人生・生き方の名言

このページは「人生・生き方」に関する名言を集めたページです。仕事の能率、人生の質、資産状況を変えるアイデアのヒントが詰まっています。気に入った名言は、SNSにスクラップしたり、手帳などに書き写してみてはいかがでしょうか。

人生・生き方の名言 一覧

何かのために死なない人間は、生きるにふさわしくない。

圧制者の方から自由を自発的に与えられることは決してない。しいたげられている人間の方から要求しなくてはらないのだ。

地獄の一番熱い場所は、重大な倫理上の争いの中にあって中立の立場をとり続ける人間のために用意されている。

どんな経験も次の経験のための準備に他ならない。次の経験がどのようなものか予測できないだけなのだ。

本当の人間の価値は、すべてが上手くいって満足している時ではなく、試練に立ち向かい、困難と戦っているときにわかる。

人間の自己実現には3つの「し」、すなわち「志」「師」「詩」が、人生のライフサイクルに共通してある。

志を失うな。人間、逆境の中でこそ成長する。
【覚書き:松下電器副社長を退任後、有料衛星放送会社WOWOWの経営再建を任されたときの発言】

人生に代行などありはしない。生きるということは、一人のものでしかない。誰も君に代われぬし、君も誰のために代われるものではないのだ。

落伍者とは、戦う心を失った人を言う。生きていること自体、なんらかの意味で戦う場である。

恐れを抱いた心では小さなことしかできないでしょう。

歴史の中に未来の秘密がある。我々は、我々の歴史の中に、我々の未来の秘密が横たわっているということを本能的に知る。変化こそ唯一の永遠である。

巡り合わせを自分の人生にとってプラスになるように考えられるようになることができるか、できないかというのが、生きていく上での勝負になるのです。

自己嫌悪がないということは、その人が自己を熱愛することのない証拠である。自己に冷淡であるからだ。

人生の戦いにおいて、相手に負けるよりは、自らに負ける場合が多い。

意味のある日、無駄な日があるのではない。この一日、またこの一日、毎日毎日が高価なのである。

誰しも一度は死ぬ。一度死んだら二度死ぬことはない。それだったら、今のうちに死んでおこう。そうすれば、あとは気楽だ。死んでいる者に生死はない。こういうことは、一通り修業をした者なら、誰も体得することであるから不思議なものだ。

人生は一冊の本に似ている。馬鹿者たちはそれをペラペラとめくっていくが、賢い人間は念入りにそれを読む。なぜなら、彼はただ一度しかその本を読めないことを知っているからだ。

「あっちの水は甘いぞ、こっちの水は辛いぞ」なんて、お互いにその水につかってみない限り、わからないものなんですよ、人生というものは。

いいかい、人生というのは矛盾から成り立っているものなんだ。もし、矛盾の中心にちゃんととどまるものなら、人生の意味がわかるはずだ。

人生にはどうしても必要なことが3つある。それは夢と、ロマンと、反省だ。人間はこの3つを持っていないと上手くいかない。

人生の事というものは、座敷で道中双六をして、花の都に到達するごときものではない。

我々は、他人に幸福を分け与えることにより、それと正比例して、自分の幸福を増加させるのだ。

幸福を得る唯一の方法は、幸福を人生の目的とせず、幸福以外の何か目的物を人生の目的とすることである。

幸福は分かち合うようにつくられている。

チャンスは貯金できない。

あらゆる事象は心の反映である。したがって純粋な心でひたすら念じ続ければ、たいがいのことは成就する。

あなたの時間は限られている。だから他人の人生を生きたりして無駄に過ごしてはいけない。ドグマ(教義、常識、既存の理論)にとらわれるな。それは他人の考えた結果で生きていることなのだから。他人の意見が雑音のようにあなたの内面の声をかき消したりすることのないようにしなさい。そして最も重要なのは、自分の心と直感を信じる勇気を持ちなさい。それはどういうわけかあなたが本当になりたいものをすでによく知っているのだから。それ以外のことは、全部二の次の意味しかない。

ともすると人間は評価が高まれば、驕りやすくなるものです。驕りを持って尊大になれば、どんな能力と実績があっても決して尊敬されることはありません。自信と誇りは持ち続けるべきですが、相手を尊敬する謙虚さを忘れないことが大切です。そしてそれが本当に高い評価と信頼を得ることにつながります。

人間にとって真の最大の敵は、自分の胸の中に居る。

多くの人が自分より先行しているのを見たなら、多くの人が自分より遅れているかを考えなさい。

私たちは自分のものを他と比べることなく楽しみたい。他人がより幸福であるということに苦しめられるならば、人は決して幸福ではありえない。

我々が第一に戦わねばならぬ厄介な敵は、我々の内部にある。流れに逆らおうとしたところで無駄なことだ。流れのままになっておれば、どんな弱い人でも港に流れ着くものだ。

自由のためなら、名誉のためと同じように、生命を賭けることもできるし、また賭けねばならない。

幸運はそれが失われるまで気付かれることはない。

人間は、ときに間違いを犯しながらも、足をのばし、つまずきながらも前進する。

喜びのない人生は、油のないランプである。

一滴の油、これを広き池水のうちに点ずれば、散じて満池に及ぶとや。

最も賢明なことは、自分を自分自身の打ち明け相手にすることだ。

感情のままに左右される人間は、自分自身の主人ではなく、偶然の力に支配される。

自分を卑下することは、自分を他人より劣ると信じる間違った考えから生まれる悲しみである。

最も尊重しなければいけないことは、生きることではない。善く生きることだ。

私は豚となって楽しむより、人となって悲しみたい。

安全とは思いこみにすぎない場合が多いのです。現実には安全というものは存在せず、子供たちも、誰一人として安全とは言えません。危険を避けるのも、危険に身をさらすのと同じくらい危険なのです。人生は危険に満ちた冒険か、もしくは無か、そのどちらかを選ぶ以外にはありません。

残念ながら人は誰も、生まれてくる時代と場所を選べない。僕らはどんなに苦しくても、この時代を生きていかなければならない。

現実を見据え、極端に走ることなく、中庸を進むことが人間社会を生きる知恵だと僕は思う。理想主義に陥ると大変に危険だ。民主主義でさえ現実と切り離された理念で突き詰めていくと危険であるのと同じだ。

同じ教育を施しても、伸びるやつとそうでないやつがいるように、本来、人間は個体による能力差が大きい動物だ。だから、あまりに人間の平等性を確保しようとすると、結局は人間の能力差やいい加減な部分まで否定せざるを得なくなる。人間社会を住みにくいものに変質させてしまう可能性がある。そういうところに、人間の怖さが隠れているように思う。煉獄への道は善意で舗装されているというが、まさにその通りだ。

世間をなめてかかってはいけない。僕は世の中を甘く見ていた。世間というものは怖いもので、なめてかかると必ず痛い目に遭う。当時の僕が、まさにそれだった。
【覚書き:自分が作りたいようように作った作品がヒットし、他人に評価されなくても自分の好き勝手に映画を作ればいいんだと錯覚し、その次の作品で大失敗した時のことを振り返っての発言】

人生とは常に何かを選択し続けることであり、そうすることで初めて豊かさを増していくものであって、選択から逃げているうちは、何も始まらないのだ。選択する、つまり外部のモノを自分の内部に取り込むことを拒絶しては駄目だということだ。自分の殻の中だけに閉じこもっていては、本当の自由を得られない。

僕が若者に言えるのは「いまの自分は何者でもないし、平凡な人間なのだ」とまずは気がつくことが重要だということだ。本来の意味での可能性はむしろ、そう気づいたところからはじまる。漠然とした幻想ではなく、本当に自分がやりたいことを見据え、そのためにいま自分がやるべきことは何かを見定めることから、やり直すべきだ。

才能という言葉を人はよく口にする。才能だけでやっていける天才という人も、何億人かにひとりくらいはいるかもしれない。レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロはそうだったのだろう。しかし、やはりそれは極めて稀にしか現れない特異な現象であって、僕もあなたも、少なくともそんな天才ではなさそうだ。

自由とは「生き方の幅」と、とらえ直してもいいかもしれない。人間、幅がある方が自由に決まっている。本質的な意味での自由とは、自由に見える状態のことではなく、自由に何ができるか、という行為のことをさすのだ。ある人間が何かをしたいと望む、それがどのくらい自在にできるかどうかが、自由と不自由の分かれ目なのである。

この世界には、いつの間にか僕らがすっかり信じ込まされたデマゴギー(デマ。意図的に流される虚偽情報)が飛び交っている。たとえば「若さにはかけがえのない価値がある」という言説だ。だが、若さに価値があるなどという言説は、実は巧妙に作られたウソである。もしも本当に若さそのものに価値を見出している者がいるとしたら、それは戦争を遂行中の国家ぐらいのものだろう。若さに値打ちなどないからこそ、人生は生きるに値するものなのだ。

不平は天から授けられた最大の贈り物である。

賢者は内面は賢いが、外見は愚かに見える。愚者は内面は愚かだが、外見は賢く見える。

最良の処世術は、自分に妥協することなく、他人に適応することだ。

自分は幸福だと考えない人間は、幸福ではない。

苦労を忘れ去ることが、苦労をなくす方法である。

他人の境遇は良いもののように見える。一方、我々の境遇は、他人から良いもののように思われている。

勇敢なる男は、自分自身のことは最後に考えるものである。

どんなふうに死ぬかではなく、どんなふうに生きるかが問題なのだ。

人々を奴隷化するものは王侯貴族ではなく、地主や資本家でもない。人々を奴隷化するものは、人々自身の無知である。

我々の視野、活動範囲、交際範囲が狭いほど、我々の幸福は大きくなる。それらが広いほど、我々は煩わしく、また不安に感じる度合いが大きくなる。なぜなら、それらは心配、願望、恐怖が増大し広がるからである。

多く笑う者は、幸福である。多く泣く者は、不幸である。

我々の人類に対する最大の罪は、彼らを憎むことではなく、無関心であることだ。それは非人間性の真髄だ。

真の余暇とは、我々の好きなことをする自由であって、何もしないことではない。

うそつきの受ける罰は、人が信じてくれないというだけのことではなく、他の誰も信じられなくなるということにある。

自分と同年齢の人に一番言いたいんです。僕と同年齢の人たちに、気持ちいいよという経験をたくさん持つ人がいっぱい出てきてくれれば、若い人たちもそういう年寄りの人を見て、あ、そうか、と思ってくれるかもしれないから。いま、若い人がどうのこうのって言われている意見で一番危険なのは、それを言っているお前が大人としてちゃんとやっているのか、ってことなんです。そこがすごく気になる。

僕だってフリーランスの身ですから、いまの仕事がなくなったときには、たとえば明日からでもアニメとは関係のない他の仕事ができるように心しています。常に職業には貴賤がないということを理解している自分でありたいと思っているのです。

すべての庭師は美しい場所に生きている。なぜなら、彼らは庭をそのような美しい場所にするために活動しているのだから。

肉体は、我々の存在が野営している仮の小屋である。できればにこにこ笑いながら死ななければならない。

才能ある者は、称賛の声のある方へと赴く。称賛の声は才能ある者を惑わす人魚である。

人の不幸の大半は、過去を顧みることで発生する。

快楽は、肉体のある一点の幸福にすぎない。真の幸福、唯一の幸福、完全な幸福は、魂全体の平穏な状態に存在する。

もし自分が一日でも妥協していいと思ってしまったら、それは自分を見に来ている人に対して失礼だし、そういう姿を見せることで、自分を否定することになってしまう。僕は変なところに美学を持って生きてるから、そういう部分で妥協はできない。僕のこのスタイルは決して楽しくはないかもしれない。でも僕は、誰よりも自分がそれが面白いと思って生きているし、それを自分できっちり感じられることが、僕にとってはすごく大切なことだと思ってる。

親族であっても正直でなく潔白でない人とは、愛するよりも絆を断つべきだ。

本気で自分の人生を走れば、きっと何か見えるよ。みんな全然動きが取れないまま、いろんなこと言ってるんだけど、なんというか……言葉が痛くないんだよね。そんなことより、動けよ!

自分は誰のために生きるの?逆に聞きたいよね。まず自分でしょ?自分のためでしょ?自分が幸せになれないのに他人を幸せにするのは無理だよ。自分が笑えないのに、他人は笑わせられない。自分が幸せになりたいのなら、幸せになることをしようよ。楽しくなることを本気でやろうよ。

才能とは、自分自身を、自分の力を信じることだ。天才というのは自分を信じることだ。

他人をあてにしてはならない。我々はみんな取るために生きているので、与えるために生きているのではない。

勇気を失わず勇敢な人間であれ、慰めは適切なときに汝を訪れるであろう。

毎年一つの悪習慣を直したら、我々はやがて完全な人間になることができるだろう。

休息と幸福は、誰しも渇望するものであるが、これらは勤勉によってのみ得られる。

自己の望みを人間や物に置くのは愚かなことである。より多く持つことより、より少なく望むことを常に選べ。

世界のあらゆることを信頼しないならば、人は決して欺かれることはない。

私にとって年齢は関係ありません。それが16歳であろうと、460歳であろうと関係ないことなのです。
【覚書き|齢をとっても小さな航空会社経営者として、飛行機乗りとして各地で活発に活動しているリチャード・バックに、ある人が「いつまでもお若いですね」と言った時の返答】

ホームとは、人間にとって一番心の束縛を感じないですむ場所をいいます。だから、私にとってホームとは、雲の上です。
【覚書き:活動的でいつも様々なところを飛び回っているリチャード・バックに日本人作家、城山三郎が「あなたのホームはどこですか?」と尋ねた時の返答】

愛すべき尊敬する人を見つけて、その人のために自分の人生を送ったら、僕たちは最も暖かいベッドを手に入れられるのです。

自らを向上しようと試みることが必要なのです。この意識は生きている限り持続すべきです。

死そのものよりも、死についての想像の方が、遥かに我々を恐怖させる。

学者ぶった先生は、ヘリクツ屋の有力な仲間に分類したい。ヘリクツ屋の狩りは概念を追いかけまわすことである。

人は過去の中に現在を眺める。私の現在が変わるとき、私の過去がまた変わらないとは、誰が保証し得るだろうか。

サラリーマンには移動や転勤がつきものだ。働きなれた職場を変わることに、心理的抵抗は必ずあるだろう。しかし、そこに好奇心があれば、進んで新しい環境で挑戦してゆくことができる。なんでも楽しんでチャレンジする。それは人間の幅を広げてくれる。

我はローマ人の間にて第二位になるより、ここの人々の間にて第一位になることを欲する。
【覚書き|法務官時代、ヒスパニア・ウルステリオル属州に総督としてローマから赴任した際の言葉。この赴任がカエサルの人生を変え、のちにローマのトップになる礎となった】

高慢は、衣食住に必要なものよりもずっと高くつく。

遊びというものの味が真正にわかったなら、遊びは面白いことではなくて怖いことである。怖いことを知って遊ぶ者に過ちはないけれども、それまでに一度面白いことを経ねばならぬので、過ちはそのときにおいて多く発生する。

とにかく勝つ人は強い人である、多く勝つ人は結局上手な人、強い人といわなければならないだろう。しかし、一局一局の勝負となると、強い人必ず勝つとはいえない。定牌を覚えたばかりの素人に負けるかも知れない。
【覚書き|趣味の麻雀について語った言葉】

最善の技術には、努力次第で誰でも達し得る。それ以上の勝敗は、その人の性格、心術、覚悟、度胸に依ることが多いだろう。

その人に備わった本当に偉大な才能も、実際に使われなければ持っていないことと同じです。

危機はピンチであると同時に、飛躍へのチャンスでもあるのだと思います。

いまの時代は親会社が偉くて、子会社がダメなどという時代ではないですよ。機能が違うだけで、むしろマーケットに近い方がますます重要になっているのではないでしょうか。その意味で私にとって子会社への移籍は本当にやりがいのある黄金の階段でした。独自の商品を作り、マーケティングをして自分自身の販路を築くことが大事だと思っていましたから。
【覚書き:富士フィルムで当時、出世の糸口が切れる片道切符と揶揄されていた子会社出向を言い渡されたときを振り返っての発言】

試練というのは、問題解決の鍵をいつも提示していると思います。逃げ回っていては絶対に解決しないと思うんです。

人を相手とせず天を相手とせよ。天を相手として己を尽くし、人をとがめず、我が誠の足らざることを尋ぬべし。

人間の魂は、つねに耕される田畑のようなものである。よその国から種を取り寄せ、それを選抜し、蒔くのに時をかける注意深い園芸家であるのは屈辱的なことであろうか。種子を手に入れ、選抜することが、そんなに早くできるものであろうか。

人間の最大の価値は、人間が外界の事情にできるだけ左右されず、外界をできるだけ左右するところにある。あらゆる階級を通じて、目立って気高い人は誰か。どんな長所を持っていても、常に心の平衡を失わない人だ。

我々の持っている天性で、徳となり得ない欠点はなく、欠点となり得ない徳もない。

人生は、愚者には困難に見えるとき賢者には容易に見え、愚者に容易に見えるとき賢者には困難に見える。

情熱は欠陥であるか美徳であるか、そのいずれかだ。ただどちらにしても度を越しているだけだ。大きな情熱は望みのない病気だ。それを癒しうるはずのものが、かえってそれをすこぶる危険にする。

身分不相応の生活をする者は、ぼろが出る。

天才も不滅ではないということほど、凡人にとって慰めになることはない。

才能は静けさの中でつくられ、性格は世の荒波の中でつくられる。

苦しみが残していったものを味わえ!苦難も過ぎてしまえば甘美だ。

王様であろうと、農民であろうと、自分の家庭で平和を見出す者が、いちばん幸福な人間である。

決して人に欺かれるのではない。自分で己を欺くのである。

真心は人の道の根本である。何事にも真心がなければいけない。物事の善し悪しや成否は、すべて真心のあるなしにかかっている。真心があるならば、何事も達成できるだろう。群臣に真心がないなら、どんなこともみな失敗するだろう。

経営者には、会社のあらゆる活動を動かす長期戦略がなくてはならない。見込み客の動向をつかみ、購入を決断させ、顧客にとって価値ある者を繰り返し買わせるまでの一連の戦略。そして、会社の全活動がその戦略を採用し、維持し、進めるものになっていなければならない。成功は、長期の戦略を持ち、知り、それに従うことで初めてやってくる。

中傷はうるさい蜂のようなものである。これを確実に殺すことができるという確信がないならば、手を出してはいけない。さもないと、前よりもいっそう激しく突進を繰り返してくるだろう。

真の幸福は目に映らない。真の幸福は目に見えないもの。

自惚れは苦しみの源泉である。自惚れが消えたときから、人生の幸福な時期がはじまる。美しさが衰えかけたとはいえ、まだ相当綺麗な婦人でも、己の自惚れによって不幸にもなるし、滑稽にもなる。

快楽から悲しみと恐れが生まれる。快楽より解脱した人間にとって、もはや悲しみも恐れもない。

あなたの瞳を欺瞞の世界よりそらしなさい。自分の感情を信頼するのをやめなさい。感情はうそつきです。あなた自身の中に、個を排したあなた自身の内側に、永遠の人を探し求めなさい。

人間が他の動物よりも上に立つ理由は、我々が冷酷に他の動物を苦しめることができるからではなく、彼らを憐れむことができるからです。

自惚れは、人間が着用しうる最高の装甲である。

あなたがうそつきの達人でないならば、常に真実を語るというのが最良の策だ。

愚かな知恵者になるよりも、利口な馬鹿になりなさい。

過去と未来は最高のものに見える。現在の事柄は最高に悪く見える。

逆境が人に与えるものこそ美しいではないか。それはガマガエルに似て醜く、毒を含んでいるが、その頭の中には宝石をはらんでいる。

いちばん賤しい者となり、いちばんひどい逆境に沈んでいる者は、常に望みを持ちなさい。怯えることはない。最上の幸福から零落することは悲しむべきだが、不運のどん底に沈むと、また浮かび上がって笑うことにもなる。

外観というものは、一番ひどい偽りであるかもしれない。世間というものはいつも虚飾にあざむかれる。

人を邪な道に引き込むため、悪魔が真実を言うことがある。わずかな真実で引き込んでおいて、深刻な結果で裏切るために。

悪事によって得たものは、悪事の報復を受ける。

過去の弁解をすると、その過失を目立たせる。

あらゆる美徳は、自分を捨てることによって完成される。

若い時代にあまり放縦だと、心のうるおいがなくなる。若い時代にあまりに節制すると、頭の融通が利かなくなる。

ものごとを判断するときには皮肉を避けねばならない。精神のあらゆる性質のうちで、皮肉が最も聡明から遠いものである。

人の天性は、良草を生ずるか雑草を生ずるかいずれかである。したがって、折を見て良草に水をやり、雑草を除かなければならない。

変化は苦痛を伴う。しかしそれは常に必要なものだ。

理想は我々自身の中にある。同時にまた、理想の達成を阻む様々な障害も、我々自身の中にある。

名声は人間の偶発的な出来事であって、財産ではない。

現在というものは、過去のすべての生きた集大成である。

あなたはあなた自身を称賛せず、非難もしてもいけない。

あなたを心によって治めることができれば、あなたは王である。
あなたが肉体によって支配されれば、あなたは奴隷である。

弟のマイケルが言うように、私が幸運だったことは間違いない。しかし、私の成功は能力と幸運のたまものであると同時に、忍耐と努力の結果でもあるのだ。どんなことにも意欲的に取り組んだ。自分に責任を持ち、どんな人からも学ぼうとした。チャンスは絶対に逃さず、一歩一歩着実に成功への道を切り開いてきたのだ。

国営の低所得者共同住宅で暮らす子供たちは、自然にバランス感覚が身につく。いろいろな人たちと付き合わなければならないからだ。私は近所のユダヤ人やイタリア人、黒人の子供たちを呼び集めて、野球やバスケットボールのチームも編成し、プレーを楽しんでいた。人種の多様性について、誰からも教えてもらう必要はなかった。それが当たり前の生活だったのだ。

疑いを人に問うは知を求むる道なり。自ら心に道理を思うは知を開くもとなり。

知って行わざるは、知らざるに同じ。

苦悩は活動への拍車である。そして活動の中にのみ我々は我々の生命を感ずる。

人間は安楽に満足して生きたいと思うが、自然は人間が安楽と無為の満足に甘んじさせずに、苦労や労働に打ち勝つ手段に知恵をしぼらせようとして、苦労や労働の中に人間を放り込む。

自分自身を支配できない人間は自由ではない。

知っていると思い込んでいる人が利口なのではなく、自分の知らないことを自覚した人が賢いのである。

風波はつねに優秀な航海者に味方する。

習慣は第二の天性である。

平和は静かな自由であるが、隷属はいっさいの悪のうちで最悪であり、戦いによってだけでなく、死をもって排除しなければならないものだ。奴隷制度は人間の権利の否定であり、人間価値の否定である。

金銭に対する欲は避けるべきだ。富を愛するほどに狭量かつ卑しき精神はない。自己の所有しているもの以上に望まぬ者は富者である。借金は底なしの海である。

神によって与えられた人生は短いものだが、楽しく過ごした人生の記憶は永遠である。

あらゆる物事の初めは、小さなことからはじまる。

自分自身に全面的に頼り、自分自身のうちにすべてを所有する者が幸福でないということは有りえない。幸福なる生活は、心の平和があってこそ成り立つ。

私にとって真の道理のほうが、民衆の意見より価値があるものだ。

感謝の心は最大の美徳であるということだけでなく、あらゆる美徳の生みの親である。

新たな発見をする民族のみが、文化の未来を有する。

心の狭さは逆境に手なずけられるが、心の広さはそれに打ち勝つ。

最も安全な船とは、陸に上がった船だ。
【覚書き|君子は危うきに近寄らずと同じ意味の言葉】

口に才ある者は、多くのことに拙なり。

世界が与えるあらゆる専制のうち、我々自身の愛情が最も激しい支配者だ。

絶望と確信は、ともに恐怖を追い払う。

死のうとするよりも、生きようとすることの方が、ずっと勇気を必要とする試みだ。勇気の試練は死ぬことではなく、生きることだ。

人間誰しも過ちを犯すものだが、犯罪に対して感じられる悔恨は、悪人と有徳者を区別する。

人間の生活に目的はない。生きていること。それがすなわち目的である。

お前の一番ひどい不幸とは、それ自身が不幸だからではない。お前が自分と自分の生涯に、そのような不幸があると思っているからだ。

まわりにいる、ついている人間をよく見てみな。何か見えてこないかい?律義さ、熱っぽさ、粘り強さ、なんだっていいんだよ。いいなと感じたところは、その人が持っている世渡り力だ。ありがたく勉強させていただいちゃえばいい。まんま真似したっていいんだ。

自分の仕事は一生懸命やっていますって言う人がいる。だからどうなの?俺はそう言いたい。本業をきちんとやるのは当たり前だし、本業なんてのは、習えば誰だってそこそこはできるようになるんだ。それだけじゃ世渡りは難しい。本業以外のプラスアルファを持つことが大事なんだ。要はあいつが来ると面白いよ。何かやってくれるよってってもんを身につけることだ。

裏切られるってことは、自分を鍛える経験でもあるんだよ。人間色々、仕事も色々だってことを身に染みて知ることになるし、自分がしちゃいけないことを教えてもくれる。実体験は重みが違う。必ず自分の血にもなり、肉にもなるんだ。だから、裏切られたからってへこむことなんかない。世渡りを学ぶのにいい機会だって言うくらいに考えてりゃいいんだ。

義理を欠いたツケは必ず戻ってくる。自分じゃうまく立ち回ったつもりで、してやったりなんて思ってても、お天道様はお見通し、頭隠して尻隠さずっていう無様なことになっちまうんだ。義理人情を忘れた世渡りをしちゃいけないよ。

どんな業界でも古くからのしきたりが幅を利かせている。異業種からの参入が難しいのも「俺たちは昔からこうやってきたんだ」っていうしきたりに阻まれるからなんだ。技術があっても、異業種に参入するには大きな壁があるんだよ。そのしきたりってやつが障害になることもあるけど、知恵があれば乗り切れるんだ。

大法螺は相手に渡した約束手形みたいなもんなんだ。振り出しちまった手形を不渡りにするわけにゃいかない。ちゃんと決着をつけるまでは、何が何でも頑張るしかないし、頑張れるんだよ。石橋を叩いて渡るようにコツコツ生きたい奴はそうすりゃいい。だけど、自分の可能性を広げたい奴は、時に大法螺を吹いて、自分を追い込んでみるのもいいんじゃないか。

遊びは若いうちからやんないと、とんでもないことになるんだよ。いい歳になってから、酒だ博打だ色の道だなんてはじめると、免疫がないから匙加減、切り上げどころってものがわからない。のめり込むだけのめり込んで、気が付きゃ家族崩壊、将来も棒に振るなんて取り返しのつかない事態になっちまうんだ。

不思議なことにツキっていうのは周囲の人にも波及するんだよ。俺自身の経験から言うんだけど、絶対、ついている人間と付き合わなきゃ駄目だ。ツキっていうのは、サイコロの目みたいに偶然に回ってくるもんじゃないんだよ。ついている人間は、ツキを引き寄せるだけのことをしてるってことだ。ついている人間と付き合うってことは、その人の生きざまを見ることだし、そこから何かを学ぶってことなんだ。

頭がいいのと利口ってのは違うんだ。勉強ばっかりしていれば頭はよくなるかもしれないけど、利口にはなれない。利口を教えてくれるのは世間だよ。人の中でもまれて、遊んで、いろんな経験をしなきゃ利口の単位はもらえない。命がけで人と付き合って、遊んで、利口になっていくんだよ。利口な奴は仕事で行き詰ってもふっと発想が違う方向に向かう。頭がいいだけじゃこれができない。

中途半端に面白いとか、真面目だとかってのが一番いけない。中途半端を突き抜けるには演出だ。これは間違いない。「岡野さん?根っからの職人気質っていうか、とびきりの偏屈だね。でも、仕事はきっちりする。腕のほうもとびきりだよ。それは俺が保証する」担当者の説明がうちの宣伝になってるんだ。変わり者って言われるような人間じゃなきゃ駄目なんだ。変わってるから、人と違う発想ができるんだし、人と違うものが作れるんだ。

人生の持ち時間に大差はない。問題はいかにして深く生きるか、である。深く生きた記憶をどれほど持ったかで、その人の人生は豊かなものにも、貧しいものにもなるし、深く生きるためには、ただ受身なだけではなく、あえて挑むとか、打って出ることも肝要となろう。

一日に一つでも、爽快だ、愉快だと思えることがあれば、自ら慰めることができるのではないか。これは私の造語なのだが、「一日一快」でよし、としなければ。

若い医師から癌と宣告された。幸い一週間にわたる検診の最終結果は、若い医師の宣告とちがったものになり、私は命拾いした。それ以降、何でもない一日もまた、というより、その一日こそかけがえのない人生の一日であり、その一日以外に人生はないと、強く思うようになった。明日のことは考えず、今日一日生きている私を大切にしようと。

私の第一言語は何度も変わりました。幼少のころはポルトガル語、レバノンではアラビア語とフランス語、フランスではもちろんフランス語でした。それがブラジルに戻って、またポルトガル語となり、米国では英語になりました。このうち、一番親しみのある言語はフランス語ですが、コミュニケーションの道具として仕事で使うのであれば、やはり英語が一番だと思います。

家族のいるところ、それが「ホーム」、つまり故郷です。波乱に満ちた道をたどった末に、私の家族はブラジルに落ち着いていました。そして、いまも。ですから、私にとってリオは世界で一番くつろげる街です。ブラジルは美しく魅力的な国です。広く豊かな自然、そして、あらゆる人種が共存しています。自分が自分でいることができるという感じがします。

自心すなわち仏たることを悟れば、阿弥陀願うに及ばず。自心の外に浄土なし。

困難な状況に陥ったとき、決して人の忠告を信じるな。

自惚れは自滅を招く。

なんらかの善を心の内に持たない悪人はなく、なんらかの悪を心の内に持たない善人もいない。

正義ほど偉大にして神聖な美徳はない。

すべての人間の一生は、神の手で描かれたおとぎ話である。

妬み深き人は、錆びによって鉄が蝕まれるごとく、おのれ自身の気質によって蝕まれる。

思考はなににまして堅固なる城壁なり。なぜならば、それはけっして倒壊することも、敵の手に渡されることもないゆえに。

良心と名声はふたつの別の事柄です。良心はあなた自身に属するもので、名声はあなたの隣人に属するものなのだから。

私たちが当然なすべきことをなすは称賛に値しない。なぜならば、それを行うことは私たちの義務だから。

あなた自身に立ち返れ、内なる人にこそ真理は宿る。

幸福は唯一の善であり、理性は唯一の案内灯であり、正義は唯一の崇拝物であり、人道は唯一の宗教であり、愛は唯一の僧侶である。

賢者は、すべての法が破棄されようとも、破棄される前と同じ生き方をする。

我々の真の国籍は、人類である。

人間の性格は、固くもなければ不変でもなく、活動しており、変化していて、我々の肉体と同じように病気になることもある。

自由は外的な事実の中にあるものではない。それは人間の中にあるのであって、自由であろうと欲する者が自由なのだ。

権力、その他なんであろうとも、それらに対する欲望を満たすがよい。欲望を満たしてしまうと、それがみんなくだらないものであることがわかろう。

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