諸井貫一の名言 一覧

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諸井貫一のプロフィール

諸井貫一、もろい・かんいち。日本の経営者。秩父セメント社長、秩父鉄道・埼玉銀行・日本煉瓦製造会長。東京出身。東京帝国大学大学院経済学研究科修了後、同大学で工業経済論の講師を務める。その後、父(恒平)の創設した秩父セメントに入社。支配人、常務などを経て社長に就任。そのほか経団連、日経連、経済同友会の設立などに尽力した。日経連初代会長、経済同友会初代代表幹事を務め、産業振興に努めた。東大での講師生活は実業をやりながら20年も続いた。

貧しい場合にも、その人の才能を伸ばすことを妨げる要素はたくさんあるはずだし、どんなに豊かな家にだってその人の伸びることを妨げる要素がたくさんある。結局、環境にとらわれてはいけない。境遇というものから抜け出してこそはじめて自分の人生があるのだ。


私は大学に入ってから健康を損ない、そのため3年で卒業するところを5年かかった。しかし半面そのおかげで友達も多くなったし、先生とも親しくなれたので、かえって幸せだった。いまでも健康には自信がなく、医者から1日8時間以上働いては駄目だといわれ、自然夜更かしなども慎んでいるが、それが健康上かえってプラスになっているのかもしれない。


企業経営は、大量生産だ、オートメーションだといわれる時代になればなるほど、かえってモラルを必要とするのではあるまいか。いまはPRの時代だという。たしかに世をあげて広告宣伝の時代になったが、それだからこそ本当に責任のもてる商品をつくらなければならない。


顧みて、その当時は格別のことでもないと思っていたことが、案外後々までも影響を生ずることのあるのに気が付いた。そう考えると、日々の出来事でもあまり安易に取り扱ってはならないと思う。


やはり経営は計画的に合理的に努力すべきものである。


私は社長に就任して一番強く決心したのは、戦争時代からの持ち古しの老朽設備をなんとか若返らせて、生産性の向上をはかりたいということであった。こんな設備は思い切って捨ててしまい、新工場でもつくった方がよいと思ったが、それには莫大な資金が必要なうえ、当時は必ずしも最新式の技術を導入できる段階でもなかったので、私はむしろ着実な方法を選んで、まず厳重な年次計画を立て、第一期、第二期という具合に資金計画とにらみ合わせながら工場の若返りと能力増加をはかっていった。


当時すでに第一次世界大戦の胎動があったし、日本の産業は飛躍的な発展を見せようとしていた。そのような社会情勢の中で、私は人間に最も必要な学問は経済学だと考えた。産業を発展させ人間の未来を豊かにし、新しい社会を創造するのは経済学をおいてないと思ったのである。それに私の家は曾祖父の代から実業に従事し、父もまた実業界の人となっていた環境も影響したと思う。漠然とではあるが、私は自分の行く道もやはり実業界と決めていた。
【覚書き|大学生時代を振り返っての発言】


マジョリティ(多数派)が現在を作り、マイノリティ(少数派)が未来を創る。全員反対したものだけが一考に値する。経営者はこうしたマイノリティの理論を駆使しなければならない。


過去における経験から考えて、競争が激しく市価の安いときほど進歩がある。技術でも経営でもそういうときにはいろいろ工夫や改良をして対抗するし、また行きがかりや習慣を捨てて何でも実行しやすいのである。それゆえ私は常に不景気にいかに処するかが経営の値打ちの分かれるところで、不況を乗り切るものは必ず成功すると考えている。不況に際しては、不況をありのままに受け取って、みんなでこれを合理的に克服することである。


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