織田大蔵の名言 一覧

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織田大蔵のプロフィール

織田大蔵、おだ・たいぞう。日本の経営者。福島交通の社長。貧しい身の上から成功し、所得番付で東北1位をとった人物。貧しい家庭に生まれ精米所、米屋、繭の仲買人などの商売を行ったのち、貯めた金で福島交通の株を買い、大株主になったのち役員として入社。監査役、取締役、副社長などを経て社長に就任。沿線地域の開発なども手掛け、同社を東北一のバス会社へと成長させた。そのほか、郡山商工会議所会頭なども務めた。

結局は自分の幸福をつくり出すのは自分以外にはないのだ。社会保障なんてあてにしているほうが馬鹿だ。金などは手を広げていても天から降ってはこない。自分で努力し、金を貯めていくほか方法はあるまい。


「消費は美徳」などという言葉は、所詮、俺には無縁の言葉だ。
「貧乏性こそ美徳」これが俺の事業家としての金言だ。


難問題が起きたら、慌てないこと、くよくよしないこと、これはいい勉強になると思うことだ。これを転機に、俺の人生はいい方向に向かうのだなと思って、毎日毎日を努力すること。泣きたいときは笑うに限る。そうすれば道は必ず開けてくるはずだ。


常に大きな夢、大きなことを考えて発言していると、いつの間にか気宇壮大になり、人間も大きく、大きな事業を成し遂げられるようになるものだ。


アイデアの勝利、常識を破ったところに成功がある。何の商売でも、人と同じことをしていては、いつかは負けてしまう。その簡単なことが実際にはなかなかできないものだ。


金儲けの秘訣は「入った金を出さない」の一語に尽きる。金というものはエビでタイを釣るときにだけ出すものだ。そうすれば十倍にもなって金がまた入ってくる。これを絶対に握って離さない。この連続の積み重ねが金儲けというものだ。


事業家は人の上に立つ者であるから、君子でなければならぬ。人一倍努力をして、人が遊んだり寝ているときでも、一心不乱に勉強しなければならぬ。


上が質素倹約を旨としておれば、下も必ずそれに習うものだ。下は常に上をうかがいおるから、上が乱れておれば、下も必ず乱れてくる。上が贅沢であれば、下もこれに習って、ムダ金を使うようになる。上の者が、己に厳しくなければならぬのはこのためだ。


失敗を経験した者の知恵は、傾聴に値する。ネコでも何べんかの失敗を重ねて、初めてネズミを取れるようになる。この失敗の経験というものが、実は自然の勉強、生きた学問というものである。


学歴も経歴もない者が伸びようとするならば、実業の社会しか道はない。そして、実業の社会に志を立てた以上は、せめて関脇、大関、横綱を目指さなければならぬ。そのためには金儲けに専念しなければ駄目だ。実業の世界は、どれだけの金を動かせる力があるかによって決まる。


事業家というものは、大局をよく見て、先を見る目を養うことが肝要だ。それに人間だから間違うときもある。君子は豹変するという言葉がある。間違ったとわかったら、すぐ改めることだ。そのときは見栄も外聞も捨てて改めることだ。小人はここのところがわからない。


若い社員を甘やかしてはいけない。温室で育てられた野菜や果物は、よくできているようでも、自然の風雪に耐えて出来たものとは、はっきり味が違う。ときにくさい肥料もかけてやらねばならぬ。くさい肥料が叱ることにあたるだろう。


備えあれば憂いなし。火災保険はすべてに額面以上つけておけ。車両保険も、利益保険もあらゆるものにケチケチせずにつけておくことだ。これは社長の大事なつとめのひとつだ。事故の想定なしに事業はできない。想定したら思い切ってこれに保険を付けること。この心構えがなくては事業家とはいえない。


細かな点では専門家には専門家としての知識があるから、これを活用することだ。俺のところに弁護士の顧問や相談役がごろごろしているのはそのためだ。いい顧問とは、毒ネズミを食ったネコでないといけない。法律には表もあれば裏もある。千軍万馬の危ない橋を渡ってきた者でないと応用が利かない。


事業を拡張するには時期がある。そういう場合は思い切って伸ばすことだ。石橋を叩いて渡る堅実さも必要だが、ものにはチャンスがある。


事業を知らない学者どもの、青臭い話を聞いていったい何になるか。屁理屈を語るヒョロヒョロ学者どもに、事業というものがわかってたまるか。学者のいうことを聞いて儲かるなら、本人がとっくに大金持ちになっているはずだ。


世の中には「濡れ手に粟」とか、「一攫千金」とかで大儲けをする者がいるが、しょせん悪銭身につかずのたとえの通り、努力の伴わない金は消えてしまう。


金は貯めるときに貯めておかなければ、あとはなかなか貯まるものではないんだ。


金を貯めて困るだろうなどと余計な心配せずに、まず金を貯めることに精を出したまえ。


俺の庭には、汲めども尽きぬ養老の井戸がある。水質も非常に良いし豊富にあるから、欲しい人にはわけてやっている。もちろんタダでだ。ただし、それにはひとつ条件がある。穴の開いていないバケツを持ってきた者に限る。
【覚書き|事業に出資してくれという人に対しての発言。水とはお金、穴の開いていないバケツとは金が漏れ出さない事業や人を表している】


クジラ取りに南氷洋を目指している船が、途中でイワシの大群を見つけたからといって、そのイワシに関わっていたのでは、クジラなど取れるものではない。クジラを取りに行く船ならクジラ取りに徹して、イワシなどに目をくれてはならない。大きいことを成そうとする者は、小さいことに気をとられてはいけない。


会社に事件が発生し、非常事態になったとする。このときぐらい人を見分ける絶好のチャンスはない。人というものは、平穏無事のときには、なかなかその尻尾を出さない。ところが、いったん火災とか、取引先の倒産、大きな交通事故、会社の乗っ取り、国税局の査察など、いろいろな大事件や非常事態が発生すると、どうしてもその人間の地金が出る。付け焼刃はすぐはがれてしまう。


名誉職は引き受けるな。先祖の自慢はするな。事業家は事業で生きよ。この心がけを忘れてはいけない。少しばかりの寄付で、名前を売り込むようなさもしい根性を持つな。


日本人というのは極端から極端に走る性質があるので、すぐに右か左か、白か黒か、自分なりにのみこんで色分けしてしまう。何でも簡単にレッテルを貼ってしまう。事業家として、一面的見方や考え方しかできないようでは、この戦国時代を乗り切れない。一面的な見方、考え方でなく、本音を見抜ける能力を身につけなければならぬ。


子供には、いい嘘と悪い嘘があることを、小さいときから教え込んでおかなければいけない。いい嘘というのは、相手の立場に立って、相手への思いやりが込められているから許されるのだ。いい嘘もつけないのは正直ではなく、馬鹿正直といって世間を渡っていけぬ奴だ。


事業家は政治家などになるものではない。政治家を使う立場になることだ。


恩情で人を動かす「心服」というものもあるが、ときに、厳罰を加える「威服」の効果も知らなければならない。経営者が常に厳然と、支配者としての怖さを見せつけておかないと、なめて付け上がってくる。


明治生まれのこの俺でも、若いときは年配者から「近頃の若い者は…」と、ずいぶん批判されたり、叱られてきたものだ。江戸時代でも、戦国時代でも、その前の時代にしてもいつの時代でも、年寄りと若い者の間には大きな隔たりがある。それはそれでいいじゃないか。


確かに「事業は人なり」ではあるが、だからといって単純に、力量のある人物、野心のある人物を会社にいれればいいのかというと、そういうものではない。中小企業なんかは、なまじ小才の利く人間より、一歩一歩努力していく人間集団の方が強くなれる。


人を使う場合、大事なことは中庸ということを心がけさせることだ。不偏不党ということで一方に偏らないで中道を歩かせることだ。若い者はとかく血気にはやり、ひとつのことに熱中する。若いときはそれぐらいの元気があってよいが、上に立つ者はその道に外れた者を絶えず真中に戻してやらなければならない。片方に偏ってしまうと大局を見ることができなくなる。


安定している場合は、ある程度民主的方法でもやれるだろう。だが、乱世になればなるほど、英雄が待望されるように、激動の時代にも英雄的経営者が必要とされる。事業家は、もっとワンマンにかえれ。イエスとノーをはっきり言えなければ、事業家たる資格はない。大将として落第だ。


責任とはとるものではなく、果たすものだ。「辞表をふところにして」という言葉は、カッコイイが、辞表さえ出せば何もしなくてもいいというものではない。辞表を出して責任をとるというが、それは責任を果たしたことにはならない。むしろ無責任だ。サラリーマンなら、それでもよいだろう。事業家はそんな甘いものではない。


昔の苦しかったことを忘れないために、俺はいまでも握り飯持参で会社に出てきている。握り飯を食べながら、昔をしのび、これからのあり方を考える。これが事業家の心構えというものだ。


治にいて乱を忘れず。少しばかり調子が良くなったと思って、驕り高ぶっていると、人間というものは、たちまちにしてつまずく。昔の苦しかったことを忘れないようにして、常に心をひきしめ、非常時に備えるということは大事なことだ。


事業を拡張するにもカネがない。自分の金では足りないから見送ってしまう。これでは事業家として大成しない。人の金を使うのだ。大企業と提携してもいいではないか。乗っ取られるなどと心配するな。そんな小さい了見だから大きくなれないのだ。


弱い者につけこむ奴には、こちら側も強く高飛車に出なきゃだめだ。


成功者というものは、貧民窟からしか出ないのではないか。貧乏人の子供は何にもないところに育っているから、欲しいものも手に入らない。欲しいものは自ら働き、知恵、創意工夫でつくり出して手に入れるほかはない。


事件は起きないに越したことはない。しかし、事業をやっていれば、大なり小なり、いろいろな事件が起きる。それを、ひとつひとつ乗り切ることによって、事業家としての成功がある。楽は苦の種、苦は楽の種だ。


会社に事件が発生しても、平気な顔をして、にこにこと落ち着いているのがあったら、それはものになる人物だ。しっかり見極めて、将来、重要なポストに据えることだ。事業家の片腕になれるのは、そういう人物でなければならない。逃げ腰になって、辞めるという者は、辞めさせろ。決して止めたりするな。


世の中に、役に立たぬ無駄なものというものはひとつもない。要はそういう考え方を持てるかどうかだ。悪いと思ったことがいいことばかりになって返ってくる。くよくよせずに、また世の中が楽しくなってくる。この考え方を持つべきだ。この考え方に立てば常に平気で世に処せる。平気でいればこそ、無限にいい知恵が湧いてくる。


人には、その立場立場で、人を使う立場になったり、人に使われる立場になったりする。人を使うことも難しいが、使われ方も難しい。


事業家の本当の働きができるのは50代からだ。それまでは準備期間だ。健康で長生きしなければ大事業は完成しないものだ。早く死んでは事業家になれない。


実業家は、信州商人のように、服装も地味に、商売のことをよく勉強し、経済のことだけ語るようにしないと大成しない。政治の話にうつつをぬかし、本業の商売は部下任せ。こんなことでは、信州商人に食われてしまうのは当たり前だ。


事業家に必要なことは、柔軟な姿勢だ。いつまでも、変化に即応する態勢がなければならぬ。いささかもメンツや世評にこだわってはならない。事業家は馬鹿のひとつ覚えであってはならない。


人の集まる場所の地価が高いのは、それだけの価値があるからだ。土地が安いからといって魚のいない郊外で商売をやろうとしても、必ずその商売は失敗する。


セールスの技術を身につけたからといって、それだけで品物が売れるわけではない。磐梯山の頂上で品物の講釈をしてみたところで始まらぬ。買ってくれるお客がいないからだ。いくら優秀な商品をつくっても、山村、寒村の人たちを相手にしていては、売れたとしても高が知れている。商略上もっとも大切なことは、魚のいるところで、投網(とあみ)を打つということだ。


あれもこれもに手を出す奴は、器用貧乏といって、大きな金儲けはできない。人間的にも大成はしないだろう。小さな儲けは、小さい者にくれてやれ。小さい儲けを見つけて、あれも欲しい、これも欲しいでは、大きな儲けが逃げてしまう。


金を追いかけているときは、金の方が逃げていく。もう金はいらないと思うと、金の方からやってきて、自然に金が貯まっていく。金のないときは金が欲しくて苦労し、金が貯まってくれば、またそれなりの苦労が増える。世の中とはこんなものだ。


貧乏してみなければ、貧乏人の苦しみはわからない。金持ちになってみなければ、金持ちの気持ちはわからない。貧乏人から見た金持ちは、さぞかし毎日が楽しさの連続だろうと考えるが、実際はそんなものではない。俺も貧乏人の時代はそう思っていたが、金持ちになってみると、中身は違うけれど苦労があることにはかわりない。


人間この世に生まれて、好きなことをやって、しかも美味い物を食べ放題に食べられるなんて、こんな楽しい幸せなことはないじゃないか。幸福になるためには、理屈は別に、やっぱり金が必要なんだ。


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