木村皓一の名言 一覧

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木村皓一のプロフィール

木村皓一、きむら・こういち。子供服やスポーツ事業のミキハウスグループを展開する三起商行株式会社創業者。関西大学経済学部を2年で中退後、高校時代からアルバイトをしていた野村証券入社。その後、父の経営する浪速ドレスに入社しアパレル事業の実務を学ぶ。のちに独立起業し三起商行を設立。子供服事業で大きな成功を収めた。

何でも本気になったらいけるんや。


何事も長期的にものを見ないといけない。


小売業はやっぱり場所。立地が大事。


同じ広告を出すんだったら、日本で一番という媒体に出す。広告費を値切って、安いところでやっていてもダメ。


会社を成長させようと思ったら、商品の質だけでなく、サービス面も大事にしなければいけない。


「売れるならどこでもええわ」という考えでは、一流ブランドは育ちません。


私は創業当初から志だけは高かったんです。とにかくブランド力! ちゃんとしたブランドをつくりたいと考えていました。


金融機関に対しては、義理人情があるなどと思わないほうがいい。失敗の経験を通じて、金融機関と冷静につきあう重要性を学びました。


人間だからこそ、情が大切なんです。


大好きな女性を口説き落とすんだと思ってやれ。
【覚え書き|営業の秘訣を聞かれての言葉】


僕は弱い人間ですからね、目の前に具体的な目標を設けないと、先へ進めなかったんです。


若い人が具体的な夢を持って努力するのは、素晴らしいことです。その努力に対して、企業がすべきことは、経済的なバックアップだと思っています。私は、企業が何かひとつ社会貢献をすればいいと思うんです。できることをできる範囲で支援する。そういう企業がたくさん集まれば、大きな力になります。


志を持っている人間に対しては、誰かがサポートする必要があると思います。マイナーな競技の選手はとくに、大学を卒業すると同時に、練習を続ける環境を失い、かわいそうなんですね。
【覚書き|スポーツ支援に関して語った言葉】


僕は、経営は世の中から支持されて、その結果、株式を上場するというのが正しいと思うんです。経営の目的が株式を上場して儲けたろう、というのは邪道です。第一、上場したらできないことがいっぱい出てくるんですよ。


人生で一番多感な時期に、100%仲間外れでしたから、人の心がようわかりました。みんなが当たり前のことが、僕には当たり前ではなかったんですよ。僕は、自分は草食動物だと思うんです。常に周りに注意を払っておかんと、いつ食われるかわからん、情報収集していないといかん、と。
【覚書き|小児麻痺だった小学生時代を振り返っての発言】


本社を上場させる気はありません。ただ、それでは社員は面白くない。ですから、5年後を目途に、小売業の子会社を上場しようと思っています。社員には、そういう体験もいいでしょう。みんな億万長者でハッピーです。僕自身は、たくさん給料をもらっているから、もう十分です。ラーメンは5杯も食べられません。1杯でたくさんです。


お医者さんに相談したら、「腰があかんからダメや」と言われました。片足を使っていないから、腰の筋肉ができていなかったんですね。でも、僕の人生は、僕だけのものです。医者の人生と違います。これでやれへんようだったら、一生、車椅子ですよ。僕はやると決めました。
【覚書き|中学生のとき、小児麻痺克服のトレーニングのため新聞配達配達を始めた当時を振り返っての発言】


「あの会社がなくなったら困る」と言われる会社にしたいですね。


単に1000円のものを1000円で買ったら、五分五分ですよね。でも、1000円のものを買って、いい接客をしてもらったなと思ってもらえれば、6対4になります。それが8対2になれば、「もう一回行こうかな」と思うでしょう。相手に自分より多く渡るようにすれば、次につながる関係が生まれてきます。五分五分では一回限りの関係しか成り立たず、後は何も残りません。


嬉しい気持ち半分、先を危ぶむ気持ち半分でした。でも、「このチャンスを逃したらあかん、これは受けるべきだ」と決断しました。
【覚書き|原宿ラフォーレの館長から、面積が倍の入り口付近の店舗スペースを使わないかと打診されたときの発言】


商売をはじめたばかりで、買ってもらいたいという気持ちが強いあまり、相手のことを何も考えなかったんですな。自分は営業先のお店にとって、どんな価値があるのかを伝える必要があると反省しました。そこで、企画デザインができるメーカーになろうと考えたのです。それは、新しい時代に直面した小売店にとって絶対に必要な存在だという確信がありました。
【覚書き|ミキハウス創業時、子供服サンプルを持って小売店に営業に行ってもまったく売れなかったことを振り返っての発言】


70年代に入ると、ファッション誌『アンアン』、『ノンノ」が創刊されるなど、ちょうど日本の女性たちがファッションに関心を持ち始めていました。豊かな時代への変わり目でした。ところが、当時の子供服は、時代の要求を満たしていなかったわけです。それを満たすものは、僕の風呂敷の中にあるという自信がありました。
【覚書き|ミキハウス創業時、子供服のサンプルを風呂敷に詰め営業に出たときを振り返っての発言】


ちょうど長男が生まれたので、子供服には関心がありました。長男が成長していく過程で着る服をいろいろ考えているうちに、マーケットとして面白いと思い始めたんです。リサーチをしているうちに、ベビー服と子供服の中間に位置する服が、いくら探してもないことに気づきました。


高校時代から野村証券でアルバイトをし、社員以上に働いていました。関西大学に入って気付いたのは、自分は大学でスキルアップできるのか、ということです。単位をとるだけで、誰も勉強しないんです。時間の無駄なんですね。それで2年で中退し、アルバイト先の野村証券に入社し3年間勤務しました。


父は厳格な人でした。一流主義の人で、「商売の原点はすべてそこにある」と、小さいころから教えられました。しかし、「無駄金を使うたらあかん」といって育てられました。
【覚書き|高級婦人服製造販売会社「浪速ドレス」を経営していた父について語った言葉】


とくにマイナーなスポーツをやっている子は、学校を卒業すると環境を失うことになるんで可哀想なんですよ。それに、同じ会社に頑張っている選手がいると思えば、他の社員への勇気づけになります。彼らのモチベーションの高さや夢への一途さは、どんな訓示よりも心に響く。うちの選手がテレビに出ているとなれば、「仲間や」という気持ちが持てる。それに、共通の話題にもなるし、コミュニケーションも生まれます。


ある日、柔道全日本選手権で何連覇もした経歴を持つ女性が面接にやってきました。「柔道を続けたくはないの?」と聞くと、学校の先生に柔道の話はするな、したら採用してもらえないぞと言われているらしく、もじもじして、よういえへん。でもその目は柔道を続けたいと訴えているんです。「本当のことを言わなあかんで」といったら、「できたら続けたい。でも、仕事との両立は無理だと思います」と言う。「それなら午前中だけ働けばいい。昼からは練習したらいい」と言って入社させました。当時、女子柔道はまだオリンピックの種目にはありませんでしたが、僕は頑張っている若い人を応援したいんです。


僕がいつも言っているのはファンづくりです。「あなたのアドバイスを受けて買いたい」と思われるようになろうということです。やさしさや親切、丁寧な心、そういうものを大事にしたい。それはマニュアルで管理できるものではありません。マニュアルにあるからするということであれば、むしろしないほうがいい。


サービス産業というのは人がすべてであり、人を管理するということは不可能だと思います。髪の色や長さなど、軽いルールはありますが、僕が言う必要はないんです。そういう表面的なことよりも、もっと大事なことがあると思います。重要なのは、内面、つまり心です。せっかく子供に関わる仕事をしているのですから内面を大事にしたいんです。仕事に関わらず、何でも一生懸命に心を込めてやれば気持ちは必ず伝わる。そんなに難しいことではないはずです。


働く本人の自覚さえあれば、ノルマやマニュアルは不要でしょう。優秀な人間が集まれば、そのチームは強い。ノルマやマニュアルで管理する必要がないということです。僕はマニュアルを作るよりも、たとえば経理担当者を銀行から採用するなど、そこに適した人材を採用したいと思っています。


1000円のものを1000円で買ったら、五分五分ですよね。でも、1000円のものを1000円で買って、いい接客をしてもらったなと思ってもらえれば6対4になる。それが8対2になればもう一回行こうかなと思うでしょう。相手に自分より多くわたるようにすれば次につながる関係が生まれてくる。五分五分では一回限りの関係しか成り立たず、あとには何も残りません。これは商売に限らず、人間関係でも同じです。


企業と顧客の関係性について、私は8:2の原則を打ち出しています。8がお客様に行き、自分の取り分は2でいいじゃないかと。


当社は会社設立以来、売れる商品をつくるのではなく、良質な商品をお客様に提供することを徹底してきました。そうした甲斐あって、とくに贈答品用の子供服として高いブランド力を持てるようになり、今日の当社があるのだと思います。


イメージアップのために、フランスの一等地にも店を出しました。それは、利益のためではなく、ブランド力を高めるため。そのころは日本人がパリの街をよく歩いていたんです。パリの一等地にミキハウスがある。そこで見た服が日本では6割引きで買える。お客様にそう思ってもらうために出した店です。ファンドや銀行からは、早くその店を閉めろと言われました。毎年5000万円の赤字を出していますから、言われても仕方がない。でも、いつも心の中で思っていました。“何のためにパリで店を出してるか、知ってんのか? 利益のためと違うぞ”と。耐えて耐えて、結果的に今は儲かっています。


若いころ、フランスで友人に勧められてワインのロマネ・コンティを飲みました。言わずと知れた何十万円もする高級品です。友人に「木村、これなんぼするか知ってるか?」と聞かれ、そのときは正直なところ、「地元の河内ワインと味は変わらへんな」と思いました(笑)。今なら違いが分かりますよ。しかし、そのころは分からない。私にとっては似たような味で、片や980円、片や数十万円。「ラベルの差やな。これがブランド力か」と思いました。


人はほめて育てろです。いいところを一所懸命ほめてあげて、悪いところはちょっとおさえるくらいにすると、人は伸びると思います。上司が怒鳴り散らしていたら、部下は腐ってしまう。こいつの言うことなんか、絶対に聞いてやるかと思うものです。


実は私は小さいころ、小児麻痺で歩けませんでした。小学生のころはそのハンデをいいことに、言い訳して人に頼ることばかりを考えていました。ところが、4年生になって好きな女の子ができたとき、その子から得られるのは同情だけだということに気づいたんです。体がきかないうえに、心まで傷つきましてね。初めて真剣に体を治そうと思いました。「よし、3年計画で治そう」。口から心臓が飛び出すくらい痛いマッサージも、好きな子のことを考えて歯を食いしばりました。治すために何でもしようとがんばったんです。そんな生活が成長著しい中学時代と重なったからか、治り出してからは早かったです。中学3年生のときにはふつうに歩けるようになりました。


人を採用して、私自身が一番変わりました。4年制大学を出た前途ある若者たち。どこの色にも染まっていない純白の若者たち。私には、彼らに対して責任が生じる。これまでに述べたように、私の事業の目標は一流ブランドをつくること。うちの名刺を出したときに、彼らが胸を張れる会社にしたい。私は心底そう思いました。


創業時、はじめてつくったサンプルを持って売りに出かけましたが行った先々で断られてしまいました。「なんでやろ?」。博多のホテルで考えました。考え続けて、ハタと気がつきました。自分の営業は、相手の立場に立っていなかったのです。売ろう売ろうという、気持ちだけが先行していました。起業して家族を養わないといけないわけですから、それはそうなります。しかし、そこには相手のことを考える視点が一つもない。相手が“木村とつきあったら何かいいことがあるんじゃないか”、そう思う要素がなかったのです。


創業当時からいいブランドを買えるお客さんにしか、自分の製品は使ってほしくないと思っていました。とにかくブランド力が大事、ということで、ブランドづくりにこだわりました。最初からあつかましかったんです。


創業当時は学校を出て縫製工場に勤めていた若い女性がたくさんいたのですが、結婚すると仕事を辞めてしまうんですね。要は、すごい技術を持つ人が家庭に入って何もしていないわけです。そこにヒントを得まして、家庭まで仕事を持っていき、縫ってくれる内職の人たちを育てようと思いました。


起業することは女房にも内緒でした。言ったら、絶対に反対されますから。絶好のチャンスとなったのは、女房が出産で実家に帰ったとき。まずは環境を整備しようと、女房の居ない間に会社を辞め、スタートを切りました。


特別な得意技があったわけでもなく、ただ、遠くを見ながらやってきました。自分の中で、変えてはならない目標と、変えていかなければならないことを考え、実行していたら、いつのまにかこのようになっていました。


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