作家・アーティストの名言

このページは「作家・アーティスト」に関する名言を集めたページです。仕事の能率、人生の質、資産状況を変えるアイデアのヒントが詰まっています。気に入った名言は、SNSにスクラップしたり、手帳などに書き写してみてはいかがでしょうか。

作家・アーティストの名言 一覧

二十五歳未満の者、小説を書くべからず。
【覚書き|小説は人生経験を積んだあとに、その人生観をもとに書くべきだという主張からの言葉。】

少数の天才や才人だけが創作の権利を壟断した文芸の貴族政治は、過去のものだ。

悪い作家とは、読者に理解できない自分の内部での文脈を考慮に入れながら書く連中のことである。

文学は商売と芸術とが半々であるときに最も栄える。

自分のためだけに心の狭い楽しみをひたすら追い求めた結果訪れる幸福は、次元の低い幸福だけです。広い考え方を持ち、自分ばかりでなく世の中の他の人々にも関心を示してはじめて大いなるものと歩調を共にするような、次元の高い幸福を手にすることができる。そうした幸福は、とかくひどい痛みを伴います。幸福とたんなる痛みを分ける方法はただ一つ。こうあるべきだと魂が感じ、あらゆるものの中から選んだかどうかです。

言葉は翼を持つが、思い通りに飛ばないものだ。

天才とは、わずかに我々と一歩を隔てた者のことである。天才の悲劇は、こじんまりとした居心地の良い名声を与えられることである。

芸術のための芸術は、一歩を転ずれば芸術遊戯説に墜ちる。人生のための芸術は、一歩を転ずれば芸術功利説に堕ちる。

およそ芸術家であることは、計算したり数えたりしないということです。その樹液の流れを無理に追い立てることなく、春の嵐の中に悠々と立って、そのあとに夏が来るかどうかなどという危惧を抱くことのない樹木のように成熟すること。

とりわけ鼻持ちならんのは、本来ならば最も自由な道を進まなければならないはずの芸術家たちの群れ。これは何なんだ。芸術家の自由な生き方とは、要するに独りでどこまでツッパレルかを実践することではないのか。そうした姿勢から強烈な個性が生まれ、個性的な芸術作品が生まれ、芸術の幅がぐっと広がるのではないのか。

歴史はその最終段階だけが重要なのではない。経営者の評価や財界人としての基準も変わった。80年代までのヒーローの中にも「墜ちた偶像」が何人もいた。その一方でまた、新しい経済のスターが現れつつある。没落した経営者が、その得意の絶頂で何を語り、何を誇ったか、それを読むのもまた興味深い。

戦後の日本ほど経営者が重んじられた国は、人類の歴史上でも珍しいだろう。国家の要職、重要審議会の座長や大型財団の会長、国民的な行催事や大規模国民運動の代表などには、多くの財界人、つまり経営者の大物もしくはその卒業生が就いた。経営者は世間で尊敬される立場だったのである。

美しさの極致は一人の女にだけあるのではない。すべての女にある。彼女たちはそれを知らないが、皆がこの美に到達するのだ。ちょうど果実が熟するように。

死というものを常々考えもしない人はまず抜きにして、死への親近感からはじまった人々が、ついに生への意志に到達するのがあくまでも人間的な生き方というものである。

雌伏もまた静かなる戦いなのである。【雌伏(しふく)=絶好の機会が訪れたときのために、力を蓄えながら、忍耐強く待つこと。】

若者にとって、酒は大人への勲章である。だから、むやみに飲む。大量に飲むほど大人に近づけたような錯覚がある。反吐を吐き、乱暴狼藉を働き、大声で泣きわめいたりする。それでよい。失敗を恐れないのが若者の特権である。醜態を演じるのが若者であるとも言える。

弱いのはけっして恥ではない。その弱さに徹しえないのが恥だ。

他人もまた同じ悲しみに悩んでいると思えば、心の傷は癒されなくても、気は楽になる。

いままでの自分が持っている一ツの自力の世界、自分というものは自分の力で仕事をするとうようなことからいや、自分というものは小さいことだ。自分というものは、なんという無力なものか。何でもないほどの小さいものだという在り方自分から物が生まれたほど小さいものはない。そういうようなことをこの真宗の教義から教わったような気がします。

私たちに与えられた光は、ただじっとそれを見つめているためではなく、それによってまだ私たちから隠されているところの、遠い先のものを開けて見るために、与えられているのだ。

大洋よりもいっそう壮大なものは大空である。大空よりもいっそう壮大なものは人間の心である。

悲しみはそれが悲しみである限り、生産的ではありえないように今の僕には思える。ものを生み出す力は常に悲しみを一つの武器として転化していくものでしかないのだ。

人は私の作品について議論し、まるで理解する必要があるかのように理解したふりをする。私の作品はただ愛するだけでよいのに。

その手に魂が込められなければ、芸術は生まれない。

真実。それは美しく、そして恐ろしいものです。ですから非常な注意を持って扱われなければなりません。

私の前を歩かないでください。後についていかないかもしれません。私の後ろを歩かないでください。先に立って導かないかもしれません。私と並んで歩いてください。そして私の友でいてください。

いつも自分はきっと将来何か音楽に関係したことをしているだろうなということは知っていた。そこで成功しているかどうかはわからないけれど、その世界で何かしているだろうなとは思っていた。レコード店で働いていたかもしれない。バンドの一員としてやっていたかもしれない。ただ、決してこの世界にスターになるために入ったわけじゃない。

私の描くこの人体は、君の目の前にまるで本人がいるようにはっきりと見えるだろう。もし君が人間の体の各部位を解剖学的に完全に知りたいと思うなら、君あるいは君の目は、下から、前から、横から、また、回してみたり、どこに起点があるか調べたりしながら、いろいろ異なった面から観察しなければならない。私の絵は、どんな部位でも君にはっきりわかる。体の各部位を三つの視点から見て表現することが大切なのだ。

よく知られているように、間違いというものは、自分の仕事よりも他人の仕事の中に見つけやすいものだ。絵を描くときには、平らな鏡を使って、そこに自分の作品を映してみるとよい。すると、絵が左右逆に映し出される。そうすれば、誰かほかの画家によって描かれているように見え、じかに自分の絵を見ているときよりも、その欠点がよく見えるものだ。

もし、想像の動物を本物のように見せたければ、たとえば、ドラゴンを取り上げてみると、頭はマスチフかセッター、目はネコ、耳はヤマアラシ、鼻はグレーハウンド、ライオンの眉毛に老いた雄鳥の額、ミズガメの首を使うとよい。【覚書き:ダ・ヴィンチの短いレクチャー本「想像上の生き物を、本物のように作るために」の中の一節。ダ・ヴィンチは実際に生きたトカゲに部品をつけドラゴンを作り、友人たちを恐れおののかせたことがある】

一日の始まりの時、南側の地平線のそばでは大気がバラ色に染まった雲にぼんやり霞んでいる。西の方はまだ暗く、東の方へ行くにつれて地平線のあたりの湿った水蒸気のせいで、実際の地平線よりも明るく見える。そして東にある白い家々はほとんど識別できない。一方、南の方は遠くへ行くほど、バラ色の度合いが濃くなり、西の方はそれがもっと暗い色合いになる。そしてその影は白い家々の手前で消えている。【覚書き:ある日の日の出を描写した文章】

執筆の一回一回が勝負で、常に「最後の一冊」と思って書いています。「刀語(※)」も、 1巻ごとに“最終巻”と思って書いていたんです。人生は何があるかわからないし、そのときに書き残したことがあったらイヤじゃないですか。常に自分の中を空っぽにしておきたいです。【※刀語=12カ月連続で毎月一冊シリーズ全12冊が刊行された。】

アイデアのストックはなるべくもたないようにしています。アイデアは温めたら温めただけ古びていくし、本当に書きたいものはその場で書きたくなるはずですから。

小説を1本書いている間に、次の仕事の仕込みをしているんです。人間は、集中しすぎると疲れるし、ろくなものができない。さらに集中できるのは1日90分ぐらいなもの。でも人間は1日10時間は働かないといけないわけです。過度に集中せず、意識を散らす意味でも、次の話を考えるんですよ。

他人の悪口ばかり言うやつは嫌われる。陰湿な妬み根性は暗く厭わしい。ある人物がこれから成長するか否かは、同輩など他の人物の美点を認める度量があるか否かによって測りうる。他人を褒める心の余裕を欠いている僻み屋は決して伸びない。悪口はイカが墨を吐くのと同じく周辺を暗くする。

人間がもし孤独を楽しむ演技をしなければ、率直におのれの内面と向き合うならば、その心は必ず、ある存在を求めているのだ。愛に絶望した人間は愛を裏切らぬ存在を求め、自分の悲しみを理解してくれることに望みを失った者は、真の理解者を心のどこかで探しているのだ。

最初に百点満点を相手に求めようとするから減点法になってしまう。むしろ、ゼロからいい部分を加算していけば、けっこう素晴らしいと思える人があちらこちらにいてくれる。

愛すること、それはお互いに見つめあうことではなく、同じ方向に並んで目をそそぐことだ。

人間と人間とが関わりあうということは、本来的にうれしい、楽しいことなんです。知らない人を知る喜びがある。男と女も、そう。ただ不幸なことに、我々はいつでも坂道で出会ってしまう。

人間は、完全に理解されるなんてことはありえません。ですから、それを踏まえてなお、自分が思っていることを誠実に話し続けたり、あの方の言いたいことはこういうことなのではと考えたりしながら、人間理解を深めていくわけです。

おとなしく夜の世界へ行くな、老年は終わろうとする日に向かって燃え上がり、わめくべきだ。怒れ、怒れ、消えかけた光に。

老年の最大の報酬は精神の自由である。元気盛りの人々が重要だと考えることに、ある程度無頓着になれることである。もう一つの報酬は、羨望、憎しみ、憎悪から開放されることである。私は誰も羨ましいと想わない。私は与えられた才能を、出来る限り発揮した。

いつでも上等の背広を着ていないと気がすまない人がある。会社へ行っても、同僚よりも汚い机をあてがわれたといって怒る人がいる。その机の配置を妙に気にする人がいる。私はそういう人を野暮ったいと思う。どちらかというと、そういう人が嫌いだ。

言葉は恐ろしい。たとえようもなく気持ちを伝えることの出来るのも言葉だが、相手の急所をグサリと刺して、生涯許せないと思わせる致命傷を与えるのも、また言葉である。

浮浪者の少女モモに話を聞いてもらっていると、バカな人にも急にまともな考えが浮かんできます。モモがそういう考えを引き出すようなことを言ったり、質問したり、というわけではないのです。彼女はただじっと座って、話を注意深く聞いているだけです。その大きい黒い目は、相手をじっと見つめています。すると相手には自分のどこにそんなものが潜んでいたのかと驚くような考えがすうっと浮かび上がってきます。

良い条件がそろっている人間というのは、それだけ多くのチャンスを失っているという気がするんです。自分の中の欠点みたいなものは絶対、財産なんです。

書くという仕事は毎日、10円玉を貯金箱に積み立てていくようなこと。

人は信念とともに若く、疑惑とともに老いる。
人は自信とともに若く、恐怖とともに老いる。
人は希望ある限り若く、失望とともに老い朽ちる。
大地より、神より、人より、美と悦楽、勇気と壮大、そして偉力の霊感を受ける限り、人の若さは失われない。

青春とは人生のある時期を言うのではなく、心の様相を言うのだ。逞しき意志、優れた想造力、燃ゆる情熱。おびえを退ける勇気、安易を振り捨てる冒険心、こういう様相を青春というのだ。年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときに初めて老いが来る。歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失うときに精神はしぼむ。

しかるにかの凡俗の俗世界に貴賎貧富、栄枯盛衰などとて孜々(しし)経営して心身の労するその有様は、庭に塚築く蟻の群衆が驟雨(しゅうう)の襲い来るを知らざるがごとく、夏の青草に翻々(ほんぽん)たるバッタがにわかに秋風の寒きに驚くがごとく、おかしくもまた浅ましき次第なれども、すでに世界に生まれでたる上は、うじ虫ながらも相応の覚悟なきを得ず。

千人もの人が愛すべき長所を持ちながら、嫌な感じを与え、千人もがそれ以下の才能しかないのに好感を与える。そのわけは、一方は「ありのままの自分でないもの」に見られようとし、他方は「見えるとおりの人間」だからである。

我々は時として自分の器以上の位や顕職に引き上げられることがあり、また生まれつき定められていたのとは別の新しい職に従事することも多い。こうした境遇には、すべてそれぞれにふさわしい顔があり、その顔は必ずしも我々の本来の顔にふさわしいとは限らない。

人がしばしば嫌な感じを与えようとすれば、それは顔と挙動を自分の境遇に調和させ、声の調子や言葉を自分の考えや気持ちに調和させることが、誰にも上手くできないためである。人はそれらの間の諧調を調子はずれでそぐわない何物かで乱してしまう。自分自身を忘れ、知らぬ間に自分から遠ざかる。ほとんどすべての人が、どこかでこの過ちに陥る。誰一人この種の快い調べを完全に聞き取るだけの良い耳を持たない。

結局我々は、自然からどんな利点もしくは不利な天を与えられているにせよ、自分の身分や境遇にふさわしい、顔、声、挙動、気持ちに即しているほど好感を与え、底から遠ざかるほど嫌な感じを与えるのである。

人それぞれ、境遇と才能にふさわしい顔がある。その顔をやめて他の顔にすれば必ず失敗する。自分にとって自然な顔を心得て、それを置き忘れず、できるだけ良い顔にしようと努めなければならない。

この文明生活という荒れくるう海の真っ只中では、考慮しなければならない雲と嵐と流砂と百千の条件があって、船が浸水して海底に沈み、思う港に着けずじまいにならないためには推量測定でいきていかなければならず、よほどたくみな打算家でなければ成功はおぼつかない。単純にしたまえ、単純に。

われわれの生は些細なことで費やされている。正直な人間はその十本の指を数える以上の必要はほとんどない。特別の場合には十本の足指をくわえるぐらいで、あとは一からげにすればよい。

人間は内面から生きなければならない。芸術家は内面から制作に向かわなければならない。人間も芸術家も、たとえどのように振舞おうと自分の個性を打ち出してゆく他はない。そういう気持ちで元気いっぱい仕事にかかるならば、間違いなく彼は自分の生命の価値を自然から与えられ高邁(こうまい)さ、または優雅さを表出することとなる。

自分が自由だと称するのは、大変僭越なことです。なぜなら、それは同時に自分を制御する意志をも表明しているからです。誰にそれができるでしょう。友人たちに若い詩人たちに、私は次のように言いたい。君たちは、今は規範というものを一つも持っていない。それは君たちが自分で得なければならない。

最も重要なことを簡単に申しましょう。若い詩人は、生きて働き続けているものだけを、たとえそれがどんな形においてであれ、表現するように努めなさい。反対のための反対、悪口、ただ否定することしかできないものを、ことごとく退けてはなりません。ただの否定からは何も生まれてこないのですから。

アイデアというものは、それが生まれた頭の中でよりも、ほかの頭に移植されたほうがよく育つ。

私は貧乏人のように生きたい―――たくさんのお金を持ちながら。

作家が最も書きたがるのは、小切手裏の受け取りサインだ。

人々はなんと愚かなことか。一度に命を投げ出すことはひどく恐れるくせに、命を毎日少しずつ切り捨てていることに無頓着とは。

私は貧乏だったことがない。ただ金欠だっただけだ。「貧乏」とは心の有り様を言い、「金欠」とは一時的な状況を言う。

英語における最も美しい言葉をあげるとするなら…「小切手 在中(Check Enclosed)」ですね。

銀行家というのは、太陽が照っている時に自分の傘を差しだし、雨が降り始めるやいなや傘を返せというようなやつだ。

腐食したり、塗り替えが必要なものには決してお金をかけてはいけない。

自分の収入の中だけで生活することだ。たとえそのために借金しなくてはならないとしても。

人の成すことには潮時というものがある。うまく満ち潮に乗れば成功するが、その機を逃すと一生の航海が不幸災厄ばかりの浅瀬につかまってしまう。【シェークスピア、ジュリアス・シーザーより】

博打はするな。全財産を使ってもよい株を買い、上がるまで待ってから売れ。もしその株が上がらないとしたら・・・そんな株は買うな。

我々は無限の可能性を秘めた章の第一ページの第一行である。

私がそこにいる必要がないライフスタイルを作ること。それが私の目標です。

真の人格者は自尊心に厚く、何よりも自らの品性に重きを置く。
しかも、他人に見える品性より、自分にしか見えない品性を大切にする。
それは、心の中の鏡に自分が正しく映ることを望んでいるからだ。

賢明な人間のほうが「私は自分が無知であることを知っているにすぎない」と進んで認めるものなのだ。

多くのことをする手っ取り早い方法は一度にひとつずつ片付けることだ 。

私たちの疑いは反逆者であり、やろうとしないから失敗してしまうという安易な道に私たちを誘いこむのである。

どんな出来事も偶然も、意志の強い人の強固な決断を妨げることも、阻止することも、抑えつけることもできない。

芸術というものは最も独自性があるものでなければ意味がない。その独自性があるためには、持って生まれた芸術的な才能に加え、天性を伸ばしてくれる良い師との出会いがなければならないでしょう。

稽古して稽古して稽古して。これでもかというほどけいこしておかないと安心して舞台に立てません。一つのことに執念を持ち続ければ必ず大きな力になり、執念を失えば何もかもはかなくついえてしまいます。

要するにフィルムであろうと印刷であろうと、つまらない写真を一発で凄い写真にするウルトラCなどないということ。小手先の技術だけで凄い写真が出来るわけがない。

いまのスポーツ選手は体格がいいのに昔ほど強くないのは、野放しにせずはじめから手とり足とり理屈で形を覚えさせるからでしょう。理屈には限界があって、その能力でしか力が出せないんです。絵でもそうです。知識で描くと個性的な主張がなくなります。

職業は紛れもなく写真家。趣味もまた写真。道楽なんだから始末におえない。

仕事って何でもそうでしょうけど自己闘争ではないでしょうか。自分との戦いでその辛さを支えてくれるのが褒められることだと思います。人間ってちょっと褒められるととても嬉しくなっちゃいます。また頑張ろうって。

登りかけた山なら登り詰めるべきでしょう。役者というのは人生経験なり人間性なりの蓄積がうまくミックスした時がいわゆる脂がのるという時期じゃないかと思うんです。年齢でいうと50から60歳くらい、それに向かっていろいろ試してみたい。

いまやらねばいつできる?
私がやらねば誰がやる?

仕事というものは男にとって自己表現、自己主張であり、生きることの証なんです。仕事をするということは自分を開発し発見していくことに他なりません。ですからどんな仕事にしろ受け身では仕事の中に生きがいを求めるのは無理、前向きの姿勢で意欲的に取り組んでいかなければ駄目です。仕事のための努力や苦労は、より大きな自分を育て上げるための自己投資です。

能力や才能はそれを認め活用してくれる能力や才能がなければ成り立たない。

上司がやっていけないことをあげておきたい。たとえば一人の部下をみんなの前で褒める。このときに、つい口をすべらせて「それにひきかえ○○くんの成績はどうだ、トップの人の爪の垢でも煎じて飲んだらどうだ」などと言ってはいけない。絶対にいけない。褒めるときは純粋に褒める。他人と比較したり、他人をこき下ろしたりしてはいけない。

部下にやる気を起こさせる手っ取り早い方法は、まず自分のやる気を起こすことだ。やる気のある人間には誰でも引きつけられる。リーダーも部下に見られていると思えば、いやでもやる気を出さざるを得ない。テレビタレントや役者がいつも生き生きしているのは、多くの人に見られているからだ。見られるということを意識しているからだ。あなたが思っている以上に部下はあなたのことを良く見ていると意識した方がいい。しかも隠したいと思う部分ほど・・・

下から突き上げられ、上から抑えられるという中間管理職の宿命は変わらずに続くということだろうか。ぼくは必ずしもそうとは思わない。部下を競わせて仕事の相乗効果を高めていく。それがチームの力をつけるということなのだと思う。中間管理職はそれを学ぶ絶好のポジションになるはずだ。もっと言えばここで何ごとかをつかめなければ上にはいけない。個人の手柄にこだわっているようではもう一つ上は目指せないということなのだ

部下が上司に最も望むことは、的確な指示を出してほしいということだった。上司はどうか。いや自分は的確な指示を出していると思っているはずだ。確かに部下には甘えがあるかもしれない。しかし厳しい言い方をあえてすれば、伝わらなければ的確な指示とはならないのだ。指示は的確に伝わらないものと心していたほうがいいかもしれない。

管理職にあるものの必須条件は公正さだと思う。複数の部下を持つ管理職は何はなくとも公正であってほしい。公正とは偏りがなく、正しい事だ。同じ二人の部下とはいえ、キャリア半年の新人とキャリア3年の部下を公平に扱うのは問題がある。だから公正に扱う。相手に合わせて対応するがなぜ対応に違いがあるかを理論的に説明できるのが公正さだと思う。

いまはむしろ前例がないからやってみる時代だ。激しい変化は前例踏襲では乗り切れない。いままでの上司のやり方は手本にならないということになる。何を受け継いで、どこを変えるのか。取捨選択する能力が問われるのではないだろうか。思い切って変えていかなくてはならないものとは何か。それは前例踏襲主義だ

これからの時代に求められる上司は、個性派ぞろいの部下を上手に束ね、力を一つの方向にまとめ上げることだろう。パソコンが得意な部下にはパソコンについて聞けばいい。なるほどそんな裏技もあるのかと興味がわけば、自分の仕事に生かしていける。つまり部下から取材するのだ。知りたいことは取材する。わからないことは相談する。大切なのは方向を示すことなのだ。そのための素材は多ければ多いほどいい。

生き残れる上司と生き残れない上司。その差を決めるものは何だろう。ずっと突き詰めていくと、好奇心ということになると思う。それもそこそこの好奇心ではなく、極めて旺盛な好奇心だ。意欲とかやる気というのは煎じつめていけば好奇心と責任感という要素から成っていると思う。旺盛な好奇心があれば知らない分野に取り組んでいける

多少きつい言い方になるかもしれない。しかし本気で自己啓発に取り組めない管理職はどこかで落ちこぼれる。時代はいつも変化している。変化に対応するためには自分自身を変えていく必要がある。そこそこできればいいと思っていると、ある程度のところで満足してしまう。自己啓発はそこで終わる。大切なのは自分に満足しないということなのだ。

物わかりのいい上司を演じたがる。その気持ちはよくわかる。自分を良く見せたいというのは悪い事ではない。でも演じるなら最後までだ。責任は俺がとると言ったら、とるのだ。間違った方向に進んでいれば軌道修正する。迷っていればアドバイスする。そういうケアをしてこそ最後に責任がとれる。責任をとるとは具体的にどうすることだろう。部下の失敗を自分の失敗として謝りに行くことだ。

どんな重荷も夕暮れまでならだれでも背負える。どんなにきつい仕事でも一日だけならだれにでもできる。日が沈むまでなら誰でも優しく辛抱強く愛に満ち溢れ、純粋に生きることができる。これこそ人生というものだ。

幸福というあのとらえどころのない感覚より、蝶の方がずっと捕らえやすい。幸福がこの世にやってくるときは偶然訪れる。幸福を追い求める対象にすれば、雁を追いかけるようなもので捕まる見込みはまずない。

経験から確かに言えるのは、簡素で懸命な暮らしをすれば、この世で生きていくことは苦労でなく楽しみとなる。大部分の快適なものや、いわゆる生活を楽にする者の多くは、無くてすむばかりか明らかに人類の進歩の妨げになる。

株式ブローカーってやつは他人の金を投資につぎ込み続けるんだ。すっからかんになるまでね。

大したことはないと撮った写真の中に傑作はけしてなく、努力し「凄い!」と手ごたえ十分に撮った十枚にやっと「ヤッタ!」の一枚がある。

コンサートが成功するかどうかは最初の練習で決まります。たとえ初顔合わせであっても指揮者が式台に上がった瞬間に楽団員はその個性を敏感に見分けるものです。指揮者に求められるのはまず第一に人間的な信頼を基にしたオーケストラ掌握力、つまり人格なのです。

進歩するには背伸びも必要でしょうね。ちょっとずつ背伸びして、その時の自分よりも装って発言したり行動する。そして次にその背延びが嘘でないように努力するわけです。たとえば階段を上がる時にかかとが上がるでしょ?あのくらいずつ背伸びして階段を上がっていく。あのくらいなもんですよ。あれを三段四段跳びあがると背伸びではなくなってしまう。ちょっとずつでいいと思うんです。かかとが上がるように背伸びしていかないと進歩しないんです。

できる者ではなく、最低の者のレベルを上げることこそ教える者の技である。

私は毎日、二時間の基本レッスンをやっています。これは私の舞台を支えている大事なレッスンです。一日基本レッスンを怠ると、自分の体が不調になるのがわかります。二日怠ると、パートナーにわかります。そして、三日怠ると多くの人にわかります。

成熟するためには遠回りをしなければならない。

作家は真空の中では育たない。よい土壌、つまりいい友達、よく話し合える人たちが周囲にいないと育たないよ。なにもない無の世界で育つ作家がいたらそれは天才だ。

一つの体験からすべてを見ないよう注意しなさい。熱いレンジの蓋に座った猫にならないよう。その猫は二度と熱いレンジの蓋に座らないだろう。だが冷たいレンジの蓋にも二度と座らない。

勇気とは慣れ親しんだものを手放す力だ。

人生最大の過ちは、過ちを犯すことを絶えず恐れることである。

給料以上のことをしない人は、いま以上の給料は得られない。

どんなに優れた曲を作ろうとも、そのまま放っておいたのでは譜面に描かれたたんなる模様でしかありません。そのものに生命を吹きこみひとり歩きさせる。それが指揮者、演奏家の使命というものです。

死ぬまで勉強。世間ではじきに名人なんて言うがとんでもないことです。若い頃、先生に「せめて下手になれ、下手以下は何万人といるが下手にならなければ決して上手にはなれない」と言われたものです。

先生が病気で死ぬことをみんな知っているから、みんな泣きながら弾いているの心の中で。全員が先生の手を見つけているから、信じられないくらい音がぴったり合っているの。僕は今でもそのテープを持ち歩いて、先生のことを思い出すたびにそれをかけるんだけどね。聞いているうちに涙が出てくるんだ。
【覚書き|上記の「先生」とは恩師、桐朋学園創立者の斎藤秀雄のこと】

真に重大な哲学の問題は一つしかない。それは自殺だ。人生を苦しんで生きるに値するか否かという判断をすること、これが哲学の基本的な質問に答えることだ。

人間というのは褒められるとそれにしがみついて、それより上には出られないものです。若い頃の私もそんなふうで、描けども描けどもこんなはずではないと思いながら、同じことに明けくれた時代がありました。

いまの日本社会や人々には一途さがたりないような感じがします。どうも最初から逃げ道を用意しているような傾向がある。いつも前進を考え、全力を尽くすことが一番大切なんだと思います。

舞台での上演は企業で言う商品化に値するだろう。商品価値が高くなければ誰も観に来てくれない。

人生を努力している男、刀折れて矢尽きようとも約束を果たすために全力を挙げる男。さらには他人に思いやりがあり、包容力がある男を頼れる男の条件に加えたい。

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