石橋正二郎の名言 一覧

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石橋正二郎のプロフィール

石橋正二郎、いしばし・しょうじろう。日本の経営者。ブリヂストンタイヤの創業者。福岡県出身。久留米商業学校卒業後、家業の仕立て屋を継承。雑多な布製品を製造していたが、足袋だけに特化し、その後、貼り付け式ゴム底地下足袋を開発し同社を急成長させ日本ゴムに商号変更。その後、ゴム加工技術を軸に自動車タイヤメーカーブリヂストンを創業。そのほか、エンジンメーカー富士精密の経営再建を行ったり、プリンス自動車(のちに日産に吸収合併)を育て、自動車産業の振興に寄与し、日本自動車殿堂、米国自動車殿堂入りを果たした。

気は長く持つが、行う時は気短でなければならぬ。


私は朝早くから夜遅くまで、日曜も祭日もなく一生懸命に働いた。タイム・イズ・マネーを実行したので人の3倍くらいは仕事したろう。また、父からタバコや酒はのむなと言われて今日まで実行している。


富士精密を買収したところ、赤字がたくさん出てだいぶ困った。しかし、金を入れて立て直し、いまでは立派な会社になった。最初からあれだけの小型自動車エンジンをつくったので、他の自動車メーカーが驚異の目を見張ったが、戦時中、飛行機のエンジンで非常に苦労し勉強しているので、技術がいいし、熟練工もそろっている。ただ、営業がまずかった。つまり戦時中は政府納めばかりなので経営が無能だったのだ。
【覚書き|富士精密は戦争中に戦闘機のエンジンをつくっていた会社。のちにプリンス自動車のエンジンをつくった】


日本ゴムは日の出の勢いで、好調なまま終戦まで行ってしまった。だからブリヂストンが発足した当時の苦労を日本ゴムの連中は味わっていない。あまりに好調にものごとが進むと終いには上から下までみんな馬鹿になってしまうようだ。品物を売り上げてやるという調子で、苦労を知らない連中のことだから終戦後はひとしお苦労の味をなめることになった。
【覚書き|日本ゴムは家業の仕立て屋からスタートしたゴム底地下足袋メーカー。最盛期には海外工場も含め2万人以上の従業員を抱えた】


自動車タイヤの販売が始まった。しかし、たちまち破れやすいという評判が立った。破れるのはこちらの責任だから取り替えないわけにはいかない。どんどん取り替えたため千坪ぐらいの畑に10万本くらいのタイヤが山になり、破産するところまで行きかけた。ブリヂストンの仕事は4、5年ぐずつき、軌道に乗ってきたのは10年ごろだった。


賃金は2倍でよろしい。しかしあとは駄目だ。人事権などにクチバシを入れるものではない。こっちからストをやれと言う必要はないが、肩透かしに一番いいときだと思うから、やるならやってみろ。一人でも戦う。
【覚書き|終戦直後、労働組合から給料の倍増と、すべての人事を労働組合の承認なしに行わないようにしろと要求されたときの発言。】


「米国の自動車タイヤのメーカーには1日5万本とか6万本もつくる大きな会社があり、それを日本に持ってきてダンピングしたら君のところは丸つぶれだぞ」というのが三井物産あたりの言い分だった。しかし、そんなことはどうでも、技術さえ成功すればいいのだからと、九州大学のゴムの先生の所へ行き「やってみようと思うがどうでしょうか」と話したところ、「100万円、研究費をください」という。当時の100万円だからかなり値打ちがある。地下足袋製造で働いていたドイツ人技師(ゴムの専門家)に話したら「自分も大いに賛成だ。やろうではないか。だがこれは極秘で研究しなければ世間に知られて失敗する」とのことだった。


ゴムに手を染めた以上、将来非常に大きくなるのは何だろうかと頭を痛めた。当時、自動車は日本中で3、4万台だった。米国などの状況からいろいろ判断して、将来100万台にはなるだろう。100万台になったら大変なものだ。アジアに目を向けても大きな市場がある。そうだ、自動車タイヤだと自ずから結論が出るようになったわけだ。
【覚書き|ブリヂストン設立のきっかけについて語った言葉。当時、貼り付け式ゴム底地下足袋を開発し莫大な利益を上げていた】


なんら失敗がなく自然と伸びていくので、他人からつくりごとのようだと言われるくらいだった。もともと大雑把な私のこと、すべて楽観してやるので、人が止めても何しても独走してしまう。たまたまこの独走がものをいった形だ。
【覚書き|地方の小さな仕立て屋を足袋販売、ゴム底地下足袋販売、ゴム靴販売で従業員2万人の会社にしたことについて振り返っての発言】


ちっぽけな仕事を飛躍させるには思い切ったことをやらねばならぬ。足袋を市価より2割安い20銭で売った。当時は儲けを2割見込むのが常識だった。たくさんつくって能率を上げ、雑費もかからないようにする。こうして思い切りやすくすることにしたので一躍注文も殺到した。
【覚書き|足袋屋時代を振り返っての発言】


弟子の賃金制度も思いついた。弟子は無給で働いている。仕事をするのに無休では勉強などしない。こんなことでは駄目だから給料だけは希望するだけ払い、その代わりに足袋を能率よくたくさんつくり、値段を安くする。こういう合理化案がまとまって実行に移した。いまなら無給から賃金制度に変えるのは何とも感じないが、当時としてはかなり思い切った考え方で、にわかに店費が激増したため、父からバカなことをしたと叱られた。しかし、それから皆働きがいがあるようになって能率が上がり生産も増え、同業者との競争に負けなくなった。
【覚書き|実家の仕立て屋を父親に代わって切り盛りしていた当時を振り返っての発言】


そのうち仕立て屋に疑問を感じるようになった。雑多なものを古めかしくつくっているのではいくらやったって駄目だ。これから見込みのある足袋を専業にしようと考え始めた。福助足袋などが盛んにやっているのを見てヒントを得たわけだ。
【覚書き|実家の仕立て屋を父親に代わって切り盛りしていた当時を振り返っての発言】


普通の足袋にゴムを縫い付けた地下足袋はあった。しかし、地べたにはくのですぐに糸が擦り切れ、終始修繕しなくてはならない。自動車のタイヤは二枚の布を貼り合わせ、その上にゴムを張っている。そのゴムのりで張り付けるのが一番いいだろうと思った。
【覚書き:ゴム底地下足袋の開発時の発言】


一生涯の目的を達成せんとする者は、いかなる固執も、障害も、目前の名利も介さず、忍ぶ、粘る、堅忍持久、終始一貫、最後の目的に突進することである。


わざわいは口からと言う。言葉をつつしみ、自分の偉さを表そうとはせず、気取られなければかえって人に尊敬され、親しまれ、自分も楽しみが多い。威張り、虚勢をはる人は他からも嫌われ、孤立し、人望を失うに至る。


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