藤山愛一郎の名言 一覧

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藤山愛一郎のプロフィール

藤山愛一郎、ふじやま・あいいちろう。日本の政治家、経営者。外務大臣・経済企画庁長官、藤山コンツェルン二代目。東京出身。慶應義塾大学政治科を病気のために中退。療養生活を送ったのち、数年間の海外視察を経て、父が築いた藤山コンツェルンに入る。大日本製糖、日東化学工業(のちの三菱レイヨン)、日本金銭登録機(のちの日本NCR)などの社長を歴任。太平洋戦後、日本商工会議所会頭、日本航空初代会長、経済同友会代表幹事などを務めたのち、岸内閣の外務大臣に就任。その後、自民党議員として衆議院議員となり藤山派を形成した。

何も知らないから諸君の言うことは虚心坦懐に何でも聞いてみたいと思っている。私は偉そうなことは言わないし、また言えもしない。酒は飲む、道楽はする。しかし仕事だけは一生懸命やる。何も知らないということで現れたこの社長を買って欲しい。
【覚書き|大日本製糖社長の就任スピーチでの発言】


私はこの小さな工場をロバート・オーウェンのニュー・ラナーク工場のような理想工場にしたいと考えた。しかしみんなの幸福を実現するためにはまず事業が収益をあげなければならない。
【覚書き|絵具などの色の化学合成を研究する学者とともに染料会社をつくったときを振り返っての発言】


発明家と組んだふたつの事業(染料会社の池田化学と日本金銭登録機)の経験で、私は発明家と一緒に事業をしてはならないことを学んだ。万一、発明家と一緒に事業をしなければならないような場合には、事業経営に一切口出しさせてはならないと悟った。発明家を専務とか常務にしたのでは伸びるべき事業も伸びない。発明を事業に生かす道は特許権を買うか、またはその使用量を払って発明家に報いればいいのである。
【覚書き|ふたつの事業はともに発明家のこだわりが強すぎて経営に口出ししてきたためあまり振わなかった】


戦後、経営の苦労をいろいろと経験したが、一番苦労したのはなんといっても金融の問題であった。各社ともはじめは経営が不振であったから容易に金融がつかなかった。このようなときには町の金融業から目をつけられやすく、こうした方面から金を使ってくれという誘いがかかるものである。私は大日本製糖の社長になる前に、小さな会社をやったとき、町の金融業者から金を借りてずいぶん苦しんだ経験があり、歯を食いしばって我慢したが、いまにして思えば、その結果は大変良かったと思う。


私は「世間的な苦労を知らない」ということを知ったことは大したことだと思った。私のグループにはたくさんの財界二世がいるが、大抵一度はサラリーマンをやっている。しかし、そういう連中は会社に行くとき自家用車に乗り、休日には駆け出し社員のくせにゴルフに出かける。それなのにいざ経営者になると、「俺は他人の飯を食った」とか「サラリーマンの苦労を知っている」といった顔をする。しかし身に着いた苦労でないから本当の苦労とはいえない。こんな偽物の苦労を振り回されては社員の方が苦労する。


事業を伸ばすには消費者の趣向や流行に合わせた製品を、割安な価格で出さなければならないと考えた。しかしこの点になると池田氏は頑固、「俺の発明は」「俺の発明は」で押し通してくる。これだけの発明品が売れないのは、あなたのやり方が悪いといった調子である。当時私はまだ30代のはじめで、経験も浅く、一方池田氏は50代の人なのでなかなかうまく折り合いがつかない。結局何もかもが行き詰ってしまった。
【覚書き|絵具などの色の化学合成を研究する学者とともに染料会社をつくったときを振り返っての発言。池田氏はその学者でビジネスパートナーだった】


事業を伸ばすには消費者の趣向や流行に合わせた製品を安価な価格で出さなければならないと考えた。しかし、発明家は「俺の発明は」「俺の発明は」で押し通してくる。これだけの発明品が売れないのは、あなたのやり方が悪いといった調子だ。万一、発明家と一緒に事業をしなければならないような場合は、事業経営の面に一切口出させてはならないと悟った。


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