渡邊剛の名言 一覧

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渡邊剛のプロフィール

渡邊剛、わたなべ・ごう。日本を代表する心臓血管外科医。東京出身。金沢大学医学部卒業後、ドイツ・ハノーファー医科大学心臓血管外科に留学し臨床研修を行う。留学中に2000件にわたる心臓手術を経験。32歳で日本人最年少心臓移植執刀医として活躍。帰国後、心拍動下冠動脈バイパス手術(人工心肺を用いない心臓を動かしたままのバイパス手術)に成功。41歳で金沢大学心肺総合外科教授となる。心臓アウェイク手術、外科手術用ロボットを使った心臓手術など日本初の手術を成功させた。東京医科大学心臓外科教授なども務めた。

若い頃はお酒や女性は二の次にして、シャカリキに働いて仕事がおもしろかったら、誰でもまちがいなく成功するんじゃないのかな。


小さい頃から母親にいつも「何でも一所懸命にやるんだよ」と呪文のように繰り返し言われていたことの延長線上で、今の仕事をしているような気がします。


僕は今、年に400例ぐらいの手術をしています。みなさんが言ってくださるので、心臓外科医の中ではうまくてスピードのあるほうなのかもしれません。でも、世界は広いですよ。少なくとも、トルコにはひとり、僕よりも3倍はうまくて速くて、年に2000例もの手術をやっているなんて心臓外科医がいるのです。日本の外科医は、僕も含めてまだまだでしょう。そのトルコの先生は本当にすごいんですよ。手術があまりにも完璧だから、日帰りや一泊二日の心臓手術をしているなんて噂を聞いても「なるほど、彼ならうなずけることだ」と思えるし、僕もそこに一歩でも近づこうと思って頑張っているんです。


これまでの定番の手術とは違う新しい手術を開発するようになってわかったのですが、前に人のいないはじめての場所に入りこむと、そのうちに「問いも答えもない世界に自分はいるんだ」と気づきます。そこではすべてがはじめてのことであって「わかっている人間」なんていません。だから、自分で決断をして自分で自分の問いに答えるしかない、そのことは自分の立場が変わってわかりました。


留学から帰ってくる頃、ドイツの恩師に、僕は言葉をくださいと言ってノートを出したことがありました。すると、先生が書いてくれたのはドイツ語で「人に頼るな」。これ、当時32歳の僕には「孤独に頑張れってことかな」としか思えなかった。でも、今ならこの言葉の意味がわかります。味のある言葉でね、これは「自分の中にしか結論はない」ということなんですよ。


手術の成功と失敗については、昔は、失敗の経験の繰り返しが技術をあげると信じていたところもありました。でも、同じ失敗を繰り返す人は多いし、やはり、どうも患者さんが亡くなってしまうことをいくら体験してもうまくはならない。そんな外科医はたくさんいますし。だから、今は「助けてはじめて経験になる」と考えるようになりました。ただ、僕の手術成功率は99.5%ほどですが、残り0.5%の亡くなった患者さんのことは忘れられないですね。その方々全員の名前と亡くなった原因を自分なりに解釈してメモして、自分の机のガラス板の下に入れて見えるようにしてあります。


こうして僕がやっている新しい医療に対しては「実験医療」と非難する人たちがいます。15年前に人工心肺を用いないバイパス手術をはじめた時にもそう言われましたし、今のロボット手術やアウェイク手術に対しては、同じ心臓外科医からさえもそんなふうに言われることもあります。でも、僕にとって「患者さんの負担をギリギリまで軽くして、完璧な手術をして帰っていただく」という哲学を持って新しい手術を開拓していることについては、外科医として大切な使命と捉えているんです。


新しい手術に成功すると、今まで見えなかった風景が見えてくるんですよ。たとえば「切開する範囲を狭めて、体への負担を減らそう」と内視鏡を使った心臓手術を僕は開発しましたが、そのうちに指先の感覚も変わってくるわけです。狭い隙間から箸でつまんで縫うかのような、内視鏡手術におけるむずかしい作業を繰り返していると、そのうち「今までの開胸手術は何と簡単だったのだろうか」と感じるようになります。そういうのが「新しい風景」なのです。そうして手先の技術そのものも、目からウロコが落ちるたびに一皮むけてレベルアップしていく。


当時でも、重症の人なら体の負担を軽くしなければと、細々だけど人工心肺を使わない手術も行われていました。そんなに体にいいのならば、何とかしてもっと多くの手術をオフポンプ。つまり人工心肺なしで行えないものだろうか、と。そのために手術道具を開発するというところから手術の工程を作りあげたのです。


ドイツでは、ストイックな環境にいられたこともよかったですね。お金もない。言葉は話せない。残念ながら彼女もいなかった。周囲に享楽的なものが何もなくて、手術が終わって夜に自分の部屋に戻ると「今日、教授はこんなふうに糸を返していたな」なんて、その日の作業を忘れないようにノートにつけていた。


30代の前半というちょうど訓練するべき時期に、おおぜいの患者さんを手術させてもらえるチャンスを与えられたのがよかったんです。たとえば、ハイパスに使う血管を取る作業にしても、これは量をこなさなければうまくはならないんですよ。1000本の血管を取って一人前になれるのだとしたら、10年かけて1000本取るより、若いうちに1年で1000本取るほうがいいんじゃないかとは思うんです。
【覚書き|ドイツの病院に留学した当時を振り返っての発言】


手の能力がさらにすごく向上したのは金沢大学の医局から横浜の病院への出向を経て、ドイツの病院に留学した頃でした。ここでの仕事の量は半端じゃなかった。そもそも、病院に着いた日からさっそく手術に参加していましたから。その前にいた日本の病院での心臓外科手術は年に100例ぐらいだったけれど、ドイツでは年に1500例でしたね。しかも働きはじめて3ヶ月ほど経ったら「前立ち」と言って教授の前で補助をやる第一助手を務めることになりました。その量と状況が今の自分を作りあげるきっかけになったのだろうとは思います。


いまでも卒業間際まで外科と内科のどちらにしようなんて迷っている人の話を聞くと信じられないと言うか、「自分の向いている道なんて、六年間、医学を勉強すればわかるはずじゃないのかな」と思ってしまいます。


中学と高校は麻布学園に通ったんですが、これがとにかく自由な校風で、一芸に秀でたやつが多かった。すると自分は何が一芸なのかなんて考えますよね。僕の場合はどうやら手先が器用で工作が好きであるということが一芸のようだから、将来はそれを活かせる仕事ができたらいいな、と考えていました。それで高校の頃に手塚治虫さんの『ブラック・ジャック』を読んだら、あ、これだ、もう外科医しかないよなと思って、金沢大学に進学したんです。


そのつど対策を変えて手術に臨むというやり方は若い頃にはできなかったですね。昔はどの心臓も教科書通りに同じように手術しようとしていたから、どうしても何十回に一回ぐらいはつまずくことがありました。これをやっちゃうとあとでこうなるだろうからやめておこう、という判断ができなかったんです。でも、今はそれぞれの心臓ごとの個人的な性質をジャッジできるようになりました。


手術も、あれは一時間や二時間でバッと終わらせたように見えるかもしれませんが、作業工程自体は細かく分けたら1000や2000の作業を組みあわせて成立しているんです。しかも、途中でその工程以外の何が起こりそうなのかも、あらかじめ読みきっておかなきゃいけない。そういう準備ができるようになるには、やはりたくさんの手術をこなすしかないでしょうね。


心臓手術は、メスで体を開く前に勝負が決まっています。一回はじめれば戻れないし、血が止まるまでやめられない。手順が狂えばうまくいかないから、それぞれの作業工程もいかにすばやくまちがえないでやるのかという組みたてを、身体にしみつかせる必要があるんですね。


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