経営者・社長・会社経営の名言

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経営者・社長・会社経営の名言 一覧

社風というのは平穏なときにはわからない。緊急、異常時に出てくるものだ。
【覚書き:伊勢湾台風直後の社葬の時を振り返っての言葉。準備期間が取れなかったのにもかかわらず社員が力を合わせ社葬を執り行った】

社長業は全力投球すれば体力、気力から6年くらいがちょうど良いところではなかろうか。自分の方針を社内に徹底して実現することも、6年あれば十分であろう。

商品とだけ付き合わず、会社と付き合え。
【覚書き:ビジネスマンは自社製品の知識だけでなく、会社全体の方向性も考えたうえで開発や営業をしなければならないという趣旨の発言。社員に口酸っぱく伝えた】

朝、会社の玄関に入るときに、下腹にエイッと力を入れて、ここからが修羅場だぞと自分に言い聞かせた。
【覚書き:オイルショック後の海運造船不況の中に船舶部長を務めたころを振り返った時の発言】

現状で満足しているわけではないが、電気事業に限っていっても、私が長い間考えていたことは、戦後になってだいたい実現した。敗戦という大きな動機があったとしても、世の中の動きというものである。
【覚書き:戦前に全国の中小電気会社を合併させ業界再編しようとするも受け入れられず、第二次世界大戦後に実現したことについて語った言葉】

舞台は真剣で値段は安い。そしておもしろい。幕間は短い。
【覚書き:舞台・演劇の興業はこうあるべきだという大谷氏の哲学を的確に表現した言葉。以降、この哲学によって松竹は大きく成長した】

我が国で成功している企業は、一から十まで西欧の模倣によるもので、日本独特のものはなんら進歩のあとが認められない。高等教育を受けた者はみなバタ臭い方向に行って、味噌、醤油をつくる仕事はいやしい仕事として敬遠されている。私はその不合理と不思議を心もとなく思った。

「寝れば一畳、起きれば半畳、五合とっても三合飯」の明るさと、「今にえろ(偉く)なったるぞ」の意欲が私の力だ。

たった今から収入の一割の貯金をしたまえ。自分で苦労したタネ銭がなくては、芽も出てくるまい。

世の中は刻々と変化し、個人の力でどうすることもできない場合もある。だが、どんなに変化する世の中でも、自分から落伍してはだめだ。

「謙虚に」。思い上がったり、でしゃばったりしないこと、そして人の立場を尊重すること。お互いに他人の立場を認め合って物事に処したなら、たいがい事はうまく運ぶ。
【覚書き:日本商工会議所会頭時代に処世訓を尋ねられた時の答え】

イギリスからもらった名目だけのタイトルなんか返上したらどうか。日本にも明治33年までは居留地があって外人から見下されていたが、日本人自身の自覚と努力によって、ついにその壁を打ち破った。
【覚書き:英国領インドで綿花取引を行っていた際、現地のインド人ブローカーに言った言葉。このブローカーはのちにインド独立運動に身を投じ、ガンジー派の幹部として活躍した】

西田(幾多郎)先生からはいろいろ教えを受けた。一番切実に教わったのは自覚ということだった。また、プラトンの意志の力、つまり吹雪の中を突っ込んでいくという発想、意志の弱さは罪悪だという思想を植え付けられた。

自分はこれまでただ自分のためにのみ働いてきた。そのためにロンドンに一人知己もなく、わびしいクリスマスを味わねばならなかったのだ。今後は可能な範囲で人のためにも働こう。
【覚書き:ロンドンでのホテルマン修業時、クリスマスで寂しい思いをしその後の人生哲学を確立したことを振り返っての発言。】

映画といえども企業は企業である。企業の要となる経理を自分でしっかり押さえてかかるならば、映画企業も立ち直りの例外となるまい。
【覚書き:東映の新社長に就任した時を振り返っての発言。東映は東横映画、大泉映画、東京映画配給の赤字3社が合併して発足した。】

私は平社員の時も、社長、会長時代も常に「16番目の選手たれ」の気持ちを忘れずに過ごしてきたつもりだ。

先見性や発想力があっても、努力の裏付けがなければ経営者にはなれない。

日本人はぜいたくになり、何もかもが派手になりすぎている。物心ともにハンブル・ライフ(つつましい生活)に徹すべきである。
【覚書き:大槻氏は三菱鉱業の炭鉱の労務係から職歴をスタートさせたため、会長になっても質素な生活を徹底していた】

物産では駆け出しの若僧にも結構一切任せて大きな商売をやらせていく。ところがサラリーマンにすぎぬ。このままでは自分も知れたものだ。トコトン自分を追いつめて自分の運命を試してみたい。
【覚書き:三井物産を飛び出してインキ製造開発の道に進んだ時を振り返っての言葉】

ブローカー商売はもう御免だ。自分は汗を流さないでおいて、口先だけで中間利潤をむさぼる商売は、いわば詐欺と同類である。

普通の足袋にゴムを縫い付けた地下足袋はあった。しかし、地べたにはくのですぐに糸が擦り切れ、終始修繕しなくてはならない。自動車のタイヤは二枚の布を貼り合わせ、その上にゴムを張っている。そのゴムのりで張り付けるのが一番いいだろうと思った。
【覚書き:ゴム底地下足袋の開発時の発言】

人の一生は短いものであるが、事業は尽きることない永遠のものであると思っている。しかし、事業を永遠のものにするためには、日に新たに、絶えず己を更新してゆかねばならぬ。もしそうでなかったら事業は人の一生よりもっと早く老衰し、短命であるに違いない。

人は天下一品の使命といって、その人でなければ持ち合わせてない特性、あるいは才能がある。これを自由に発揮させる場をつくることが、経営者にとって最も必要なことだと思う。

運転する工場の中で一番大切なのは、人心の安定、すなわち和、敬の精神と、場内の清潔整頓である。

細かいことで私欲を出したり、無理に人を押しのけたりすることは感心できません。たまに赤字覚悟、損得勘定抜きの場合があってもいい。その方が相手側の信頼を得て、結局はプラスになって返ってきます。

現代の企業経営者は、社会全体に対して奉仕することを義務付けられている。
【覚書き:上記は東レ名誉会長時の発言】

経営は雪だるまを押していくようなものだ。すなわち、太く固い芯をフロンティア精神をもって作り上げていくことだ。

その人になりきってしまって、その人が怒るときには私も怒り、その人が泣くときは私もまた泣いて、ものを考えているのである。

私の仕事は一口で言えば、国防の基盤になる鉄や石炭、その他重要資源を調査し、これを整理編成することである。私は調査課長を十年近く勤め、その間、資源調査法を立案、同胞は公布された。業務が広範なので仕事は無限にある。だが在勤十年ともなると統計の数字などちょっと見ただけで勘が働き、誤りが発見できる。

「IBMを使おう」と言っても、社内ではまだ誰も知らなかった。いろいろ検討した結果の採決でも、賛成3に反対7の実情だったが、私はこればかりは譲れないと、強引にワンマンぶりを発揮して導入した。研究のための施設には惜しみなく資金をかける。いわゆる無駄を省いてこそできる贅沢なのである。

神谷商事の設立とその失敗を通じて、ひとつの人生観を体得した。それは、過去のことにくよくよせず、大勢を見通したうえで、その流れに逆らわず、新しい人生を求めよという考え方である。
【覚書き:三井物産退社後、鉄鋼問屋神谷商事で起業するも、金融恐慌の経済混迷で廃業に追い込まれた時を振り返っての発言】

処遇の厚薄は担当する楽器操作の巧拙と難易によって上下する。理想は楽団的事業経営体である。
【覚書き:神戸商工会議所会頭・日本商工会議所会頭などの経験を踏まえ理想的な労使関係を語った言葉】

本業がおろそかになる。やはり本業が大事だ。苦労しても品質をよくすることが必要だ。
【覚書き:映画会社にフィルムが売れず、富士フィルム自ら映画製作に乗り出すべしという意見にたった一人反対した時の言葉。】

事業部制は組織を垂直方向でなく、水平方向に発展させようという試みである。

カニは己の甲羅に似せて穴を掘る。要するに、分相応を守ってきたんだよ。
【覚書き:オカモトの50周年に語った言葉】

己の分を知っている人は、人の信頼も得られ、社会の中で重くなっていく。不満な人は会社で絶対に伸びない。
【覚書き:経団連会長時に出世する人はどんな人かと問われての発言】

粘って粘り抜く。そうすればいつかは曙光が見えてくるものと私は確信しています。

「できない」「もうこれでいい」「やるだけやった」と言うな。「これでもやり足りない」「いくらやってもやり足りない」と思え。一心不怠に努力すれば、努力した分だけ必ずよくなる。

反省し、直そうとするから改善があり、進歩がある。もし自分のやったことが正しいと思い込んだら、その人間の明日は来ない。

金貨一円になれと言いたい。紙幣の一円は日本国内だけしか通用しないが、金貨であれば世界中同じ一円の価値で通る。この金貨のようにどこでも通用する人間になれということだ。

私はもう安閑として机にかじりついている気がしなくなった。学校を退き、家事を手伝って、我が家の危機を乗り越えるとともに、村の窮乏を救うために努力したいと決心した。貯蓄と言っても一人ではなかなかできにくい。また村全体が立ち直るには、村全体がやらねば意味がない。私は貯蓄組合をつくろうと思った。
【覚書き:上記は岡野氏が20歳のころに郷里の大飢饉を目の当たりにして立てた志。旧制中学は現在の高校】

60歳から70歳ぐらいまで勤めて自然に辞めてゆくというのが普通だった。自分自身の危険負担において自由に大空を飛んでみたいというのが希望である。誰からの制約も受けずに積極的に何かをやってみたいと思うのは当然であろう。
【覚書き:55年定年制を他社に先駆けて導入した時の言葉。余力を残し、第二の人生に踏み出せるようにとの想いから同制度を導入】

店を閉めようとしたら50万円の借金が見つかった。結局私一人が借金を背負った形となって、このあと悪戦苦闘をする。そして立て直しに成功する。いい取引先を見つけたことと思惑をやらなかったせいである。
【覚書き:藍澤証券の前身である港屋商店を経営再建したきっかけについての言葉。思惑とは思惑売買のことで、自分の思惑でもって金融商品の売買をする投機的投資のこと】

戦争は終わった。惨憺たる敗戦である。グリコの本拠もかくのごとく灰燼に帰した。しかし、我々は決してグリコの再生復興を疑ってはならない。工場も機械も、材料も商名も一切が焼け失せたが、ここにまだ、さすがの敗戦にも焼けなかった最大の資本がある。それはグリコという看板である。のれんである。名前である。これは過去30年間営々として築き上げてきた我々最大最高の資本である。

よい牛をつくるには、牛の好む草をたっぷり与えなければならない。そのよい草はよい土壌に育つというのが、私の「米国で学んだ心理」だ。つまり、牛、草、土の三位一体というのが酪農本来のあり方である。

私はしばし呆然とし、次の瞬間、死を考えた。いっそ自分も立て坑に飛び込んでしまおう。その方がどんなに楽かもしれない。が、また次の瞬間、それでは責任者として卑怯者になると考えた。なによりもまず、遺族の方々に対する責任と、会社に対する責任を取らねばならない。そう思ったら勇気が出てきた。
【覚書き:福岡三菱新入炭坑に配属されたとき、大爆発事故が発生。責任者として事に当たる決意をした時を振り返っての言葉】

いつも生活の設計図を会社の運命に結び付いて描いてきた。平凡なようだが、顧みて幸せな男だ。
【覚書き:日本製鋼所に入社し、社長・会長を経て引退まで勤め上げた自分の人生を振り返っての発言】

世の中に出てからも人の敷いたレールの上を無難に歩かされるのが嫌だった。だから役所でも民間でも仕事が軌道に乗ると、自ら手を引いた。事業というものは、計画を練り、新天地を開拓していくこと自体に楽しみがあるのだと思う。

心身ともに私はへばっていたらしい。昭和27年5月。意識を失って国立病院に入った。どん底にあって、私は人の心の美しさと温かさを知った。

事業というものは、正確に状態を把握していれば、やがては必ず成功するものである。
【覚書き:上記発言は閉鎖が予定されていた北九州の八幡と恒見の2工場を存続させた時の発言。様々な調査ののち閉鎖せずに経営再建できると判断を下した。結果、2工場は見事に再建に成功】

ひたいを集めて相談したのがウィスキーの製造だった。つまり松花江工業の計画でジェット燃料をつくるのに蒸溜の工程があったが、それから思いついたのが白酒を蒸留して、96から97度くらいの純粋アルコールにし、これをウィスキーに化けさせようとの算段である。

大気汚染、水質汚濁、従来の鉄道や自動車に代わる交通手段、都市の冷暖房など国民の生活環境をよくすることに役立つ技術部門を先導部門としてとりあげたらどうか。
【覚書き:日本経済新聞の取材にて日本の今後の技術開発の方向性を聞かれた時の言葉】

事業にはひとつひとつに時間をかけて大きくしていく方法もある。これを手っ取り早く実現できるのが合併で、リスクはあっても要はやり方次第だ。
【覚書き:東洋紡と呉羽紡の合併について振り返った発言】

若いうちは重荷に感じられても、自分の手に余るような仕事に勇敢にぶつかっていくことが大切である。
【覚書き:20代で日本軍とリットン調査団の英語通訳として同行した時のことを振り返っての言葉。】

臆病者と言われる勇気を持て。安全航行こそ、最大の使命であり、責任である。

窮するもまた楽し、通ずるもまた楽し。私はむしろ平坦な道を好まない。その反対に、難題にぶつかると、これを打開してやまない闘魂が頭を持ち上げてくる。

相手が信頼するに足れば、自らも信頼に値するものにならねばならぬとする努力。これが相互信頼の真髄である。
【覚書き:日産自動車社長時の発言。労組との交渉について語った時の言葉】

波渡りと同じく、仕事の上でもタイミングこそ絶対だ。早すぎてはならず、遅きに失しては無駄になる。
【覚書き:日本証券業協会会長時の発言】

新会社は設立当初から「スモール・スロウ・バット・ステディ(小さく遅くても堅実で行こう)」をモットーとしていた。
【覚書き:日商(現:双日)設立時のモットーを振り返った発言。日商は巨大コンツェルン鈴木商店の一部門が独立した会社。鈴木商店は大番頭金子直吉の放漫拡大経営と昭和大恐慌によって消滅した。その反省から上記のモットーが生まれた】

自動車を始めて私が得た信念は「金ができたら設備の方へ回せ。人間で能率を上げてはいかん。機械で能率をあげよ」ということであった。
【覚書き:1950年の大規模ストライキ中にトヨタ社長に就任。激しい労使交渉を経験した後に語った言葉】

妨害はかえって私の闘志をかきたてた。社員に対しては「社運を賭してこの事業を達成させなければならぬ」と決意を表明した。
【覚書き:大丸の東京進出時、東京で営業していた百貨店が仕入れ先に圧力をかけてきたことを知ったときを振り返り】

私の頭に浮かんだのは、無限と言ってもいいほど森林資源に恵まれた樺太のことだった。当時、東大の工科出身といえば、社内では一応エリートと目されていた。そんな俺が、何を好んで樺太くんだりまで行かなければならぬのかと思いもした。しかしいいじゃないか。誰も行かないところで思いきりやってみよう。たとえ地の果てでも男は仕事さえあればいい。そう思うと四肢に力がみなぎり、それまでの煩悶は消し飛んだ。

尾去沢の事故処理は、私にとって大きな試練であった。宇宙の威力というものが、人間生活の転変と建設という事業の上にいかに大きく覆いかぶさっているということを私は身をもって感じた。

兜町に入って50年以上になる。過去を振り返ってみると、朝から晩まで剣の刃渡りをしているようなものだった。
【覚書き:関東大震災、昭和恐慌、太平洋戦争後の不況などを証券業界で経験してきたことに対する回想】

三人で受け持ちの工程を一人抜いて私が入る。ちょっと工夫すれば二人でもできる。なるほどと連中が納得したところで、二人でやらせる。不平の連中は仕事から外して遊ばせておく。人数は減っても仕事が楽になるから、真面目な連中は喜んで協力する。
【覚書き:三井鉱山大牟田コークス製造工場の人員整理に取り掛かった時を振り返っての発言】

事業を伸ばすには消費者の趣向や流行に合わせた製品を安価な価格で出さなければならないと考えた。しかし、発明家は「俺の発明は」「俺の発明は」で押し通してくる。これだけの発明品が売れないのは、あなたのやり方が悪いといった調子だ。万一、発明家と一緒に事業をしなければならないような場合は、事業経営の面に一切口出させてはならないと悟った。

私は朝早くから工場に行き、職長たちと親しみ、晩は職長たちを呼んで茶菓をだして話を聞いた。経営の核心を知るために、原価を的確に知りたく、原価計算も研究した。私のこうした仕事ぶりは、周囲に好感をもって迎えられた。職長たちも、今度の人は前の人たちとは違う、よく話の分かる人だと褒めてくれた。
【覚書き|日本陶管で高浜工場長に就任したときを振り返っての発言】

かつて我々は占領下の集中排除法に挑んで二年間戦ったが、いまにして思えば、あれは貴重な試練であったとむしろ感謝したい気持ちですらある。
【覚書き:太平洋戦争後、各種企業の規制や分割が行われ苦しんだが、競合各社も力が弱まり、北海道から本州へ販路を広げることができるようになったことについての回想】

企業は地域の発展とともに発展する。したがって地域の発展に尽くすことが、そのまま事業のためになるのだ。
【覚書き:中部電力会長当時の発言。電力会社は地域の盛衰によって電気使用量・収益が変わってくる事業のため、営業地域に対し果たすべき企業責任があると理念を語った言葉】

欲望に限りがなく、些細なことにも腹を立て、おかげさまを忘れて自分の行為には高い値をつけようとする。

「太平住宅」「太平火災」の組織を見ればおわかりのように、私はあくまで、利潤を追求する企業経営者とはなりたくない。私の理想とするところは、資本家も労働者もない企業形態を具現したいと思っている。その底に流れるものは、大衆に喜ばれる、大衆への奉仕である。こうした考え方は、私が貧しくして育った青少年時代の影響であろう。

サイレント(無声映画)からトーキー(有声映画)への転換を図るが、借金は200万に膨れ上がった。なぜそんな大金を借りられたか。またなぜ貸したかというと、賃借のことで私が微塵も嘘をつかなかったということだろう。
【覚書き:日活を買収し企業再建を始めた際、千葉銀行から多額の資金を融資を得られたことについての回顧】

私には海外での酒造りという心躍る夢があった。夢を追いかけるのに夢中で、老ける暇もなかった。
【覚書き:70歳でブラジルで蒸留酒カシャッサ(ピンガとも呼ばれ、世界で2番目に飲まれている蒸留酒)を造り、80歳を越えてから米国でワイン生産に乗り出したことに対してのコメント】

トヨタの給料は、GM時代の半分だった。朝は7時に出社して、夜は星を抱くまで働く。しかも休みは月に二日だけである。それでも酷使されているとは思わなかった。

給料日の5日前くらいになると、もう財布の中は空っぽで、子供たちにひもじい思いをさせなければならない。どうして、シャケの切り身を行く切れか買い、好きなビールの一本も買い、子供にはチョコレートの数枚も買って、一家団欒の楽しい夕食にすることができないのか。一生懸命働いている人には、信用という無形の財産があるではないか。
【覚書き:第二次世界大戦後の混乱の中で月賦販売を開始した志をふりかえった言葉】

返品やできそこないのソーセージをリヤカーにうず高く積んで、真夜中に葦合区の生田川じりへ20貫、30貫と捨てた。運びながらこらえきれなくなって涙がポロポロ出た。
【覚書き:魚肉ソーセージをデパートに納入し、一時的な成功を得たものの、製品に保存性などの問題があり大量返品が来てしまう。その時を振り返っての言葉。このあと、研究に没頭し伊藤ハムの主力商品であるプレスハムの開発に成功した】

日本の金融市場は、遅かれ早かれグローバルスタンダードの下に機能することになるだろう。これを受け入れるには、日本の市場関係者が旧来の発想や経営路線から脱皮して、新たな市場で闘う気概とそれが国益に合致するとの考えに立たねばならない。
【覚書き:90歳の誕生日に】

ブームの時は物が上がる一方だから商売は楽だ。会社の上役はお召の袴などはいて自動車を乗り回し、我々若いものもかなりだらけていた。この膨れ上がった取引が、戦争後の反動でグッとしぼんだのだからたまらない。
【覚書き:第一次大戦特需の好景気と、その後の反動不景気について語った言葉】

土曜・日曜・祭日が年にどれくらいあるか知っていますか?実に120日もあるんだなこれが。3年たつと、まる一年分になる。ビジネスは勝つか負けるか、ただそれだけです。遊んだら負け。月月火水木金金、働かにゃ損します。

市場で4位か5位でいると、No.1がくしゃみをしただけで肺炎にかかってしまう。No.1なら、自分の命運をコントロールできる。第4 位グループの連中は合併に明け暮れ、苦しむ。第4位になると、事情が全く違ってしまうからだ。苦しむことが仕事になってしまう。だからこそ、より強大にな るための戦略的方法を見極めることが必要になる。世界でNo.1かNo.2でなければ再建か、売却か、閉鎖かのどれかだ。

人間とは便利なものである。いま振り返ると、いい思い出しか浮かんでこない。ちょうど負けた馬券を覚えていないようなものである。三越の店員時代のこと、独学のこと、梶山商店創業当時のこと、しんどかったことや苦しかったことは、年月による浄化作用を受けて、すべてが懐かしいものに変わっている。

決して順風満帆ではなかったはずだが、回顧するとそのように見えるから不思議だ。いやな思い出を忘れることができるからこそ、人間は希望をもって生きられるものかもしれない。

俺はその日のことはその日で忘れる主義だ。その日に決断のつかないことを、思い悩んで明日まで持ち越すようだと、明日の戦争は負けだ。一日の労苦を忘れるには、坊主とか芸者の浮世離れしたバカ話を聞き、ぐっすり寝て仕事を忘れるに限る。翌朝は頭が爽快で、また新しい構想が浮かぶのだ。

失敗することを恐れていては思い切った働きはできない。同じ働くのなら精一杯の力をぶつけて働く。そこで失敗するのなら仕方ない。

人生はマラソンのような長距離競争である。一気に駆け抜けようとすると落伍することになる。急ぐべからず、焦るべからずである。徳川家康も言っているように「人生は重き荷を負いて遠き道を行くがごとし。百里の半ばを90里とせよ」の心がけもって、長い人生の荒波を根気強く渡らなければならない。

人生の戦いにおいて、相手に負けるよりは、自らに負ける場合が多い。

我々の世代は「働く」の反対語は「休む」である。ワークの反対はレスト、これでは創造的ではない。ワークの反対はプレイ。そして、この二つが両立してこそ、新しい文化が花開く。ワークを一生懸命にやれば、プレイも命がけでする。それが若者ではないか。

自分自身の人生を、エキサイティングなものにしていかなければいけない。人間の能力にそんなに差はない。やる気さえあれば、だれでもたいていのことはできる。むしろ我々は、常に完全なことができるんだというひとつの信念を持つことが必要だ。

現実という壁の前に立った時、いたずらに壁の厚さのみを測ることがないだろうか。実行する前に言い訳を考えていないだろうか。とにかく壁に体当たりしてみることだ。鋼鉄と思っていた壁が、実は段ボール紙製であるかもしれない。たとえ鋼鉄であっても、ダイナマイトで爆破すればよい。それが創造的姿勢というものだ。

自己の使命を自覚し、堅固不動の自活的精神をもって事にあたれば、天は自ら助くる者を助くること、もとより疑いのなきことである。

今日、よく耳にする言葉に「インテリの弱さ」ということがある。これは、インテリには、なまじっかな知識があるために、それにとらわれてしまい、それはできないとか、それはどう考えても無理だと思い込んでしまって、なかなか実行に移さないという一面を言った言葉だと思う。

実際、ああそれはいままで何度もやってみたんだが、できないんだ。と決め込んでいることが、我々の身のまわりには意外に多いのではなかろうか。ときには自分の考え、また自分をとらえている常識や既存の知識から解放され、純粋な思いつき、というものを大切にしてみてはどうだろうか。

人間に寿命があるように、われわれの人間にも、それがいつのことがわからないにしても、やはり一つの寿命があると言えるのではないかと思う。だからといって、努力してもつまらないと放棄してしまうようでは、人間でいうところの天寿を全うせしめることはできない。これはいわば人間はやがて死ぬのだから不摂生、不養生の限りを尽くすのと同じであろう。

一切のものには寿命があると知ったうえで、寿命に達するその瞬間までは、お互いがそこに全精神を打ち込んでゆく。そういう姿から、大きな安心感というか、おおらかな人生が開けるのではないかと思う。

物事を成就させる力は何か、その力の中にはむろん能力があろう。だが能力は必要な条件であっても十分な条件ではない。十分な条件とは、その能力に、機動力、粘着力、浸透力、持続力などを与える力である。そのような諸力を私は執念と呼びたい。

成功は次の成功への呼び水とせよ。失敗は次の成功への足がかりとせよ。この二つの相反する格言は、アフターケアの大切さを指摘している点で、共通の真理なのである。

自省の強い人は自分というものをよく知っている。つまり、自分で自分をよく見つめているのである。私はこれを自己観照と呼んでいるけれども、自分の心をいっぺん自分の身体から取り出して、外からもう一度自分というものを見直してみる。これができる人には、自分というものが素直に私心なく理解できるわけである。

何事によらず、志を立てて事を始めたら、少々うまくいかないとか、失敗したというようなことで簡単に諦めてしまってはいけないと思う。一度や二度の失敗でくじけたり諦めるというような心弱いことでは、本当にものごとをなし遂げていくことはできない。

相手を憎んで、蹴落とすようなことは、私の性格に合わない。敵も自分から作らない代わりに、特定の人にべたべたとくっつくこともしない。あくまでも公明正大。堂々と渡り合う信念はある。

儲けよう、儲けようと焦れば焦るほど失敗する。他人がいいぞと言ったり、上手く儲けた話を聞いて、あわてて手を付けると、もうその時は手遅れだ。いつまでも柳の下にドジョウがいるわけではない。

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