作家・アーティストの名言

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このページは「作家・アーティスト」に関する名言を集めたページです。仕事の能率、人生の質、資産状況を変えるアイデアのヒントが詰まっています。気に入った名言は、SNSにスクラップしたり、手帳などに書き写してみてはいかがでしょうか。

作家・アーティストの名言 一覧

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我々が第一に戦わねばならぬ厄介な敵は、我々の内部にある。流れに逆らおうとしたところで無駄なことだ。流れのままになっておれば、どんな弱い人でも港に流れ着くものだ。


二十五歳未満の者、小説を書くべからず。
【覚書き|小説は人生経験を積んだあとに、その人生観をもとに書くべきだという主張からの言葉。】


少数の天才や才人だけが創作の権利を壟断した文芸の貴族政治は、過去のものだ。


悪い作家とは、読者に理解できない自分の内部での文脈を考慮に入れながら書く連中のことである。


文学は商売と芸術とが半々であるときに最も栄える。


自分のためだけに心の狭い楽しみをひたすら追い求めた結果訪れる幸福は、次元の低い幸福だけです。広い考え方を持ち、自分ばかりでなく世の中の他の人々にも関心を示してはじめて大いなるものと歩調を共にするような、次元の高い幸福を手にすることができる。そうした幸福は、とかくひどい痛みを伴います。幸福とたんなる痛みを分ける方法はただ一つ。こうあるべきだと魂が感じ、あらゆるものの中から選んだかどうかです。


言葉は翼を持つが、思い通りに飛ばないものだ。



天才とは、わずかに我々と一歩を隔てた者のことである。天才の悲劇は、こじんまりとした居心地の良い名声を与えられることである。


芸術のための芸術は、一歩を転ずれば芸術遊戯説に墜ちる。人生のための芸術は、一歩を転ずれば芸術功利説に堕ちる。


私は不幸にも知っている。時には嘘によるほか語られぬ真実もあることを。


人間は勇気を失ってはおしまいなのである。甘ったれてはならぬのである。


働くということには、不平や不満がつきまとうように運命づけられている。その宿命に簡単に負けたのではおしまいである。自分を不幸にするだけだ。あえてその宿命に挑戦する気になったら、そして、それによって自分という人間の真の値打ちを知ろうと努力する気になったら暗闇の中に一条の光明を発見できるかもわからないのである。そのためには勇気が必要である。


本当に生きるということは、環境に迎合したり、また安易に受け入れられ、好かれたりすることであってはならない。私はいわゆる成功はむしろ絶望に等しいと思っている。いつでも計算を超えた無目的な闘い、いわばあらゆる対象への無条件な挑みを続けることが人間的であり、生きがいであると信じている。


絶望の中にも焼け付くように強烈な快感があるものだ。ことに自分の進退窮まった惨めな境遇を痛切に意識するときなどはなおさらである。


間違ったことの言い訳をするよりも、正しいことをするほうが時間がかからない。


幸運は偉大な教師である。不運はそれ以上に偉大な教師である。


たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間生まれてきたかいがないじゃないか。


若い時に苦い水を飲まなかった奴は、肥立ちが悪いよ。俺は苦労を先生だと思っているんだ。人間、苦労に仕込まれないとすぐいい気になっちまう。


結局夏は来るのです。だが夏は永遠が何の憂いもなく、静かに広々と眼前に横たわっているかのように待つ辛抱強い者にのみ来るのです。私はこれを日ごとに学んでいます。苦痛のもとに学んでいます。そしてそれに感謝しています。忍耐こそすべてです。


およそ芸術家であることは、計算したり数えたりしないということです。その樹液の流れを無理に追い立てることなく、春の嵐の中に悠々と立って、そのあとに夏が来るかどうかなどという危惧を抱くことのない樹木のように成熟すること。



君の心の庭に忍耐を植えよ。その根はにがくとも、その実は甘い。


青年時代には、不満はあっても悲観してはならない。つねに抗い、戦い、かつ自衛せよ。もし茨(いばら)を踏まねばならぬものなら、もとより踏むのが良いが、踏まずにすむものなら、みだりに踏むべきではない。


とりわけ鼻持ちならんのは、本来ならば最も自由な道を進まなければならないはずの芸術家たちの群れ。これは何なんだ。芸術家の自由な生き方とは、要するに独りでどこまでツッパレルかを実践することではないのか。そうした姿勢から強烈な個性が生まれ、個性的な芸術作品が生まれ、芸術の幅がぐっと広がるのではないのか。


できることなら、あのイヌワシのように生きてみたいと思う。イヌワシのように生きる資格の一つとしては、おれはまず第一に決して群れないことをあげたい。周囲を見まわしてみるがいい。群れている人間ばかりが目につくじゃないか。カラス人間やスズメ人間ばかりじゃないか。ひとりでは呼吸もできない連中が、その必要もないのに、互いに軽蔑しあいながらいたるところに群れているじゃないか。


歴史はその最終段階だけが重要なのではない。経営者の評価や財界人としての基準も変わった。80年代までのヒーローの中にも「墜ちた偶像」が何人もいた。その一方でまた、新しい経済のスターが現れつつある。没落した経営者が、その得意の絶頂で何を語り、何を誇ったか、それを読むのもまた興味深い。


戦後の日本ほど経営者が重んじられた国は、人類の歴史上でも珍しいだろう。国家の要職、重要審議会の座長や大型財団の会長、国民的な行催事や大規模国民運動の代表などには、多くの財界人、つまり経営者の大物もしくはその卒業生が就いた。経営者は世間で尊敬される立場だったのである。


戦後の日本には、武人の文化がなくなってしまった。そのため、決断、勇気、大胆、覚悟といった武人的美徳まで消えてしまった。


幸福は決して怠惰の中にはない。安逸の中に幸福はない。それはただ平穏があり、「仕合せ」があるのであって、「幸福」という輝かしいものではない。平穏はやがて、平穏であるからつまらない時が来るし、仕合せは仕合せであるのがつまらない。という時が来る。幸福というものはそういうものではない。幸福は常に努力する生活の中にのみあるのだ。


政治に命を懸ける奴もいれば、まんじゅう作りに一生を捧げる者もいる。俺一人が世の中のことを考えている、苦しみを一人で背負っていると考えている人間や、それを露骨に表す者を、私はあまり信用しない。政治や人生観を考えている人間が偉いのではなく、一生懸命に生きている人が一番偉いのであり、そしてそれはしごく当然なのである。


美しさの極致は一人の女にだけあるのではない。すべての女にある。彼女たちはそれを知らないが、皆がこの美に到達するのだ。ちょうど果実が熟するように。


乗りかけた船には、ためらわずに乗ってしまえ。


情熱を持続するには危険が必要なんだ。ちょうど恋愛の情熱がさめるのは安定した時であるのと同じように、人生の情熱が色あせるのも危険が失せた時だよ。革命はまだ危険という油を俺たちの情熱にそそいでくれる。


わかるだろうか、人生には解決なんてないのだ。ただ、進んでいくエネルギーがあるばかりだ。そういうエネルギーをつくりださねばならない。解決はそのあとでくる。


いま、この歳になって私が若い人に言えることは、自殺するならとにかく30歳まで生きてみるということだ。そこまで生きてからの思想上の死ならまだしも許せる。青年の観念的な死への傾斜は人生のはじまりであるが、一面から見ればその大部分がまやかしであり、さもなければ病気である。病気は治さねばならない。


死というものを常々考えもしない人はまず抜きにして、死への親近感からはじまった人々が、ついに生への意志に到達するのがあくまでも人間的な生き方というものである。


家康の敗北の生かし方とは、次の機会までの力の蓄積の期間に転じることであった。ここに、負けて勝つ秘法がある。柔よく剛を制するのである。


人生は苦しい。人生は多くの人々に、陰惨な、希望のないものと思われています。しかし、それにしても、だんだん明るくなり、楽になってゆくのは、認めないわけにはいきません。そしてどうやらまったく明るくなってしまうときも、そう遠くはないらしい。


おれは、20代の前半、どうしても放送作家、劇作家、シナリオライターのいずれかになりたかった。自分の書いたものが、自分以外の誰かに認められたかった。それも、気心の知れあった仲間ではなく、まったく未知の、そしてプロの道を歩いている人に認められたかった。そのためには懸賞を狙うしかない。審査員の人たちはプロである。プロに認められなければ意味がないと考えた。そう考えた途端に燃えたものだ。睡眠不足も、燃えれば解消する。


プロを意識した途端に、すべての物事に対して貪欲になるはずだ。すべてを吸収しようとする。吸収するために、人は独自の工夫をするものである。


人生は完璧ではないが、ピアノや、ヴァイオリンより不完全な楽器とは思わない。人生の曲をなり響かせれば、死も征服でき、永遠歓喜の世界の門を開いて、中にとっとと入る力がないとは言えない。しかし急いで死ぬ必要もないから、生きているので、死が怖くって生きているのではない。


雌伏もまた静かなる戦いなのである。【雌伏(しふく)=絶好の機会が訪れたときのために、力を蓄えながら、忍耐強く待つこと。】


目標は美である。愛である。完全である。天に届かないまでも、大きな杉は天を目指して進む。我らも天を目指して進むのだ。天は遠い、我らの歩ける所は短い。それでもいいのである。天を目指して進むのである。個々が生きてすべてが生きる道である。自分の自画像は白骨となっても、天を目指して進むのである。


どこまでも勝ち抜き、どこまでも生き抜くためには、勇敢であることが必要なのだ。そして勇敢の第一の条件は生命を捨てるのを恐れずに戦うということだ。それも弱者のため、自分の保護を要求する人のために身を犠牲として戦う。これが勇敢な者の特質である。


青年のくせにぐうたらだったり、怠けることを考えたり、快楽に溺れて平気でいたりする者は、理想を持たない現実の敗北者である。そんな人に万歳は云えない。


どんな女でも、本気になって口説くことを決心した男にはなびかずにはいられないように、人生というものも、それを元気よく口説く人間には、その最上のものを提供せざるを得ないものだ。


私たちの人生は、私たちが費やした努力だけの価値がある。


若者にとって、酒は大人への勲章である。だから、むやみに飲む。大量に飲むほど大人に近づけたような錯覚がある。反吐を吐き、乱暴狼藉を働き、大声で泣きわめいたりする。それでよい。失敗を恐れないのが若者の特権である。醜態を演じるのが若者であるとも言える。


弱いのはけっして恥ではない。その弱さに徹しえないのが恥だ。


自分の経験は、どんなに小さくても、百万の他人のした経験よりも価値のある財産である。


男と女が一緒に暮らしてゆくために必要なものは、情熱でもなく、肉でもなく、それは忍耐に違いない。相手の現在をきらめく光が取り囲んでいたとしても、それはやがては消え去って、地肌の醜い部分が露出してくる。それにたじろがずに見つめ、自分の中に消化しようとする。しかし、消化しきれない部分が常に残り、絶え間ない違和感と生ぬるい苦痛とを与えてくる。それを忍耐することが、男と女が暮らしてゆくために最も大切なことだ。


優れた人間の大きな特徴は、不幸で、苦しい境遇にじっと耐え忍ぶことだ。


成し遂げんとした志を、ただ一回の敗北によって捨ててはならぬ。


他人もまた同じ悲しみに悩んでいると思えば、心の傷は癒されなくても、気は楽になる。


天は自ら行動しない者に救いの手を差し伸べない。


苦難の時に動揺しないこと。これは真に賞賛すべき卓越した人物の証拠である。


勇気、体がどんなに弱っていようとも精神で打ち勝ってみせよう。25歳、それは男たるすべてが決まる年だ。悔いを残してはならぬ。


寝ても覚めても、夢中に板画のことばかりでいっぱいでした。そのころは、名ある版画家もカフェや料理屋のマッチペーパーまたは年賀状などなどの仕事をつくっていました。こんなことでは駄目だと私は思っていました。金になる、ならないを超えた、仕業位性の高い日本の版画をつくらなければならないと思いました。


いままでの自分が持っている一ツの自力の世界、自分というものは自分の力で仕事をするとうようなことからいや、自分というものは小さいことだ。自分というものは、なんという無力なものか。何でもないほどの小さいものだという在り方自分から物が生まれたほど小さいものはない。そういうようなことをこの真宗の教義から教わったような気がします。


恐れることなく醜にも邪にもぶつかってみよう。その底に何があるか。もしその底に何もなかったら人生の可能性は否定されなければならない。


日の輝きと暴風雨とは、同じ空の違った表情にすぎない。運命は、甘いものにせよ、苦いものにせよ、好ましい糧として役立てよう。


私たちに与えられた光は、ただじっとそれを見つめているためではなく、それによってまだ私たちから隠されているところの、遠い先のものを開けて見るために、与えられているのだ。


劣等感は十全に法則に適合できない生物が、より充実した生を生きたいと思っているのにそれがかなわない痛みであるといえるだろう。とすれば、劣等感とは、積極的に生きたいとする生の願望が何らかの形で否定されることによって顕在化した痛みである。ともいえるということである。


劣等感とは、十全に生きたいと強く願う人ほど味わわねばならぬ可能性が多くなる感覚なのであって、いちがいに委縮した退嬰的なものと思うわけにはいかないのである。我々はほとんど誰も、完璧な形で宇宙の意志を実現しているものではないはずであるから、そのことを強く意識したものほど劣等感を味わうであろう。 【覚書き|退嬰=たいえい=しりごみすること】


欠陥だらけの人間でも、その人間が鈍感であり、自己を見つめる目がなければ平気なのである。だから劣等感というものは高級な感覚だとも言える。


仕事が楽しみならば人生は楽園だ。仕事が義務ならば人生は地獄だ。


人間はみんなが、美しくて強い存在だとは限らないよ。生まれつき臆病な人もいる。弱い性格の者もいる。メソメソした心の持ち主もいる。けれどもね、そんな弱い、臆病な男が自分の弱さを背負いながら、一生懸命美しく生きようとするのは立派だよ。


日の光を借りて照る大いなる月たらんよりは、自ら光を放つ小さな灯火たれ。


大洋よりもいっそう壮大なものは大空である。大空よりもいっそう壮大なものは人間の心である。


人間の一生には一度はまたとない好機が来る。


悲しめる心よ、落ち着いて悔ゆるのをやめよ。雪の後ろには太陽が照っている。


悲しみはそれが悲しみである限り、生産的ではありえないように今の僕には思える。ものを生み出す力は常に悲しみを一つの武器として転化していくものでしかないのだ。


人はいつも、時が物事を変えてくれると言うが、実はそれはあなた自身で変えなくてはならないものなのだ。


人は私の作品について議論し、まるで理解する必要があるかのように理解したふりをする。私の作品はただ愛するだけでよいのに。


その手に魂が込められなければ、芸術は生まれない。


死というのは、ただ人生の次に起こる大冒険にすぎないの。


真実。それは美しく、そして恐ろしいものです。ですから非常な注意を持って扱われなければなりません。


歳をとるにつれ、自分にとってのヒーローという存在を持つことが難しくなるが、多かれ少なかれそれは必要なことである。


私の前を歩かないでください。後についていかないかもしれません。私の後ろを歩かないでください。先に立って導かないかもしれません。私と並んで歩いてください。そして私の友でいてください。


嘘というものは、真実が靴を履いている間、地球を半周は旅することができる。


馬鹿は自分のことを賢いと思い、賢明な人間は自分が愚か者であることを知っている。


全世界は一つの舞台であり、すべての男と女はその役者にすぎない。彼らは退場があり入場があり、ひとりの人間が一度の登場で多くの役を演じる。


自分の誤りを認めなければならないことほど耐えがたいものはない。


いつも自分はきっと将来何か音楽に関係したことをしているだろうなということは知っていた。そこで成功しているかどうかはわからないけれど、その世界で何かしているだろうなとは思っていた。レコード店で働いていたかもしれない。バンドの一員としてやっていたかもしれない。ただ、決してこの世界にスターになるために入ったわけじゃない。


私の描くこの人体は、君の目の前にまるで本人がいるようにはっきりと見えるだろう。もし君が人間の体の各部位を解剖学的に完全に知りたいと思うなら、君あるいは君の目は、下から、前から、横から、また、回してみたり、どこに起点があるか調べたりしながら、いろいろ異なった面から観察しなければならない。私の絵は、どんな部位でも君にはっきりわかる。体の各部位を三つの視点から見て表現することが大切なのだ。


よく知られているように、間違いというものは、自分の仕事よりも他人の仕事の中に見つけやすいものだ。絵を描くときには、平らな鏡を使って、そこに自分の作品を映してみるとよい。すると、絵が左右逆に映し出される。そうすれば、誰かほかの画家によって描かれているように見え、じかに自分の絵を見ているときよりも、その欠点がよく見えるものだ。


もし、想像の動物を本物のように見せたければ、たとえば、ドラゴンを取り上げてみると、頭はマスチフかセッター、目はネコ、耳はヤマアラシ、鼻はグレーハウンド、ライオンの眉毛に老いた雄鳥の額、ミズガメの首を使うとよい。【覚書き:ダ・ヴィンチの短いレクチャー本「想像上の生き物を、本物のように作るために」の中の一節。ダ・ヴィンチは実際に生きたトカゲに部品をつけドラゴンを作り、友人たちを恐れおののかせたことがある】


一日の始まりの時、南側の地平線のそばでは大気がバラ色に染まった雲にぼんやり霞んでいる。西の方はまだ暗く、東の方へ行くにつれて地平線のあたりの湿った水蒸気のせいで、実際の地平線よりも明るく見える。そして東にある白い家々はほとんど識別できない。一方、南の方は遠くへ行くほど、バラ色の度合いが濃くなり、西の方はそれがもっと暗い色合いになる。そしてその影は白い家々の手前で消えている。【覚書き:ある日の日の出を描写した文章】


執筆の一回一回が勝負で、常に「最後の一冊」と思って書いています。「刀語(※)」も、 1巻ごとに“最終巻”と思って書いていたんです。人生は何があるかわからないし、そのときに書き残したことがあったらイヤじゃないですか。常に自分の中を空っぽにしておきたいです。【※刀語=12カ月連続で毎月一冊シリーズ全12冊が刊行された。】


アイデアのストックはなるべくもたないようにしています。アイデアは温めたら温めただけ古びていくし、本当に書きたいものはその場で書きたくなるはずですから。


小説を1本書いている間に、次の仕事の仕込みをしているんです。人間は、集中しすぎると疲れるし、ろくなものができない。さらに集中できるのは1日90分ぐらいなもの。でも人間は1日10時間は働かないといけないわけです。過度に集中せず、意識を散らす意味でも、次の話を考えるんですよ。


他人の悪口ばかり言うやつは嫌われる。陰湿な妬み根性は暗く厭わしい。ある人物がこれから成長するか否かは、同輩など他の人物の美点を認める度量があるか否かによって測りうる。他人を褒める心の余裕を欠いている僻み屋は決して伸びない。悪口はイカが墨を吐くのと同じく周辺を暗くする。


人間がもし孤独を楽しむ演技をしなければ、率直におのれの内面と向き合うならば、その心は必ず、ある存在を求めているのだ。愛に絶望した人間は愛を裏切らぬ存在を求め、自分の悲しみを理解してくれることに望みを失った者は、真の理解者を心のどこかで探しているのだ。


最初に百点満点を相手に求めようとするから減点法になってしまう。むしろ、ゼロからいい部分を加算していけば、けっこう素晴らしいと思える人があちらこちらにいてくれる。


愛すること、それはお互いに見つめあうことではなく、同じ方向に並んで目をそそぐことだ。


人間と人間とが関わりあうということは、本来的にうれしい、楽しいことなんです。知らない人を知る喜びがある。男と女も、そう。ただ不幸なことに、我々はいつでも坂道で出会ってしまう。


人間は、完全に理解されるなんてことはありえません。ですから、それを踏まえてなお、自分が思っていることを誠実に話し続けたり、あの方の言いたいことはこういうことなのではと考えたりしながら、人間理解を深めていくわけです。


「さよなら」は大切な言葉だ。しっかりと、美しく言おう。別れの一瞬、相手の目をちゃんと見て、「さようなら」と言って、それから会釈をしよう。


おとなしく夜の世界へ行くな、老年は終わろうとする日に向かって燃え上がり、わめくべきだ。怒れ、怒れ、消えかけた光に。


老年の最大の報酬は精神の自由である。元気盛りの人々が重要だと考えることに、ある程度無頓着になれることである。もう一つの報酬は、羨望、憎しみ、憎悪から開放されることである。私は誰も羨ましいと想わない。私は与えられた才能を、出来る限り発揮した。


いつでも上等の背広を着ていないと気がすまない人がある。会社へ行っても、同僚よりも汚い机をあてがわれたといって怒る人がいる。その机の配置を妙に気にする人がいる。私はそういう人を野暮ったいと思う。どちらかというと、そういう人が嫌いだ。


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