平井正修の名言 一覧

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平井正修のプロフィール

平井正修、ひらい・しょうしゅう。日本の禅僧。臨済宗国泰寺派・全生庵住職。東京出身。学習院大学法学部政治学科卒業後、静岡県三島市龍澤寺専門道場で修行。全生庵の第七世住職に就任。著書に『囚われない練習』『坐禅のすすめ』ほか。

執着を手放すことができれば、失敗を糧にすることができる。囚われの心がなくなれば、思った方向に自在に進んでいくことができる。


いけないのは、心が澱(よど)むこと。水と同じで常に循環していれば、心が澱むことはない。


一代で何千人何万人を率いるまでに成功した方には、あらゆる立場の人の気持ちを忖度できる人物が多い。そして、傲慢な人は驚くほど少ない。
【覚え書き|忖度(そんたく)=相手の気持ちを推し量る】


自分の本当の価値とは、比較から生じるものではない。


禅の修行を積むと人並み外れた集中力や忍耐力といった、特別な能力が身につくと考える人が多いようだ。しかし、禅の修行とは、むしろ逆で、捨てるために行うものなのだ。


禅でいう自由とは、自分がやりたいことを何でもできるとか、欲しいものを何でも手に入れられる自由とは異なる。禅の自由は、文字通り、自らに由ること。自分の足で立つこと。自立をすることである。この自由の境地から、本物の自尊心が湧き上がってくる。現代風に言えば、自分の本当の価値を知ることになるのである。


「人の信頼を得たい」などと願うことは、禅的に言えば、すでに心が囚われた状態、不自由な状態なのである。人からこう思われたいと願い、そう思われるように振る舞うことは、自らに由って生きているのではなく、他者の評価に由って生きようとしていることにほかならない。


私の好きな禅語に「梅三千世界香」がある。日本人の多くは桜の花を愛でるが、禅ではむしろ梅を愛でる。梅は厳しい寒さの中で百花に先駆けて可憐な花を咲かせ、馥郁(ふくいく)たる香りを放つ。香りとは、実に不思議なものだ。目には見えないのに、人々をいい気持ちにさせたり、不快な気持ちにさせたりする力を持っている。梅の香りは、わざわざここに咲いていると主張したりしないのに、周囲にいる人々の気持ちを和ませ、楽しませる力を持っている。信頼とは、この梅の香りのようなものではないだろうか。ことさら「俺は信頼できる人間だ」などと叫ばなくとも、信頼に足る人間か否かは、自然と周囲に伝わっていく。それにはまず、信頼を得たいと願う心の囚われを捨てることだと、梅の花は教えてくれるのである。


オリンピックで金メダルを取るような厳しい訓練を積んだ人が崇高な心の持ち主だとは限らないように、人間はいくら辛い修行に耐えたところで、それだけでは心を鍛えることなどできない。では、いったい何のために極限まで身体を痛めつけるのかといえば、それは、心の中に180度の大転換を起こすためなのである。苦痛を耐え忍んでいる状態から、これはやらされているのではなく、自分から望んでやっていることなのだと、意識の大転換を起こすのだ。逆に言えば、そのように考えなければとうてい乗り越えられないほど厳しい修行を積んで初めて、やらされているという考えを捨て去ることができるのである。


禅の修行では、よく「徳を積め」と言われるが、この徳とは一般の社会で考えられている善行とはかなりニュアンスが異なる。禅的な徳とは、「○○のために」という要素をまったく含んでいない行いのことを指す。自由な心の持ち主は、人が見ているところでも、見ていないところでも、ただ、行うのみだ。電車のドアが開いてお年寄りが乗り込んできたら、パッと席を立つ。いい人だと思われたいから立つのではない。まして、席を譲ったのに礼を言わないなどといって憤慨することなど、ありえない。周囲の人からどう思われようと、感謝されようとされまいと、ただ、パッと席を立つのみである。それが禅的な徳であり、真に自由な境地なのである。


昨年の流行語のひとつに、「お・も・て・な・し」があった。おもてなしとは本来、極めて禅的な言葉なのだが、IOC総会で2020年のオリンピック開催都市として「TOKYO」の名前が読み上げられた瞬間、おもてなしとはかけ離れた光景が繰り広げられたことは、返す返すも残念であった。もてなすとは、禅的にいえば無私と同じことである。私を無にして、一切合財を相手の立場に立って考え、相手の立場に立って行動する。もてなすとはいわば、私を捨て去る行なのである。もしもおもてなしの国だと言うのなら、まずは招致レースを競い合ったマドリッドとイスタンブールの人々の気持ちに思いを馳せるべきであった。東京での開催決定にガッツポーズを取り、抱き合って喜びを爆発させる招致委員たちの姿は、どこからどう見ても、私心の塊としか言いようのないものであった。


結果に至るまでの努力や苦労といったものを、ぱっと手放してしまう。「あんなに頑張ったのに」とか「あれほど辛いことに耐えたのに」といった思いから離れるのだ。そうした思いに強く囚われているからこそ、運のせいにしたり、他者のせいにしたくなるのであって、自分の努力や苦労に執着している限り、新しい一手は絶対に浮かんでこない。


すべての結果を運のせいにしてしまうと、人間は考え直すということをしなくなる。結果を真正面から受け止めることが必要である。成功も失敗も運のせいなどにするのではなく、自分の行いによって生じたものであると引き受けて、その結果をしっかりと受け止めるのである。


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