その他 格言の名言

このページは「その他 格言」に関する名言を集めたページです。仕事の能率、人生の質、資産状況を変えるアイデアのヒントが詰まっています。気に入った名言は、SNSにスクラップしたり、手帳などに書き写してみてはいかがでしょうか。

その他 格言の名言 一覧

どんじりランナーは時代の流れが逆向きになればトップになれる。

新聞を読まなくなってから私は心がのびのびし、実に気持ちが良いです。人々は他人のすることばかり気にかけて、自分の手近の義務を忘れがちなのです。

こんなとき神戸を逃げ出して何が市民球団だ!一人も来なくてもいいから、スケジュール通り絶対、神戸でやれ!

【覚書き|阪神大震災のときの発言(当時の球団名はブルーウェーブ)。震災のため本拠地神戸での試合開催が危ぶまれたときにオーナーとして檄を飛ばした言葉。がんばろうKOBEを旗印にファンも選手も奮起し、この年、オリックス・ブルーウェーブはリーグ優勝を果たした】

勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。

幸せと金は別物である

漫画家志望ということを僕は馬鹿にしません。馬鹿にするのは、小説にしても映画にしても、何かをコピーしただけの作品を「自分の創作物だ」というふうに出すような人です。

棟梁というものは何かいいましたら、「棟梁は木の癖を見抜いて、それを適材適所に使う」ことやね。建築は大勢の人間が寄らんとできんわな。そのためにも「木を組むには人の心を組め」というのが、まず棟梁の役割ですな。職人が50人おったら50人が私と同じ気持ちになってもらわんと建物はできません。

通産省に言われたことと全部反対のことをやってきた。だから、ホンダの今日がある。

教育が高くつくというなら、無知はもっと高くつく。

消費者のニーズにこたえるという姿勢がなくて、これでやれば競争に勝てるぞと思った時は失敗するケースが多い。自分の思いつきでいい気になって走ると必ず失敗している。消費者のニーズに触れて、あ、それじゃこうしてみようかなという場合はだいたい失敗しません。

市場経済のもとでは、すべての力を顧客に向けていかなくてはなりません。顧客に向かうことを阻害するような組織や権限規定は、その時々に変える必要があります。しかし、本当に変えなくてはいけないのは社員の考え方です。社員の頭がいっこうに企業の内側を向いたまま変わらないとすれば、企業全体の成果とはなり得ません。

アイデアを出した人にいつまでもその事業を担当させるのが最善とは限りません。彼がアイデアを出したのだから、上手くいかなくても最後まで彼にやらせてやろうという情緒的な判断をしていては、最良のせいかは得られないでしょう。

市場経済化して社会が良くなるかどうかという議論は不毛な面があって、大きくなったパイの一部分をどのように分配するかという政策によって、結論はどちらにも転ぶ可能性があります。

真の勇気というものは、臆病者と無鉄砲な者の中間にある。

喜劇で最も難しい役は愚かな役であり、その役は愚か者には演じられない。

弾圧は、弾圧される者を強くし、結束させる作用がある。

情熱というものは、人生におけるひとつの偶然の出来事にすぎない。この偶然は優れた人間の心にしか起こらないものだ。

ひとつのものが同時に善であったり悪であったり、そのいずれでもなかったりすることがある。たとえば、音楽は憂鬱な人には善であるが、喪に服している人には悪であり、耳の聞こえない人にとっては善でもなく悪でもない。

天下に最も多きは人なり。最も少なきも人なり。
【覚書き:前者の人は人間を意味し、後者の人は有能な人材を表す。人はたくさんいるけれど、有能な人材は少ないという意味の言葉】

見終わって、何の発見もない映画は駄作だ。エンタテインメントとしてどれほど優れていても、どこかに「なるほど」と思わせる新たな価値観や、新しい視点が盛り込まれていなければ、その映画の価値は低い。

ネット上でおそらく悪口も相当書かれているのではないかと思うが、それも気にならない。もしも僕に何か言いたいことがあれば、いっそ手紙でもくれた方がいい。しかし、実際はそんな手紙が来たためしはほとんどない。ドイツの女子中学生が定期的に手紙をくれるが、ほんとうにそれくらいだ。みんな僕に言いたいことはないのかもしれないが、伝え聞くネットの中での熱狂と、現実世界の静かな反響の違いはどうしたことなのだろうと、不思議にさえ思う。

映画監督に天才はいないというのが僕の持論だ。映画はひとりでつくることができない。天才は誰にも理解できないから天才なのであって、共同作業の映画の制作現場に天才監督がいても、スタッフが彼を理解できないようでは映画は完成しない。ジェームズ・キャメロンとかジョージ・ルーカスとか、ウォシャウスキー兄弟とかそれなりに名の通った監督に会う機会は何度もあったが、特殊な人間など一人もいなかった。

僕は26歳でアニメーションのスタジオに飛び込み、初めて書いた絵コンテが評価されて演出家になった。しかしそれは、雪舟が習ってもいない絵をすらすらと書いたのとは違う。僕は必死に見てきた映画の場面を忘れなかったから、見よう見まねでコンテを切ることができただけだ。僕は映画が好きだった。恋愛や遊びや、青春のすべてを犠牲にしてでも映画を見るほど、映画が好きだった。

趣味は車などというオヤジの実態は、ローンを組んで外車を買ったとか、シートを替えたとか、しょせんその程度のことだろう。本当に車が好きだというなら、ガレージでエンジンから組み立てるぐらいのことをしてはどうだ。車が趣味とか、自分の個性などと主張するなら、せめてその程度には車に没頭してから言うべきだろう。単にカネを出しただけで手に入れたものは趣味とはとても言えないと思う。

この世は模倣されたモノたちで満ちあふれている。そして、ジャーナリズムの進歩が模倣の速度を驚異的なまでに引き上げている。あらゆることが一気に全世界に広まり、次々とブームが作られる。これからの世界を生きる人間は、このブームの中に隠れている本質を、いつも注意深く見つけ出す努力をしていないと、自分の立ち位置を失ってしまうことになるだろう。

現代日本ほど言葉が軽んじられた時代はないだろう。若者たちが次々と新しい言葉を発明しては使い捨てていくのと同じように、評論家は何ひとつ有効な言葉を見つけ出せず、テレビは模倣された言葉を無批判に垂れ流していくばかりだ。何かの事件が起きると、ジャーナリズムはゲームやアニメや漫画に原因を見つけようと躍起になる。テレビのワイドショーではコメンテーターと称する人たちが、本質とはかけ離れた議論を繰り返している。何の発見もない言葉だけが無意味に再生産され、際限なく展開されていく。

大事件も大河の源流のように、ごく些細なことから発生する。

薬があるからといって、毒を好んで飲むべきではない。

一般に青年が主張する内容は正しくない。しかし、青年が主張する行為自体は正しいものだ。

他人から恩恵を受けるということは、自分の自由を売ることである。

常に人間は、自分に対してはあることを考え、他人に対しては他のことを考える。人間は他人を判断するのとは異なったように自分を判断する。

新しいものは古いものの敵である。したがって、新時代はいつも旧時代から犯罪視される。

ひとりの富者がなんと多くの乞食を養うことか。王が建築をはじめれば、馬車ひきに仕事が生まれる。

人間はひとりひとり見ると、みんな利口で分別ありげだ。しかし、集団をなせば、たちまち馬鹿が出てくる。

金を浪費したり、貯蓄する者は最も幸せな人々である。なぜなら、両者ともそのことを楽しんでいるからである。

残酷物語ほど関心を引くものはない。敵がいかにして子供を惨殺し、処女を強姦したかというニュースを報道すれば失敗することはまずない。

好奇心は、力強い知性の最も永久的な特性のひとつである。

悪人は自己の欠点を弁解するが、善人は自己の欠点をそっとしておく。

おしゃべりと雄弁は同じではない。愚者はしゃべりまくるが、賢者は話す。

無鉄砲な変革は危険だ。しかし、盲目的な保守主義はもっと大きな危険をはらむ。

富は海水に似ている。飲めば飲むほど、のどが渇くのだ。名声についても同じことが言える。

道徳心も情熱のひとつだ。道徳心が情熱でないとしたら、他の情熱がみんなよってたかって嵐の前の木の葉のように道徳心を吹き飛ばしてしまうじゃないか。

自由は責任を意味する。だからこそ、たいていの人間は自由を恐れる。

学問した人間は、勉強によって時間を費やす怠け者である。

僕がガンダムという作品を生み出せたのは、3カ月後に入金がない生活の怖さを回避するためにロボットアニメを利用させてもらったからだ、という言い方もできるわけです。「こういう(ロボットアニメを作る)仕事がしたいからここまでやってきた」と言えるほど、僕は能天気にアニメの仕事をやってきませんでした。生き方の基本とはまず「普通に生きながらえる」ことを目指す。そして、そこを目指すために意志と力を持つべきだとも言えるでしょう。

ガンダムだけでいいのか、という時に「いや、ガンダムで宮崎アニメをぶっ潰す」とか「ガンダムが出てきてもオスカーを取れるような作品を作る」とかいう目的を持って作品を作る努力を、いままでのサンライズやガンダム関係者は考えなかったし、ガンダムだけで食えると思っちゃったから、ある時期までガンダムという作品は縮小再生産を繰り返していたという事実があったわけです。

僕がこの職業を選んだきっかけというのは、まず就職難の時代であったと同時に、僕にロクな会社で勤められるほどの才能がなかったということ。さらにテレビアニメを制作しているプロダクションの入社試験が、たまたま僕が卒業する年にだけあって、その試験にたまたま受かっただけのことなんです。基本的に時の運、巡り合わせなんです。

僕がずっとアニメの仕事をやっていられるのは、アニメが好きだからではなくて、本当に実写映画を撮りたいと思っているからです。でも、現実にいまだそういう機会は巡ってこないわけで、死ぬまでに巡ってくるかどうかも分かりません。だけど、この願望・欲望というのは、死ぬまで否定することはできません。否定できないからこそ、いざ実写映画を撮れるということになったときに、監督としてのスキルが落ちていることがないように、アニメの仕事を億劫がらずにやっているんです。

僕が声優を選ぶ時のポイントは、作品のキャラクターに合った声を持っている、もしくは演技をすることができる人を選んでいるだけです。その中でも特に気をつけているのは、これからの成長が期待できる人を見つける努力をしていることでしょうか。それは僕のような年寄りの任務でもあると考えています。

みんなが面白いと思う漫画って概ね絵がヘタクソだということにお気づきでしょうか?つまり、絵が上手いだけでは漫画家になれないということで、そもそも漫画を描くだけを勉強するということは基本的にはあり得ないんです。24から25歳までは修業期間と思って自分の生活体験を広げて、いろんな勉強をすることをお勧めします。そうすれば自動的に絵柄は変わります。おそらくそのくらいのキャリアを積んで出したキャラクターのほうが売れるものになって、作家として大成していけると思います。

創作とはどんなに気をつけていても、結果としてコピーみたいな作品になってしまうことが多いのです。だからこそ、自分もそういう仕事をしないように十分注意をしているつもりです。そして、その配慮こそがぼくは説得力をつける出発点じゃないかと思うのです。

携帯電話っていうのは本当に麻薬みたいな道具なんです。昔なら何百万円とかかるはずだった高性能な道具が、現在はタダ同然で手に入るわけですが、実を言うとそれだけの代価……たとえば人生訓みたいなものを、どこかで払わされて損をしているということです。それにみんな早く気づいてほしいですね。

いま目の前にある携帯電話でアクセスできるレベルの社会的なデータに関しては、一切手を触れてはいけません。そのようなデータであまりにも簡単に時間つぶしができてしまうので、自分が勉強することを忘れてしまうからです。

ブランド志向というのは、自分の個性がないという表現なんです。なのに、それを買うことで自分のステイタスが上がったような気になっているのは、ミーハー的な妥協でしかないと思います。たとえばバッグに40万50万円もかけられるっていうのは、ステイタスの振りかざしでしかなくて、ファッションではありません。その部分には気づいていただきたいものです。

僕は20代後半から頭が薄くなり始めて、30代、40代とだんだん真ん中が薄くなっていきました。50代に入って、中年、もしくは壮年といういい歳をしたおじさんたちが、少なくなってしまった毛髪をなんとか維持しようとか、薄くなった頭を何とか多く見えるようにカバーしようと、髪型や毛髪のことを気にしているというのを僕自身みっともないと思うようになりました。だったらその原因をとってしまえということで僕は一気にスキンヘッドにしちゃったんです。

本当に絵に描いたキャラや物語が好きだとしても、まさかそれが自分の人生そのものになるとは思わないでしょう?そういうものをお楽しみとして観たり読むのは構いませんが、雑誌やコミックを読んだならば、読んだ分の3倍のエクササイズをしてください。そうでないと、10年後に皆さんがとってもくだらない大人になっていることだけは保証します。アニメやコミックを楽しんだなら、残りの時間は体を動かして、勉強や仕事をして、しっかり睡眠をとること。

占いとは、もともとあるかもしれない良いことや嫌なことを、あらかじめ人に占いという形で受け入れさせることで、それに対するいろんな対処法を用意させたり、最悪の状況を回避できるような心がけをつくるものだと思ってみるのです。そういう前提を持って占いを考えると、占いに対する基本的な姿勢は「信じてもいいけれど囚われるな」ということです。

僕は携帯電話を持っていないから、圧倒的に携帯が便利であるということを知りません。だけど、圧倒的に便利な道具であるわけがないんです。どうしてかというと、ただ単なる通信手段でしかないからです。通信する価値のある情報を持っていない限り、通信する意味なんかないんですよ。

妻の忍耐ほど、彼女の名誉となるものはない。
夫の忍耐ほど、妻の名誉になるものはない。

常に復讐は、小さな、弱々しい、憐れむべき、心の悦びでしかない。

若い人たちの情熱も、老人にとっては悪徳に見える。

私は、知恵を貨幣のように鋳造したい。つまり、知恵を鋳造して、覚えやすく、伝えやすい箴言と格言とことわざとにしたい。

我々の改革者たちは、経験に向かって「お前は時代遅れだ」と言い、過去に向かっては「お前は未熟者だ」と言う。

自分の意見をひっこめない者は、真実を愛する以上に、わが身を愛する人間である。

一般的に言って、ひとつの世代は、その世代中に生み出された世界によって生きているのではなく、むしろ前時代の世界観によって生きるものである。

未来を見る目を失い、現実に先んずる術を忘れた人間の行きつく先は自然の破壊だ。

旅することは多くの利益がある。それは新鮮さを心に、素晴らしき事柄についての見聞、新しい都市を見る喜び、まだ知らない友との出会い、高潔なる作法を習得することができるのだから。

言葉によって人は獣に勝っている。しかし、正しく話すことができなければ、獣の方があなたより勝る。

他人に忠告するより、自分に与えられた忠告を役立たせる方が、いっそう知恵を必要とする。

行動を言葉に移すよりも、言葉を行動に移す方がずっと難しい。

僕は意外な贈り物が嫌いなんだ。君に言わなかったのは悪いと思うけどびっくりするような贈り物は大嫌いでプレゼントには見向きもしない。欲しければ自分で買うさ。だから持っていないということは欲しくないということなんだ。定義の上ではね。君が僕にプレゼントをするということは欲しくないものをもらうことになるんだ。だから返したってかまわないよね?

人間に与えられる自由というものがあるならば、それは道徳的自由のほかに確実なものはない。

将来の世代の幸福のために現在の世代の幸福を犠牲にする政策は、自殺政策である。というのは、自己の完成をなしえない人類は、その政策を変えることなく、際限のない、しかも無益な犠牲を続ける結果になるだろうからだ。

財産は、それを所有する人々を他の人たちよりも幸せにするがゆえに攻撃されるのではない。財産が攻撃される理由は、それが少数の人々の幸せを増すからである。

言葉や属性こそ、物事の本質に一致すべきであり、逆に本質を言葉に従わせるべきではない。というのは、最初に物事が存在し、言葉はそのあとに従うものだからだ。

人は喜んで、おのれの望むものを信ずる。

環境がビジネスとして成功するためには「省エネ」と、エネルギーを生み出す「創エネ」ががっちりと手を組まなければならない。つまり、消費されるエネルギーを抑制しながら、一方で積極的にエネルギーを作るのだ。最先端技術で社会に貢献することは、シャープに課せられた使命である。それと同時に、シャープを未来へと導く理念でもあるのだ。

いにしえの学者は不透明体なり、今のは透明体なり。さらにその説くところによって判ずれば、いにしえのは個体、今のは気体なり。

羨望はケチよりも悪い。羨望する人間は、他人が何か良いものを手に入れることを好まない。たとえ、それが己の手に入るべきものでなくとも。

なんら苦痛のない状態というものは、苦痛の存在する状態よりも確かに安らかである。したがって、死は人間にとって、生よりも安らかなものである。

そんなバカなことはないだろう。苦労して城を作ってくれたのだから大事にするなり、せめて情報の隔離ということからすれば島流しくらいがあたりまえで、殺すとは何事だ。
【覚書き:徳川家康が江戸城完成後に情報漏えいを防ぐため、築城にあたった労働者・技術者を全員殺したというエピソードを知った時の発言】

日本のいいところは、競争しながらも相手から学ぼうとする姿勢を忘れないところだと思います。競争にはルールが常に存在しています。どこかと戦略的に提携しようというのは強さを補完する意味を持たないことも多い。強ければ競争すればいいんです。

人が旅をするのは目的地に到着するためではなく、旅をするためである。

真理はたいまつだ。しかも、巨大なたいまつだ。だから私たちは、みんな目を細めてそのそばを通り過ぎようとする。火傷することを恐れさえして。

新しい真理にとって、古い誤謬ほど有害なものはない。

多数というものより気に障るものはない。なぜなら、多数を構成しているものは、少数の有力な先導者のほかには、大勢に順応するならず者と、同化される弱者と、自分の欲することすらわからずに従ってくる民衆とであるからだ。

結婚生活はすべての文化のはじめであり、頂上である。それは乱暴者を穏やかにするし、教養の高い者にとっては、温情を証明する最上の機会である。

若い時は興味が散漫なため忘れっぽく、年をとると興味の欠乏のために忘れっぽい。

人間こそ人間にとって最も興味あるものであり、おそらく人間のみが人間に興味を感じさせるものであろう。

望んでいたものを手に入れたと思い込んでいるときほど、願望から遠く離れていることはない。

人はほとんど知らない時にのみ知っている。知識とともに疑いが強まるのだから。何でも知らないことが必要で、知っていることは役に立たない。

革命前にはすべてが努力であった。革命後にはすべてが要求に変わった。

卑怯者は安全なときだけ威丈高になる。

世の中の人は、孤独に暮らす人を社交を好まない人と思っている。しかしそれは夕方にポンディの森を徘徊しないからといって散歩を好まないと決めつけるようなものだ。
【覚書き:ポンディの森とはフランスのドーラーセーヌにある森のこと。当時盗賊の巣窟だった】

人間とは何か。人間とは愚かな赤子だ。無為に努力し、戦い、いらだち、何でも欲しがりながら、何ものにも値せず、ちっぽけな一つの墓を得るだけだ。

大多数の人々は保守的であり、新しいものをなかなか信じようとしない。しかし、現実の多くの失敗には辛抱強い。

ジャーナリズムの力は大きい。世界を説得しうるような有能な編集者はすべて、世界の支配者ではなかろうか。

人間の心は自己疑惑と自身の間を微妙に揺れ動いている。この二つの感情を同時に抱くことさえある。いまでもしばしば不安に圧倒されながらも、自信と希望が湧いてくることがある。

人の目は百里の遠きを見れども、その背を見ず。明鏡といえども、その裏を照らさず。

民主政治は専制体制と変わらない。なぜなら民主政治とは、全員がひとりの意志を無視し議決しうるという「全員ではない全員」が議決しうる執行権を認めるからである。

酒は口を軽快にする。だが、酒はさらに心を打ち明けさせる。こうして酒は一つの道徳的性質、つまり心の軽率さを運ぶ物質である。

私は孤独である。私は自由である。私は自分自身の統治者である。

非暴力とは、悪を行う人間の意志におとなしく服従することではない。暴力者の意志に対して全霊を投げ打つことである。

最高の道徳とは、常日頃他人のために奉仕し、人類の愛のために働くことである。

博愛を実践するには、もっとも大きな勇気が必要である。

愛国心は人類愛と同一である。私は人間であり、人間的なるがゆえに愛国者である。

道徳と進歩と改善とは、つねに離れることのできない関係にある。

女性の直感は、しばしば男性の高慢な知識を凌ぐ。

もし、ただひとりの人間が最高の愛を成就したなら、それは百万人の人々との憎しみを打ち消すに十分であろう。

歴史とは、そのほとんどが人類の犯罪・愚行・不運の登記簿に他ならない。

現在は移り変わる瞬間であり、すでに過去は存在せず、未来の見通しは暗く、疑わしい。

要塞を築くから攻撃される。

食べ物の最高の調味料は飢えである。飲み物にとっては渇きである。

人生を支配するのは幸運であって、英知ではない。

人間が生きている社会基盤は、一瞬なりとも安定することなく、いろいなの変革によって常に変化している。

良きにつけ、悪しきにつけ、変革にはある種の救いがある。

今日の英雄は、我々の記憶から昨日の英雄を押しのけてしまうが、やがて明日の後継者に置換される。

成文法はクモの巣のごときものだ。貧者と弱者をもつれさせ捕えるが、富者と強者は簡単に食い破る。

心配は、それがやってくる前に支払われるトラブルの利子である。

独創性とは、しっぽをつかまれずに盗むことである。

道を曲げずして、よく人心に従う。これ中庸の極みなり。

記録でなく、気分で旅する。そして、取材の旅、つまり人間を追う旅。私の旅は、この二種ぐらい。その代わり、気軽に、足腰軽く出かける。そういうものだと思って出かける。

私はグローバル化とアイデンティティの尊重とは、足並みをそろえて進むべきだと思っています。自らのアイデンティティを保ちたいという願望は、肯定的な意味でも、また否定的な意味でも、あらゆるところに顔を出します。これは当然でしょう。グローバル化とアイデンティティの尊重とは両立しうる、また両立させなければならない概念なのです。

門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし

世に銭(ぜに)ほど、面白きものはなし。

その身に染まりては、いかなる悪事も見えぬものなり。

商人、職人によらず、住み慣れたるところを変わることなかれ。石の上にも三年と俗言に伝えし。

この世の中で一番強い人間とは、孤独でただひとりで立つ者なのだ。

社会は一つの船のようなものだ。誰もが舵をとる準備をせねばならない。

人間は笑うという才能によって、他のすべての生物よりも優れている。

家畜ですら牧場を去るべき時機を知っているが、愚かな人は自分の貪欲の制限を知らない。

政治には火に対するごとくすべきなり。火傷せぬためには近寄るべからず。凍傷せぬためには遠ざかるべきなり。

神は、人間をその本質が天使と獣との中間にあるものとしてお創りになられた。

私は天国で男たちだけと暮らすより、この世で好きな女と苦労して生き続けたい。

扇動家に必要な特性は、口汚く、生まれのいやしき、下卑な輩になることである。

政治の本質は権力である。政治、すなわち手段としての権力と強制力に関係する人間は、悪魔の力と契約を結ぶものである。

生きることは病であり、眠りは緩和剤、死は根治療法である。

善は常に悪が混じっている。極端な悪は善にはならないが、極端な善は悪となる。

補助金を与えられた学問は、独立して他から束縛を受けない人々と接触し、刺激を得なければ創意を欠き、革新に抵抗し、臆病かつ保守的なものになりやすい。

言語は雄弁の才能と同様に、神から直に与えられた贈り物である。

生きることにも疲れ果てて死ぬのはなおさら恐ろしく、漂流する小舟さながら、波のまにまに打ち揺れて魂は船出する。悲しい難破へ船出する。

洒落とは、低級な機知である。

真理は不滅である。過失は致命である。

ひとつのものにとっての善は、他のものにとって悪である。ある階級の解放は、他の階級にとって新しい圧迫となる。

真理は古代であろうと近代であろうと、社会に対して敬意を払うものではない。社会が真理に敬意を払わなければならない。

理想的な人間は、最大の沈黙と孤独の中にあって、最強の活動力を見出す人物であり、最強の活動力の中にあって、砂漠の沈黙と孤独を見出す人物である。

狼は、草に依存する子羊に依存している。草は、狼のよって守られている。肉食動物は、草木を保護するが、草木は間接的に肉食動物を養っている。

日本の政治家という奴は、政治で飯を食おうというのじゃから、良心の切り売りをするのが公然の商売となりおる。

嫉妬とは何であるか。それは他人の価値に対する憎悪を伴う羨望である。

敵手を否定せんとする戦いは冗談である。敵手の態度を否定せぬ怒りは洒落である。

勤勉なる者も怠け者も、人生の半分には差がない。なぜなら、人生の半分は眠っているのだから。

自殺は、たとえその人自身にとって不正でなくとも、国家に対しては不正なり。

人間の行動はすべて次の七つの原因のひとつ、もしくはそれ以上のものが合わさり起こる。機会・本性・強制・習慣・理性・情熱・希望の七つである。

軍事的国家の大多数は、戦争中は安全なるも、支配を獲得すると滅亡する。刀のごとく、平和に暮らすうちに鋭い刃を失うからである。

革命は小事にあらざるも、小事より発生する。

神の前で、我々は等しく賢明であり、等しく愚かでもある。

ナショナリズムは小児病である。それはハシカである。
【覚書き|ナチスドイツについて語った言葉】

宗教なき科学は不完全であり、科学なき宗教にも欠陥がある。

尊敬と正義は近い間柄である。何も尊敬しない人間は、絶対的君主が法律に対するのと同様に、己自身をすべての上に置く。だから、群小の平等論者は蟻のように集まった群小の専制君主である。

いかに老年に成長するかを知ることは英知の傑作であり、生活の技術における最も難しい部分のひとつである。

民衆を自分の道具にするために民衆に媚びるというのが、普通選挙の手品師・ペテン師の業である。

嫉妬は利己心の一番情熱的な形式、自分を忘却し、自分を従属させることができない専制的な気難しい虚栄心の強い自我の高揚である。

才ある人間は才のみしか認めず、才しか許さない。すべての権威を嘲笑し、すべての迷信を面白がり、すべての掟に反抗したい気持ちを起こす。

革命とは何か。それは自分の旗に記したある主義の名のもとに、権力の把握に成功した暴徒のことである。

いかなる自然も芸術に劣らず。芸術の仕事は、すべて自然の物事を真似ることなり。

人生は常に複雑である。複雑なる人生を簡単にするものは、暴力よりほかにあるはずはない。

民主制は虚栄心の強いエゴイズムが寄ってたかってする山分けに他ならない。民主制は君主制と貴族政治の正当な跡継ぎである。

矜誇、愛欲、疑惑、あらゆる罪は三千年来、この三者から発している。同時にまた、おそらくはあらゆる徳も。【覚書き|矜誇(きんこ)=自分の能力を誇る気持ち】

格言は、哲学者たちの機知のほとばしりである。証明のいる箴言は、表現の下手な箴言である。箴言は書き手の心を暴露する。

とるに足りないことも、新しいものであれば烏合の衆を喜ばせる。

女たるものは、つねに男たちの運の行く手に立ちふさがり、かつ不幸なほうへと導く。

恐るべき者は新聞記者にあらず。彼らは時勢の従属なり。その指導者にあらず。彼らは時勢の要求に反して何事をも語り得る者にあらず。
恐るべき者は宗教家にあらず。彼らは時代の子なり。神のしもべにあらず。彼らは時代の思潮に逆らいて何事をもなし得る者にあらず。

芸術家は、自分の芸術の犠牲にならなければならない。ミツバチが針の一刺しに自分の生命をかけるように。芸術家もそうでなければならない。

人間は、疑念を持つ。疑念を持つことは科学を芽生えさせる。

棋士は、将棋に命を懸けているのである。盤上には神が宿っている。土俵とて同じであろう。勝ちと負けの二つだけを一対一で争うから潔く、神事なのである。その意味で、八百長などは神を冒涜(ぼうとく)する最たる行為だと知るべきだ。7勝7敗の相手と千秋楽で当たったら「必ず勝つ」という信念を、力士たちに徹底してたたき込むことが、一番大切だと信じている。
【覚書き|2011年、大相撲八百長事件に対するコメント】

老いも若きも、金持ちも貧乏人も、そろって答えました。民主党員も共和党員も、黒人も白人も、ヒスパニックもアジア人もアメリカ先住民も、ゲイもストレートも、障害者も障害のない人たちも。アメリカ人はみんなして、答えを出しました。アメリカは今夜、世界中にメッセージを発したのです。私たちはただ単に個人がバラバラに集まっている国だったこともなければ、単なる赤い州と青い州の寄せ集めだったこともないと。私たちは今も、そしてこれから先もずっと、すべての州が一致団結したアメリカ合衆国なのです。
【覚書き|青い州と赤い州とは2000年頃に生まれた言葉。大統領選で民主党が勝った州を青、共和党が勝った州は赤に塗られた地図がマスメディアで使われたことで生まれた】

先ほど少し前に、マケイン上院議員から実に丁重な電話をいただきました。マケイン議員はこの選挙戦を長く、激しく戦ってきた。しかし議員はそのずっと前から、愛するこの国のために、もっと長くもっと激しく戦った人です。マケイン氏がこの国のために払ったすさまじい犠牲のほどを、私たちのほとんどは想像すらできない。勇敢で、わが身を忘れて国に献身するジョン・マケインというリーダーがこれまで国のために尽くし、働いてくれたおかげで、私たちの世界はより良いところになりました。私はマケイン議員を称えます。そしてペイリン知事を称えます。マケイン議員たちが成し遂げてきたことを称えます。そしてこれから、この国の約束を再生させるため、マケイン氏たちと共に働くのを楽しみにしています。

この国の次のファーストレディ、ミシェル・オバマ。彼女が絶え間なく私を支えてくれなければ、16年前からずっと最高の親友でいてくれた彼女が、礎となって家族を支えてくれた彼女が、私にとって最愛の彼女がいなければ、私は今夜ここに立っていません。サーシャとマリーア。君たちにはちょっと想像もつかないほど、お父さんは君たちを愛しているよ。君たちふたりもがんばったから、約束した通り、ホワイトハウスには、新しく飼う子犬を一緒に連れて行けるよ。

多くの人が絶望を感じ、不可能と判断することに対しても青年は希望を失わない。反対に多くの人々にとって自明の理と考えられていることがらについても、一応これを自分の目で見、自分の頭で考えてみる熱意と努力を惜しまない。天才が長い努力の結果到達した地点に、自分もまた出発点から自分の足で歩きなおしてみようとする野心を胸に一杯抱く。

まぁ生まれ直す事があったらね、2つから3つぐらいまでに将棋を覚えて、もういっぺんやり直してみたいと。今度は丈夫な体でね、名人を角落ちぐらいでね、からかってみるのも面白いと、こう思う。

アマチュアは駒を動かしただけなんです。「指した」ということとは別のことですよ。

とにかく、男は一見強そうに見えているがポキッと折れやすい。男は生理的にたいへん無理して生まれてきているみたいなところがある。それに比べて女は生理的にはうんと安定しているんだ。そのうえ女はなかなか折れない柔軟性を持っている。

恋愛は100%の天然果汁ではない。少なくとも最低50%の虚像と、最大50%の実像を含有する。恋愛とは男女なる逆方向に向かう異なったベクトルの合体を示す公式である。ただしこの公式は不思議にも定義を持たないものである。

恋愛中の女性に彼の魅力を問えば、十中八九「優しさ」をあげつらう。女性が男性に優しさを求める理由は明白、すなわち、女に都合が良いのである。だが、この場合の優しさは半ば、ひとつの女性サイドのお仕着せでもある。というのは10人中、8人も9人も優しい男がいたら、世の中、終わりだからである。

男子、志を立てて郷関を出ず、学もし成らずんば死すとも帰らず、骨を埋ずむるに、あにただ墳墓の地のみならんや。人間いたるところ青山あり。

あらゆるものに自我がないとすると、自分というものもなくなってしまう。自分の自我だけはなんとしてでも認めたいという気持ちが働いてくるのが人間というものだろう。それを抑えて、やはり自我というべきものはないというのが本当だと認めるわけである。自分について、自分を生かしているものについての内省が深くなるにつれてそういう境地になる。いろんなものに生かされているということがわかる。

夫に生かされ、妻に生かされ、親に生かされ、子に生かされ、ありとあらゆるものの力に生かされていること、究極的には永遠なるものに生かされている、仏さまに生かされていると認めざるを得なくなる。それが「さとり」であり、それが救われていることであり、それが仏ひとつという世界なのである。

人間は死ぬ時に「死んでも死に切れない」という怨念があるから、再び輪廻するのである。死ぬときは淡々と、己を生かしてくれていたものすべてに感謝して死ななくてはならない。

美しい女とは、貧富に関わらず、己を無にして生きている女性のことをいう。私はそのように解釈している。己を無にするといったのは、つまり頭の中をいつも空っぽにして、世間というものの恐ろしさ、美しさ、さびしさを、身に染ませつつ生きるということでもある。

私たちの前には、もし私たちがそれを選ぶならば、幸福と知識と知恵の絶え間ない進歩がある。それとも、私たちは私たちの争いを忘れることができないからといって、死を選ぶであろうか?私たちは人類として、人類に向かって訴える。あなたがたの人間性を心にとどめ、そしてそのほかのことを忘れよと。【覚書き|ノーベル文学賞受賞者で数学・論理学・哲学者、バートランド・ラッセルと発表したラッセル・アインシュタイン宣言の一節】

ファーストレディとは、一人の人間、つまり夫から選出された、給料がもらえない公務員です。

夫の政治的なキャリアの発展のために大切だと思われることのためには、私は人生のすべてを犠牲にしてきました。

私たちは、私たちの人生の中ですべてを経験してきました。喜びと悲しみ、懸命な働きと非常なまでの神経の張りつめ、成功と失敗、貧困、飢えとそして物質的な豊かさ。彼(ゴルバチョフ書記長)と私は私たち二人の初期の関係と基盤と、目的と理想を保ちつつ、それらすべてを経験してきました。私は精神の強さ、勇気と堅固さが、いま夫に立ちはだかる先例のない、私たちの人生でもっとも厳しい試練を耐え抜く力となっていると信じています。願わくば。

歴史は繰り返す。それが歴史の誤りである。

これが私のわかりやすい宗教です。寺など必要でありません。難しい哲学も必要ではありません。私たち自身の頭と心が私たちの寺なのです。そしてその哲学とは優しさです。

贅沢を貧乏の反対と考えている人がいます。でもそれは違います。贅沢とは下品さの反対なのです。

エレガンスとは青春期を抜け出したばかりの人間が持つ特権ではありません。それは、すでに将来を手に入れた人間が持つ特権なのです。

愛は決して眠ることはできない。

感覚で把握したくないため、結局何も信じなくなり、盲目になった人は、かつては知恵の木の蛇と呼ばれました。

清潔と無垢の状態に生きる者たちには、裸は恥ずかしいことでも不真面目なことでもありません。みだらで慎みもなく生きる者たちにとってのみそうなのです。

偏見にとらわれずに観察しますと、地上に生まれてきた子供の霊的魂、あるいは魂的霊は、身体とまだよく結びついていないことに気づきます。教育の課題は霊的な観点から見ますと、この霊魂と身体との調和した結びつきの実現を意味するのです。

魂は責任ある年齢、すなわち成年に達したのちに初めて現れ、そして完成することが可能な、一種のぜいたく品なのだ。

我々の出発点は「人間は自分自身を知らない」「自分自身ではない」ということ。

この世では、意思とは何か、愛とは何かということについてほとんどわかっていません。なぜかというと、人は理解することや自らの力によるかのように考えていくことはできても、愛することやその愛から出発して自ら欲することはできなくなっています。

意思とは人間が生まれながらに所有しているものであり、人間一人一人を個性的な魂にするものである。

神が宇宙を創造されたのは、人類を実在させ、そこから天界を造られる以外にないし、人類こそ天界の苗床であるということです。

魂は神のものであります。我々が神を愛し、我々が神を愛し、神のごとく行為するなら、魂の力を十分発揮できます。

脳の動きは体の休息と分子レベルで密接につながっている。したがって、知的な網状組織を表すのには、モービル・ブレイン(動く頭脳)という言葉がぴったりだ。

ルネッサンスの本当の意義は根本的な前提、先入観、信念を変質させることだった。ダ・ヴィンチは検証の原則を応用し、世の中の支配的な考えに進んで挑戦することでこの変革の先陣を切った。

女性だからこそ、いろんな選択肢の中から選ぶ自由を持っていると思うんです。今の日本は超少子化国といわれているくらいですから、結婚して子供を産み、次世代を育てるというのも本当に重要な仕事だと思うんです。それに使命を感じる方は、もっともっとプライドを持ってやってもらいたいですし、逆に仕事で頑張るのも一つだと思います。この時代にこの国に生まれたメリットを活かして自分の進路を考えてみるといいのではないでしょうか。

たとえば、英語で伝えたときと日本語で伝えたとき、相手の受け取り方が全く違う単語があるんです。単語というものは辞書に載っている意味だけではなくて、その後ろにあるニュアンス、影、におい、そういうものがすべて一緒にメッセージとしてついてくるものなんです。

本当は税金を納める能力があるにもかかわらず収入をごまかしたり、補助金をもらって普通の人よりも贅沢な暮しをしていたりする人間は「タックス・イーター」と呼んでいい。他人が苦労して払った税金を食って、自分だけ楽をしているのだ。これは本来、国民の一人として恥ずべきことだろう。ところが、大半のタックス・イーターは悪知恵を絞って楽な生活を手に入れている自分を、他人よりも賢いと思っている。

富の再分配という救いの手を差しのべられている割には、ゆとりのある暮らしをしている人間がいる。みんながみんなそうだとは言わないが、たとえば公的な補助金を受け、税金もあまり払っていないと思われる農家のガレージに自家用車が二台も三台も並んでいたりすれば釈然としないのも当然だろう。公営住宅でも年収の上限があってお金持ちは住めないことになっているにもかかわらず羽振りよさげに高級な外車を乗り回している人間が居座って出て行こうとしないといったことが良くあるらしい。弱者を保護する社会の仕組みを逆手にとってうまい汁を吸っている人間が大勢いるわけだ。

愛とは、独白によって自分自身の中に向けて屈折してゆく閉鎖とは正反対のものなのだ。それは、かかわりあいの相手を持つ。相手に向けて、おのれのすべてを発し与える。相手のすべてを受けて答える。これがヨハネのみならず、聖書伝統一切の言う愛なのである。

女と別れるときはね、君、いきなりパッと別れちゃ駄目ですよ。パッと別れると出刃包丁です。あるいは毒薬を飲まされたり。いちばんいいと思うのは、畳の目ほど離れてゆくんです。少しずつ、少しずつさがってゆく。毎日、毎日、ちょっちょっとさがってゆくんです。

人は、人を愛していると思い込み、実は自分自身だけしか愛していない場合が多い。

100年前には統計データなどこの世に存在しなかった。統計データはたぶん、過去最悪の発明である。

失明しかけた目が治ったのは、それはお医者さんのおかげです。でも、私には、もう少しましなものを作るまで目を開けておいてやろうという仏さんの励ましとしか思えません。仏さんが医者になられたのでしょうな。

小言は言われんが、どんなやんちゃでも先生の言うことを素直に聞いてしまうんだね。自ら進んで実行していく行動力、これがなんとも言えん力みたいなものとなって温かく生徒を包んでしまう。どんな生徒だって信服してしまいますよ。
【覚書き|上記の「先生」は愛知県安城農林学校初代校長の山崎延吉のこと】

この中に、勉強する気がなくなったやつがいるそうだ。だが、人間、生きている間は勉強し続けるものだ。勉強する気のないやつなど、生きている意味はない。だから、そういうやつは俺が殺してやる。

どんなに堅い板でも粘り強くやっていればやがては穴が開くものだ。私が書いてきた一万枚も、この穴を開けるのに少しは役に立ってきたのだろうと思うと、途中で挫折して書くのをやめなくて良かったと思う。

だれも怒らせたり、傷つけたりしないように最善を尽くしたと潔白な気持ちで夜ベッドに横たわることができるのはすばらしいこと。

スピードより方向性が大切だ。

ゲームビジネスで一番不足しているのは、デザイナーでもプログラマーでもなく実は才能あるディレクター。ゲームで遊んでいる人が心から満足して得心できる、それを私たちは完成度と言っているんですが、この完成度を高めるのがディレクターの才能なんです。

大容量ゲームは駄目。こんなことをしていたら世界中のメーカーがつぶれてしまうだろう。重厚長大なゲームは飽きられている。ゲームは常に新しい楽しさを開発し、ひたすら完成度を高めていくことが本質である。
それにもかかわらず、ソフトメーカーはIIだのIIIだの、VII、VIII、IXと出し続けている。クリエイター達は行き詰まり、質的転換を迫られている。日本だけで受けて、しかもVII、VIII、IXだと言っている会社は駄目である。このように、ゲーム業界は存亡の危機に陥っている。反論があるならいつでも受けて立つ。
しかし誰も直接反論しには来ず、陰でものを言う。こうした体質も業界の危機を象徴している。

会社の業績が上がれば営業トップもそこで働く人間も自然に風格がてくる。不思議なことだがこれは事実だ。仕事が人を作るんです。

年の行った独身男が結婚したいのは、賢くて、美しく、金持ちで、若くて、未婚の処女で、高慢でも粗野でもなく、申し分のない大きさで、都会育ちで、田舎の主婦のように働く女。そんな男は、結構な馬鹿者で、長い間むなしく待ち続け、レディメイドには存在しない彼女に求婚するよりほかない。

携帯やパソコンなどが発達し、子供たちを取り巻く環境はどんどん変化していますが、私は、太陽の陽を全身に浴びながら、もっと泥だらけになって、もっと思い切り遊ぶことで、友達や自然の大切さ、思いやりの心が醸成されるものと信じています。これからの日本を背負う子供たちが、より健やかに成長することを願って止みません。

日本には、人生の喜び、楽しみといった側面を重視する国になって欲しいと思う。

スポーツでも、音楽でも、美術でもいい。その子によって興味を示すものがある。親がこれをやれって決めちゃうのはいけない。色々な事をやらせてみて、本人がこれをやりたいっていうのが出てくればいいのではないか。学生は勉強が日常的な事で、それ以外のスポーツなり、芸術なりの非日常的なものを小さい頃からずっと持っている、それが重要なことだと思う。

『親の仕事での地位というのも相当意識していて、社会的に有用な事をしているんじゃないか』と子供が感じると、親を一目置いて見るようになる。そうなると子供は、『こういう事は違うんじゃないか』という事を余りやらなくなるのでは。

真剣な時間があれば、その反動として遊び呆けるときが必要である。遊びは仕事の影である。

情報もいいでしょう。でも、生の体験は強い。

常に努力勉強し、自分の実力を涵養すべし。虚位と虚名を頼まず。自分が企業や団体のあるポストにいるとして、それが自分一人の実力だと思い込んでしまったらとんでもない間違いです。

仕事のできる人とそうでない人。毎年入社してくる女子社員に聞けばいい。彼女たちは一週間もあればこの部長さんは仕事ができる人。この課長さんは仕事が出来ない人と完全に区別できます。というのは入社したばかりの女子社員でも上司が来たときは仕事をしているようなふりをして、いなくなったらしない。そんな光景を見たら何だこの上司はとなるわけです。

歌舞伎のダイナミズム、パワー、僕自身これだっていうものをつかみたいのです。いまから十年間はそれをつかむための助走かもしれません。当然失敗もあるでしょう。しかし、失敗がなけりゃ成功もない。とにかく頑張るしかありません。もう登り始めた山を降りるわけにはいかなないですから。

危機や危険から逃げているのはけして安全ではない。かえって危険に近づいた方が安全です。その実態がよくわかり、対応の最善策も生まれますから。

失敗は恐るるに足らない。大切なのはそのあとの処置である。

大過なくという発想は駄目です。もっと悪いのは為さざる罪。躊躇して何もしないこと。仕事にはアグレッシブな心を持ってとりくななければ。

企業と人間は違います。人事考課だったら僕は迷わず八勝七敗の方をとります。一勝十四引き分けの社員なんて面白くない。人間だったら攻撃していき時に敗れ傷ついて帰ってくる。人間なら八勝七敗がいい。

勘とは頭の働きでなく、不断の練習から生まれるものだ。

失敗の悔しさを忘れないこと、こだわり続けて生きることが大切。そのこだわりがむしろ次なる前進のバネになる。

絶好のタイミングとはいつなのか。褒めたいと思ったときに直ちにということだと思う。叱るときはぐっとこらえる時間がいるが、褒めるときはすぐに褒める。そうすれば、感情の赴くままに言葉が出てくるはずだ。何を言ったかが問題ではない。それ以上に、自分の感情をどう素直に出すかが大切になる。叱るときと正反対の行動をとればいいと思っていればいいのではないか。

大きな失敗を犯さず、誰もが次のステップに向けての通過点として安心して過ごせるようになっている。それが前例踏襲主義だ。このシステムの最大の欠陥は失敗に関する責任の所在があいまいになるという点だ。前任者も前前任者もその前も、同じことをしている。自分の順番でたまたまうまくいかなくても責任をとる必要はない。これではどこが間違っているのか原因の究明もできない。

大切な一日をあくびなんかしてふやけている人。いやですねぇ。

会長は何をすればよいのか色々研究しましたが、決まったものは何もない。そこで社長がやりやすいように仕事の邪魔をしないことにした。会長は社長の補佐役に徹すべきです。

新規事業のすべてが軌道に乗るわけではない。見通しの厳しい事業については、傷口が大きくならないうちに見極め、有望な事業に力を振り向けることが必要

勝負は時の運などというように、力だけでは勝てない時もある。しかし、普段から努力してコツコツと実力をつけていくことがまず最初に必要なことだ。実力が本当に十分発揮できるとき、それを波とかツキとか呼ぶのだと私は考える。

プロとは仕事と自分を一体化させることです。職業は何だっていい。一つの仕事に徹しさえすれば必ず達人の域にまで達せられるはずです。プロフェッショナルのプロにはプロセスのプロという意味もありまして、人生で本当に大切なことは結果ではなくプロセスですよ。

人はみんな同じだなんておっしゃる方がいますが、祖先から住んでいる土地によって、人種、宗教によってそれぞれ違う。そういう認識を持って接することが大切です。

鍛冶屋さんなら年季が入った方がいいが、消費者のライフスタイルが変わってきている時代、小売商を取り巻く環境には、過去の商売の経験がマイナスに作用することがある。

頭がきれる、または天才的な人。どの世界でもこういう人がトップになると思いがちですが、案外このタイプは二番手のことが多いものです。社長じゃなくて副社長という感じで。なぜか天才肌の人は良い時は100点を取るが、ガタっとゼロとは言わずとも50点以下をとったりする。こんな不安定ではトップの社長なんて任せられませんでしょう。

強いのに弱いふりをするのは日本では美徳でも、国際社会ではうそつきなのだ。こんな演技は対日感情を悪化させる効果しかない。日本で上手に世渡りする秘訣は3つだと外国人が言う。1、弱者を装う、2、被害者ぶる、3、何事も不器用で下手くそですと言う。

私たちの強さは弱さから生まれる。秘密の力を備えた怒りは、私たちがこっぴどい攻撃にさらされ、つつかれ、刺されたりするまで目覚めない。人間は苦しめられ打ち負かされたとき何かを学ぶ。才覚を発揮すること、勇気を持つこと、真実をつかむこと、無知を知ること、節度や生きるための本当の技術を獲得することなどを

人の言うことは気にするな。「こうすれば、ああ言われるだろう・・・」というくだらない感情のせいで、どれだけの人はやりたいこともできずに死んでいくのだろう。

正しい道にいるとしても、座っているだけじゃトラックに轢かれちまうよ。

時代は変わっても、人間を磨くのは目的に挑戦する苦労だということは変わりません。いまの人も苦労はしてるが、それは物欲を満たす苦労で、自分独特、独創の苦労ではない。どんな世界でも同じだと思う。プロとアマの違いはアマは真似でも通用するが、プロの道は独創。またそうでなきゃ通用しない。だから苦しいが喜びも計り知れない。

世間に存在する悪は、大半が無知に由来するものだ。明識がなければ善い意志も悪意と同じほど多くの被害を与えることもある。一番救われない悪徳は、自らすべてを知っていると信じていることから、自ら人間を殺す権利を認めるような無知の悪徳をおいてほかにない。

エジソンの言葉で、「99%の努力と1%のひらめき」やって、いうのがあるんですけど、あれは誰かが英訳間違えてるんと違いますか? 僕は「99%の遊び心と1%のひらめき」やと思うんですよ。僕は楽しんだと思いますよ。失敗して、失敗することを楽しんでいたと思いますよ。

私は生涯工夫ということをよく言う。社員の出来がいい悪いと言っても同じ人間。能力的には100人中98人までは五十歩百歩。天才や本当の劣等性は一人か二人にすぎないんです。仕事ぶりがいまひとつに見える人も、自分を磨いていないだけ。だから私はまず工夫しなさいと言います。そこではじめてものがよく見え、さらに頭に磨きがかかる。

私の哲学は一言で言うと平凡の哲学である。与えられたポジションでいまの時間を大切にしてその中で最善を尽くすということ。志を大きく持つことは大切だが、大志だけを抱いて大言壮語し努力せずというのが一番いけないと思う。

企業にとっての今日は5年前に打たれた布石の上にある。今日経営トップが重大な決断を下したとして、その帳尻は5年後のある日、ある朝、人々の目の前に示されているだろう。

若いときは血の気が多いのもやむを得ない。場合によっては足を踏み外して落ち込んでみることも貴重な経験であろう。だがそれが貴重になるか愚かになるかは、這いあがるときに何をつかんでくるかである。

自分で何でもできると思っている人は大成しません。人生の8割は人間関係と気配り。

人脈が広いなどと言われますが、もともと人と人の触れ合いを大切にすることを人生の一つの指針としてきましたし、人の相談にはできるだけのことをするよう心がけてきました。それでいつしか人脈が広がったんでしょう。日常の人の世話が仕事に生きてくる(江戸英雄、えど・ひでお、三井不動産会長、戦後屈指の都市開発者、筑波研究学園都市の開設に尽力、世話好きな人物として愛された)

多逢聖因、たくさんのいい人に会うといい結果が生まれる。だからたくさんのいい人と出会いその縁を大切にすることです。

50人味方がいて、50人が敵。それでいいじゃないか。全部を味方に引き入れることなんてできっこない。

人間、叩かれれば強くなるもの。陶芸でも傷があったり歪んでいるのが自然の摂理にかなっていて、それが本物の芸術。自分が何かの形で世の中に頭角をあらわせば、必ず敵が現れる。自分よりかけ離れて上の者も下の者も敵にはならない。だから敵の社会的位置や実力を見れば自分の価値を知ることができる。

虚勢をはっちゃいかん。人間なんてみんな弱いんだから、とにかく弱みを見せられる相手を作ること。裸の自分を見せれば相手も俺だって大変だよと応じてくれる。それが女でも友人でも部下であってもいいんです。これこそ危機を乗り切る秘訣でしょう。

自分が打ちたい手を素直に打つ。これがなかなかできない。はじめの頃は自分の思う打ち手があるのに、見栄や傍目を気にして「よそ行き」の手を打ってしまう。これ、一番いけないことなんです。自分の打ちたい手を打てば、たとえ間違っていても反省材料になるし、自分でも納得がいく。

誰でも逆境に出会う。そんなとき相談に乗ってくれる先輩や師がいるかいないか。また座右の書があるかないかは、人生にとって非常に大切である。普段からそのような先輩や座右の書を持つように心がけているか否かにかかっている。

作業の機械化が進むにつれて一段と必要になってくるのが心のネットワーク。役員間、社員間のこころのネットワーク作りはリーダーの大切な仕事です。

自分の努力もさることながら、やはり友達も影響しますね。友達同士であいつに負けちゃならないと思いながら切磋琢磨すると、そのグループがどんどん成長していくみたいです。だから僕はいい友達を持つということが、人生では非常に大切なことじゃないかと思います。

チャンスをつかむためには、何か一つ努力しておくことだ。宝くじでもとにかく一枚でも二枚でも買っておかなければ当たらない。

人を裁く前に、自らを律せよ(小山五郎、こやまごろう、三井銀行社長・会長・相談役、三井グループの重鎮として尊敬されたが剛腕な性格のため人斬り五郎・ケンカ五郎と呼ばれる、戦後日本金融界の中心人物の一人、東京商工会議所副会頭、全国銀行協会連合会会長、群馬県出身)

わが身の生地で部下と接しなければ本当の指導はできません。部下に取り繕っても駄目です。つまり人を治めるには、まずわが身を正さなければ誰もついてこない。第一そうでなきゃ説得力もない。

いつもこれじゃいかんという問題意識を持ち、内部体制の強化とサービスの拡充を考えろ。

欠点や短所はそのうまくできない理由や根源が、実はみな自分の人間そのものの中にひそんでいる。

机上の知識は駄目。技術はエコノミーに乗らないと意味がない。

厳しさは自分自身に向けるべき。

自分に厳しく、人にやさしくならなきゃいけないよ。

自分の基準と違うもの以外のものは作っちゃいけない。これが私の信念です。基準とは自分で納得できる作品かどうかです。お客様は仕事の遅れや値段の張りは忘れてくれても、竿の悪いのは忘れてくれません。生活のために安かろう悪かろうなんて恥ずかしい竿は作れません。古い言い方ですが、たとえ沢庵の尻尾をかじってでも良いものを作りたい。

まだまだ駄目だという自分に対する怒りを忘れてはいけない。みずからまいた種をみずから刈りとることによってはじめて自分の甘さがわかる(中原伸之、なかはらのぶゆき、東亜燃料工業社長、日本銀行政策委員会審議委員、金融庁顧問、東京大学経済学部出身、日本空手協会会長、藍綬褒章受章)

リスクを追っても、品質の高さは守れ。毀誉褒貶はあとから。
【毀誉褒貶=きよほうへん。褒めたりけなしたりすること。世評。】

ピアニストはバレリーナや体操選手と同じで筋肉労働者でもあるんです。一日何時間練習しますかとよく聞かれますが、一日休むと一日衰えてしまう。筋肉だけではありません。耳も感受性も一緒に退化するんです。

私たちは「あの会社もこの会社もやる」というものはやらない。込み合っていて暑苦しい蚊帳の中には入らない。

存在の大きさに見合う責任あるふるまいをしなさい。

一般に日本人は肩書を尊びますが、実はこれほど有害なものはありません。自分自身を見つめることを妨げるからです。肩書がついたためにこれまでとまるで別人のようになってしまう人がいるでしょう。自分を見失っちゃうんです。

真の競争は同業他社との競争ではなく、マーケットの変化にどう応じていくかにある。

人生にとって最も大切なのは、その時々に何が最も重要な事柄であるかを良く考え、そこに全エネルギーを集中させ、その他のことは切り捨てること。プライオリティー(優先順位)の決め方を誤ると、限りある時間と労力を無駄にすることになる。

個性がないと絵もそれを見る人間の目を引かない。個性を出した絵でないと人を打たぬし売れもしない。とはいっても、私はどんな小さな作品でも商品だと思って描いてはいないけどね。

先発メーカーが突っ走っているところで、そのあとを追いかけたって勝つ見込みはありません。だったら後追いなんかしなくていい。横切ってしまえ!必要なのは発想の転換です。

守るだけのタックルはだめ。こぼれ球を誘い、チャンスにつなげる攻撃性がなければいけない。仕事も同じです。

社員に目標を与えることは重要だが、その目標は高すぎても低すぎてもいけない。この次も頑張ろうと思わせる程度の高さでないと、社員がいつの間にかついてこなくなる。

サラリーマンは誰でも上に行きたいという願望があるし、それなりのチャンスがあればやるだけのことはやる。人間は責任のある立場につかないとその立場がわからないし、また力も出せない。

肩書が付くにはそれだけの経歴と実力があるわけである。肩書が目立って人物にそぐわないというのもあるが、たいていは肩書通りに人間の幅が出来てくるものだ。人間というものは自分の力があると思い込みすぎると空転してしまうが、ないと思いすぎるといじけてしまう。そういう人間が肩書を与えられると、自分で意識しなかった力が出る。自分の力を自覚してきたということである。反対に肩書が付かないために自分の力を知らず、また自分の力の振る舞いようがなくて一生終わってしまう人もいる。

課長の強い企業が一番強いんです。課長はいわば最前線にいて現場を指揮しているわけだから、時代の流れや変化を一番知りうるわけです。いまいきいきしている企業はみんな課長に戦闘力があるんじゃないでしょうか。

社員にあまり大きな責任は課すな。しかし相当な権限を与えよ。

怒るということと、怒鳴るというのは全然違うと思います。怒鳴るのは怒鳴る効用のためにそうするんです。いけないのは怒って怒鳴ることです。感情で怒鳴ってはいけません。

座して待つよりも行動に移す攻めの姿勢が大切。

序盤というのは布石で、布石自体、碁の骨格を決めるものだから大切には違いないが、この段階で激しい合戦になることは少ない。それに序盤はある程度やり直しが出来るが、中盤で大勢が決まってしまうと、もう全体の勝負が決まってしまう。

金剛石(ダイヤモンド)も磨かずばの例えどおり、社内に人材がいても経営者が積極的に仕事を任せ育てることを知らなければ期待にこたえてはくれない。

指導者とは教える人間ではありません。教えるのはある段階までのこと。指導者がもっとも心がけなければならないのは、生みだすことのできる人間に育ててやることです。教わったことが全部できたというだけでは大したことはありません。教わったものを土台にし、栄養にして自分自身の独特な何かを生みだすことができてはじめて一人前になるんです。

優秀な人間は若い頃から目につくもので、そのためについついその人物を登用したがるが、経営者として気をつけなければならないのはそれによって大器晩成型の人間をスポイル(駄目に)してしまうことだ。

玄人筋がうなる商品を作りさえすればよいという技術志向一本やりの商売はとっくに通用しなくなっている。市場の動向を読み取り、業績の拡大につなげていくのが課題だ。

新しい世代の選手との交流法ですか?理解すれども容認せずです。まずわかり合う姿勢をとり、良いことは良い、悪いことは悪いと判断するということではないでしょうか。

前例がないからやめておこうというのはアイデア殺しのことばである。せっかく良いアイデアを出しても、こんな言葉が投げかけられれば誰ももう出さなくなる。前例は破るためにある。新しい発想をさせたい。前例がないからやってみようということ。

日本は独創的な研究と言って信号では青を出しているが、交通巡査がストップをかけている。

愛社精神を持つな。会社にどっぷりつかって安心感を持つのは危険。自己鍛錬してかけがえのない人物になりなさい。

経営者にとって大切なのは、ヒト・モノ・技術などを的確に評価し、どこまで伸びるか見極める能力です。

事業の多角化には慎重に取り組みたい。堅実経営が我が社の信条。時流に乗り遅れるとの見方もあるかもしれないが、世間の耳目を集めることを打ち上げても、短期間で終わってしまったらなんの意味もない。

昼間の職場はタテマエの世界である。それは当然のことで、昼間からむやみに本音を振り回したのでは、かえってビジネスはぎくしゃくする。昼間のオンビジネスにおいてはタテマエを指標とするのが筋である。それだけに本音を応酬できるオフビジネスの世界が必要だともいえる。

組織に入れば下の人間は否応なしに上を見なければならない。しかし上は努力しなければ下を見られない。

絵はたまに描いたんでは駄目なんです。毎日頭から絞り出していないといけない。絵を描くには勇気がいるよ。

説得よりも納得。納得した上での行動が企業の活力。企業の中で和というと、とかく仲良し主義の和になりがちだ。しかし、なれ合いの和では良い仕事は望めない。必要なのは切磋琢磨し、それにまい進する和です。

経営者と労働組合は運命共同体。同じ船に乗っている船長と船員、互いに役割が違っているだけで、船が沈めば両方とも海に放り出される。

教育は上からやれ。

ミドル(中間管理職)の強い企業は将来性がある。ミドルの教育は徹底的にやれ。企業の将来はミドルが握っている。

スポーツチームのコーチは選手の悪いところを目の敵にして減らそうとする。コーチである以上、間違いは指摘しなくてはならない。だが、欠点克服の良薬は実は長所を伸ばすことにある。良いプレーが増えれば、次第に悪いプレーの数は減っていく。なにもスポーツに限らない。上司が部下を、親が子を教えるときにも同じことが言えないだろうか。

人間、「運鈍根」と言われるが、三つのうちどれが大切かと言われたら、それはやっぱり「根」だろう。運が開かれることも必要だが、それを深め、広げるのは「鈍」であり「根」。真打ちは「根」だ。

人間は様々だ。頭のいいもの悪いもの。性質のいいもの悪いもの。気の強いもの弱いもの。体が丈夫なもの弱いもの。みんなまじりあって、そのなかで揉まれ、あい励まし、お互いに傷つき、そして成長していく。葛藤と摩擦の中から人間は育っていく。とすれば、コインロッカーのようなきちんとした機能的エリート社員だけを集めると、企業のバイタリティは失われていく。

5つ褒め、3つ教えて、2つ叱る。

よく、下働きの人たちを指図するのに叱りつけている料理人がいます。口やかましく。お客さんの方も江戸前で威勢がいいなんて。でもこれプロの職人じゃありません。私ども料理人は怒ったりしたあとに味付けをすると辛くなってしまう。ですから本当のプロの料理人は泣いたりわめいたりしなくなるものなんです。

リーダーというものは、部下に誇れる何かがないといけません。それがないと結局は部下の機嫌を伺うことになる。中途半端なゼネラリストは駄目です。一芸に秀でたものがあれば申しぶんないが、そういうものがなくてもあの人には我々にできない何かがあるという面が必要でしょう。

価値の多様化の時代に統率者だけでは限界がある。持てる人材をフルに活用して総力戦で挑む必要がある。

誠をもって人に接する。和をもって事を計る。魂をもって志を貫く。

大衆に貢献なき企業は滅びる。

メーカーにはこれからもますます遊び感覚が求められるでしょう。いまのヒット商品のイメージを言葉で表せば軽・遊・華。商品そのものの軽薄短小化とメーカー側の演出の巧みさがヒットを左右しています。

いまのたった今の時点で努力していない奴らは死ぬときに必ずオロオロするんじゃないのかって思う。それまで何もやってきていないんだから。なにひとつ自分に満足していないんだよね。駄目な奴は。じゃあお前はどうだって言われると、いったい何をしてきたんだろうかって考えると、もう愕然としてくる。強烈なんだ。その問いかけは。どんなに素晴らしい人でも、それは誰にでも当てはめて言えるわけだし、これをしてきたって言える人間はいない。やればやるほど、人間は抜けた部分に気づく。だからやっぱり、人間自分の目の前にあることを一生懸命やるしかない。

新しい仕事をするときにはたくさんの壁がある。それを一つ一つ突き破ってゆくには逃げることなく正面からぶつかって行き、常に新しい発想、執念を持ってあたることが必要。幾度もあった苦境、不況はブレークスルーの精神で突破してきました。私のモットーはブレークスルーという言葉です。

いろいろな壁に幾度となくぶつかった。確かに壁に当たることは大変に苦しいことだが壁を一つのステップと考えれば、それを乗り越えようという意欲、エネルギーも生まれてくる。

伝統だけで勝てるんだったら苦労はいりません。わたしはいつも学生にいかに創造するかを強調しています。伝統の継承だけでは勝てない。日々創造していく姿勢が大切です。

人生には二度や三度はチャンスが来る。意味なく生きているはずはない。人間が人間のために作った社会なのだから。いたずらに焦っても運は向こうから来るもので、ただ眼をふさいでいては見そこなうことがあるということだ。

武道の場合、平常心のある人は相手のどんな些細な動きにも対応できるが、平常心のない人は必ず相手に乗ぜられてしまいます。経営でも同じです。心にゆとりがなくセカセカ忙しく平常心を描いていたのではロクな経営はできません。経営者がやたら忙しいのは、自慢にならないんです。

従業員のやる気を起こさせるのが経営のポイントです。幹部が現場の人間より余計に働き報酬をとりすぎない。これ人使いのコツです。儲けを配当や報酬、給与だけに回さず内部留保を心がける。商品に魅力があれば交際費は不必要。そして秘書を連れて歩かねばならなくなったら社長をやめます。

社員が100%力を出せるようバックアップするのがリーダーの仕事。社長一人が逆立ちしたところで商売が出来るわけじゃないです。

効率や能率ばかりを追求していると発想が行き詰まる。ムダや遊びにも価値を見出すべきだ。

私のモットーは知行合一。自分でやってみてなるほどと納得できればおのずと熱も入る。自分でやってみないと事業の先は読めません。物事を理路整然と分析したり説明したりする経営者がいますが、私は体で感じないと迫力が出てこないほうです。

会社というのはテクノクラートの集団なんです。だから彼らを調和させて思い切り能力を発揮できるような雰囲気を作る。これですね、リーダーの仕事というものは。

いい人ばかり集めようとし、ちょっとでも変なのがいるとこれはかなわんと悩むのは虫が良すぎる。少々のことは飲み込んで大胆に構えて行かんことには人など使えるものではない。人を使うというときには、どうしても粒よりばかりというわけにはいかんのです。

優しい人間は人がいいとか、慎重なのは結論が遅いなど、人の長所と短所は必ず裏腹になっている。ここです。人を見る力、仕事と人の組み合わせをいかにやるかが経営の腕の見せ所でしょう。

技術集約や知識集約の度合いが高まるにつれ、働く時間が長ければ成果が上がるという図式はとうに崩れている。問題を絶えず追及する人間にとって、オフ・ビジネスの時にひらめきを見出す例が多い。

本当のプロフェッショナルはその分野のことしかわからない人ではなくて、その仕事を通じてトータルに人間を感じさせるひとのことだと思う。

ビジネスマンが余暇を話題にするのは、それだけ仕事に追われて生活に余裕がない証拠。寅さんこと車寅次郎は余暇を探しまわったりしない。彼の人生は全部余暇だから。

仕事というのはメリハリをつけてやるものです。心身ともにリフレッシュし仕事をすれば、業績だっていい影響が出るはずです。

遊び心。私がよく例にあげるのは車のハンドルの遊びの部分のこと。運転する時、ハンドルに遊びがあるから正常に走れるわけで、人の場合もこういう遊びの部分があってはじめていい仕事が出来るはずです。

料理が本当にわかる人は昔の方が多かった。お金持ちが趣味的な生活してはりましたなぁ。いまは億だの兆だのという言葉が日常で出て、こまやかな話がお留守になりますやろ。みなさんお忙しい。朝からお茶やって楽しもうなんてお時間ございません。そんなんやってたら一線からのけられてしまいます。

一生懸命のコンクリート詰めになると、かえってものが見えなくなってしまう。ちょっとだけ一生懸命という余裕があると、物の本質や形がわりと見えてくるものだ。人生意気込まないで肩の力を抜いて、ぽつぽつと楽しくやろう。この心の余裕が人生の知恵だと思うがどうだろうか。

いままで一打一打死にもの狂いだった。でもいまはもう違います。これからは一打一打をエンジョイしながらやっていきます。だって、ゴルフを一日でも長くやり続けたいから。

わが身を立てんとせば、まず人を立てよ。

経営の原動力は人材。その人材に求められているのは、お客様の変化に敏感に対応できる柔軟性です。こうした時代、長期的な経営戦略といえども状況に応じて変更していかざるを得ないですから、硬直した頭では役に立ちません。

しなけちゃならないことをやって成功した。これはもちろん最高点。逆になすべき時に何もしなかったのは落第点。

聞き上手になれ。自分のほうの宣伝をするよりも、お客様の話をじっくり聞く方が何倍も大切です。

良く皆さん言います。自分の仕事だけ考えておったらいかん。全体の状況を視野に入れよって。でも、ちょっと待てと私は言いたい。勤め人はその場で与えられた仕事をきっちりやることが先決。全体のことはそれを考える役目の者がちゃんといるわけです。課があり部があり営業本部があり、それらが集まって会社となる。全体的にどうだこうだという暇があったら、自分の課・部・営業本部をそろばんに合うようにするのが仕事やないかといいたいですね。

相撲道は辛抱して自分で切り開いていくもの、誰も手とり足とり教えてくれはしない。15尺の土俵。あの中にはなんでも落ちている。女房、金、ダイヤモンド、全てがある。全人生がある。

良い人間関係を作りたいなら、挨拶を惜しんではいけない。挨拶は積極性を示すためのパスポート。難しく考える前に口に出してみよう。

勤め人として伸びたいのなら、やはり他の人間とは一味違ったものを持って努力しなきゃいかんだろう。僕は課長代理のとき、課長・部長になったつもりで仕事をした。上の人間には絶対迷惑をかけない。自分で泥をかぶるんだと腹を決めて仕事に取り組みました。

起業家精神を持って仕事に取り組め。上の人間から言われたことをソツなくこなすだけでは駄目。一人ひとりが自分は何をやるべきかを考え、積極的に実行すべし。

親のコネは親が死んでしまえば終わりだけど、自分で作ったコネは一生自分のもの。自分自身の人間関係を大切にする姿勢は大切です。

うちには成績優秀な学生が入社してくると言っても、学者の集団じゃあるまいし、そういうの支店長にもなれません。会社は企画部長みたいのばかり揃えてもしょうがない。小さい時から上ばかり見て、試験に通りさえすればいいと思っている人は、会社に入って目標がなくなると勉強しなくなる。これじゃ人生わびしい。

トラブルは自分を磨き、イマジネーションを豊かにするチャンス。トラブルを恐れるな。逃げずに頑張って潜り抜けた者が大きくなっている。

Glorious Discontent!(栄光ある不満を持て)

自分にとっては消化試合でも、相手にとって重要な対局であれば、相手を全力で負かす。

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