人生・生き方の名言

このページは「人生・生き方」に関する名言を集めたページです。仕事の能率、人生の質、資産状況を変えるアイデアのヒントが詰まっています。気に入った名言は、SNSにスクラップしたり、手帳などに書き写してみてはいかがでしょうか。

人生・生き方の名言 一覧

自分の運命は自分でコントロールすべきだ。さもないと、誰かにコントロールされてしまう。何もしなければ、いずれ誰か他人にビジネスのやり方を変えられてしまう。ならば、自分達で変えてしまった方が良いに決まっている。

あなたの時間は限られている。だから他人の人生を生きたりして無駄に過ごしてはいけない。ドグマ(教義、常識、既存の理論)にとらわれるな。それは他人の考えた結果で生きていることなのだから。他人の意見が雑音のようにあなたの内面の声をかき消したりすることのないようにしなさい。そして最も重要なのは、自分の心と直感を信じる勇気を持ちなさい。それはどういうわけかあなたが本当になりたいものをすでによく知っているのだから。それ以外のことは、全部二の次の意味しかない。

我々の人類に対する最大の罪は、彼らを憎むことではなく、無関心であることだ。それは非人間性の真髄だ。

何かのために死なない人間は、生きるにふさわしくない。

圧制者の方から自由を自発的に与えられることは決してない。しいたげられている人間の方から要求しなくてはらないのだ。

地獄の一番熱い場所は、重大な倫理上の争いの中にあって中立の立場をとり続ける人間のために用意されている。

どんな経験も次の経験のための準備に他ならない。次の経験がどのようなものか予測できないだけなのだ。

本当の人間の価値は、すべてが上手くいって満足している時ではなく、試練に立ち向かい、困難と戦っているときにわかる。

人間の自己実現には3つの「し」、すなわち「志」「師」「詩」が、人生のライフサイクルに共通してある。

志を失うな。人間、逆境の中でこそ成長する。
【覚書き:松下電器副社長を退任後、有料衛星放送会社WOWOWの経営再建を任されたときの発言】

人生に代行などありはしない。生きるということは、一人のものでしかない。誰も君に代われぬし、君も誰のために代われるものではないのだ。

落伍者とは、戦う心を失った人を言う。生きていること自体、なんらかの意味で戦う場である。

恐れを抱いた心では小さなことしかできないでしょう。

歴史の中に未来の秘密がある。我々は、我々の歴史の中に、我々の未来の秘密が横たわっているということを本能的に知る。変化こそ唯一の永遠である。

巡り合わせを自分の人生にとってプラスになるように考えられるようになることができるか、できないかというのが、生きていく上での勝負になるのです。

自己嫌悪がないということは、その人が自己を熱愛することのない証拠である。自己に冷淡であるからだ。

人生の戦いにおいて、相手に負けるよりは、自らに負ける場合が多い。

意味のある日、無駄な日があるのではない。この一日、またこの一日、毎日毎日が高価なのである。

誰しも一度は死ぬ。一度死んだら二度死ぬことはない。それだったら、今のうちに死んでおこう。そうすれば、あとは気楽だ。死んでいる者に生死はない。こういうことは、一通り修業をした者なら、誰も体得することであるから不思議なものだ。

人生は一冊の本に似ている。馬鹿者たちはそれをペラペラとめくっていくが、賢い人間は念入りにそれを読む。なぜなら、彼はただ一度しかその本を読めないことを知っているからだ。

「あっちの水は甘いぞ、こっちの水は辛いぞ」なんて、お互いにその水につかってみない限り、わからないものなんですよ、人生というものは。

いいかい、人生というのは矛盾から成り立っているものなんだ。もし、矛盾の中心にちゃんととどまるものなら、人生の意味がわかるはずだ。

人生にはどうしても必要なことが3つある。それは夢と、ロマンと、反省だ。人間はこの3つを持っていないと上手くいかない。

人生の事というものは、座敷で道中双六をして、花の都に到達するごときものではない。

我々は、他人に幸福を分け与えることにより、それと正比例して、自分の幸福を増加させるのだ。

幸福を得る唯一の方法は、幸福を人生の目的とせず、幸福以外の何か目的物を人生の目的とすることである。

幸福は分かち合うようにつくられている。

チャンスは貯金できない。

あらゆる事象は心の反映である。したがって純粋な心でひたすら念じ続ければ、たいがいのことは成就する。

ともすると人間は評価が高まれば、驕りやすくなるものです。驕りを持って尊大になれば、どんな能力と実績があっても決して尊敬されることはありません。自信と誇りは持ち続けるべきですが、相手を尊敬する謙虚さを忘れないことが大切です。そしてそれが本当に高い評価と信頼を得ることにつながります。

人間にとって真の最大の敵は、自分の胸の中に居る。

多くの人が自分より先行しているのを見たなら、多くの人が自分より遅れているかを考えなさい。

私たちは自分のものを他と比べることなく楽しみたい。他人がより幸福であるということに苦しめられるならば、人は決して幸福ではありえない。

我々が第一に戦わねばならぬ厄介な敵は、我々の内部にある。流れに逆らおうとしたところで無駄なことだ。流れのままになっておれば、どんな弱い人でも港に流れ着くものだ。

自由のためなら、名誉のためと同じように、生命を賭けることもできるし、また賭けねばならない。

幸運はそれが失われるまで気付かれることはない。

人間は、ときに間違いを犯しながらも、足をのばし、つまずきながらも前進する。

喜びのない人生は、油のないランプである。

一滴の油、これを広き池水のうちに点ずれば、散じて満池に及ぶとや。

最も賢明なことは、自分を自分自身の打ち明け相手にすることだ。

感情のままに左右される人間は、自分自身の主人ではなく、偶然の力に支配される。

自分を卑下することは、自分を他人より劣ると信じる間違った考えから生まれる悲しみである。

最も尊重しなければいけないことは、生きることではない。善く生きることだ。

私は豚となって楽しむより、人となって悲しみたい。

安全とは思いこみにすぎない場合が多いのです。現実には安全というものは存在せず、子供たちも、誰一人として安全とは言えません。危険を避けるのも、危険に身をさらすのと同じくらい危険なのです。人生は危険に満ちた冒険か、もしくは無か、そのどちらかを選ぶ以外にはありません。

残念ながら人は誰も、生まれてくる時代と場所を選べない。僕らはどんなに苦しくても、この時代を生きていかなければならない。

現実を見据え、極端に走ることなく、中庸を進むことが人間社会を生きる知恵だと僕は思う。理想主義に陥ると大変に危険だ。民主主義でさえ現実と切り離された理念で突き詰めていくと危険であるのと同じだ。

同じ教育を施しても、伸びるやつとそうでないやつがいるように、本来、人間は個体による能力差が大きい動物だ。だから、あまりに人間の平等性を確保しようとすると、結局は人間の能力差やいい加減な部分まで否定せざるを得なくなる。人間社会を住みにくいものに変質させてしまう可能性がある。そういうところに、人間の怖さが隠れているように思う。煉獄への道は善意で舗装されているというが、まさにその通りだ。

世間をなめてかかってはいけない。僕は世の中を甘く見ていた。世間というものは怖いもので、なめてかかると必ず痛い目に遭う。当時の僕が、まさにそれだった。
【覚書き:自分が作りたいようように作った作品がヒットし、他人に評価されなくても自分の好き勝手に映画を作ればいいんだと錯覚し、その次の作品で大失敗した時のことを振り返っての発言】

人生とは常に何かを選択し続けることであり、そうすることで初めて豊かさを増していくものであって、選択から逃げているうちは、何も始まらないのだ。選択する、つまり外部のモノを自分の内部に取り込むことを拒絶しては駄目だということだ。自分の殻の中だけに閉じこもっていては、本当の自由を得られない。

僕が若者に言えるのは「いまの自分は何者でもないし、平凡な人間なのだ」とまずは気がつくことが重要だということだ。本来の意味での可能性はむしろ、そう気づいたところからはじまる。漠然とした幻想ではなく、本当に自分がやりたいことを見据え、そのためにいま自分がやるべきことは何かを見定めることから、やり直すべきだ。

才能という言葉を人はよく口にする。才能だけでやっていける天才という人も、何億人かにひとりくらいはいるかもしれない。レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロはそうだったのだろう。しかし、やはりそれは極めて稀にしか現れない特異な現象であって、僕もあなたも、少なくともそんな天才ではなさそうだ。

自由とは「生き方の幅」と、とらえ直してもいいかもしれない。人間、幅がある方が自由に決まっている。本質的な意味での自由とは、自由に見える状態のことではなく、自由に何ができるか、という行為のことをさすのだ。ある人間が何かをしたいと望む、それがどのくらい自在にできるかどうかが、自由と不自由の分かれ目なのである。

この世界には、いつの間にか僕らがすっかり信じ込まされたデマゴギー(デマ。意図的に流される虚偽情報)が飛び交っている。たとえば「若さにはかけがえのない価値がある」という言説だ。だが、若さに価値があるなどという言説は、実は巧妙に作られたウソである。もしも本当に若さそのものに価値を見出している者がいるとしたら、それは戦争を遂行中の国家ぐらいのものだろう。若さに値打ちなどないからこそ、人生は生きるに値するものなのだ。

不平は天から授けられた最大の贈り物である。

賢者は内面は賢いが、外見は愚かに見える。愚者は内面は愚かだが、外見は賢く見える。

最良の処世術は、自分に妥協することなく、他人に適応することだ。

自分は幸福だと考えない人間は、幸福ではない。

苦労を忘れ去ることが、苦労をなくす方法である。

他人の境遇は良いもののように見える。一方、我々の境遇は、他人から良いもののように思われている。

勇敢なる男は、自分自身のことは最後に考えるものである。

どんなふうに死ぬかではなく、どんなふうに生きるかが問題なのだ。

人々を奴隷化するものは王侯貴族ではなく、地主や資本家でもない。人々を奴隷化するものは、人々自身の無知である。

我々の視野、活動範囲、交際範囲が狭いほど、我々の幸福は大きくなる。それらが広いほど、我々は煩わしく、また不安に感じる度合いが大きくなる。なぜなら、それらは心配、願望、恐怖が増大し広がるからである。

多く笑う者は、幸福である。多く泣く者は、不幸である。

真の余暇とは、我々の好きなことをする自由であって、何もしないことではない。

うそつきの受ける罰は、人が信じてくれないというだけのことではなく、他の誰も信じられなくなるということにある。

自分と同年齢の人に一番言いたいんです。僕と同年齢の人たちに、気持ちいいよという経験をたくさん持つ人がいっぱい出てきてくれれば、若い人たちもそういう年寄りの人を見て、あ、そうか、と思ってくれるかもしれないから。いま、若い人がどうのこうのって言われている意見で一番危険なのは、それを言っているお前が大人としてちゃんとやっているのか、ってことなんです。そこがすごく気になる。

僕だってフリーランスの身ですから、いまの仕事がなくなったときには、たとえば明日からでもアニメとは関係のない他の仕事ができるように心しています。常に職業には貴賤がないということを理解している自分でありたいと思っているのです。

すべての庭師は美しい場所に生きている。なぜなら、彼らは庭をそのような美しい場所にするために活動しているのだから。

肉体は、我々の存在が野営している仮の小屋である。できればにこにこ笑いながら死ななければならない。

才能ある者は、称賛の声のある方へと赴く。称賛の声は才能ある者を惑わす人魚である。

人の不幸の大半は、過去を顧みることで発生する。

快楽は、肉体のある一点の幸福にすぎない。真の幸福、唯一の幸福、完全な幸福は、魂全体の平穏な状態に存在する。

もし自分が一日でも妥協していいと思ってしまったら、それは自分を見に来ている人に対して失礼だし、そういう姿を見せることで、自分を否定することになってしまう。僕は変なところに美学を持って生きてるから、そういう部分で妥協はできない。僕のこのスタイルは決して楽しくはないかもしれない。でも僕は、誰よりも自分がそれが面白いと思って生きているし、それを自分できっちり感じられることが、僕にとってはすごく大切なことだと思ってる。

親族であっても正直でなく潔白でない人とは、愛するよりも絆を断つべきだ。

本気で自分の人生を走れば、きっと何か見えるよ。みんな全然動きが取れないまま、いろんなこと言ってるんだけど、なんというか……言葉が痛くないんだよね。そんなことより、動けよ!

自分は誰のために生きるの?逆に聞きたいよね。まず自分でしょ?自分のためでしょ?自分が幸せになれないのに他人を幸せにするのは無理だよ。自分が笑えないのに、他人は笑わせられない。自分が幸せになりたいのなら、幸せになることをしようよ。楽しくなることを本気でやろうよ。

才能とは、自分自身を、自分の力を信じることだ。天才というのは自分を信じることだ。

他人をあてにしてはならない。我々はみんな取るために生きているので、与えるために生きているのではない。

勇気を失わず勇敢な人間であれ、慰めは適切なときに汝を訪れるであろう。

毎年一つの悪習慣を直したら、我々はやがて完全な人間になることができるだろう。

休息と幸福は、誰しも渇望するものであるが、これらは勤勉によってのみ得られる。

自己の望みを人間や物に置くのは愚かなことである。より多く持つことより、より少なく望むことを常に選べ。

世界のあらゆることを信頼しないならば、人は決して欺かれることはない。

私にとって年齢は関係ありません。それが16歳であろうと、460歳であろうと関係ないことなのです。
【覚書き|齢をとっても小さな航空会社経営者として、飛行機乗りとして各地で活発に活動しているリチャード・バックに、ある人が「いつまでもお若いですね」と言った時の返答】

ホームとは、人間にとって一番心の束縛を感じないですむ場所をいいます。だから、私にとってホームとは、雲の上です。
【覚書き:活動的でいつも様々なところを飛び回っているリチャード・バックに日本人作家、城山三郎が「あなたのホームはどこですか?」と尋ねた時の返答】

愛すべき尊敬する人を見つけて、その人のために自分の人生を送ったら、僕たちは最も暖かいベッドを手に入れられるのです。

自らを向上しようと試みることが必要なのです。この意識は生きている限り持続すべきです。

死そのものよりも、死についての想像の方が、遥かに我々を恐怖させる。

学者ぶった先生は、ヘリクツ屋の有力な仲間に分類したい。ヘリクツ屋の狩りは概念を追いかけまわすことである。

人は過去の中に現在を眺める。私の現在が変わるとき、私の過去がまた変わらないとは、誰が保証し得るだろうか。

サラリーマンには移動や転勤がつきものだ。働きなれた職場を変わることに、心理的抵抗は必ずあるだろう。しかし、そこに好奇心があれば、進んで新しい環境で挑戦してゆくことができる。なんでも楽しんでチャレンジする。それは人間の幅を広げてくれる。

我はローマ人の間にて第二位になるより、ここの人々の間にて第一位になることを欲する。
【覚書き|法務官時代、ヒスパニア・ウルステリオル属州に総督としてローマから赴任した際の言葉。この赴任がカエサルの人生を変え、のちにローマのトップになる礎となった】

高慢は、衣食住に必要なものよりもずっと高くつく。

遊びというものの味が真正にわかったなら、遊びは面白いことではなくて怖いことである。怖いことを知って遊ぶ者に過ちはないけれども、それまでに一度面白いことを経ねばならぬので、過ちはそのときにおいて多く発生する。

とにかく勝つ人は強い人である、多く勝つ人は結局上手な人、強い人といわなければならないだろう。しかし、一局一局の勝負となると、強い人必ず勝つとはいえない。定牌を覚えたばかりの素人に負けるかも知れない。
【覚書き|趣味の麻雀について語った言葉】

最善の技術には、努力次第で誰でも達し得る。それ以上の勝敗は、その人の性格、心術、覚悟、度胸に依ることが多いだろう。

その人に備わった本当に偉大な才能も、実際に使われなければ持っていないことと同じです。

危機はピンチであると同時に、飛躍へのチャンスでもあるのだと思います。

いまの時代は親会社が偉くて、子会社がダメなどという時代ではないですよ。機能が違うだけで、むしろマーケットに近い方がますます重要になっているのではないでしょうか。その意味で私にとって子会社への移籍は本当にやりがいのある黄金の階段でした。独自の商品を作り、マーケティングをして自分自身の販路を築くことが大事だと思っていましたから。
【覚書き:富士フィルムで当時、出世の糸口が切れる片道切符と揶揄されていた子会社出向を言い渡されたときを振り返っての発言】

試練というのは、問題解決の鍵をいつも提示していると思います。逃げ回っていては絶対に解決しないと思うんです。

人を相手とせず天を相手とせよ。天を相手として己を尽くし、人をとがめず、我が誠の足らざることを尋ぬべし。

人間の魂は、つねに耕される田畑のようなものである。よその国から種を取り寄せ、それを選抜し、蒔くのに時をかける注意深い園芸家であるのは屈辱的なことであろうか。種子を手に入れ、選抜することが、そんなに早くできるものであろうか。

人間の最大の価値は、人間が外界の事情にできるだけ左右されず、外界をできるだけ左右するところにある。あらゆる階級を通じて、目立って気高い人は誰か。どんな長所を持っていても、常に心の平衡を失わない人だ。

我々の持っている天性で、徳となり得ない欠点はなく、欠点となり得ない徳もない。

人生は、愚者には困難に見えるとき賢者には容易に見え、愚者に容易に見えるとき賢者には困難に見える。

情熱は欠陥であるか美徳であるか、そのいずれかだ。ただどちらにしても度を越しているだけだ。大きな情熱は望みのない病気だ。それを癒しうるはずのものが、かえってそれをすこぶる危険にする。

身分不相応の生活をする者は、ぼろが出る。

天才も不滅ではないということほど、凡人にとって慰めになることはない。

才能は静けさの中でつくられ、性格は世の荒波の中でつくられる。

苦しみが残していったものを味わえ!苦難も過ぎてしまえば甘美だ。

王様であろうと、農民であろうと、自分の家庭で平和を見出す者が、いちばん幸福な人間である。

決して人に欺かれるのではない。自分で己を欺くのである。

真心は人の道の根本である。何事にも真心がなければいけない。物事の善し悪しや成否は、すべて真心のあるなしにかかっている。真心があるならば、何事も達成できるだろう。群臣に真心がないなら、どんなこともみな失敗するだろう。

経営者には、会社のあらゆる活動を動かす長期戦略がなくてはならない。見込み客の動向をつかみ、購入を決断させ、顧客にとって価値ある者を繰り返し買わせるまでの一連の戦略。そして、会社の全活動がその戦略を採用し、維持し、進めるものになっていなければならない。成功は、長期の戦略を持ち、知り、それに従うことで初めてやってくる。

中傷はうるさい蜂のようなものである。これを確実に殺すことができるという確信がないならば、手を出してはいけない。さもないと、前よりもいっそう激しく突進を繰り返してくるだろう。

真の幸福は目に映らない。真の幸福は目に見えないもの。

自惚れは苦しみの源泉である。自惚れが消えたときから、人生の幸福な時期がはじまる。美しさが衰えかけたとはいえ、まだ相当綺麗な婦人でも、己の自惚れによって不幸にもなるし、滑稽にもなる。

快楽から悲しみと恐れが生まれる。快楽より解脱した人間にとって、もはや悲しみも恐れもない。

あなたの瞳を欺瞞の世界よりそらしなさい。自分の感情を信頼するのをやめなさい。感情はうそつきです。あなた自身の中に、個を排したあなた自身の内側に、永遠の人を探し求めなさい。

人間が他の動物よりも上に立つ理由は、我々が冷酷に他の動物を苦しめることができるからではなく、彼らを憐れむことができるからです。

自惚れは、人間が着用しうる最高の装甲である。

あなたがうそつきの達人でないならば、常に真実を語るというのが最良の策だ。

愚かな知恵者になるよりも、利口な馬鹿になりなさい。

過去と未来は最高のものに見える。現在の事柄は最高に悪く見える。

逆境が人に与えるものこそ美しいではないか。それはガマガエルに似て醜く、毒を含んでいるが、その頭の中には宝石をはらんでいる。

いちばん賤しい者となり、いちばんひどい逆境に沈んでいる者は、常に望みを持ちなさい。怯えることはない。最上の幸福から零落することは悲しむべきだが、不運のどん底に沈むと、また浮かび上がって笑うことにもなる。

外観というものは、一番ひどい偽りであるかもしれない。世間というものはいつも虚飾にあざむかれる。

人を邪な道に引き込むため、悪魔が真実を言うことがある。わずかな真実で引き込んでおいて、深刻な結果で裏切るために。

悪事によって得たものは、悪事の報復を受ける。

過去の弁解をすると、その過失を目立たせる。

あらゆる美徳は、自分を捨てることによって完成される。

若い時代にあまり放縦だと、心のうるおいがなくなる。若い時代にあまりに節制すると、頭の融通が利かなくなる。

ものごとを判断するときには皮肉を避けねばならない。精神のあらゆる性質のうちで、皮肉が最も聡明から遠いものである。

人の天性は、良草を生ずるか雑草を生ずるかいずれかである。したがって、折を見て良草に水をやり、雑草を除かなければならない。

変化は苦痛を伴う。しかしそれは常に必要なものだ。

理想は我々自身の中にある。同時にまた、理想の達成を阻む様々な障害も、我々自身の中にある。

名声は人間の偶発的な出来事であって、財産ではない。

現在というものは、過去のすべての生きた集大成である。

あなたはあなた自身を称賛せず、非難もしてもいけない。

あなたを心によって治めることができれば、あなたは王である。
あなたが肉体によって支配されれば、あなたは奴隷である。

弟のマイケルが言うように、私が幸運だったことは間違いない。しかし、私の成功は能力と幸運のたまものであると同時に、忍耐と努力の結果でもあるのだ。どんなことにも意欲的に取り組んだ。自分に責任を持ち、どんな人からも学ぼうとした。チャンスは絶対に逃さず、一歩一歩着実に成功への道を切り開いてきたのだ。

国営の低所得者共同住宅で暮らす子供たちは、自然にバランス感覚が身につく。いろいろな人たちと付き合わなければならないからだ。私は近所のユダヤ人やイタリア人、黒人の子供たちを呼び集めて、野球やバスケットボールのチームも編成し、プレーを楽しんでいた。人種の多様性について、誰からも教えてもらう必要はなかった。それが当たり前の生活だったのだ。

疑いを人に問うは知を求むる道なり。自ら心に道理を思うは知を開くもとなり。

知って行わざるは、知らざるに同じ。

苦悩は活動への拍車である。そして活動の中にのみ我々は我々の生命を感ずる。

人間は安楽に満足して生きたいと思うが、自然は人間が安楽と無為の満足に甘んじさせずに、苦労や労働に打ち勝つ手段に知恵をしぼらせようとして、苦労や労働の中に人間を放り込む。

自分自身を支配できない人間は自由ではない。

知っていると思い込んでいる人が利口なのではなく、自分の知らないことを自覚した人が賢いのである。

風波はつねに優秀な航海者に味方する。

習慣は第二の天性である。

平和は静かな自由であるが、隷属はいっさいの悪のうちで最悪であり、戦いによってだけでなく、死をもって排除しなければならないものだ。奴隷制度は人間の権利の否定であり、人間価値の否定である。

金銭に対する欲は避けるべきだ。富を愛するほどに狭量かつ卑しき精神はない。自己の所有しているもの以上に望まぬ者は富者である。借金は底なしの海である。

神によって与えられた人生は短いものだが、楽しく過ごした人生の記憶は永遠である。

あらゆる物事の初めは、小さなことからはじまる。

自分自身に全面的に頼り、自分自身のうちにすべてを所有する者が幸福でないということは有りえない。幸福なる生活は、心の平和があってこそ成り立つ。

私にとって真の道理のほうが、民衆の意見より価値があるものだ。

感謝の心は最大の美徳であるということだけでなく、あらゆる美徳の生みの親である。

新たな発見をする民族のみが、文化の未来を有する。

心の狭さは逆境に手なずけられるが、心の広さはそれに打ち勝つ。

最も安全な船とは、陸に上がった船だ。
【覚書き|君子は危うきに近寄らずと同じ意味の言葉】

口に才ある者は、多くのことに拙なり。

世界が与えるあらゆる専制のうち、我々自身の愛情が最も激しい支配者だ。

絶望と確信は、ともに恐怖を追い払う。

死のうとするよりも、生きようとすることの方が、ずっと勇気を必要とする試みだ。勇気の試練は死ぬことではなく、生きることだ。

人間誰しも過ちを犯すものだが、犯罪に対して感じられる悔恨は、悪人と有徳者を区別する。

人間の生活に目的はない。生きていること。それがすなわち目的である。

お前の一番ひどい不幸とは、それ自身が不幸だからではない。お前が自分と自分の生涯に、そのような不幸があると思っているからだ。

まわりにいる、ついている人間をよく見てみな。何か見えてこないかい?律義さ、熱っぽさ、粘り強さ、なんだっていいんだよ。いいなと感じたところは、その人が持っている世渡り力だ。ありがたく勉強させていただいちゃえばいい。まんま真似したっていいんだ。

自分の仕事は一生懸命やっていますって言う人がいる。だからどうなの?俺はそう言いたい。本業をきちんとやるのは当たり前だし、本業なんてのは、習えば誰だってそこそこはできるようになるんだ。それだけじゃ世渡りは難しい。本業以外のプラスアルファを持つことが大事なんだ。要はあいつが来ると面白いよ。何かやってくれるよってってもんを身につけることだ。

裏切られるってことは、自分を鍛える経験でもあるんだよ。人間色々、仕事も色々だってことを身に染みて知ることになるし、自分がしちゃいけないことを教えてもくれる。実体験は重みが違う。必ず自分の血にもなり、肉にもなるんだ。だから、裏切られたからってへこむことなんかない。世渡りを学ぶのにいい機会だって言うくらいに考えてりゃいいんだ。

義理を欠いたツケは必ず戻ってくる。自分じゃうまく立ち回ったつもりで、してやったりなんて思ってても、お天道様はお見通し、頭隠して尻隠さずっていう無様なことになっちまうんだ。義理人情を忘れた世渡りをしちゃいけないよ。

どんな業界でも古くからのしきたりが幅を利かせている。異業種からの参入が難しいのも「俺たちは昔からこうやってきたんだ」っていうしきたりに阻まれるからなんだ。技術があっても、異業種に参入するには大きな壁があるんだよ。そのしきたりってやつが障害になることもあるけど、知恵があれば乗り切れるんだ。

大法螺は相手に渡した約束手形みたいなもんなんだ。振り出しちまった手形を不渡りにするわけにゃいかない。ちゃんと決着をつけるまでは、何が何でも頑張るしかないし、頑張れるんだよ。石橋を叩いて渡るようにコツコツ生きたい奴はそうすりゃいい。だけど、自分の可能性を広げたい奴は、時に大法螺を吹いて、自分を追い込んでみるのもいいんじゃないか。

遊びは若いうちからやんないと、とんでもないことになるんだよ。いい歳になってから、酒だ博打だ色の道だなんてはじめると、免疫がないから匙加減、切り上げどころってものがわからない。のめり込むだけのめり込んで、気が付きゃ家族崩壊、将来も棒に振るなんて取り返しのつかない事態になっちまうんだ。

不思議なことにツキっていうのは周囲の人にも波及するんだよ。俺自身の経験から言うんだけど、絶対、ついている人間と付き合わなきゃ駄目だ。ツキっていうのは、サイコロの目みたいに偶然に回ってくるもんじゃないんだよ。ついている人間は、ツキを引き寄せるだけのことをしてるってことだ。ついている人間と付き合うってことは、その人の生きざまを見ることだし、そこから何かを学ぶってことなんだ。

頭がいいのと利口ってのは違うんだ。勉強ばっかりしていれば頭はよくなるかもしれないけど、利口にはなれない。利口を教えてくれるのは世間だよ。人の中でもまれて、遊んで、いろんな経験をしなきゃ利口の単位はもらえない。命がけで人と付き合って、遊んで、利口になっていくんだよ。利口な奴は仕事で行き詰ってもふっと発想が違う方向に向かう。頭がいいだけじゃこれができない。

中途半端に面白いとか、真面目だとかってのが一番いけない。中途半端を突き抜けるには演出だ。これは間違いない。「岡野さん?根っからの職人気質っていうか、とびきりの偏屈だね。でも、仕事はきっちりする。腕のほうもとびきりだよ。それは俺が保証する」担当者の説明がうちの宣伝になってるんだ。変わり者って言われるような人間じゃなきゃ駄目なんだ。変わってるから、人と違う発想ができるんだし、人と違うものが作れるんだ。

人生の持ち時間に大差はない。問題はいかにして深く生きるか、である。深く生きた記憶をどれほど持ったかで、その人の人生は豊かなものにも、貧しいものにもなるし、深く生きるためには、ただ受身なだけではなく、あえて挑むとか、打って出ることも肝要となろう。

一日に一つでも、爽快だ、愉快だと思えることがあれば、自ら慰めることができるのではないか。これは私の造語なのだが、「一日一快」でよし、としなければ。

若い医師から癌と宣告された。幸い一週間にわたる検診の最終結果は、若い医師の宣告とちがったものになり、私は命拾いした。それ以降、何でもない一日もまた、というより、その一日こそかけがえのない人生の一日であり、その一日以外に人生はないと、強く思うようになった。明日のことは考えず、今日一日生きている私を大切にしようと。

私の第一言語は何度も変わりました。幼少のころはポルトガル語、レバノンではアラビア語とフランス語、フランスではもちろんフランス語でした。それがブラジルに戻って、またポルトガル語となり、米国では英語になりました。このうち、一番親しみのある言語はフランス語ですが、コミュニケーションの道具として仕事で使うのであれば、やはり英語が一番だと思います。

家族のいるところ、それが「ホーム」、つまり故郷です。波乱に満ちた道をたどった末に、私の家族はブラジルに落ち着いていました。そして、いまも。ですから、私にとってリオは世界で一番くつろげる街です。ブラジルは美しく魅力的な国です。広く豊かな自然、そして、あらゆる人種が共存しています。自分が自分でいることができるという感じがします。

自心すなわち仏たることを悟れば、阿弥陀願うに及ばず。自心の外に浄土なし。

困難な状況に陥ったとき、決して人の忠告を信じるな。

自惚れは自滅を招く。

なんらかの善を心の内に持たない悪人はなく、なんらかの悪を心の内に持たない善人もいない。

正義ほど偉大にして神聖な美徳はない。

すべての人間の一生は、神の手で描かれたおとぎ話である。

妬み深き人は、錆びによって鉄が蝕まれるごとく、おのれ自身の気質によって蝕まれる。

思考はなににまして堅固なる城壁なり。なぜならば、それはけっして倒壊することも、敵の手に渡されることもないゆえに。

良心と名声はふたつの別の事柄です。良心はあなた自身に属するもので、名声はあなたの隣人に属するものなのだから。

私たちが当然なすべきことをなすは称賛に値しない。なぜならば、それを行うことは私たちの義務だから。

あなた自身に立ち返れ、内なる人にこそ真理は宿る。

幸福は唯一の善であり、理性は唯一の案内灯であり、正義は唯一の崇拝物であり、人道は唯一の宗教であり、愛は唯一の僧侶である。

賢者は、すべての法が破棄されようとも、破棄される前と同じ生き方をする。

我々の真の国籍は、人類である。

人間の性格は、固くもなければ不変でもなく、活動しており、変化していて、我々の肉体と同じように病気になることもある。

自由は外的な事実の中にあるものではない。それは人間の中にあるのであって、自由であろうと欲する者が自由なのだ。

権力、その他なんであろうとも、それらに対する欲望を満たすがよい。欲望を満たしてしまうと、それがみんなくだらないものであることがわかろう。

理想とは、不満の意を表現する方法のことである。

世の中には創造する天才がいるように、探す天才もいる。書く天才がいるように、読む天才もいる。

我々は、他人が幸福でないのを当たり前だと考え、自分自身が幸福でないことには、いつも納得がいかない。

苦しみは人間の偉大な教師である。苦しみの息吹のもとで魂は発育する。

あなたが善人になろうとするならば、まずあなたが悪い部分が持つことを知れ。

正義のもたらす最大の効果は、心を平静にすることだ。

死というものは存在しない。なぜなら、我々が存在する限り、我々に死は存在しない。我々に死が存在するとき、我々は存在することをやめているからである。

自分の持っているものを、十分に自分にふさわしい富と考えない人は、世界の主となったとしても不幸だ。

自嘲は強者のものである。自己憐憫は弱者のものである。

死は生の自然の継続である。最も良き生の後に、最も悪しき死が来る理由がない。死に対する最良の準備が最もよく生きることにあるは疑いがない。

肉体より魂を癒すことの方がはるかに必要なことだ。なぜならば、死は悪い人生よりましだからだ。

徳とは、我々にとって中庸である行為を選択する態度である。

その人の性格は、その人の行動の結果である。

幸福とは最高の善なり。幸福なる生活とは徳に即しての生活と考えられる。幸福は満足できる人間に訪れる。幸福は自主自足のうちにある。

賢者は苦痛なきを求め、快楽を求めず。

怒りはしばしば道徳と勇気との武器なり。

肉体の快楽は刺激の強きものゆえに、他の快楽を楽しむ能力がない人々によって追求される。

私は未来のことについて決して考えない。未来はやがてやってくるのだから。

知性は方法や道具に対しては鋭い鑑識眼を持つが、目的や価値については盲目である。

自由・平等は悪い原理である。真の人間的原理は正義である。弱者に対する正義は保護もしくは善意である。

生活とは、習慣の織物である。

憧れざる人間は、幸せになれず。

正しき思慮こそ、神の最上の贈り物なり。

人間は高慢な思いを抱くべからず。高慢は花を付け、破滅の穂を実らせる。実りの秋はとめどない涙を刈り取る。

幸福なる状態において、その生命を終えし者のみを幸福なりというべし。

真の悲しみは、苦しみの支え杖なり。

古来賭博に熱中した厭世主義者のないことは、いかに賭博の人生に酷似しているかを示すものである。

強者は道徳を蹂躙するであろう。弱者はまた道徳に愛撫されるであろう。道徳の迫害を受けるものは常に強弱の中間者である。

正義は武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われるであろう。正義も理屈をつけさえすれば、敵にも味方にも買われるものである。

人生はひと箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。重大に扱わなければ危険である。

我々の生活に必要な思想は三千年前に尽きたかもしれない。我々はただ古い薪に新しい炎を加えるだけであろう。

懐疑主義者もひとつの信念の上に、疑うことを疑はぬという信念の上に立つ者である。

私は不幸にも知っている。時には嘘によるほか語られぬ真実もあることを。

未来を思い煩うな。必要あらば、現在役立ちうる知性の剣にて十分未来に立ち向かわん。

死は感覚の休息、衝動の糸の切断、心の満足、または非常招集中の休止、肉への奉仕の解放にすぎない。我々が死によって失うものは時間のわずかな一部、現在の一瞬のみ。

人生は闘争にして、仮の宿なり。

罪を犯す者は、己自身に対して犯すなり。不正の人は、自ら己を悪者にする意味において、己の不正の犠牲者なり。

最も完全な復讐は、侵略者の真似をせざることなり。

存在するものは、変化のためにのみ存在することを忘れるな。宇宙の大自然にとりて、旧秩序や姿を変えて旧秩序に似せて新しいものを作るほど楽しいものはない。

人生競争において、肉体がなお立場を守っているのに、魂が気絶するは魂の恥辱なり。

幸運がもたらす富や順境は素直に受け入れよ。ただし、それを手放すときは渋るべからず。

名声を追う者は、他人の行動に己自身の善を置く。快楽を追う者は、善を己の官能に置く。賢者は己の行いに善を置く。

価値のあるものに新しいものはなく、新しいものに価値のあるものはない。

平等は自然の法則ではない。自然はなにひとつ平等なものをつくってはいない。自然の法則は服従と隷属である。

我々に「人から尊敬される価値がある」という自信がもっとあったなら、人々の尊敬を得ようという野心をそんなに持たないだろう。

高慢は弱者の慰めの手段である。

我々は、我々自身を冷笑しないために、自分以外のものを冷笑する。

人は大きな計画を軽蔑する。その計画を大成功させることが、自分にはできないと感じるときに。

軽蔑の中には、自分の名誉を危うくしないために、感じないふりをせねばならない軽蔑がある。

ヒロイズムは虚栄と相いれない。また、ヒロイズムと虚栄は同じ原因と結果を持たない。虚栄が大きければ、それだけ栄光から与えられる愛は小さい。

うそつきは、あざむく術を知らない人である。へつらう人間は、愚かな人々のみをあざむく人である。

人生に執着する理由がない人間ほど、人生にしがみつく。

値打ちがない人間ほど、自惚れが強く横柄であり、いよいよ尊大ぶって気取るようになる。隠れたる才能は、名を売らない。

逆境にあったとしても、道理に耳を傾けることは賢明なことだ。

自制心は、神々の最高で高貴な贈り物である。

良い習慣は、法律よりも確かなものだ。

危険は、勇者の目には太陽のごとく光り輝く。

幸せに恵まれていると思われている人も、死ぬのを見届けないうちは羨むべからず。運はその日限りなのだから。

私に若い時代が2回、年老いた時代が2回あったならば、私の過ちを改められるだろう。

人間の良心のみが唯一、あらゆる難攻不落の要塞より安全なよりどころだ。

この地上で最も程度が低いものは貪欲・快楽欲・大言壮語。最も高いものは寛容・柔和・慈悲心だ。

正しき人は、心の状態を最も平静に保つ。不正なる人は、心の状態が極度の混乱に満ちあふれている。

あなたを罵倒したり、殴ったりする人間が、あなたを虐待するのではない。それを恥辱だと考えるあなたの考えが、あなたを虐待するのだとよく考えなさい。

自由な意思は、盗人の手の届かない財宝である。

与えられたものを受け取りなさい。与えられたものを活かしなさい。

病気は身体の障害であるが、気にしない限り意志の障害にはならない。

快楽に抵抗する人は賢者。快楽の奴隷になるのは愚者。

人間を不安にするものは物事そのものではない。物事に対する見解が人間を不安にさせる。

貧は自由の伴侶である。束縛は富に伴うものである。富は人の作ったものである。ゆえに富んで人世の束縛より離れることははなはだ難しくある。貧者のひとつの幸福は、世が彼の交際を要求しないことである。

富も財産なり。知識も財産なり。健康も財産なり。才能も財産なり。意志もまた財産たるなり。しかして意志のほかの財産に勝るゆえんは、何人もこれを有すると、これをおのれが欲するままに使用しうることにある。

種を蒔けば刈り取らねばならない。人を殴れば苦しまねばならない。人に善をなせば、あなたも善を受け取るだろう。

雑草とは何か。雑草とは、その美点がまだ発見されていない植物のことである。

人間は皆、発見の航海の途上にある探求者である。

自信は、成功の第一の秘訣である。

天才とは、自分自身の思想を信じ、自分にとって真実であるものを信じ、自分の力で万人の真実を信じる者のことである。

この世で幸福以上の何かを求める人は、幸福の分け前にあずからなくとも不平を言ってはならない。

幸福とは、自分の時間を充実させることである。

悲壮感は第三者の目に映るだけで、苦しむ者の心にはない。

我々は、春と夏には改革者だが、秋と冬には保守の側に立つ。朝は改革者であり、夜になると保守主義になる。改革は積極的であり、保守は消極的である。改革は真理を目指し、保守は安寧を目指す。

どんな英雄も、最後には鼻につく人間となる。

英雄は普通の人よりも勇気があるのではない。5分間ほど他人より勇気が長続きするだけの話だ。

氷上を滑るには、スピードを出した方が安全だ。

勇気というやつは生き物なんだ。ひとつの組織体なんだ。だから鉄砲の手入れをするのと同じ理屈で勇気も手入れをしなくてはならないんだ。

絶望の中にも焼け付くように強烈な快感があるものだ。ことに自分の進退窮まった惨めな境遇を痛切に意識するときなどはなおさらである。

人間の苦しみや悲しみで、人間の戦い得ないものはない。

幸福は暇にこそあると思われる。なぜなら、我々は暇を得るために働き、平和のうちに過ごさんがために戦争をするからなり。

幸運は偉大な教師である。不運はそれ以上に偉大な教師である。

災難は、人間の真の試金石である。

たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間生まれてきたかいがないじゃないか。

若い時に苦い水を飲まなかった奴は、肥立ちが悪いよ。俺は苦労を先生だと思っているんだ。人間、苦労に仕込まれないとすぐいい気になっちまう。

青年時代には、不満はあっても悲観してはならない。つねに抗い、戦い、かつ自衛せよ。もし茨(いばら)を踏まねばならぬものなら、もとより踏むのが良いが、踏まずにすむものなら、みだりに踏むべきではない。

できることなら、あのイヌワシのように生きてみたいと思う。イヌワシのように生きる資格の一つとしては、おれはまず第一に決して群れないことをあげたい。周囲を見まわしてみるがいい。群れている人間ばかりが目につくじゃないか。カラス人間やスズメ人間ばかりじゃないか。ひとりでは呼吸もできない連中が、その必要もないのに、互いに軽蔑しあいながらいたるところに群れているじゃないか。

人間の生の価値とは、自己のあらゆる魂(精神)の力を高揚させ、より偉大な魂の力を獲得するための戦いの中から、苦難の真っただ中での戦いからこそ得られるものと信じます。

人間が経験する苦難というものは、その人間が苦難の重みにひしがれて卑屈になったり、卑怯になったり、野卑になったり、貪欲になったりしないだけの「魂の力」を持ってさえいれば、この上なく立派な人生の師なのです。そして魂の力はそうした数々の苦難を克服するたびごとにぐんぐんと成長して、ふたたび次に来る苦難と対決します。

「失うことは、すなわち得ること」という楽天的な言葉が好きです。多くのものを失ってしまい、あらゆる苦難を経ながらも、つねに淡々とした人々はこうした道理をよく理解する人々でしょう。

重要なことは何を耐え忍んだかということではなく、いかに耐え忍んだかということだ。

ツキが落ちても悲観するな。

職場はもちろん、家庭もしかり。あらゆるところ、道場と思う心が大切だ。その心構えさえ持てば酒場も立派な道場ということになる。

格好よく言えば、私は女性を美しくすることに生涯をささげてきた。まことに幸せな人生というべきだ。

一度は死ぬのだから、とにかく前を向いて死ねばいい。後ろを振り返って心配する暇があったら、前に進む。それで死んだら仕方ない。
【覚書き:22歳で帰郷し、苦境に陥っていた林原の再建に取り組んだ時の言葉】

学校では教えてくれない人生で役に立つ11のルール

  1. 人生は公平ではない。それに慣れよ。
  2. 世界は君の自尊心を気にかけてはくれない。君の気分に関係なく世界は君が仕事を終わらせることを期待している。
  3. 高校を出てすぐ6万ドルの年収を稼ぎはしない。携帯電話(当時は高かった)を持った副社長にもならない。自分で両方を稼ぎ出すまでは。
  4. 先生が厳しすぎると思うなら、上司を持ってみろ。
  5. ハンバーガーを引っくり返すということは沽券(こけん)にかかわることではない。君たちの祖父母はハンバーガーを引っくり返すことを別の表現を使った。それはチャンスと呼ばれた。
  6. 君が失敗したらそれは両親のせいではない。文句を言わずに学べ。
  7. 君らが生まれる前は、君らの両親は今のように退屈な人たちではなかった。そんな風になったのは、君らのために支払いをし、服を洗い、君らがどんなにいけてるか、という自慢を聞いているうちにそうなったのだ。親の時代から生存する寄生虫から森を守る前に、自分の洋服ダンスのダニ駆除から始めよう。
  8. 学校は勝者・敗者を決めなくなったかもしれないが、人生は違う。学校によっては君が落ちこぼれないようにしてくれたり、正しい答えが導き出せるまで、何度でも機会をくれる。実際の人生とは全く似ても似つかない。
  9. 人生は学期ごとに分けられていない。夏休みは無いし、ほとんどの雇用主は君が自分を見出すことに興味を持たない。それは自分の時間にやれ。
  10. テレビは本当の人生ではない。 現実では、人は喫茶店にいつまでもいられるわけはなく、仕事に行かなくてはいけないのだ。
  11. オタクには親切にしよう。彼らの下で働く可能性が高い。

【覚書き|上記はビル・ゲイツの創作ではなく、チャールズ・J・サイクスの著書「Dumbing Down Our Kids」から一部を引用したものと言われている。】

毅然として歩むには、誇りを持たなければならない。誇りを持つことは、相手を見下すことではない。常に礼儀を忘れてはならない。礼儀正しくということは、卑屈になることではない。その意味で、日本は誇りを失いかけてはいないか。

人生がやりたいことと違う方向に向くことはよくある。私はビジネスマンになるつもりはなかったが、井深さんと盛田さんの大きな力で誘導されてしまった。しかし、興味がなければ長続きはしない。また、そこに成功がなければ成り立たない。その意味で、私に後悔はない。
【覚書き:バリトン歌手として活動する選択肢を捨て、ビジネスの世界に入ったことを振り返っての発言】

人生は「節」があるからいい。悩む中から何かを勉強してつかみとって行く。そこに人間的な成長もある。
【覚書き:人生の「節」を自覚せよという人生哲学について語った言葉】

私たちは今まであまりにも長いこと、あれはできないこれはできないと言われてきました。可能性を疑うよう、シニカルに恐れを抱いて疑うように言われ続けてきました。けれども私たちは今夜、アメリカに答えをもらったおかげで、手を伸ばすことができたのです。歴史を自分たちの手に握るため。より良い日々への希望に向けて、自分たちの手で歴史を変えるために。

みなさんなしでは、変化は実現しない。社会に奉仕するという新しい意欲がなくては、自分を捧げるという新しいスピリットがなくては、変化は実現しないのです。だからこそ私たちは今、新しい愛国心を呼び覚ましましょう。新しい責任感を呼び覚ましましょう。私たち一人ひとりがもっと参加して、もっと一生懸命努力して、自分だけの面倒を見るのではなく、お互いの面倒を見るように。

戦後の日本には、武人の文化がなくなってしまった。そのため、決断、勇気、大胆、覚悟といった武人的美徳まで消えてしまった。

「寝れば一畳、起きれば半畳、五合とっても三合飯」の明るさと、「今にえろ(偉く)なったるぞ」の意欲が私の力だ。

西田(幾多郎)先生からはいろいろ教えを受けた。一番切実に教わったのは自覚ということだった。また、プラトンの意志の力、つまり吹雪の中を突っ込んでいくという発想、意志の弱さは罪悪だという思想を植え付けられた。

日本人はぜいたくになり、何もかもが派手になりすぎている。物心ともにハンブル・ライフ(つつましい生活)に徹すべきである。
【覚書き:大槻氏は三菱鉱業の炭鉱の労務係から職歴をスタートさせたため、会長になっても質素な生活を徹底していた】

神谷商事の設立とその失敗を通じて、ひとつの人生観を体得した。それは、過去のことにくよくよせず、大勢を見通したうえで、その流れに逆らわず、新しい人生を求めよという考え方である。
【覚書き:三井物産退社後、鉄鋼問屋神谷商事で起業するも、金融恐慌の経済混迷で廃業に追い込まれた時を振り返っての発言】

カニは己の甲羅に似せて穴を掘る。要するに、分相応を守ってきたんだよ。
【覚書き:オカモトの50周年に語った言葉】

結局、真の知識を得ようと望むものは、誰でも艱難の山を一人で登らなければならず、頂上への王道がない以上、私は曲がりくねりながら登らねばならぬことに気付いたのです。

私にとって最も不快なものは、諦めである。諦めきれぬという言葉は、諦めを否定してそれに到達し得ぬ場合にのみ用うべきものである。しかし私は諦めを敵とする。私の日々の努力は、実にこの諦めと闘うことである。

人生論を他人に教わるな。

政治に命を懸ける奴もいれば、まんじゅう作りに一生を捧げる者もいる。俺一人が世の中のことを考えている、苦しみを一人で背負っていると考えている人間や、それを露骨に表す者を、私はあまり信用しない。政治や人生観を考えている人間が偉いのではなく、一生懸命に生きている人が一番偉いのであり、そしてそれはしごく当然なのである。

これまでに激しい苦悩も味わわず。自我の大きな劣敗を経験しなかった、いわゆる打ち砕かれたことのない人間は何の役にも立たない。

世の中に出てからも人の敷いたレールの上を無難に歩かされるのが嫌だった。だから役所でも民間でも仕事が軌道に乗ると、自ら手を引いた。事業というものは、計画を練り、新天地を開拓していくこと自体に楽しみがあるのだと思う。

窮するもまた楽し、通ずるもまた楽し。私はむしろ平坦な道を好まない。その反対に、難題にぶつかると、これを打開してやまない闘魂が頭を持ち上げてくる。

泣いてパンを食べたものでなければ、人生の本当の味はわからない。

空気と光と、そして友達の愛。これだけが残っていれば、気を落とすことはない。

人間が生きるということはどういうことかといつも考える。すると死ぬことだということに帰着する。死ぬとわかれば今日この一日を十分に生きねば損だと思う。

土曜・日曜・祭日が年にどれくらいあるか知っていますか?実に120日もあるんだなこれが。3年たつと、まる一年分になる。ビジネスは勝つか負けるか、ただそれだけです。遊んだら負け。月月火水木金金、働かにゃ損します。

乗りかけた船には、ためらわずに乗ってしまえ。

眠るなら目をつぶりなさい。考えるなら目を開けなさい。目をつぶって考える中身は大概くだらない。決断に向かって思考するとき、目は必ず見開かれて輝いている。

チャップリンは幼少時代ひどい苦労をなめた。貧しさのあまり頭が変になった母とチャップリンは二人暮らしになった。父を5歳で失った時に母は発狂した。腹違いの9歳の兄はこの家から逃れて船のボーイになった。5歳のチャップリンは食べるものがなくなってマーケット裏に捨てられた残飯を拾ったこともあったという。その苦労がのちのチャップリン喜劇の中でいかに生きて描かれているかがわかるのである。それにこの母が実は偉かったのである。気が鎮まって生気を戻すと、小さな我が子を枕辺に呼び「イエス様はお前が運命をまっとうすることをお望みなのだよ」と何度も諭した。つまり自殺をするなということである。それは小さな我が子に言うよりも苦しい自分に言って聞かせたのであろう。そのチャップリンの苦労がのちに幸せの花を咲かせたのである。思えば神様は人間を豊かに幸せにするためにいつも苦労させるのだ。

情熱を持続するには危険が必要なんだ。ちょうど恋愛の情熱がさめるのは安定した時であるのと同じように、人生の情熱が色あせるのも危険が失せた時だよ。革命はまだ危険という油を俺たちの情熱にそそいでくれる。

煮られても、踏まれても、裂かれても、これが俺だというもの、それは一体なんだ。何があってもそれがなければ満たされず、何が欠けてもそれがあれば満たされるもの、それは一体なんだ。

いまの若い世代にもっとも欠けているのは「屈辱感に耐える」訓練である。この訓練が行われないで、そのまま社会から大人扱いにされると、おのれのすること、なすことはすべて正しいと思うようになる。

黄昏の砂漠は歩きづらいが、振り返ると波打ちぎわに自分の足跡が、自分だけの足跡が、一つ一つ残っている。アスファルトの道は歩きやすいが、そこに足跡など残りはしない。

人間は生きていく力をまったく失ったら自殺しない。しようにしても、できやしない。自殺を考えるのは、生きる力がまだ十分に残っている証拠である。失意はバネである。

二度絶望することはない。二度は絶望できない。二度絶望したと思っている者は、一度も絶望していない。

始めに終わりがある。抵抗するなら最初に抵抗せよ。歓喜するなら最後に歓喜せよ。途中で泣くな、途中で笑うな。

自己に絶望し、人生に絶望したからといって、人生を全面的に否定するのはあまりにも個人的ではないか。人生は無限に深い。我々の知らないどれほど多くの真理が、美が、あるいは人間が、隠れているかわからない。それを放棄してはならぬ。

わかるだろうか、人生には解決なんてないのだ。ただ、進んでいくエネルギーがあるばかりだ。そういうエネルギーをつくりださねばならない。解決はそのあとでくる。

頭の中に整ったイメージを描くと、それが磁石のような作用を起こす。そのイメージが、人、出来事、それにともなう状況を引きつけてくれるのだ。別の味方をするなら、イメージを描くことは予言であり、そのとおり実現される。起こると信じれば、それと気づかないうちに、本当に起こるものなのだ。

青春時代とは問題のないことが異常なのである。問題がある方が正常なのである。いや、人生は一生、問題をかかえているのである。青春には青春の問題があり、老年には老年の問題がある。青春の問題を解決できないような人間は、老年になればまた老年の問題を解決できない人間なのだ。

人間、貧乏であろうと、少しも慌てることはない。目的をもって生きる、信ずるところに生きる、修養につとめる、そこにおのずから積極的な人生の楽しみが生まれてくるのだ。

いま、この歳になって私が若い人に言えることは、自殺するならとにかく30歳まで生きてみるということだ。そこまで生きてからの思想上の死ならまだしも許せる。青年の観念的な死への傾斜は人生のはじまりであるが、一面から見ればその大部分がまやかしであり、さもなければ病気である。病気は治さねばならない。

人生は苦しい。人生は多くの人々に、陰惨な、希望のないものと思われています。しかし、それにしても、だんだん明るくなり、楽になってゆくのは、認めないわけにはいきません。そしてどうやらまったく明るくなってしまうときも、そう遠くはないらしい。

己の立てるところを深く掘れ、そこには必ず泉あらん。

楽天主義というと人はすぐ「いいかげん」とか「気楽さ」とか「人の良さ」とか「うすのろ」とか連想するらしいが、楽天主義とは凄まじきものである。殺されたって「人を信じ通す」という人生観を変えないのだ。人間は素晴らしい。自然は素晴らしい。生まれてくるってことは素晴らしい。死ぬってことも素晴らしい。病気になるってのも素晴らしい。という風に、徹底的に信じ通すのだ。肯定、肯定、絶対肯定してゆくのだ。

人生は面白い。人間の精神は無限大だ。美の世界は大無辺だ。君はそう思わないか。死、なにものぞ、笑って進もう。男らしく勇ましく進もう。女子らしく愛らしく進もう。人生賛美の曲を鳴り響かせて、この短い人生を悠々と進んで行こう。

自分たちはどこまでもどこまでも人の内の人生に強いられる限りは進まなければならない。人生に強いられて進むところに恐るるものはないはずである。その時、人は最後の勝利を信じていられる。恐るるのは人生が自分の内にしなびることである。自分が内から強いられなくなることである。

人生は完璧ではないが、ピアノや、ヴァイオリンより不完全な楽器とは思わない。人生の曲をなり響かせれば、死も征服でき、永遠歓喜の世界の門を開いて、中にとっとと入る力がないとは言えない。しかし急いで死ぬ必要もないから、生きているので、死が怖くって生きているのではない。

どこまでも勝ち抜き、どこまでも生き抜くためには、勇敢であることが必要なのだ。そして勇敢の第一の条件は生命を捨てるのを恐れずに戦うということだ。それも弱者のため、自分の保護を要求する人のために身を犠牲として戦う。これが勇敢な者の特質である。

青年のくせにぐうたらだったり、怠けることを考えたり、快楽に溺れて平気でいたりする者は、理想を持たない現実の敗北者である。そんな人に万歳は云えない。

どんな女でも、本気になって口説くことを決心した男にはなびかずにはいられないように、人生というものも、それを元気よく口説く人間には、その最上のものを提供せざるを得ないものだ。

苦難の時に動揺しないこと。これは真に賞賛すべき卓越した人物の証拠である。

現実という壁の前に立った時、いたずらに壁の厚さのみを測ることがないだろうか。実行する前に言い訳を考えていないだろうか。とにかく壁に体当たりしてみることだ。鋼鉄と思っていた壁が、実は段ボール紙製であるかもしれない。たとえ鋼鉄であっても、ダイナマイトで爆破すればよい。それが創造的姿勢というものだ。

恐れることなく醜にも邪にもぶつかってみよう。その底に何があるか。もしその底に何もなかったら人生の可能性は否定されなければならない。

日の輝きと暴風雨とは、同じ空の違った表情にすぎない。運命は、甘いものにせよ、苦いものにせよ、好ましい糧として役立てよう。

人間は、時に誤りを犯しながらも、足をのばして前進する。時には滑って後ずさりすることがあるかもしれないが、完全に一歩後退することは決してない。

失敗したら大変だという意識ばかりが先に立って、目の前にやりたいことがあっても、なかなか手を出せないということになる。見栄や外聞を気にしていても、それが通用しているうちはまだいい。しかし、かならず壁にぶつかるものだ。壁にぶつからないようにするためには、じっと動かずにいるか、山奥に逃げ込んで世捨て人になるしかない。

私は劣等感を肯定し、駄目な俺が失敗してもともとやという居直り精神から再出発した。小さなプライドを捨てた。見栄や気負いもなく、無欲恬淡に手当たり次第のことをやってきた。他人に笑われることを恐れなくなったおかげで、本当にいろいろなことができた。

劣等感は十全に法則に適合できない生物が、より充実した生を生きたいと思っているのにそれがかなわない痛みであるといえるだろう。とすれば、劣等感とは、積極的に生きたいとする生の願望が何らかの形で否定されることによって顕在化した痛みである。ともいえるということである。

劣等感とは、十全に生きたいと強く願う人ほど味わわねばならぬ可能性が多くなる感覚なのであって、いちがいに委縮した退嬰的なものと思うわけにはいかないのである。我々はほとんど誰も、完璧な形で宇宙の意志を実現しているものではないはずであるから、そのことを強く意識したものほど劣等感を味わうであろう。 【覚書き|退嬰=たいえい=しりごみすること】

欠陥だらけの人間でも、その人間が鈍感であり、自己を見つめる目がなければ平気なのである。だから劣等感というものは高級な感覚だとも言える。

私は底まで落ちたが、とにかくそれに耐えてきた。これから上へ行くだけだ。

この問題の焦点は、物事を突き詰めて考えすぎないことだ。くだらない悩みは笑いで吹っ飛ばそう。笑って悩みを追っ払うことは決して不可能ではない。

人間はみんなが、美しくて強い存在だとは限らないよ。生まれつき臆病な人もいる。弱い性格の者もいる。メソメソした心の持ち主もいる。けれどもね、そんな弱い、臆病な男が自分の弱さを背負いながら、一生懸命美しく生きようとするのは立派だよ。

日の光を借りて照る大いなる月たらんよりは、自ら光を放つ小さな灯火たれ。

相手を憎んで、蹴落とすようなことは、私の性格に合わない。敵も自分から作らない代わりに、特定の人にべたべたとくっつくこともしない。あくまでも公明正大。堂々と渡り合う信念はある。

私は青年も自らの過失によってしたたかに傷つくことを、また傷つくことを恐れないことを希望したいのである。もし彼らの追求する目的が大きく高い場合には、彼らの流す血は実に美しく、そのような過失は断じて悔恨を伴うことはないはずである。それは若気の過ちなどではもちろんなく、青春時代の誇りということができよう。

「生きる」とは、真剣に放浪し、探し見つけることにほかならぬ。社会となれ合いにならぬこと。これが青春の貴さであろう。それは決して年齢の問題ではない。悟りは老人のものであり、放浪は青年ものだ。

悲しめる心よ、落ち着いて悔ゆるのをやめよ。雪の後ろには太陽が照っている。

私にとって最も不快なものは、あきらめである。あきらめきれぬという言葉は、あきらめを肯定してそれに到達しえぬ場合にのみ用うべきものである。私は諦めを敵とする。私の日々の努力は、実にこの諦めと闘うことである。

人間は働きすぎで駄目になるより、休みすぎて錆びつき駄目になることの方がずっと多い。

私は未来のことは決して考えない。未来はすぐにやってくるのだから。

過去に興味はない。未来に興味がある。なぜなら、そこで残りの人生を過ごすことになるからだ。 n

人生とは何かとわかるころには、人生の半分は終わっている。

人はいつも、時が物事を変えてくれると言うが、実はそれはあなた自身で変えなくてはならないものなのだ。

シンプルさは究極の洗練である。

死というのは、ただ人生の次に起こる大冒険にすぎないの。

馬鹿は自分のことを賢いと思い、賢明な人間は自分が愚か者であることを知っている。

全世界は一つの舞台であり、すべての男と女はその役者にすぎない。彼らは退場があり入場があり、ひとりの人間が一度の登場で多くの役を演じる。

自分の誤りを認めなければならないことほど耐えがたいものはない。

情熱はすべての美の鍵です。情熱なしで魅力的な美など存在しません。

大衆を救うために勤勉に働くより、一人の人のために全身全霊を捧げる方が気高い。

心が切望する充実感を与えてくれるものがある。それは愛情を示すことによって、自分自身を超えて生きることである。このことを実践できれば、喜びを得られる。しかし、この教訓を学ぶことには、ゆっくりとした難しいプロセスが必要である。

人は変わらざる中心がなければ、変化に耐えることができない。変化に対応する能力を高めるには、自分は誰なのか、何を大切にしているのかを明確に意識することである。

自分自身にとって何が本当に大切なのかがわかっていて、そのイメージを常に頭の中に植え付け、毎日そのもっとも大切な事柄を優先する形で自己管理をすれば、人生は何と大きく変わってくることだろう。

まったくコントロールできない問題については、自分の態度を変える必要がある。変えられない状況に対して、気に入らなくても笑顔を作り、穏やかな気持ちでそれを受け入れるのである。

困難な状況に遭遇した時、パラダイム転換が起こることが多い。困難に直面した人は、従来とまったく違った見地から世界、自分自身、周りの人、自分に要求されている事柄を見るようになる。そうした状況においても主体的な人の態度は、自分自身の価値観を映し出すものであり、まわりの人々の精神を高揚させ、彼らに勇気と希望を与える。

多くの人は誰かが助けてくれることや、何かが起こることを持っているだけだ。しかし、最終的に良い仕事に就けるのは、主体的に問題解決に貢献している人だけなのである。こうした人たちは、正しい原則の範囲内で「望む結果を達成するのに必要なことは何でもする」という率先力を持っている。

行いは己のもの。批判は他人のもの。知ったことではない。

世の中は時々刻々変転極まりない。機来たり、機去り、その間実に髪を入れない。こういう世界に処して、万事、小理屈をもって、これに応じようとしてもそれはとても及ばない。

彰義隊の戦争の日だったが、官軍200人ばかり出て、俺の家を取り囲んで、武器などはいっさい奪い去ってしまった。しかし、このとき俺が幸いに他行(外出)していたために、殺されることだけは免れた。こんなふうに九死の中から一生を得たことは、これまでずいぶん度々あったよ。思えば俺も幸せ者さ。

金持ちの特長を三つの言葉で言い表せば「倹約」「倹約」「倹約」である。ウェブスター辞書で「倹約」とひくと、「無駄を省く行動」とある。倹約の反対語は浪費である。私たちは惜しげもなく、どんどん物を買うライフスタイルを浪費と定義する。倹約は資産形成の第一歩だ。

最初に必要なのは生活改善の堅い決意だ。これがなければ始まらない。次に、専門家の手助けを求めよう。一番良いのは財産設計の手伝いをしてくれる会計士やファイナンシャルプランナーを利用することだ。彼らは蓄財劣等生を扱った経験が豊富なはずだ。というより、経験が豊富で劣等生を優等生に変身させた成功体験のある人でなければ困る。

結婚相手が浪費家だったら、一代で財を成すのは不可能だと思った方がいい。夫婦のどちらかでも金遣いが荒いようだったら資産は貯まらない。夫婦で事業をしている場合には特にそうだ。浪費癖を直さずに資産を築くのはまず無理だろう。

資産形成の第一歩は守りにある。予算を立て、計画を立てることから守りははじまる。お金を使う前に、時間をかけてきちんと計画を立て、予算を組み、出費をコントロールしなければお金は貯まらない。蓄財劣等生はエクササイズに使う時間の3分の1も資産運用計画を練るためには使わない。

私は起こることすべてには理由があると思っています。でも、その理由というものを探し求めることが大切なのだと思います。そうして私たちは学ぶのです。

もし、あなたが地獄を経験しなくちゃいけないなら、何かを学んで帰ってくることをお勧めします。

パワフルであるということは女性であるということと同じようなものです。もし、自分で自分がそうだって言わなくてはならないようなら、そうではないということです。

言ってほしいことがあれば、男に頼みなさい。やってほしいことがあれば、女に頼みなさい。
【覚書き|男性には強力な発言権があるが、女性には高い実務能力あるという意味合いの言葉】

私は自由な精神でいたい。私のそんなところを嫌う人もいるけど、それが私という人間なの。

自由とは、ただ好きなことをするのではなく、我々が当然すべきことをなす権利を持つことである。

愚かさもまた、神からの恵みである。しかし、決してそれを誤用してはならない。

人はそれぞれにとって平和を自らの内面から見出さなくてはならない。そして真の平和というものは、周囲の状況によって左右されるものであってはならない。

幸せとは、自分が考えていること、言っていること、そしてやっていることが調和しているときのことを言います。

あなたが何をするにしても、それは些細なことでしょう。しかし、それをするということがとても大切なことなのです。

人生で最高のもの、最も美しいものは目に見えず、触ることもできません。それは心で感じるものなのです。世の中はつらいことでいっぱいですが、それに打ち勝つことも満ち溢れています。

私は理想を捨てません。どんなことがあっても、人は本当に素晴らしい心を持っていると今でも信じているからです。私たちの人生は一人一人違うけれど、皆同じなのです。私たちは皆、幸せになることを目的に生きています。

人間は、自らが置かれている社会や隣人に有用な存在となるために生まれている。

あなたがどのような状況にあろうと、それは今のあなたにとって最も望ましい状況であることを忘れてはならない。

あなたの自分の中に奥深く秘められている、内なる創造の花火を外から覆っているものを引き裂きなさい。

●よく過ごせた日には、安らかな眠りが訪れる。だから、よく過ごせた人生には、安らかな死が訪れる。
●私は奇跡をなし遂げたいのだ。
●知りたいという欲求は、人間の良き本性である。
●時々絵から離れて少しリラックスするのも良い考えだ。また戻ってきたときには、判断力が確かなものになっている。作品の前にずっといると、正しい判断力が失われていくからだ。

故郷に帰りたい。あるいは原初の混沌に戻りたいという望みや願いを抱いている。明りに向かう蛾のように、春や夏の再訪を喜びとともに待ち望む人のように。自分の願うことがやってくるのが遅すぎると嘆き、自分の望むことが自分の破滅につながるとも知らず。しかしこの願いこそ、その本質において、人間の体に閉じ込められ、元に戻りたいと願っている元素の霊なのだ。この願いは、その本質において、自然に内在するものである。【覚書き:自分の死生観を語った言葉】

幸せなとき、人の身体と脳からは、前向きな経験をうながす化学物質、幸せの果汁と呼べるものが分泌されている。

私たちには過去の誰よりも自由、可能性、選択肢がある。それと同時に、無用なもの、凡庸なもの、えり分けて捨てるべきゴミなどもかつてないほどたくさんある。

勝てない戦いはするな。まず自分の特徴を知ること。自分の得意な分野を見つけ、その分野で勝負した方が成功する確率は高くなる。私はギャンブルもしないし、女遊びもしない。それは私が道徳的だからではない。それらの分野はあまり得意ではないし、勝てそうにないと思うからやらないのだ。

世の中にはやってもいないのに物事を諦めてしまう人が少なくない。これではどんなことも成し遂げることはできない。そういう人は、人生を豊かにすることができない生き方をしていると言ってもいいだろう。やってみたけど駄目だったということで物事を諦めてしまう人もいる。何もやらない人に比べればずっといいと思うが、諦めてしまうというのは非常にもったいない選択である。

収入が一定であればお金に対する価値観は変わらない。収入が増えればお金に対する価値観はどんどん切り下げられていくということだ。支出をケチるという考え方を、収入を増やすという考え方に変え、ケチケチして1000円のもので迷っていたのが馬鹿馬鹿しくなるような形に持って行った方が人生をより楽しめるのではないかと思う。

世の中には勉強家スポーツか、仕事か家庭かというような二者択一の考え方をする人がいるが、両立できないと考えるのは偏見であり、決めつけだと思う。両立できている人は世の中にたくさんいるからだ。金儲けをしていると勉強ができなくなると思う人もいるかもしれないが、それも違うと思う。金儲けをしてそのお金で、さらにたくさん勉強をしようという考え方をした方がはるかに生産的だ。

人はパンのみで生きるものではないとよく言われるが、個人主義の徹底した欧米諸国で、老人のための施設がいかに完備していても、そこに友情とか愛情と言う精神的糧が欠乏していては、人間は長生きできにくいのではなかろうか。

どう変わるのか、答えは誰も教えてくれません。しかし、シグナルはあります。自分の頭でしっかり考えて、それを信じて決断することです。少なくとも、この路線で行けば将来必ずこうなるという時代ではないことだけは認識している必要があります。

禅に「随所に主となる」と言う言葉があります。あらゆるところで自分が主人公になって主体的に行動すれば、必ず道は開けるのだということです。ただし、禅の意味はもっと深いところにあって、自分の目に見えるものは自分が目で見て認識しているわけですから「すべて自分」なんです。要するにどこにいても自分が主人公であることを自覚することが大事だという風にとらえています。

人間には「生きる技術」と「生きる意味」がある。生きる技術というのは英語を学ぶことやIT技術をマスターすることです。だけど、もうひとつ「生きる意味」というのがあると思うのです。生きる意味は人間にしかない。つまり自分はどういう存在であるのか、自分でできることは何なのか、自分は社会に対して何をしてあげられるのかということを考えられるのは人間だけです。それが生きる意味だと思うのです。

今の世の中、自由の意味をはき違えているような言動が目立つ。本来自由とは自分だけのものではなく、相手や他人様の自由を認めることによって成り立っているわけで、一人だけの完全な自由というものはあり得ません。自分自身の自由とは、他との関係によって制約されるものなのです。「自由は不自由の間にあって存す」自由というものの本質を突いた福沢諭吉先生の言葉です。

君ができるすべての善行を行え
君ができるすべての手段で
君ができるすべての方法で
君ができるすべての場所で
君ができるすべてのときに
君ができるすべての人に
君ができる限り

人生とは「ルールを学ぶこと」が目的になっている唯一のゲームだ。

『ライフバランス』という本の中で著者のリチャード・エアは私たちの生活に必要なバランスについて上手い表現を使いました。「ゆっくりという名のスピード」これは人生すべての分野についてバランス良く取り組むことを意識的に実行するためのものです。急がば回れを実践しましょう。

好きなことがやれて、しかもそれが意義のあることに思えるとしたら、これ以上楽しいことなんてないわ。

私はオプティミスティックで過去を振り返らないタチだから。今日が自分にとって最良の日であるといつも思ってやってきた。

学び続ける人は、たとえその人が80才でも若いと言える。逆に、学ぶことをやめた人は、20才でも年老いている。人生で最も素晴らしいことは心をいつまでも若く保つということだ。

人生に勝利するには、何より勝つ心がけが必要である。人が八時間働くなら、十五時間働く気概、人がうまいものを食べているときには、自分はうまいものを食べないだけの度胸がなければいけない。

いちばん大事なことをいいます。心に愛を抱くのは、ただ、しまっておくためだけではありません。愛はほかへ与えられなければ、愛ではありません。愛を与える人生を送ってください。そうすれば、愛を返してもらえるでしょう。与える人間になってください、もらう人間ではなく。

信頼関係は自分自身の心の反映だ。たとえ、自分が損をしたとしても、人を信じていく。その中でしか、信頼関係は生まれない。信頼とは、外に求めるのではなく、自らの心の内にもとめるべきものなのだ。人生というのは魂の修行の場ではないかと考えている。苦難は魂を純化、深化させるために与えられている試練であり、成功もその人間がどこまで謙虚でいられるかを試すものでしかない。

わたしは、人間には持って生まれた運・不運があるということだけは固く信じる。やはり運がいいとか、悪いということは絶対あり得ると思うし、ツイている、ツイていないということもあると確信している。しかし、じゃあ、どこでどういうふうにツイていると判断するのか、なにかその物差しがあるのか、あるいは運のいい人と悪い人を見分ける方法があるのかということになると、そんなものはあるわけがないとしか言いようがない。人生は要するに向き不向きと、人知の及ばざる運・不運で決まるのではないか。そういう意味で運を信じているということなんです。

失敗を恐れてはいけない。失敗にこそ成功の芽は潜んでいる。人生でいちばん悔いが残るのは挑戦しなかったことです。新しい可能性に挑んで、失敗したことではありません。泳げない者は溺れればよい。最初からできる人は少数派で、『できる』と言われる人の多くは、できる人に自らを変えていったんだと思います。ただし、その必然性は人それぞれ違うので自分で発見するしかない。

一日中、川の底をのぞいていたとて、魚はけっして取れるものではない。たまたま魚がたくさんやってきても、その用意がなければ、素手ではつかめない。魚は招いて来るものでなく、来るときに向かうから勝手にやってくるものである。だから魚を獲ろうと思えば、常平生からちゃんと網の用意をしておかねばならない。人生全ての機会を捕捉するにも同じ事がいえる。

臆病な人間は批判をし、勝利を収める人間は分析をする。批判は人の目を見えなくするが、分析は人の目を開いてくれる。言葉が考えを作り考えが現実を作りそして現実が人生になる。勝者は負けを恐れないが、敗者は負けを恐れる。

大きな冒険や勝利、創造的な行動に邁進するとき、人はこの上ない喜びを得る。

その顔は汗や埃や血で汚れているだろう。何度も過ちをおかし、力も及ばないだろう。だが勇敢に戦うだろう。素晴らしい熱意を持ち、献身し、価値ある目的に全力を尽くすだろう。彼らはたとえ失敗しても、素晴らしい成果を生む。勝利も敗北も知らぬ、冷たく臆病な人々には到達し得ない場所なのだ。

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