青木孝憲(カーデザイナー)の名言 一覧

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青木孝憲(カーデザイナー)のプロフィール

青木孝憲、あおき・たかのり。日本のカーデザイナー。栃木県出身。カーデザイン専門学校卒業後、就職浪人を経て、当時カーデザイナーを募集していなかった光岡自動車に直談判しデザイナーとして入社。同社のスーパーカー『オロチ』のデザインを手がけた。

カーデザイナーを目指したきっかけはとても単純なんです。僕は子供のころ劣等生で、勉強もできないし、スポーツもできない、大勢でワイワイ遊ぶのも苦手。自分の内面に閉じこもる癖のある少年だったのです。でもそのためか、自分が何を好きなのかは、よくわかっていました。高校の卒業が近づき、進路を選択しなければならない際には、「クルマと美術が好き。だから、クルマのデザインをする人になろう!」と迷うことなく、カーデザインの専門学校への進学を決めました。


社長に直訴したことも何度かありました。会社のトップに若造がいきなり直訴するなんて、失礼なことかもしれませんが、クビになってもいいや、というくらいの意気込みでした。幸い、社長が理解を示してくれたおかげで、開発を続けることができました。一人でデザインを積める日々が4年間続きました。そしてようやく、役員会でゴーサインが出たのです。
【覚書き|スポーツカー『オロチ』を発売するまでの状況について語った言葉】


東京モーターショーにスーパーカーを初出展させようという話が出たとき、僕は単身、東京で市場調査をしていました。しかも、経費削減のために、出店予定地のビルで2か月ほど寝袋生活です。だいぶ時間がたって東京モーターショーへのプロジェクトについて知りました。「デザイナーとして採用されたはずなのに……」と、さすがに頭にきまして。勝手にデザインを書きなぐり上司に送り付けました。


最終的な目標はわかりませんが、自分の中にある自動車のアイデアを、もっともっと形にしたいです。目の前の目標をひとつずつクリアして、満足を積み重ねていく。そうすれば、自然と、最終的にたどり着きたいゴールにいるのではないか。そんなふうに考えています。


オロチが実用化できたのは自分だけの力だとは思っていません。社長はもちろんのこと、現在オロチのプロジェクトリーダーをしている先輩も、長い間応援してくれました。そんな支えがなければ、決して続かなかったでしょう。そこで感謝の気持ちを持たなければ、実用化できなかったと思います。


くさって、辞めようと思った時期もありました。しかし、弊社の会長が言っていた、「どんなに崖っぷちに立たされたとしても、実際に淵まで行くと、縄梯子や階段があるかもしれない。まずは自分の足でそこまで行くべき。何もなかったら、そのとき考えればいい」という言葉に支えられました。駄目だったらそのときはそのとき。とにかくやれることをやろう、と。


モーターショー出展よりも難関だったのは、オロチをコンセプトカーで終わらせずに、実用化に踏み切る際でした。オロチの実用化を考えていたのは、僕のほか数人の社員だけでした。社内には「実用化なんて考えてはいけない」という雰囲気が流れていました。ですが、僕は諦めきれませんでした。


最初に描いたデザイン画を見た弊社の会長に、「誰でも認める優等生はいらん!本能的な存在感を描け」とすごく叱られました。こんな状態では、簡単に採用してもらえるはずがありません。自分なりに、人間の奥深くに秘めている本能とは何だろうかと考えました。そこで自分の原点に戻り、たどり着いた答えが「自分の内面に潜む闇」の部分。そのイメージに最も近い「蛇」が頭の中に浮かんでからは、何もかもが早かったですね。役員会議で満場一致でそのデザインに決まりました。
【覚書き|スーパーカー『オロチ』のデザインを描いた当時を振り返っての発言】


光岡自動車の採用面接で、生まれて初めて富山に行き、「私は学問ができません。しかし、クルマをつくりたい気持ちは人一倍あります」と思いの丈を素直にぶつけました。その結果、デザイナーとして拾ってもらえたんです。


カーデザイナーになるまでそんなに順風満帆には進みませんでした。様々な自動車会社の就職試験を受けてもすべて落ち、就職浪人をしたくらいです。それでも諦めきれずに、築60年・トイレ共同の汚いアパートで寝ころびながら、「ほかにデザイナーになる方法はないか」という思いでクルマの雑誌を眺めていたときに、光岡自動車の広告が目にとまったんです。求人募集の広告でも何でもなかったのですが、雇って欲しいと電話をかけました。作品だけでも見てくださいと必死で懇願したところ、面接してもらえることになりました。


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