石原広一郎の名言 一覧

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石原広一郎のプロフィール

石原広一郎、いしはら・ひろいちろう。日本の経営者。戦前の財閥石原コンツェルン創業者。京都出身。10代で家業の農業に従事したのち、私立京都法政大学(のちの立命館大学法学部)卒業後、弟に請われ日本を離れマレーに移住。鉱山開発会社石原鉱業を設立。そのほか、海運業の石原産業海運などを軸に、石原コンツェルンに発展させた。太平洋戦争後、A級戦犯として巣鴨刑務所に拘留されるが無罪となる。戦後、石原産業の社長に復帰し、同社の経営にあたり、農業用除草剤の普及に励んだ。また、同社が精銅工場を運営していた四日市でぜんそく公害により糾弾されたため、晩年は廃棄物処理の技術開発支援の活動に尽力した。そのほか、財団法人立命館の理事長なども務めた。

人間の心身は不思議な創造になっていて、鉄道のレールと同様、使えば使うほど力が出るものと、私はあえて申したい。幸いにして私はなお健在である。
【覚書き|75歳時の発言】


当時私は金策に奔走していたが、財布には8銭しかなくなり、市電に乗るにもこと欠くありさま。あがけばあがくほど、泥沼は深くなるばかりだった。いいようのない絶望感に襲われた私は、死のうかとさえ思った。けれども、あとに残る家族や妻子のことを考えると、それもままならない。私に残された道はただひとつ。石にかじりついても初志を貫徹することだけであった。
【覚書き|マレーの鉄鋼開発会社の資金を得るために走り回っていた当時を振り返っての発言。その後事業は成功し大きな富を得た】


今年で75歳だから、遠からず死ななければならないが、死ぬまで人間としての使命に忠実であることが、人生をまっとうしうる要諦だと思えてきた。


人間が使命を達成するためには働かなければならない。それは心身ともに健全であることが必要で、無理な働きをしてはならない。趣味や娯楽が人間には必要だと言われるのも、こうした理由からであろう。


昔から、人間は還暦を迎えると人生の振出しに戻るといわれてきた。私も60歳にしてその古人の言そのままの姿になった。老い先は短いから万事無駄にできないと考えた。


人間の欲望というものは、すべて死と同時に儚く消え去るものだ。人間の最大の使命は、煎じ詰めると、子供を産んで修養することにある。


人間が土から生まれて土に帰るように、万物は不滅であり循環還元する輪廻の法則に従って間断なく活動しているもので、その大きな流れには人力ではいかんとも抗することができない。


巣鴨に収容されてから国際軍事法廷が開かれるころまでの半年間は、やはり自分の運命がどうなるかを考えると精神の動揺は避けられなかった。それが、秋風の吹くころから気持ちが落ち着き、健康もよくなってきて、50数年の人生を振り返る余裕ができた。留置生活はいままで過去を振り返ることのなかった私にとって人生行路を反省する天与の機会となった。
【覚書き|太平洋戦争終結後、A級戦犯として巣鴨プリズンに拘留されていた当時を振り返っての発言】


「大戦後のゴム暴落は、その集積地であるバトパハを不況に陥れているが、開港すれば町は活気を取り戻すだろう。それに鉄鉱石の輸出を開始すれば、輸出税だけでも初年2万5千ドル、次年度5万ドル、それ以後は30万ないし50万ドルの歳入増となり、その結果政府の歳入は1割以上の増加になるはずだ」。ジョホール政府は当時、財政が極めて不安定だったので、私はそのことを中心に開港の必要性を力説した。
【覚書き|大正時代、鉄鉱石輸出のためにマレーシアにバトパハ港開港の交渉をしたときの発言】


「もったいない。罰当たりめ!ぼろ切れや古釘1本といえども捨てずにしまっておけ、何かの役に立つ。食膳に出たものは、箸をつけたら全部食べろ。食べたくないものには箸をつけるな。人を恨む前に自らを省みろ。自分のものは自分で始末しろ。決して他人を煩わすな……」こうした父の教えは、いまでも役立っている。


農家の仕事は単調で、しかも重労働である。収穫期には早朝から深夜まで働き通しだった。土を相手の仕事には人間関係の煩わしさはないし、手掛けた作物の成長を日々見るのは楽しいものである。肉体的な苦労はあったが、自然の中で豊かな気分を養うことができた。
【覚書き|10代を通して家業の農業を手伝った経験について語った言葉】


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