田中恭一の名言 一覧

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田中恭一のプロフィール

田中恭一、たなか・きょういち。日本の起業家。コンタクトレンズメーカーのメニコンの創業者。愛知県生まれ。国民学校高等科(現在の中学校に相当)卒業後、名古屋の老舗メガネ店の水玉屋に就職。同店に来店したアメリカ人女性からコンタクトレンズの存在を教えられ独学で研究を開始し、日本初のコンタクトレンズ開発に成功する。その後、コンタクトレンズ販売事業化しメニコンの前身である日本コンタクトレンズを創業。趣味は達磨の刻画。

私は創業時の失敗で商品の安全性がいかに大切かを学びました。だからこそ事業の核となる最も大切な部分とは何か、という視点を見失わずにこられたのだと思います。


消費者は自分たちの安全にどこまでこだわっているのか、そういう目でますます企業を選ぶ時代になっているのではないでしょうか。その意味では、安全にこだわる姿勢が企業の競争力を決めていると言っても過言ではありません。


コンタクトレンズの不良品事件で私は、「商品の安全性については絶対に外部に依存してはならない」ことを痛感しました。そこで、63年に新社屋を建てたのを機に、新たに研究施設を設け、プラスチック素材や光学の知識を習得するために社員を大学に数年間派遣する制度をつくるなど、自社の研究体制の強化に力を入れてきました。おかげで研究開発力は飛躍的に向上し、革新的な商品を次々に投入することができるようになりました。


日本で初めて開発したコンタクトレンズを眼科医に持ち込んだところ、眼科医のネットワークを通じて注文が入るようになったので、メニコンの前身である日本コンタクトレンズ研究所を設立しました。このとき、私はある有名な研究所の助言に従い、製法を少し変えました。それまでいわば我流でレンズを開発していたので、事業を本格展開するにあたり、もっといい商品を作りたい一心で専門家の意見を聞きに行ったのでした。ところが、数カ月ほどするとお客様から「レンズがボロボロになる」というクレームが殺到したのです。


当初は(レンズがボロボロになるというクレームの)原因がさっぱりわからなかった。在庫で抱えていたレンズは何カ月たっても劣化しない。良く調べてみると、(専門家の意見を取り入れた)新しい製法で作ったレンズは涙液に含まれる成分によって化学変化を起こすことが判明し、市場に流通していた商品をすべて回収しなくてはならなくなりました。幸運にも目を傷つけた人はいませんでしたが、一時は事業を継続できるかどうかという危機に陥りました。


眼鏡店に勤めていた私が、日本で初めて角膜コンタクトレンズ(黒目の部分に装着するコンタクトレンズ)を開発したのは1951年。米国から来たご婦人のお客様に「コンタクトレンズを持っている」と自慢されたのがきっかけでした。実物は見せてくれませんでしたが、コンタクトレンズを日本でもなんとか開発したいと思い、素材の研究からレンズの形状や研磨方法に至るまで一人で研究、自分の目を実験台に試行錯誤を重ねて開発にこぎつけたのです。


当社では「材料から製品まで」という経営の方針のもと、コンタクトレンズの素材研究から製造、検査まで一貫して自社で取り組んでいます。こうした自前主義に長年こだわってきたのは、創業まもないころに不良品の回収という大変にがい経験をしたからです。


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