玄侑宗久の名言 一覧

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玄侑宗久のプロフィール

玄侑宗久、げんゆう・そうきゅう。日本の僧侶、小説家。芥川賞作家。福島県で臨済宗妙心寺派福聚寺の長男として生まれる。慶應義塾大学文学部中国文学科卒業後、英会話教材の営業、工事現場労働者など様々な職を転々とした後、天龍寺専門道場に入門し臨済宗の僧侶となる。『中陰の花』で芥川賞受賞。『般若心経 いのちの対話』で文藝春秋読者賞を受賞。花園大学客員教授。

ビジネスマンならずとも、みな「わたし自身」を信じ、役職や立場という縁で結ばれた虚像を実態であるかのように演じ続ける。しかも本来は時と場合に応じて無常に演じ続けるべきところを、硬直した「わたし自身」のまま家に帰り、食事中でもお風呂でもそのままで通そうというのだから不自由極まりない。いつも変わらぬ確かな「わたし自身」を構築しようとする真面目な人が、それに失敗して鬱になったりもする。


思えば日本では、戦後教育のなかで「個性」が強調されすぎてきた。それがより執拗な苦をつくりだしているのだと思う。


暗記した何かを唱えるという文化は、戦後は極端に軽んじられてきた。我々の世代が教わったのは、いつも思考は素晴らしいという話ばかりだった。なるほど思考とは、常に過去を材料に展開されるから、いわゆる一貫性のあるアイデンティティがそれによって導かれるのだろう。言葉が深い沈黙から湧きだすように、思考も実は直感的に無思考の混沌からしみだしてくる方が素晴らしいのだ。


「わたし自身」という個性は、あくまでも結果についての呼び名にすぎず、自然の分身としての「自分」は本当はどのようにでも変化できる。いや、いまも休みなく変化し続けているのだ。


諦めず、しかも計画通りに遂行できずに暗くなっているのが、最近のビジネスマンではないだろうか。おそらくその最も大きな理由は、彼らが諸行無常の世界を、計画や予定という想定のうちに無理やり押し込め、しかも自分自身のことも想定内の存在として見くびっているからだろうと思える。


リーダーたる者は、自分が欲望とは意識していない欲望まで注意深く、毛抜きで抜くようにひとつひとつ排除していくことがとても大事になる。


欲望を捨てる生き方のもうひとつは、「やむをえずする」ということだ。「やむをえずしているんだ」と言うと、何か嫌々しているようにも聞こえるが、実は『荘子』では最高の行動原理とされている。要するに、「私がしたくてする」のではなく、たとえば求められて「せざるをえない状況なのでする」という生き方だ。それこそ余計なものが入る余地のない、最も欲望から遠い生き方とも考えられるのだ。


みずからを高めるというのは、そもそもどういうことなのか。自分は自分をどういう「作品」につくり上げたいのか、ということがはっきりすれば、やるべきことはおのずと決まってくるのではないだろうか。


私は小説を書くとき、勝負は作品だけだと思っている。その作品自身がどれだけの価値を持てるかに血道をあげるのだが、自己修養であれ禅の修行であれ、「作品」は基本的に自分ということになる。その自分という「作品」をどういうものにしたいのか、というビジョンを持つことが、まず大切だと思う。


リーダーというのは、特に自分の言動を注意深く見る癖をつける必要がある。会社のトップであれば、いろいろな言葉で自分の意思を表現することができる。ストレートに「~しなさい」とか「命令だ」などと言う代わりに、「これがわが社の社風なんだ」というような柔らかい言い方もできるのです。


ビジネスにおいては「精」と「疎」が相補性のひとつです。非常に細かく具体的な仕事をするのが得意な「精」の人と、タイムスケジューリングや仕事の割りふりが得意な「疎」の人の、どちらが優秀かというのは、いちがいに言えるものではありません。どちらの見方、仕事の進め方も大切なものなので、二元論で優劣をつけるのではなく、お互いが補いあうという考え方をすべきでしょう。


基本的に人間はものごとを客観的に見ることなどできないと思っています。つまり、どこまでいっても主観から逃れられないということです。身も蓋もないような言い方ですが、では自己観照はできないのかと言うと、そういうことでもありません。どこまでいっても主観的ではあるが、いかに主観の「臭み」を抜くか、いかに主観を「たたき上げる」か、ということだと思います。たたき上げるというのは、つまり、ひとつの見方に凝り固まらず、少なくとももうひとつの見方を試みるようにする、ということです。


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