、本当の幸福を味わうことは出来ない。


人間の気持ちは誠におそろしいものである。たとえ医学上からみれば助からないような病人の枕元に行っても、こちらが元気で積極的態度のときには、その人間の状態がずうっと良くなってしまうものだ。私はそれで、どれほど危篤になっている人間を助けてきたかわからない。「さあ心配するな! 俺が来たからもう大丈夫だから、いいか! 俺が駄目だといったら覚悟しろ。俺が駄目だといわなければ大丈夫だから!」というとずうっと勇気が出てくるものです。だから私はいつもいう。お互い勇気づける言葉、喜びを与える言葉というような積極的な言葉を使う人が多くなれば、この世は期せずして、もっともっと美しい平和な世界になる。


一言一語が自分のみでなく、すべての人々にいい影響を与えるし悪い影響も与える。だから、常に積極的な言葉を使う習慣をつくりなさい。常に善良な言葉、勇気ある言葉、お互いの気持ちを傷つけない言葉、お互いに喜びを多く与える言葉を使おう。


我々の人生の周囲に存在するすべての事柄は、取り入れ方がよけりゃ、我々の心の力を非常にすぐれたものにするけれども、反対に、取り損なうと、抗議の方面へと働きだすんですよ。ただでさえ、現代のマスコミ時代というものは、もう消極的な事柄がとても数たくさん存在してるんだもの。


たとえば、客観的に、どんなに恵まれているように見えている人でも、その人が、その境遇に飽きたらず、満足感を感じていないならばどうであろう? これに引きかえて、仮に客観的に恵まれていない、不幸な人に見える人といえども、一日の仕事を終えて、たとえ乏しい食事でその空腹を満たすときでも、それが自分の尊い労役の花であり、心身を働かした努力の実りであると、無限の感謝で考えたらどうであろう? 金殿玉楼の中にあって暖衣飽食、なおかつ何らの感謝も感激もなく、ただあるものは不平と不満だけという憐れな人生に比較して、本当に、人生のいっさいを感謝に振り替え、感激に置き換えて生きられるならば、はっきりとしてそこにあるものは、高貴な価値の高い尊い人生ではないでしょうか!


特にいけないことは、生活の中の情味ということを、物質方面にのみ求めることである。生活の中の情味を味わうというのは、心の問題なので、物質の問題ではないのである。いかに豊かな収入を持ち、満ち足りた物質を獲ても、心が、その生活の中の情味を味わい得なければ、あるも無きに等しい。世俗にいうところの、金持ち貧乏とか、位倒(くらい だお)れとかいう言葉は、こういう事実の形容詞なのである。これは、深く考えなくとも良識のある人ならすぐ理解できるはずである。


私だって、そりゃあ腹の立つこともあれば、悲しくなることもある。特に怒ることは、私は自分でも恥ずかしいくらい、のべつ怒ってたという人生だったんです。今でもときどき、そういう気持ちが出ますよ。ただ、「あ、今、天風先生、怒ったな、今、天風先生、悲しんだな」と、あなた方に見えないうちに消しちまう。パパッ、パパッと。


何事に対しても、現在感謝。ああ、ありがたい。何に対しても現在感謝。それより事態が悪くなっても、喧嘩にならないじゃないか。病になっても、ああ、ありがとうござんす。病になってもありがたいというのはおかしいじゃないかと思うかもしれない。しかし、死んじまわなかったんだろ。それで済んでいると思ったら、感謝したらいい。そういう気持ちを持っていると、どんなことがあっても、憂いとか辛いとかいうことがなくなるんだ。朝からしょっちゅうニコニコ、何事に対してもニコニコ。


現在持っているものを価値高く感謝して、それを自分のものにしてゆきなさい。こういう心がけで自分の人生に生きていくと、心のなかの煩(わずら)いというものがなくなっちまいます。


消極的なことは、心のなかに入れないことだ。しかし、入れないように頑張ると、心のなかで戦争しなきゃならないから、ふっといなしてしまえばいいんだよ。新幹線の列車に、まともにぶつかれば、粉々になるが、瞬間、ヒョイと、身をかわせば、列車は、すうっと通り過ぎてしまうだけだ。結局は相手にしなければいいんだ。


事の如何を問わず、たとえ、本当に心配することを心配した場合でも、心配しなくてもいいことを心配した場合でも、結果は同じなんです。すなわち、取り越し苦労をすればするほど、その心の消極的反映が即座に運命や健康のうえにまざまざと悪い結果となってあらわれる。ですから、積極的精神を堅持して、自己の生命を本当に理想的に完全に確保していこうと思う者は、取り越し苦労は断然やめなければいけないのです。


悲しいな、と思って泣くでしょう。よけい悲しくなる。腹が立った。こん畜生、と思って、「やい」なんて言うと、よけい腹が立つ。反対に、今度はわずかな喜びを、非常に大げさに喜ぶと、わずかな喜びは、非常な嬉しさになる。


神経が過敏だと、正当な幸福に恵まれても、恵まれたと思いません。月を見ても、花を見ても、人生生活を楽しもうという気持ちが心のなかからでてこない。見るもの聞くもの、みんな癪(しゃく)の種、心配の種になってしまう。ですから、日々が少しも安らかな、いわゆる安心立命の境涯で生きられないことになってしまうんです。


多くの人が「取り越し苦労」を当然と思っている。しかし、取り越し苦労を当然だと思う人は、何のことはない、自分の運命の墓穴を自分で掘っている愚かな人なのであります。


第三者の不健康や不運命に対して同情することは、人間として最も尊いことですから、同情はしなければなりません。けれども、ここに注意すべき大きな問題がひとつあるのは、同情を乗り越えて、相手と同様に悩んだり、あるいは悲しんだりしている人が性々にあることであります。これはとんでもない誤りというよりも、むしろ滑稽ですよ。なぜ滑稽かというと、一人の人間の不健康、不運命で二人の人間あるいは三人の人間が、そこに同じような哀れな状態をつくる結果がくるからであります。そういうときこそ、断然積極的な心持ちで相手の落胆しているのを勇気づけてやったり、失望しているのを鼓舞してやるという気持ちにならなければいけないのです。それが本当の同情という心の態度なんですからね。


現代の人々の多くは、自分じゃ気がつかないが、ほかの人の言葉や行いに、批判することなしに、いきなり自分のほうから結びついていくような状態がままあるんであります。消極的な他人の言葉や行いに、知らず知らずに同化するつもりがなくて同化させられ、いつしか、自分も同じように哀れな、惨めな人間になってしまうのであります。しかも、そうした恐るべき誘惑が悪意でなく行われているんです。


私のところじゃ、何か事が起こるだろ。そうすると、「あ、私が悪かった」とこう言う。誰でもいいから、私が悪かったってことを言って罪を背負ってしまうと、喧嘩にならない。人が一言でも、「あ、私が悪かった、そこにそれを置いたもんだから、壊れたのね」というふうに言っちまうと、これ、喧嘩にならないよ。ところが、あなた方の家庭だと、善人ばかりだからいけねえ。何か事があると、「私はいいんだ、私は何も悪いことはしてないんだ。あの人が悪いんだ」とこうなるから、そりゃ好きに喧嘩をやりだすものね。


たとえ我が身に何事が生じようと、またいかなる事態に会おうとも、完全に生きるための根本基礎となる心の状態を、断然消極的にしてはならない。いつも「清く、尊く、強く、正しく」という積極的態度で終始しなければならない。そうすれば、自分でも不思議なほど、元気というものが湧き出してくる。


運命に虐げられたとき、心がそれに打ち克てば、その人はその運命を乗り越えることができます。心が万が一それに負けてしまえば、その人は哀れ憫然(びんぜん=かわいそうなさま)、再びその運命から立ち上がることができない。


人間には、「つらがったり苦しがったりするほうの自分」と、「喜びと感謝で生きられるほうの自分」とがあります。心の中の、もう一人の自分を探し出して、たったいまから、どんな人生に生きようとも、矢でも鉄砲でも持って来い、俺の心は汚されないぞ。俺の心のなかは、永久に、喜びと感謝でいっぱいなんだ、という気持ちで生きてゆかれれば、その結果、どうなるか。事実がきっと、あなた方に大きな幸福という訪れでもって、お応えすると思います。


口から肉体に入れる食い物は用心していながら、精神に外界の印象を受け入れるときには、この半分も注意しないで受け入れてる人が多かない?


私が教える積極精神というのは、消極というものに相対した積極でなくして、「絶対的な積極」のことなんです。心がその対象なり相手というものに、けっしてとらわれていない状態、これが絶対的な気持ちというんです。何ものにもとらわれていない、心に雑念とか妄念とか、あるいは感情的ないろいろな恐れとか、そういうものが一切ない状態。けっして張り合おうとか、対抗しようとか、打ち負かそうとか、負けまいといったような、そういう気持ちでない、もう一段高いところにある気持ち、境地、これが絶対的な積極なんです。


「人間だから怒るのは当たり前だ」って言う人がいるけれども、どういうわけで人間なら怒るのが当たり前? 正しい真理のうえから厳粛に言えば、「人間とは感情の動物」ではなく、「感情を統御できる生物なり」。これが本当の人間の姿なんであります。しかるに、この本当の人間の姿だという真理のうえから、厳しくあなた方の人生生活を考えてごらんなさい。感情を統御するどころか、しょっちゅう感情に追い回されていやしない?


寝るなら寝なさいよ。寝床に何しに行くんだ。考えに行くんじゃなかろうが。あそこは考えごとは無用のところだ。一日中、昼の間に消耗したところのエネルギーを、一夜の睡眠、夢 豊(ゆた)けく眠ったときに、また蘇る、盛り返る力をうけるところだ。


特に知っておきたいことは、生活の情味というものは、楽しい事柄のなかにのみあるものではない。悲しいことのなかにもある。


感謝と歓喜の感情は、大宇宙に正しい力を呼びかける、最高にして純なる合図ともいえる。否、それは、我々の運命や、健康や、成功などを建設し、または成就してくれる、大宇宙の力の流れを、命の中へ導き入れる「筧(かけい)」のようなものである。だからこそ、何事にも感謝せよ、歓喜せよというのである。


いったん寝床へ入ったら最後、どんなつらいこと、悲しいこと、腹の立つことがあったにせよ、明日の朝、起きてから考えることにするんだ。寝ることと、考えることをいっしょにしたら、寝られなくなっちまうぜ。


笑えば心持ちは、何となくのびのびと朗らかになります。すなわち鬱な気が開けるんです。試しに、おかしくもなんともないときに、「アハハ」って笑ってみてごらん。笑うにつれ腹が立ってくるとか、悲しくなってくるとか、つらくなってくるってことは、絶対にないんです。


自分に対しては、常に厳然としてつつしまねばならぬことは何よりも必要のことであるが、自己以外の人に対しては、あくまで清濁併せ呑むという寛容さを失ってはならない。


たとえば、事業に失敗したとき「俺は運が悪い」と思わないで、「事業をする場合の心構えなり、方法なりに、大きな間違いがあったことを、天が教えてくれているんだなあ」と思いなさい。そして、「どこかに筋道の違っているところがあるんだ。ありがたいことだ。このままつぶれてしまっても仕方がないのに、生かしておいて下されば、盛り返すこともある」と思うこと。


本当に幸福を感じ得る人というのはどんな人か。その心のなかに絶えず高尚な積極的観念が熱烈に燃え上がって生きている人です。


悲しいことやつらいことがあったとき、すぐ悲しんで、つらがってちゃいけないんだよ。そういうことがあったとき、すぐに心に思わしめねばならないことがあるんだ。それは何だというと、すべての消極的な出来事は、我々の心の状態が積極的になると、もう人間に敵対する力がなくなってくるものだということなんだ。だから、どんな場合にも心を明朗に、一切の苦しみをも微笑みに変えていくようにしてごらん。そうすると、悲しいこと、つらいことのほうから逃げていくから。


第一に必要とする事柄は、精神の態度であります。心が積極か、あるいは消極かで、人生に対する考え方がぜんぜん両極端に相違してきてしまう。心が積極的であれば、人生はどんな場合にも、明朗、溌剌颯爽(はつらつさっそう)、勢いの満ちたものになりますけれども、反対に消極的だと、人生のすべてがずっと勢いをなくしてしまいます。人生を考える自分の心が消極的だと、すべてが哀れ惨憺、光のない、惨めなものに終わりやしませんか?


どんな大事に直面しても、どんな危険な場合に直面しても、心がいささかもそれによって慌てたり、あるいは恐れたり、あがったりしない、いわゆる平然自若として、ふだんの気持ちと同じようにこれに対処することができる状態。そういう気持ちになってこそ、はじめて人間として立派な仕事をやりとおせ、自分の人生を立派に生きることができるんです。


第一、いつもニコニコしている人に病弱の人いますか? 笑顔で悲観している人や、その精神を消極的にしている人いますか? ニコニコ笑顔の人のそばにいるのと、難しいしかめっつらしている人のそばにいるのと、あなた方はどちらが気持ちいい? 笑顔の人のそばにいると、何となくチャームされ、多少の悩みや悲しみがあっても忘れてしまうでしょう。笑いは無上の強壮剤であり、また開運剤なんです。


人生という現実の世界に生きる自分を、本当のリアリストとして生かさなければダメです。夢うつつのような、おとぎ話のような、自己欺瞞で人生を過ごしてしまったのでは、二度と繰り返すことのできないこの人生、もったいないです。


生きていることは現実なんだ。どんな人間でも今現在、自分自身で死んでいるとは思いやしないだろ。生きている、息してる、血がかよってる、ものを言ってる、糞しょんべんたれる、恋をする、何じゃかんじゃ、みんな現実なんだ。現実はどこまで行っても、現実の力以外のものでは解決できないんだよ。


多く言うまでもなく、人生はどこまで行っても現実の世界なんだから、これを忘れちゃいけないんだよ。死んでから後が人生じゃないんだから。死んでから後のことまで考えようとするのは宗教なんだ。死んだ後というものは明日以後のことなんだ。現在ただ今生きてるこの人生というものを考えていくということが私の主義であり、主張であるんだから。


「笑い」というものは、その苦しみや悩みに疲れる心や体を、「ほどよくこれをもって調和せよ」ということで、人間にだけ与えられた特別なものに他ならないのです。その証拠には、苦しみや悩みに襲われたようなとき、何かおかしなことがあって思わず笑えば、どれだけその苦しみや悩みが軽くなるかわからないでしょう。


常に、心の中に感謝と歓喜との感情を、もたせるよう心がけること。何でもいいから、感謝と喜びで人生を考えるよう習慣づけよう。


絶対に逃れることのできない天命的なものばかりが人生に襲いかかるんじゃない。多くの人が苦しみ悩む、いわゆる運命は「宿命」なんだ。宿命というのは、人間の力で打ち拓いていくことができるもの、絶対的でない、相対的なものなんだ。


運命には、どうしても逃れられないものと、それから逃れられるものとあるんです。つまり、身をかわしきれないものとかわし得るものとある。かわしきれない運命は「天命」という。絶対的なもので、これは人力ではどうにもしようがないもの。


いくらよい薬を用い、栄養を豊富に摂取し、その他の肉体的の方法を実行しても、心が消極的である限りは、健康ひとつでさえ思うように建設できず、ましてや運命開拓の力などは思いもよらないが、これに反して心がその病に負けず、また運命に脅かされないという積極的態度を堅持できれば、あえて薬やその他の肉体的手段や方法を特に採用しなくても、十分に健康や運命を確保し得ることで明瞭に証明される。


古い諺に、「陽気の発する処(ところ)、金石(きんせき)また透(とお)る」というのがありますね。この言葉こそ人々に、「まずその心を、どんな場合にも消極的にしてはいけない。あくまでも積極いっぺんとうで人生に邁進せよ。そうすれば、そこに成功があり、成就があり、健康があり、長寿があるぞ」と示唆している尊い言葉であります。


医者にかかっても治らない病気は治らない。治らない病は、一生にいっぺんしかない。もしあるなら二度も三度も死ななきゃならない。しかし、それまでは、その度に死にはしないんだから安心しなさい。病になったならば、病をむしろ忘れるくらいな気持ちになりなさい。病は忘れることによって治る。


フランスで風邪をひいたとき、私は医者にかかった。そして、いかにフランスの医者が肉体よりも心を大事にしているかということを知った。熱が高くて苦しんでいると、医者が来て診察した。「それじゃ、また、二、三日たって来るから」「明日もまた来ていただけませんか」と言うと「そんな、風邪ひきくらいに、毎日来る必要はないでしょう」「では、薬は何をのんだらいいでしょう」「薬? こんな病にのむ薬があるかね」と言う。「薬なんかいらない。温かいコーヒーなり紅茶なりを飲んで、寝ていれば心配ない。治るときが来れば治る。それが何よりの養生だ」と言う。たいていの病はまず、心を強く、第一番に病を気にしないようにすることなんだ。


人間が生まれながらに潜在的に持っている力、すなわち、体力、胆力、判断力、断行力、精力、能力という6つの力を100パーセント発揮することによって、運命を切り拓き、病を克服し、完全な人生を築くことができる。多くの人間はこの潜在的な力を発揮する方法を知らないがために、運命に虐げられ、物事がうまくいかず、苦難に陥ったりするのである。


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中村天風の経歴・略歴

中村天風、なかむら・てんぷう。日本初のヨガ行者。東京都出身。旧制中学退学後陸軍の特殊工作員となり満州へ行く。日露戦争前に活躍し「人斬り天風」の異名をとった。その後、アメリカ、イギリスを経てインドに至り、インドヨーガの聖人カリアッパに弟子入りした。2年半の修業後、孫文の第二次辛亥革命を手伝った後、帰国し東京実業貯蔵銀行頭取などを務めた。その後、すべての財産を処分し天風会の前身である統一哲医学会を設立。政財界の実力者に大きな影響を与えた。

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