杉山金太郎の名言 一覧

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杉山金太郎のプロフィール

杉山金太郎、すぎやま・きんたろう。日本の経営者。食用の大豆をメイン事業とする「豊年製油(のちのJオイルミルズ)」社長、会長。和歌山出身。市立大阪商業学校(のちの大阪市立大学商学部)卒業後、外資系商社の米国貿易会社(アメリカン・トレーディング・カンパニー)に就職。20年以上同社で海外貿易の実務をとり行う。その後同社を退社。中外貿易会社専務、復興院で関東大震災の復興を手伝った後、豊年製油に入社。近代製油技術の進歩に大きく貢献した人物。また、大豆から油をとったあとの搾りかすを食用にする技術を開発し、資源の有効活用の端緒を開いた人物。そのほか、日本大豆協会会長、財団法人日本合板技術研究所理事長なども務めた。

私は学校時代から考えていたのだが、商売人は、ときとすると、駆け引きをして嘘をつくことを商売の常道と考えがちである。これはとんでもない過ちなのだ。私は世の中に立っていく以上は、士魂商才の精神をもって進まなくてはならないと考え、その信念を堅持してきた。技術面では品質の改善、営業面では優良品の薄利多売の方針で臨んできたわけである。


さすがは正金銀行で、頼んだ以上は高いも安いもいわない。分厚いリストを全部私に任せてくれた。ここで悪いことをしてひと儲けしようとすれば、いくらでもやれる立場にあった。それが絶対の信頼を受けたのだから、なおさら誠意をもってことにあたらなければならなかった。
【覚書き|大恐慌時に、貿易商社の輸出入為替を立て替えていた正金銀行が抱えてしまった貿易商品を処理する仕事を任せられたときを振り返っての発言。このとき得た信用がのちに正金銀行から事業資金を借りる保証となった】


米国貿易会社で、私は大変な厚遇を受けており、好景気の波に乗って夢中になって仕事をしている限り、居心地は極めてよかった。しかし、夜半、ふと一人目覚めて「いったい、このままでいいのかしらん」と反省することがないでもなかった。最初、数年の貿易実習のつもりが、20余年にわたっていたのである。
【覚書き|この後、学生時代の同級生に誘われ厚遇を捨て中外貿易会社を設立した】


私の性格として、自分ながらあまりに潔白であることを自覚している。「水清くして魚住まず」というように、友人は多くできるたちではない。しかし、一度深く相知れば、長く、ある場合は永久にお付き合いを続けるのが私の交友の特徴である。


一寒村の小農の家庭に生まれたため、幼少から、常にものを大切にするように、しつけられてきた。そのためか、自分の勤務先でもあらゆるものを大切にし、たとえ一枚の紙、一本の鉛筆、一粒の大豆でも、必ず無駄にしないことを念願して、社内の従業員にも、厳にその心構えを伝えているのである。


先生、そんなことを言うのは、私に死刑の宣告を与えると同じですよ。私は会社に出てくるのが唯一無二の楽しみで、それ以外に趣味も何もない。どうか直接、仕事に携わらないまでも、元太郎の後見役というつもりで、毎日会社に出社させてください。
【覚書き|社長を息子の元太郎氏に譲り会長に退いたとき、監査役から毎日会社に出てこないようにしなさいとアドバイスを受けたときの返答】


大豆油を食用にし、脱脂大豆(油を搾ったあとのいわゆる「豆かす」)を、醤油、味噌、豆腐の三大用途に使うことを完成し、私の生涯の理想もここに至ってはじめて実現したことになるのである。「杉山さん、あんた、これだけのことを国家に対してやったのだから、勲章をもらわなければいけませんね」と冗談を言う人があるが、私も「せめて勲三等ぐらいならね。四等より下ならご辞退しますよ」と冗談を言うのである。


いったい「豆かす」という言葉は非常に聞こえの良くないものである。こういう言葉遣いは日本だけで、中国では豆餅と言い、欧米ではビーンケーキとかビーンミールとか言って、耳触りの良い言葉になっている。そういう名称なら、ちょっと口に入れてみたくもなるが、なにしろ、カスという表現はよくないものだ。
【覚書き|大豆から油をとったあとの「豆かす」には大量のたんぱく質が残っており様々な用途に使え、大きな可能性を持つことについて語った言葉】


私が米国に行ったのは第一次欧州大戦当時であるが、各地を旅行してみると、土地は広いし天然資源には恵まれ、どうもすべての点で、米国は日本より優れている。何か日本が米国に勝るものはないかと、日夜、そのことが心を離れなかったが、人間こそ宝だと私は考えついたのである。それは要するに教育であり、とくに応用化学、農芸化学を推奨し、この研究で新しい発明を生み出し、物資の不足を補っていくべきである。


会社の経営にはふたつの行き方があって、そのひとつは多角経営であり、もうひとつは特定の少数の品物に全能力をあげて大量生産するというやり方である。私は豊年製油を経営するにあたり、少数製品主義をとって今日までやってきた。


昭和二年の金融恐慌のため、鈴木商店(戦前の財閥のひとつで豊年製油の親会社)は一敗地にまみれ整理を余儀なくされた。その結果、豊年製油の株式はすっかり台湾銀行の所有に帰してしまった。「杉山君、ぜひ適当な資本家を探して、これ(豊年製油株)を引き受けてくれるよう交渉してくれないか」と台湾銀行から再三頼まれた。日本の主な財閥にこの事業を引き受けてもらえないだろうかと依頼して回ったが、いずれも断られた。いよいよこれは自分自身の手で、全責任を負って立つより方法がないと思い、杉山個人が譲り受けることになった。


製油業は非常に投機的なものであり、大連には油房という製油工場みたいなものがたくさんあった。そこにいる連中はみな、油をタネに投機するのが主な目的で、油房は定期取引のバクチの補助機関のように聞いていた。私はこれではいかん、どうしても製油工業を投機から離して、工業本位に持っていかなくてはならないと考えた。そして原料を買ったら必ず製油する。製油した製品は必ず売るという根本方針で経営を始めた。


高名な実業家の和田豊治さんが富士紡の社長を長年やって、いつも言っておられたのは、すべての工業は一に原料、二に製造、三に販売ということであった。工業の盛衰は原料の買い付けの巧拙が最も重要な要素であるといって、氏が富士紡に関係していた間は原綿の買い付けは常に自分で指図されていたと聞いている。私も和田さんの真似をしたわけではないけれども、原則には変わりがないわけだから、原料大豆の買い付けは常に陣頭に立ち指図して買っていた。


私は豊年製油の経営を引き継いだのだけれど、工場はすべて台湾銀行に650万円のカタで担保に入っている。だからここに担当物件として提供するものは何もないのだが、しいていえば杉山の首を担保に置く。どうかひとつ、面倒を見ていただきたい。
【覚書き|豊年製油の経営を任されたとき、財政状況が危機的状況であったため正金銀行へ融資の依頼をしたときの言葉。それ以前の杉山氏の信用によって融資を受けることができた】


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