早川徳次の名言 一覧

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早川徳次のプロフィール

早川徳次、はやかわ・とくじ。日本の経営者、技術者。家電メーカー・シャープの創業者。東京出身。幼くして養子に出され、尋常小学校を2年で中退し、9歳で丁稚奉公で金物職人として修業の道に入る。その後独立し、19歳でシャープの前身となる早川金属工業研究所を設立。シャープペンシルなど革新的な商品を発明した。その他、育徳保育所を設立し園長を務めた。

資本金の残金は材料設備費としてほとんどなくなってしまったから、あとはただ一も二もなく働くことだけである。
【覚書き|19歳で独立した当時を振り返っての発言】


事業経営は不況のときに伸びよといわれている。それは不景気のときに屈することなく、次に来る好機に伸びていく準備をすることだと思う。景気の波に乗ることは誰しも可能である。しかしそのときにすでに危険をはらんでいることも忘れてはならない。


良いアイデアの生まれるのは、儲からなくて何とかしようと苦しんでいるときである。だから私は、儲かることをあまり喜んでいない。


人に真似される商品をつくれ。


古来、戦場でも退却は非常に難しいこととされ、一軍の存亡が多くこれにかかったことはよく歴史に示されている。私のところも会社の規模が戦中に膨れ上がっており、その収縮の仕事はなかなか思うようにいかなかった。
【覚書き|太平洋戦争終結直後を振り返っての発言】


「入るを量って出を制す」とは言い古された言葉だが、まさに企業の基本として動かない戒めである。もし規制された予算通り実行できる企業があれば、その企業は必ず安定堅実である。


私は嘘をつかないこと、他人様に迷惑をかけないことを主義としている。また世間と多くの人たちから有形無形の恩恵を受けて生活していることに対する大きな感謝と同時にそのお返しを念願としている。


私は性急な人間で、よく着物を裏返しに着て、自分で気が付かないことがあるのだが、寝間着のまま帯もしないで朝の工場で金具をいじって食事も忘れていた。
【覚書き|シャープペンシルを開発していた当時を振り返っての発言】


現在会社は5つの蓄積を社是として実践している。「信用」「資本」「奉仕」「人材」「取引先」以上5つの蓄積である。私たちは5つの貯蓄の精神を基盤にしてその実践を身近い現実のものに見て、今日から明日へと自分たちの周りをさらに充実していきたいものである。


ビール箱に腰を下ろして客待ちをしている間、私は学校に通っていなかったため漢字が読めないので字を覚えるためによく書物を開いて見ていた。一晩一字ずつ覚えることに決めて鉛筆で書いてもみた。いつしか、これが評判になって本を読む夜店小僧と言われるようになった。
【覚書き|丁稚奉公時代露店の番をしていた当時を振り返っての発言】


私の苦労は宿命のようだった。時代も違っていた。私は自分が過去にやってきたことをいまの人たちに強制しようという気持ちはさらさらない。ただ苦労に明け暮れたころがいまとなってみると限りなく楽しい思い出となっているのである。


早暁4時を期して起床した。すぐ作業だった。1日の経費を朝食までに稼ぐという計画を立てて、休みの時間というと食事の間だけ、夜業をやって10時にしまう。なおそれで済むのではなく、雑用と外交はそれからの仕事になっているという寸法である。私の創業時代のこれが風景だった。


機を待っていた私であった。準備は万事OK、すかさず本格的な鉱石ラジオセット製作に着手、やがて市販に移した。機敏も商売のコツである。おそろしく売れ、つくってもつくっても需要に追い付かなかった。
【覚書き|鉱石ラジオを販売し始めた当時を振り返っての発言。早川氏は日本でラジオ放送が始まる前年にアメリカの鉱石ラジオを手に入れ、自社で販売するための研究開発を行っていた】


私たちの夢に関連のある超短波研究が偶然のようにやってきた。しかし、よく考えてみると決してこれは偶然ではなく、偶然をつくりあげるような下地のある我々のところに偶然やってくるべくしてきたともいえる。この長い月日の技術の蓄積が、やがて他社を抜いていち早く国産テレビの完成となり、そのその量産に向かってスタートできたのである。
【覚書き|警察無線を開発した当時を振り返っての発言。この当時得た技術がのちにテレビ開発などに活かされることになった】


主人の坂田芳松さんは昔かたぎの生粋の江戸っ子で、人情にも厚い人であった。私は社会の第一歩で、こうした人に会ったことは実に幸せなことで、何ものにも代えがたい収穫だった。逆境にあった私が、万一ここでも冷たい仕打ちをされていたら、果たしてどうであったろう。私は終生この主人から受けた情義を忘れることはできない。
【覚書き|小学校を中退し9歳で入った丁稚奉公先について語った言葉。ここでの経験がのちにシャープの前身である早川金属工業設立のきっかけとなった】


私は当年とって69歳になるが、日常会社勤めのほか全国を東奔西走の形で席の温まる暇もない状態である。しかしこれが結局自分の性に合っているとみえて、健康にも恵まれた快適な日々を送っている。


我らの事業の完成は決して単なる個人の野心や自己満足だけでいいわけはない。事業の公共性という点から私は事業達成の目標は、より良く、より高い社会への奉仕と感謝の実行であると信じたいのである。


私の会社が戦後他社に先駆け、国産テレビの本格的試作に成功したことも、またテレビ本放送が開始されると同時に量産体制に入れたことも、決してそれと調子を合わせて一朝一夕にポンとできたものではない。いずれもそれまでの長年の研究がものをいったのであった。


会社再建に没入している最中に朝鮮動乱が起きた。にわかに産業経済界が活発となり輸出の急増、内需の活況が目立ってきた。社の滞貨も一掃され、この下半期には久々の黒字決算を行った。三期にわたる難行にもようやく明るい陽射しが見えてきた。我が新製品シャープスーパー受信機がさっそうと市場に登場した。だが、この期には前の経営の空隙を埋めることにとどめ、設備の新設拡張にまでは手を出さなかった。
【覚書き|倒産寸前の経営難後、好況となり会社の業績が好転したときを振り返っての発言】


経営理念で精神面の問題も重視した。愛社精神や団結心などもなおざりにはしなかった。常に社内上下のつながりを緊密にし、かねがね自分の提唱している人材の蓄積という言葉をモットーに、温かい結びつきを片時も忘れなかった。これは外部に対する人間尊敬の心、信義に踏みたがえない気持ちにも合致するものと考えている。


予算と見合った決算を得るためには正確な期末決算の予測を立てなければならない。それには当然、合理的で緻密な計数管理が要求されてくる。工場、支店営業所の末端に至るまで周到、克明な数字の裏付けを必要とする。我々は経済情勢の掌握と、それに対する柔軟な適応性を兼ねもってこの計数管理の徹底を約した。日々の営業部門の実績報告は無論のこと、品質会議、部長会議、さらには週初の重役会議と、すべてが実際の係数による資料を基本にしての狂いのない経営の樹立であった。


もともと私は楽天家の方で、ものごとにあまりいつまでも拘泥してくよくよする性質ではない。忘れっぽいし、いつも明るく笑っていたい人間だ。


昔、坂田さん(丁稚奉公先の工場)にいたとき、縁日の夜店でものを売って以来、シャープペンシルの外交など過去の販売経験は、私にとって力強い自信となっていた。
【覚書き|シャープが伸び盛りのとき工場を社員に任せ、販売に専念していた時期を振り返っての発言】


当時、外国ではすでにラジオは実用の段階に入っており、報道・娯楽の機関として不可欠の地位を占めていた。わが国でも愛宕山に放送局(NHK)が開設される運びで、一部の電気器具店や輸入商ではラジオ機械の研究に手を付け始めていた。アメリカ製のラジオは貴重なものだった。事業は常に新しいアイデアで他より一歩先にと新分野を開拓していかなければ、とうてい成功は望めない。私はたまたま買い入れたこの鉱石ラジオセットに異様なまでに関心を寄せた。


関東大震災に出くわしてぺしゃんこになった私は、それまでいい気になって強がっていた鼻っ柱がいっぺんにどこかへ吹っ飛んでいった感じがした。見渡す限りあたりは廃墟である。文明は一瞬のうちに没落したように見えていた。自分の事業復興の目鼻も到底早急には立ちそうもなかった。
【覚書き|関東大震災で工場が全壊。事業と家族を一度に失ってしまった当時を振り返っての発言】


事業が順調に進んでいったとすると、おそらく私はシャープペンシル製造に生涯をかけて金属文具界で終始し、いまのように電気器具メーカーとして大阪に住むこともなかったと思われる。運命というものは全く予想を許さない。
【覚書き|関東大震災で工場が全壊。事業と家族を一度に失ってしまった当時を振り返っての発言】


職人たちは自分の技術を取り立てて後輩に教えるようなことはなかった。職人は長年の間に自然と仕事のコツをのみこむので、ヤスリひとつ使うにもその腰と手が上手く調和していないと、ぴったりと平らなものに削ることはできないものだ。こんなことは口で言ってもなかなか会得のいかぬもので、みんなが長い年月熟練の結果、それぞれ自得するよりほかはなかった。


私は天災のためとはいえ、一度は東京の事業につまずきもした。また、血涙のにじむような経営苦にあえいだことも一再ならずあった。そして自身は生死の巷(ちまた)をさまよい、肉親の何人かを不慮の厄災に失っている。しかし、現在の私が、広く社会と諸々の人たちから数え切れぬほどの恩恵を受けて事業一筋に生きていける幸福を思うと、ひとしお感謝の念が湧いてくるのである。


かわいい社員のクビを切ってまで、自分は会社を存続させられない。社長を辞し、会社は解散する。社員を憂き目にあわせてまで、自分はもう、ものを言えない。残った人間で会社を続けてよいが、自分はタッチしない。
【覚書き:1950年代初頭、米国の財政金融引き締め政策ドッジ・ラインが引き金になって起こった世界不況時の発言。不況の煽りを受けシャープも経営危機に陥ったが、この発言を機に労組が自ら自主退社を募り始めるなど、経営再建の機運が社員全体から高まり、シャープは危機から脱した。以降、シャープでは首切りはしないという経営風土が作られた】


社会に対してお返しもしない事業を持って、「事業は趣味ではない」などとは言ってもらいたくない。
【覚書き|シャープ創業からの経営哲学を語った言葉。次代の経営者に儲けを出し、しかも社会に貢献する事業を経営してもらいたいという思いを語ったもの】


昭和24、5年の苦しさは私の骨身に徹した。こんなことは2度と繰り返したくない。普段からあらゆる場合に対処できるよう、石橋を叩いて渡る経営に踏み切ろうと固く誓った。【覚書き|戦後まもなくの頃、営業不振で銀行取引停止寸前まで経験した時を振り返った時の言葉。なんとか乗り切るも経営危機はつらい経験だったため、以後シャープは健全経営ひとすじで会社を切り盛りする体制が形作られた】


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