福沢諭吉の名言 一覧

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福沢諭吉のプロフィール

福沢諭吉、ふくざわ・ゆきち。日本の武士、蘭学者、著述家、教育者。慶應義塾大学の設立者。幕末、明治初期に数多くの人材を教育し、明治六大教育家のひとりに数えらた。また、一般向けの本を多数執筆し、啓蒙活動を行った。著書に『学問のすゝめ』『西洋事情』『福翁自伝』『福翁百話』ほか。

猿に見せるつもりで書け。俺などはいつも猿に見せるつもりで書いているが、世の中はそれでちょうどいいのだ。


自活の道を知らない者は、独立した男子ではない。


空想というのは実行の根源であって、人間社会の進歩は、すべて空から実を生じたものである。


水があまりに清ければ、魚は棲めない。人は知的であり過ぎれば、友を得るのが難しい。友人を受け入れるには、度量が広く、多少ぼんやりとしているところもあったほうがいい。


自ら労して自ら食うは、人生独立の本源なり。


金銭は独立の基本なり。これを卑しむべからず。


人間は、負けるとわかっていても戦わねばならないときがある。だから、たとえ負けても勝っても、男子は男子なり。勝負をもって人物を評することなかれ。


苦は楽の種で、楽は苦の前兆である。


愚民の上に苛酷な政府がある。良民の上には良い政府がある。


自ら動こうとしないものを、導くことはできない。


世間の物事は、進歩しないものは必ず後退し、後退しないものは必ず進歩します。進歩も後退もせずに一か所にとどまっているものなどあるわけがありません。


学問の本質は、生活にどう活用するかということです。活用のない学問は、何も学問しなかったのと同じです。


今年がだめであったら、また来年に期待しましょう。


生まれるということは死ぬということの約束であって、死も格別驚くことではない。


本日喜びの中にありながら、いつか悲しむ時のあることを忘れてはなりません。


望みがなかったら、世の中に仕事に励む人がいなくなってしまいます。明日の幸せが見えれば、今日の不幸を慰めることができます。来年の楽しみが見えれば、今年の苦しみを忍ぶことができます。


所詮、世の中の出来事は生き物と同じで、その動きを前もって予測することは不可能です。ですから、賢明な人であっても、案外愚かな失敗をする者が多いのです。


自由と我がままとの境界は、他人に迷惑を掛けるのと掛けないのとの間にあります。


楽の一方にだけ心を奪われ、俗に言う丸儲けしようとしては、丸損してしまうことを忘れてはならない。


学問の道に入ったならば大いに学問すべきです。農業を志したなら豪農になりなさい。商人になるならば大商人になりなさい。学問をする者は、小さな安楽に満足してはなりません。


仕事というのは、偶然できるものではありません。善い事も悪い事も、すべて人間のこれをやろうという意思があってこそできるのです。


事を行うには、時機の善し悪しがあります。チャンスに恵まれなければ、どんなに有能な人でもその力を発揮することはできません。


周囲を見てごらんなさい。世界中、昔から今に至るまで、暗殺で事がうまくいき、世の中の幸福が増したという事例は、ひとつも見当たりません。


理論的に見込みがあれば試みるべきです。やってもみないで、まずその成果を疑うような人は、勇気ある人とは言えません。


説明の一番いい方法は、自ら実例を示すことです。百回の説明も、一回の実例を示すことに及びません。


いま、国が富強であるのを幸いと、貧しく弱い国へ無理難題を持ち掛けるというのは、いわゆる力士が腕力で病人の腕をへし折るのと同じで、国の権義(権利と義務)から言っても許してはならない暴挙です。


貧富強弱の状態は、天が決めた約束ではありません。人間が努力するかしないかによって移り変わるもので、今日の愚人も、明日は知者ともなりますし、昔は富んで強かった人も、今の世では貧しい弱者にもなりましょう。


江戸時代、寺子屋の教科書として使われた『実語教(じつごきょう)』という本に「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあります。つまり、賢人と愚人との違いは、学ぶか学ばないかによって決まるのです。


人の表情は家の門のようなもので、広く人と交わって自由に客が訪れるようにするためには、まず門を開き、入口を掃除して打ち水をし、とにかく、来訪者が気持ちよく入れるようにすることが大切です。


日本人として独立のできていない者は、外国人と交わっても、独立した権義(権利と義務)の主張は不可能である。


人間は、お互い接してみなければ心を通じ合うことはできません。相手と心が通じなければ人物を理解することは不可能です。


非常に重大な事から些細な事に至るまで、他人の働きにくちばしをいれたかったら、試みに自分の身をその働きの場所に置いて自分ができるかどうか振り返ってみなければなりません。


人望は、力量によって得られるものではありません。また、財産をたくさん持っているということで得られるものでもありません。その人の才能と知恵の活発な働きと正直な道徳心によって、徐々に得られるものなのです。


独立の気なき者は、必ず人に依頼する。人に依頼する者は、必ず人を恐れる。人を恐れる者は、必ず人にへつらう。


人生は芝居のごとし、上手な俳優が貧乏になることもあれば、大根役者が殿様になることもある。


宇宙の間に我が地球が存在するのは、大海に浮かべるケシの一粒というも中々おろかなり。我々の名づけて人間と称する動物は、このケシつぶの上で生まれまた死するものにして、生まれてその生まれるゆえんを知らず、死してその死するゆえんを知らず、よって来たるところを知らず、去ってゆくところを知らず、五・六尺の身体わずかに百年の寿命も得がたし。塵のごとく埃のごとくたまり水に浮沈するボウフラの如し。


カゲロウは朝に生まれて夕に死すというといえども、人間の寿命に比べてさしたる相違にあらず。蚤と蟻と背比べしても、大衆の目より見れば大小なく、一秒時の遅速を争うも百年の勘定の上には論ずるに足らず。されば宇宙無辺の考えをもってひとり自ら観ずれば、日月も小なり、地球も微なり。まして人間ごとき無知無力、見る影もなきうじ虫同様の小動物にして、石火電光の瞬間、偶然この世に呼吸眠食し、喜怒哀楽の一夢中、たちまち消えて痕なきのみ。


しかるにかの凡俗の俗世界に貴賎貧富、栄枯盛衰などとて孜々(しし)経営して心身の労するその有様は、庭に塚築く蟻の群衆が驟雨(しゅうう)の襲い来るを知らざるがごとく、夏の青草に翻々(ほんぽん)たるバッタがにわかに秋風の寒きに驚くがごとく、おかしくもまた浅ましき次第なれども、すでに世界に生まれでたる上は、うじ虫ながらも相応の覚悟なきを得ず。


人生本来戯れと知りながら、この一場の戯れを戯れとせずしてあたかも真面目に勤め、貧苦を去って富楽に志し、同類の邪魔せずして自ら安楽を求め、五十、七十の寿命も永きものと思うて、父母につかえ夫婦相楽しみ、子孫の計をなし、また戸外の公益を謀り、生涯一点の過失なからんことに心掛くるこそ、うじ虫の本分なれ。否、蛆虫のことにあらず、万物の霊として人間の一人誇るところのものなり。


ただ戯れと知りつつ戯れれば心安くして戯れの極端に走ることなきのみか、時にあるいは俗界百戯の中に雑居してひとり戯れざるもまた可なり。人間の安心法はおよそこの辺にありて大なる過ちなかるべし。


四畳半くらいの部屋に何十人もおれば空気が濁る。濁ればどうするか。窓を開けて空気を入れ替えねばならぬ。新しい空気になれば窓を閉める。またしばらくすれば濁る。濁ればそこにいる人の意見がどうあろうと、開けて悪い空気は抜かねばならぬ。世の中も同じ、好むと好まざるにかかわらず、窮屈になったらちょっと窓を開けねばならぬ。人間の生活はそんなことの繰り返しである。
【覚書き|社会主義革命について語った言葉。社会秩序を乱すのはよくないがという前置きをしてから上記発言を行った】


学校の卒業などということは大して意義はない。


「足ることを知る」という教えは、一個人の私に適している場合はあるかもしれないが、国としては、千万年の間に一日たりとも満足の日があってはならない。多欲多情ますます足らないことに不満を持って、一心不乱に前進することこそ国の栄える基である。


世間の人たちと交際するに当たって、特に被害を受けることもなく自身の独立を妨げることもない限りは、言行の鋭い矛先を包み込んで外見を優しくし、知らない事は知らないとして、人に質問するのはもちろんのこと、その質問に対する答えに愚説があっても、すぐにそれを退けてしまわずに丁寧に耳を傾けるべきである。


立派な人物にとって交際面で大切なのは、小事にこだわらず磊落(らいらく)であること。時には無責任な放言や悪口・叱声があったとしても、それらはすべて空砲であるべきで実弾を込めてはならない。言葉の中に、ほんの少しであっても実弾を込めて弱点をねらい撃てば、どんな小さな散弾でも相手に与える苦痛はきわめて大きい。


遠方に離れている友人が1年も2年も音信不通であったのが、何か心に感ずることがあったのか、あるいは大切な用事ができたのか、突然手紙を寄せて、こまごまと言葉を書き連ねたとて、それによって友情がにわかに発生するものではない。それよりも、普段に格別用事がなくても、時々簡単な短文でお互いに音信を交わす習慣を続けていれば、何かの時の大事に臨んで、ちょっとした一言で用が足りるという便利さがある。


利益の側からだけ見ても、人の信用こそ商売での利益の根源なのだから、人に雇われる者は、自分の利益になる重要なことなのだと思って正直に働き、主人もまた、その正直の代償として報酬を多くすべきである。


事業で一番大切なのは、信用できる人物を得て取り締まりの手を省くという事にある。番頭や手代が商売しながら取り締まりの事も兼ねるのは、大工と普請奉行と二役を勤めるのと同じことなのだから、たとえ給料を高くしても主人にとってはるかに得であり、結局、双方共に利益となるであろう。


西洋の諸強国が海外に兵士を駐屯させる場合、その地には公認の遊女が必ず居る。そうでないときは、政府筋からひそかに賤業婦の往来に便宜を与えて必要に応ずるという。遊女の弊害は大きくないわけではないが、これを禁じて兵士の気が荒くなった場合の弊害は更に大きなものになるので、その利害を比較して、遊女の醜業を黙認するのである。


仕事のほうからやってきて人を求めることはない。こちらから進んで求めるのでなければ、結局は仕事にはめぐりあえないだろう。


ネズミをよく捕る猫は爪を隠すという。隠すのはよいが、生涯隠し続けてネズミを捕らなければ爪がないのに等しい。猫の爪は隠してはならない。捕り物の大小にかかわらず腕前を試す機会があったなら、それを無駄にせずに功名を現すべきである。


単に専門の学者だけが出現しても、それを活用する国民がなくては、その学問も実際の役には立たない。


慈悲の情に乏しく、廉恥の心を失い、道理の世界を逸して財貨をむさぼることを「吝」と名付け、一身一家の生計を綿密に立てて外見の見栄を張らないことを「倹」と言う。


教育家の配慮がどんなに行き届いても、生まれ付きの愚者を知者に変えることはできないのはもちろん、どんなに勉強を勧めても、天賦の能力にない学問や技能を身に付けさせることは、望んでも到底無理である。それぞれの人の遺伝がどういうものであるかを十分観察して、その人の到達可能なところの限界にまで到達させ、その後に大切なことは、これまでの成果を荒らして薪のような人物にしないように、よく注意することである。


人生において偶然に得たものは、また偶然に失うこともある。


世間の教育家と称する者たちは、ややもすれば自分の信ずるところに偏りがちで、教育に極端に重きを置き過ぎ、ひたすら勉強勉強と唱えて、勉強さえすれば愚者も変じて知者となるようにはやし立てる者が多い。しかし、実際の教育の効能は、生まれ付き備わっている能力の生育を助けて、よい方向に導き、到達可能なところまで到達させるということだけにある。


人生の途上ですでに独立して自力で生活している人に対しては、たとえ親子の間でも、やたらに干渉すべきではない。ましてや他人に対しては言うまでもない。


「額に汗して食らう」とは我々が片時も忘れてはならない教えである。たとえどんな身分の人であっても、この世に生きていく限りは、生きるのに必要な衣食を得るための労働をしなければならない。人間の世界は、労働と物品とを交換して商売するという世界であり、これに決して逆らってはならない。


時には二人の意見が異なることがあっても、自分の意見が是か非か、自ら心の中で裁判すれば、他人に判断してもらうような面倒を掛けなくとも、早速に落ち着くところに落ち着くであろう。


深山幽谷に隠れ住んでいわゆる仙人にでもなれば別の話だが、いやしくも同じ人間の仲間が集まって浮世の衣食住を共にする以上は、自分の一身一家を維持すると共に、仲間の人たちに対する義務も果たさなければならない。


人間がもともと持っている、苦労を避けて安楽を好むという心をそのまま成長させていけば、善に従う道につながるであろう。やたらに悪いことをしようとして苦労する人は、不徳というよりもむしろ無知と評すべきである。


今の時代において何を善とし何を悪とするかと尋ねられれば、人に対して、その人の好まないことを仕向けないのが善であり、それと反対の行為が悪であると答えよう。


十人に会って、その中の一人とたまたま友人になれれば、二十人と会えば二人の友人を得ることができるという勘定になります。人を知り、人に知られる源は、その辺りにあるのです。


碁・将棋の晴れの勝負に、ぜひとも勝とうとする人はかえって敗北して、無心の人が勝利することが多い。その理由は、勝負を軽く見るのと重く見るのとの違いで、無心の人は、もともと晴れの勝負を晴れと思わず、これくらいの争いに負けてもどうということはないと覚悟しているので、決断が速く駆け引きも活発になるのである。


人間の一生というのは、見る影もないウジ虫と同じで、朝の露の乾く間もない50年か70年の間を、何とはなしに遊びながら生きて、やがて死んでいくまでのことだから、自分の身をはじめすべての物事を軽く見て、やたらに真面目すぎないほうがよい。


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