隈研吾の名言 一覧

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隈研吾のプロフィール

隈研吾、くま・けんご。日本の建築家。東京大学教授。神奈川県出身。小学生のときに東京オリンピックのオリンピック建築を見たことをきっかけに建築家を志す。東京大学工学部建築学科卒業、東京大学大学院建築意匠専攻修士課程修了。日本設計、戸田建設、コロンビア大学建築・都市計画学科客員研究員などを経て隈研吾建築都市設計事務所を設立。法政大学工学部建設工学科非常勤講師、慶應義塾大学環境情報学部特別招聘教授、慶應義塾大学理工学部客員教授、慶應義塾大学理工学部システムデザイン工学科教授、アメリカイリノイ大学建築学科客員教授などを経て、東京大学工学部建築学科教授に就任。国内外で美術館や劇場、そのほか幅広い分野の設計や監修を手がけた。主な受賞に日本建築学会賞作品賞、村野藤吾賞、毎日芸術賞、芸術選奨文部科学大臣賞ほか。

新しく造るものの中にちらりと古いものが見えるようなふうに。そんな隠し味の存在だけで、人間は見方が変わるものです。


愛情に基づく思いの丈が届けば「希望はよく分かる。でもこのやり方では無理だからこう変えないか」と、相手が足りないところを補ってくれる。それが自分の小さい枠より大きな仕事につながります。逆に「100%、これが正しい。この通りにやれ」と押しつけたら誰からも返事は来ない。そもそも現実には100%なんてあり得ません。


僕は社員に図面を描かせる時も「正しいと思って描くなよ」と言い聞かせます。間違っていても、現実性が足りなくても、ラブレターのつもりで、工事の人に「私はこういうことがやりたいんです」と伝わるように描け、と。


建築事務所をやっている僕は、もちろん現場に行きます。行きますが、その場の細かい点については「大ボケ」なんです。すると「分かっているのかな」と心配になるのか(笑)、現場の人間が率先して、あれこれ説明してくれるんです。そんな時は「知ってるよ」とか言っちゃダメ。「ヘえ、そうなの、すげえなあ」と返す。実はこれは大学時代の先生から学びました。先生があまりに面白そうに聞いてくれるので「本当は知ってるんじゃないか」と思っても、生徒はうれしくて、もっといろいろ話したくなっちゃうんですね。つまり部下に話させることこそが「上司の現場主義」。そのためには「ボケ」と「曖昧さ」が大事です。


正しさ、完全さは仕事のうえでもちろん必要です。しかし、「完全さ」「間違いがないこと」が最大の目的になってしまうと、コミュニケーションの質が劣化し、最終完成品も出来が悪くなる。現場なきサラリーマンは、こうした仕事を経て生まれてくるのでしょう。「思わず補いたくなるような指示、依頼」を行うことこそ、今、日本の上司に求められているんです。


建築の学生に伝えていることは、「相手の気持ちにならないと、君自身も自分を通せないよ」ということ。その建築を使う人の立場になれるかどうか。それは造る人、おカネを出す人や工事する人も含まれる。そうすれば、自分の考えとは違った価値観があったり基準があったりするのが見えてくる。実際、相手の立場に立てなければ、どんなにいい案を出しても乗ってきてくれないし、逆に相手の立場で説明できれば、相手は否定できなくなる。


大事なのは、自分を捨てて相手の立場に立てているかどうか。いかにして自分を出すか、自分、自分とだけ考えていては、ちっぽけな自分も一生実現できないよ、と言っている。


ビジネスの相手として、結局同志にならないとやっていけない。大建築物には何十億、何百億円のおカネが出るから、下手をすれば共倒れになる。運命共同体なのだ。相手のビジネスが失敗したら僕だってつらいし、僕が満足できなかったら相手だってつらい。共倒れの関係が根底にあれば、プロジェクトはうまく進むようになる。


建築は大きいプロジェクトが多い。決断できる人がいないと、いい建築はどうしてもできない。中国やヨーロッパ、米国で大きなプロジェクトを担うことができるのは、強力なリーダーシップや時代感覚を持って決断してくれる人が相手側にいるからだ。


設計士をしていて一番の幸せなことは、建物がかっこいい、きれいと言われることより、人がたくさん来てくれることだ。みんなが愛している証拠だからだ。


どんな企業でも町でも、それまでの時間の堆積があるのだから、それを「時間的な借景」にする。昔のものをうまく自分に取り込むことで、自分自身は大したことがないとしても、いろいろなことができるようになる。


日本の伝統建築は、世界でもトップクラスの質を確保している。積み上げたものの上で仕事をしているから質が維持できるのだ。


建築家として歌舞伎界に接したので新鮮に感じたのだけれども、歌舞伎役者は第何代、たとえば十二代市川団十郎として、昔の人たちの遺産をうまく使いながら、いわば過去の人たちとチームで仕事をしている。もともと、こういうことは日本人が得意としていた。


僕が手掛けているのは歌舞伎座第五期。明治22年に第一期ができ、二期、三期、四期と、それぞれの建築家がいた。その人たちが積み上げてきたものの上に僕たちがいて、その積み上げてきたものをうまく使って造り上げた。これは、戦後流の見方からすれば過去に縛られているとなるが、そうとはいえない。その人たちと一緒にできると考えると、むしろそれは感謝すべきことで、得したという感じがする。


歌舞伎座立て替えの設計をしていて気づいたのは、昔の人が築いたものをうまく使うと、自分一人ではできないことができるようになることだ。20世紀の近代建築以降の建築家は、個人の創造性ばかりが評価されるが、ヘリテージ(遺産)とも「チームワーク」がありうることがわかった。


歌舞伎座の改修では、全く新しいデザインの劇場にするというチョイスもあったわけですが、ある意味、昔のイメージを使ったわけですよ。瓦屋根の載った昔の歌舞伎座のスタイルをうまく人々の頭にちらつかせ、過去の記憶と現代をうまく重層させるようなテクニックを用いた。観光客に昔の東京を想起させるように。それは想像以上に効果がありました。銀座では着物姿の人が増えたと言われます。あの劇場だから着物を着ていこう、和食を食べよう、とね。


建築家として大成するかどうか、それはコミュニケーションの能力のような気がしますね。建築家と言えど造形力やセンスじゃないような気がする。例えばクライアントが何を望んでいるか、使い手が何を望んでいるかということが見えるかどうか。さらに言えば、日々の生活の中からも、今世の中が求めているものは何か、分かるわけです。それをちゃんとキャッチし続ける敏感さ、繊細さが求められます。造形力だけでは、僕は建築家は大成しないと思いますね。


渋谷は日本の中でもまだ若さがある。大学がいくつも近くにあり、ある意味でちょっと不良的な部分も多い。そういうものと逆に青山、代官山的なハイソなものとが、共存していくということが大事だと思いますね。どっちかに染め上げようとしたら、あの街は面白くなくなっちゃう。


江戸というのは世界のコンパクトシティーのひとつのモデルです。あれだけ人口規模が大きく、人口密度が高かったにもかかわらず、その中でヒューマンスケールな街が実現したという例は、世界の都市史の中でも例がない。さらに、水のネットワークと地上のネットワークとのスムーズなつながりなど、多くのヒントが隠されています。僕らが東京というものをもう一度、世界に売り出す時に、江戸の路線はうまく隠し味で使いたいですね。


僕は「都市の人生」というものがあると思うんです。若者、中年、老年があるみたいに。そして、その時期に合わせた「生き方」というものがある。今、アジアの新興都市は、20代の現役バリバリです。当然、超高層を造りたくなるのも分かる。ニューヨークも戦前の大恐慌前がそういう状態だった。都市にも、青春があるんですよ。ちろん中年や老年もある。年を取ってから急に走らせたら、死んじゃうみたいなこともあるかもしれない。かえって都市の魅力を失うことにならないような計画が必要です。


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