江崎利一の名言 一覧

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江崎利一のプロフィール

江崎利一、えざき・りいち。江崎グリコの創業者。佐賀県出身。芙蓉小学校高等科卒業後、家業の薬種業を引き継ぐ。海外から大樽でワインを低価格で仕入れ、瓶に詰め安価に売る商売で九州一のワイン販売業者となる。その後、干し牡蠣をつくる際、グリコーゲンを多く含む煮汁が捨てられていることに目をつけ、グリコーゲンの事業化に着手。41歳で栄養菓子事業の江崎商店(江崎グリコ)を創業。グリコ、ビスコの製造で成功した。第二次世界大戦で全財産を失うが、戦後同社を再建し再び財を築いた経営者。

アタマは使うが、心痛はしない。


下から石を一つずつ積み上げて山頂に達するより、山頂から石を転がした方が早い。


事業奉仕即幸福。事業を道楽化し、死ぬまで働き続け、学び続け、息が切れたら事業の墓場に眠る。
【覚書き|80歳の誕生日のとき、社員からの寄せ書きに対する返礼として書いた言葉】


私には遊ぶ道楽がない。正直に言って、若いときから遊ぶほどの金も暇もなく、したがって、もっぱら商売を道楽と考えてきた。


「夢は大きく、暮らしは地味に」これは私の処世訓でもある。


商売は儲けたり儲けさせたりの仕事である。売ったり買ったり、便宜をはかったりはかってもらったり、儲けさせたりの相互利益こそ、商売の真髄であり、要諦であろう。


商売というからには、誰でも一応は一生懸命やっている。それで当たり前、いわば2×2=4(ににんがし)である。大きな成功を収めるには、それだけでは足りない。考えて考え抜き、努力に努力を重ねて常識の壁を越え、誰もがやれないようなことをやってのけなければならない。2×2=4を、2×2=5(ににんがご)にも6にもしなければならない。


商売とは、まことに難しく、そして不思議なものだ。どんな小さなところに発展の鍵が潜んでいるかわからない。大切なのは、それをどう見つけ出し、どう生かすかということだろう。


最近冗談に、もしかすると本当に100歳まで生きるかもしれないと思ってみたりしている。そうなれば「雀百まで踊り忘れず」のことわざの通り、生命ある限り商売修行を続けていきたいものである。
【覚書き|80歳当時の発言。利一氏は97歳まで生きた】


オモチャ屋と冷やかされ、グリコはオマケで売れたという人もある。しかし、本当はグリコのオマケを生み出すほどの創意工夫こそ、グリコ発展の原動力であったと私は言いたい。


私は商売における広告の効果と重要性を十分認めていたので、その後、どんなに資本が乏しく、また金繰りに苦しんだときでも、広告だけは続けて出した。もともと私は広告は人を動かす術であると考え、郷里にいるころから気合術、催眠術などの本をわざわざ東京から取り寄せて勉強していた。いまでいう心理学、販売活法といったものである。


働くということは人生におけるすべての基本である。働かずに食う法、働かずに金を儲ける法、働かずに出世する法があろうはずがない。だから、少しでも早くこの「働き」の習慣を身につけるのがその人の一生の大きな幸せといえる。


私はアタマとマナコ(眼)の働かせ方次第で、商売というものの妙味がいかに無尽であるかをつくづくと感じさせられた。それからというものは、目、耳、頭、手足を油断なく働かせるようになり、周囲のものごとに対して一層注意力、観察力を傾けた。


グリコという名称が独創的であるように、形もまた独創性を持たなければならないというのが私の考え方であった。


君たちが腰が抜けたというのなら、辞めてもいい。私はひとりになってもやり通す。城を枕に討ち死にする覚悟の者だけついてこい。
【覚書き|グリコを販売開始したものあまり売れず、部下の営業マンが弱音を吐いたときに言った言葉】


私は佐賀にいるころ、自宅から一町ほど離れた八坂神社に出かけては、いつも考えに耽っていた。社殿の裏は、こんもりとした森である。森の緑に頭を休めながら、いろいろとマークやスローガンを考えた。


(会社の資金のほとんどを預けていた近江銀行が破たんし資金のほとんどを失ったとき)私はのどを締められる思いだった。「慌てるな!命がけの問題は宿題を解くような平静な気分でやれ」と自分に言い聞かせ、淀川に釣りに出かけた。その翌日も同じように出かけ、淀川の大きな流れを見ているうちに、水の中に北浜の銀行街が浮かんできた。「そうだ、大銀行にイチかバチかの体当たりで頼むのだ。死んだ気で頼めばきっと聞いてくれるに違いない」
【覚書き|この後、第一銀行を必死で説得し融資を得ることに成功した】


生産能力の2倍、3倍にも達する注文が来るようになり、どうしても拡張が必要になった。しかし、商売はよく拡張で失敗する。形の上で大きくなったことに気を許して、万事にぬかりがちになるからだ。同時に、失敗と気づいたとき、精一杯の資金を使ってしまって、手元に必要な予備資金を持たないことが多い。資金計画は努めて綿密にした。


よく考えてみると、健康な人間が病気予防の栄養剤など買うだろうか。買わないとすれば、どうすればいいか。そうだ、嗜好品として売るのだ。菓子の中にグリコーゲンを入れるのだ、という考えがついに固まったのである。そこへいくまで、私はいろいろな食品、たとえば佃煮、瓶詰、ふりかけゴマなどにグリコーゲンを入れて研究してみた。そして結局、飴菓子に混入することになったわけである。
【覚書き|グリコーゲンを栄養剤ではなく、お菓子として販売するアイデアを思い付いた当時の発言】


飴作りに失敗すれば、京都で寺参りの客を相手に「極楽豆」を売ろうという考えを持っていた。南禅寺の茶売翁の例に倣ったのである。グリコーゲンの事業化は、私にとっては背水の陣だったが、失敗したときの手だても計算に入れていたのである。


私はあちこちと菓子店を見て回った。どこでも、狭い間口にぎっしり商品を並べている。こんな場所では、包装自体で客の目をとらえるほかはない。そのころ、キャラメル類の包装は、いずれも森永を真似て黄色のものが通り相場になっていた。しかし、私はマネを嫌って、一番目を引きやすく、しかも食欲を刺激するものを考え、あちこち並べ替えたりして、視覚効果の実験を行った。そしてグリコは赤箱と決めたのである。


グリコのスローガンにも頭を悩ました。「簡単で」「力強く」「覚えやすく」「興味の持てるもの」。しかも、日本で初めての栄養菓子の性格を十分表したものでなければならない。


私は商売一筋に80余年を生きてきた。商売に生きるということは、私の場合、創業以来の「食品による国民体位の向上」というモットーをいかにして実現するかということに尽きる。


健康も事業も、じつは精神の持ち方次第である。これは一見平凡なことのようだが、じつは非常に大事なことである。日露戦争で野戦病院勤務だったとき、瀕死の重傷を負った兵士でも、強く励ましたり気を引き立たせたりすると、不思議なほど手術は上手く運び、何人も生命が助かるのを経験したことがある。


最近よく「長寿の秘訣は何か」と人に聞かれる。しかし、私の健康法に奇策はない。平凡なことをひとつひとつ積み重ねていくだけである。


私の実業家としての使命は、学者や専門家によって研究された食料や新栄養源を、国民の体位向上のためにすみやかに企業化し、社会に多くの価値を提供することだと信じている。


広告は資産であるということは、かねて一般にそう言われている。しかし、これを実験した人はまだいないと思う。これを厳密にやろうと思えば事業をやめ広告を中止せねばならない。しかるに幸か不幸か、私はそれを実地に試して、広告は立派な資産であるという実感を得た。というのは、太平洋戦争の前後8年にわたって中止していたグリコとビスコの生産を終戦後再び始めたとき、実験の意味でまったく広告せずに売り出してみた。グリコの記憶が残っているのは多くて70%くらいだろうと予想していたところ、80%までが知っているという調査結果が出た。そしてその割合で製品は売れた。このようなわけで、広告は資産なりということが事実によって確認できた次第である。


グリコという看板は全国隅々まで、グリコ愛用者の頭の中に刻み込まれ、記憶のうちに残されていて決して焼けもせず、消え去りもしていない。我々が精魂込めてつくりあげた不滅の大資本であり、信用である。これがある限り、またこれに恥ずかしからぬ我々の努力精進がある限り、絶対にグリコは復興する。いや、復興以上の一大飛躍を遂げるであろう。
【覚書き|太平洋戦争によってすべての工場と機材を失ったときの発言】


私は工場を死に場所と考えている。現在の用地を買収するときも、農民に襲われるほどの命がけの交渉を行ってきた。ほかにも生命の危機にさらされたことは、これまで3度もある。命が惜しいとは思わぬ。今度建ててやられたら、もう一度建てる。力の続く限り何度でも建てるつもりでいる。だから今の場所に工場を再建し、決死の覚悟で操業を続けたい。
【覚書き|太平洋戦争当時、工場を爆撃で破壊された直後、「他の場所に移るように」と軍から命令されたときの発言】


私の生家は貧しく、その貧しさの中で父は私をさとした。「金を借りている人の前では、正論も正論として通らぬ。正しい意見を通すためにも、まず貧乏であってはならない。浪費を慎み、倹約に努め、商売に精を出して、ひとかどの資産を積んでもらいたい。しかし、金をつくるために金の奴隷になってはいけない。世の人から吝嗇(けち)と卑しめられてまで金をつくろうとしてはならない。そして金ができたら、交際や寄付金は身分相応より少し程度上げて努めていけ。それで金をこしらえていくのでなければ、立派な人間とはいえない」


ビスコの製法上の新機軸として、サンドクリームをビスケットに付着させるのに、業界では不可能とされている脂肪の使用を研究し、ついにはこれに成功した。この方法は、はじめ同業の冷笑を買っていたが、ビスコの成功によって業界一般にも普及し、いまではほとんど全国的に採用されるまでになった。


新店舗ができたり、新工場ができると、どうしても気の緩みが出る。自分ばかりではない。従業員にもその危険は十分にある。「敵国外患なきは滅ぶ」という言葉もある。ここで過去の苦労を忘れてはそれこそあぶない。そこで私は、創業時代の強い勇気と創造の熱意を忘れないためには、どうしても第二の創業を体験するのが最有効と考えた。私は新しくビスコの発売を思いついた。


良いと信じ、正しいと決めたことは決して遂行を緩めてはならない。誠意を持って取り組むべきことを私はこのときハッキリ胸に刻んだのである。
【覚書き|郷里の佐賀にいたころ、コレラで村人が大量に倒れたとき、応援の医者が来るまで面倒を見てほしいと頼まれ懸命に看病した結果、一人も死なせず全員回復させることができたことを振り返っての発言】


問題が起きたら誠心誠意取り組むことだ。問題の解決から一歩を進め、次の積極的な活動に入ることを忘れてはならない。それはきっと上手くいく。


先行者の失敗は不可能を物語っているのだろうか。いや、むしろ限られた可能性があって、それを発見し、徹底的に研究していけば間違いあるまい。彼らはなぜ失敗したのか。私はその辺をよく考えた。
【覚書き|大阪から東京へ進出した業者7社がすべて失敗したということを聞いたときを振り返っての発言】


俗に「遊び食い」という言葉があるほど、子供たちは食べながら遊び、遊びながらも食べる。どちらか一方だけでは満足しない。彼らはいつもオヤツとオモチャの世界に住んでいる。食べることと遊ぶこと、この二大天職をひと箱で満足できれば、子供にとって大きな魅力ではなかろうか。グリコで健康を増進させ、オモチャを通じて子供の知識と情操を向上させる。これこそ事業即奉仕の精神につながる。そうだ、オヤツに加えてオモチャを提供しよう。
【覚書き|この発想によりグリコは爆発的に売れるようになった】


いつものように工場の仕込みを済ませ、明日の宣伝販売の段取りを終えると私は戸外に出た。家の前のたかきや橋に立って沈思黙考するのがそのころの私の習慣だった。その夜は、人の苦悩も知らぬ綺麗な月が輝いていた。橋の上から川面に映る月影を見ていると、さすがの私もふと「いっそ、このまま川の中に飛び込んでしまったら……」という気持ちに誘われ、ハッと我に返った。「そうだ!死んだ気になってもう一度頑張ってみよう。まだまだ努力が足りないのではないか」。
【覚書き|グリコ発売後数年間鳴かず飛ばずだった時代を振り返っての発言】


私は栄養菓子グリコを売りたかった。牡蠣からとれたグリコーゲン、息子の病気を救った牡蠣エキス、これを国民の健康に役立てようというのが私の念願だった。だから、私一人になってもやるという心に嘘偽りはなかった。


私は早速、ゴールイン姿のマークをこしらえた。それまでに、ゾウ、ペンギン、ハト、花などのマークができていた。その中に新しくゴールイン姿を加え「どれが一番好きか」を、近くの小学校でテストした。さらに一週間後「どれを一番覚えているか」を調べた。佐賀だけでなく大阪の小学校でも同じ調査を行った。結果は圧倒的にゴールインの支持が高かった。こうして、両手をあげてゴールに飛び込むランニング姿が、グリコのマークと決まった。


ある日、見るともなしに見ていると、子供たちが走りっこをしている。先頭になった子が、勢いよく両手をあげてゴールインする。その姿を見て私は考えた。「人間は誰でも、健康でありたいと望んでいる。健康のためには、体を鍛えなければならない。そうだ、スポーツこそ、健康への道だ。そして、子供の遊戯本能もまた、スポーツの中にはっきり現れているではないか。ゴールインの姿は、それらの象徴というべきではないか。グリコのマークとして、これほどぴったりのものはない」
【覚書き|グリコのマークを思いついたときを振り返っての発言。佐賀の実家の近所の八坂神社にて】


資本金6万円の栄養菓子会社(グリコ)はスタートした。当時森永1500万円、明治750万円の資本金だった。菓子の上では何ひとつ経験もなく、新しい事業に乗り出したのである。折あしく、業界は倒産が続出し、メーカー淘汰が頂点に達したときだった。悪いときに船出したものであるが、不況の後は好況と、私は歯を食いしばって頑張った。


専門家の不可能というものを、可能にしてみせようと張り切った。それに、小さい子供の口に入るからには、口当たりや舌触りの良いものでなければならないと考え抜いた末、ハート形の型抜きに成功した。世界でも初めてだと聞いている。
【覚書き|グリコの形について菓子製造の専門家に聞きにいったところ、利一氏のアイデアを否定されたことについて語った言葉】


なるほど、グリコ・キャラメルなら、既存のキャラメル類におんぶされて、楽に伸びられるかもしれないが、それでは新しい栄養菓子を売り出す意義がない。それに既存商品を追い越すことは絶対にできないだろう。キャラメルではない新しい菓子が、グリコなのである。売り出す苦労は、覚悟の上のこと。簡単、剴切(がいせつ=よく当てはまる)で語呂がよく、広告の原則にもかない、効果の上でも有利と判断したからである。
【覚書き|商品名を「グリコ・キャラメル」にした方がいいという大勢の意見を無視し、「グリコ」の名で販売開始した理由について語った言葉】


私はこれほどの大商売になろうとは全く予想もしなかった。それだけに、あくまでも行き過ぎということを警戒した。生活も薬屋時代の質素な暮らしを続けた。そして、いつかは機会を得て大阪に進出したいという考えがあったので、その方に備えての備蓄を怠らなかった。
【覚書き|外国から大樽でワインを格安に仕入れ、瓶に入れて販売する商売が当たり、九州一のワイン販売業者になった当時を振り返っての発言】


家業に専念してから一年余りたった年の春、かねて商売の勉強にはぜひ一度大阪へ行ってみたいという念願がようやく叶うときが来た。佐賀の田舎では旧正月の1か月間は農閑期で、温泉場で遊んで過ごすのが習慣であったが、私はこの機会に大阪の初見物を実行することにした。休養と視察とそして商売を兼ねた旅行だったが、予想以上の収穫を得ることができた。


結婚すると私は本業の薬屋に専念した。そして(旧制)中学の講義録、さらには商売に欠かせない販売、宣伝広告、薬業などについて独学に励んだ。当時、佐賀市内にあった大坪書店から「商業界」を購読していたが、この本の注文は、私のほかもう一人、玉屋百貨店の前身丸木屋呉服店の支配人ということだった。


父の考えでは、人間は人の世話になると一生頭があがらない。世話にならずに済めばそれに越したことはない。無理をして学校に進まなくても、働き次第、努力次第で学校出に負けない立派な商人になることができる。それが我が家のためであり、また子供自身のためでもあると考えたようだ。


私自身まことに良い環境に置かれたもので、小さいときから「働く習慣」が知らず知らずのうちに我がものとなって、少しもそれが億劫でなくなった。私は学校教育の機会には恵まれなかったが、この勤労教育には大いに恵まれた。ここに、あれこれ仕事を命じた父の本意と慈愛があったものと、私はありがたく感謝している。
【覚書き|幼少期から家業の薬屋を手伝わされたことについて語った言葉】


儲けようと思ってやる商売には自ずから限度があると思っていい。あくまで社会の要求に沿うような奉仕の精神で打込めば、必ずその事業は大成するに違いない。私は商売人であることを大いに誇りとしているのである。


本当の商売のあり方、すなわち真の商道精神というものについて、私に初めて教えてくれたのは、寺子屋の師匠で、楢村佐代吉先生である。「商売というものは、自分のためにあるとともに、世の中のためにあるものだ。商品を売る人はモノを売って利益を得るが、買う人もまたそれだけの値打ちのものを買って得をする。この均霑性(きんてんせい、平等に利益を受ける性質)すなわち共存共栄がなかったら、本当の意味の商売は成り立たないし発展もしない。商売で大成しようとする者は決してこのことを忘れてはならない」


私は先見の明とか、広告法、さらには人心をつかむ気合い術、暗示を生かす催眠術など商売人として生き抜くために必要ないろいろなことを身をもって体得してきた。


グリコを始めたのは40歳を過ぎてからである。したがって、少年時代も青年時代も田舎で過ごし、学問は全くの独学である。もともと菓子のことなどはズブの素人であったが、実地に臨んで現実と取り組み、努力し、工夫しながら一歩一歩を歩んできた。


私はやがて81歳になる。この年まで現役の社長をやっているのは、よほどの物好きか道楽者と言われても仕方あるまい。もともと好きな仕事ではあり、それに商売というものにはキリがないのだから致し方ない。もし、私から商売を取り上げてしまったら、いったい何が残ろう。趣味の少ない私にとって商売こそ私の生命であり、生涯かけた唯一の仕事である。幸い精神年齢では、若い者に決して引けはとらない。自慢ではないが、私の内臓器官に至っては40歳代だと医者が証明してくれた。これは一昨年の胆石手術の際にわかったことである。
【覚書き|80歳当時の発言】


無名商品の販売方法として私はこう考えていた。「下から石をひとつずつ積み上げて山頂に達するより、逆に山頂から石を転がしたほうが勝負は早いかもしれない」。そこで、将来、一流商品になるべきグリコは、どうしてもまず一流商店から発売しようと決心した。これが三越参りのきっかけだった。何度となく足を運んだが、のれんを誇る三越では、海のものとも、山のものとも分からない新商品など、納入させてくれなかった。しかし、断られても断られても、私は三越に頼むことをやめなかった。私は三越で最初に売り出すことの利益を十分考えたからである。


戦争は終わった。惨憺たる敗戦である。グリコの本拠もかくのごとく灰燼に帰した。しかし、我々は決してグリコの再生復興を疑ってはならない。工場も機械も、材料も商名も一切が焼け失せたが、ここにまだ、さすがの敗戦にも焼けなかった最大の資本がある。それはグリコという看板である。のれんである。名前である。これは過去30年間営々として築き上げてきた我々最大最高の資本である。


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