岡野喜太郎の名言 一覧

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岡野喜太郎のプロフィール

岡野喜太郎、おかの・きたろう。日本の銀行家。駿河銀行(のちのスルガ銀行)の設立者。明治初頭の飢饉によって危機に陥った実家と村を救うため豆陽中学師範科中退し、郷里の静岡県で農夫となる。その後、村の繁栄のため貯金組合を設立。根方銀行(のちのスルガ銀行)に改組し頭取となる。一生涯銀行家として活躍し静岡県の産業発展に尽くした人物。

波乱の多かった95年間の生涯を顧みて、つくづく思うことは、私の一生は毎日毎日が真剣勝負のようなものであったということである。


貯金した金は失うことがあっても、貯蓄の習慣と克己の心は一生失うことがないのです。


貯蓄は理論ではありません。克己と実行です。この敗戦による貧乏な日本を立ち上がらせるためには、尋常一様のことをやっていては駄目で、他の国の人より余計勉強し、余計節約してやらなければなりません。


貯金は人を自立させ、家を繁栄させ、国家を隆盛に導く早道であると、私は信念を持っています。


人のやることは何でもやる。人よりはよくやる。決して人に負けない。それが私の信条であった。また、もって生まれた気性でもあった。子供のときから道で前の方を歩いている人を追い越すことに興味を持ち、幾人も幾人も追い越すと、それはひとつの喜びであった。


経営といっても何も難しいことではない。それは平凡に徹することである。私のような何の学問も経験もない者でもなんとかやってきたのである。煎じ詰めれば「入るを計って出を制する」一軒の家の経営と同じである。


事業家は、1度や2度は失敗しないと大きくならない。あなたはまだ失敗が足りないかもしれぬ。失敗をすると、世の中の本当のことがわかる。それで初めて立派な成功ができる。失敗は恥ずかしいことではない。失敗に意気がくじけてしまうことが恥ずかしいことです。あなたはいい経験をされた。これからその経験を活かすことが大切です。
【覚書き|銀行に来た、失敗した若い事業家に対する励ましの言葉】


明治18年の秋は幸いに豊作だったので、村はようやく愁眉を開いたが、天災は時を定めずやってくる。それを考えると心配でたまらぬ。それには平素から蓄えをしておいて、万一の場合に備えるほかはない。そこで貯金をしようと思いついた。働くことも人一倍働く、働いて得た金はできるだけ節約して貯蓄することが必要だと思った。しかし、貯蓄といっても一人ではなかなかできにくい。また村全体が立ち直るのには、村全体がやらなければ意味がない。私は貯蓄組合をつくろうと思った。
【覚書き|金融の世界に入ったきっかけを語った言葉。愁眉(しゅうび)=心配そうな顔つき】


銀行の甲乙は平常のときにはなかなかつきにくいが、非常の場合にはハッキリその差がわかるものである。これが私の60年間の銀行家生活のありふれた感想である。


銀行家が注意しなければならぬことは経費の節約である。私の銀行では小さなことから、伝票の一枚一枚にまで、それをつくったときの年月日と数量と単価が刷り込んであり、その一枚の経費がいくらにつくかということが、今日入った行員にも頭にしみこむようにしてあり、行員がメモなどに使うことを固く禁じている。


銀行は営利法人であるから、ある程度の利益を得なければならないが、非常の場合はとにかく、常に借金をしないで営業することに心がけている。私はいまでも、非常の場合のことを考えずには店舗建築ひとつ、金庫の扉の開閉の仕方、そのほか、営業の雑事に至るまで考えることができなくなってしまっている。


私は、若い事業家が失敗して、駿河銀行に救済を求めに来ると、肩をたたき、親身になって再起の方法を考えてやった。金を貸してやったが良いと思えば貸してやるし、貸さぬ方が良いと思えば貸さないで再起の道を示した。金を貸すばかりが銀行家ではない。知恵も増し、緩急よろしきを得た忠告もしてやるのが真の銀行である。これは私の60年以上に及ぶ頭取生活から得た尊い体験である。


私は関東大震災で妻と三女を失った。両人は湯河原の天野屋に保養に行く途中、根府川で地震にあい、列車もろとも海中に沈んだのである。この不幸を聞き、一瞬意気消沈した。しかし、数秒後には猛然と責任感が湧きあがった。私は駿河銀行の頭取だ。銀行家としての使命を果たさなければならぬ。家の不幸はそれに比すれば、些細な私事である。私は全力が奮い立った。そしてただちに健脚の若い行員を集めて、支店出張所の被害状況を調べ、その所要資金の見込み額を至急本店に報告することを命じた。


非常時にも平常のように営業するのが銀行の使命である。お客様から預かった大切なお金を、この災害(関東大震災)で金のいるときに、支払いの出来るのに支払いをしてはならないというはずがない。必要なのは復興である。復興の資金である。
【覚書き|関東大震災の直後、神奈川県の支店を早急に立て直し営業を開始した当時を振り返っての発言】


困難にあうごとに、いよいよ頭も冴え、いよいよ強くなるのが私の性格である。


「馬鹿ッ」と一喝、怒鳴りつけられるかもしれない。そう思って仰ぐと、以外にも父の顔はなごやかで静かであった。「それで銀行が助かるなら、それで結構だ。お前の信ずるようにやりなさい。田畑はなくしても、また買うことができる。人様には絶対に迷惑をかけてはならない」あまりにも温かい父の言葉に、私の目からは思わず、熱い涙が落ち、感謝の言葉さえ、しどろもどろであった。
【覚書き|明治34年の恐慌によって駿東銀行が破たんしそうになったとき、実家の田畑を抵当に入れ他の銀行から資金を借りたいと父に頼みに行ったときを振り返っての発言】


根方銀行が発足したのとき日本の銀行数は817行、その払込資本金は総計5216万余円であるから一行平均6万円弱である。わずか1万円で発足した勇気たるや、大胆不敵というべきで、そのころできた銀行の中でいちばん小さかったように思う。しかし、小さいといっても銀行は銀行、頭取は頭取である。事務員といっては杉本常蔵1人、私が頭取兼事務員兼小使で、何もかも1人でやるようなものであった。


この飢饉の最中に、この貧乏村が立ち直るには、世間並みのことをやっていたのでは駄目である。一段と働き一段と節約するのでなければ、浮かび上がることはできないと私は固く信じた。
【覚書き|明治初頭の飢饉のとき、学校をやめ郷里に戻り実家と村を救うため農夫として働き始めたときを振り返っての発言】


私はもう安閑として机にかじりついている気がしなくなった。学校を退き、家事を手伝って、我が家の危機を乗り越えるとともに、村の窮乏を救うために努力したいと決心した。貯蓄と言っても一人ではなかなかできにくい。また村全体が立ち直るには、村全体がやらねば意味がない。私は貯蓄組合をつくろうと思った。
【覚書き:上記は岡野氏が20歳のころに郷里の大飢饉を目の当たりにして立てた志。旧制中学は現在の高校】


勤倹貯蓄をする者に悪いことはできません。難しいことを言わなくても、修身の教科書はなくても、これを徹底すれば道徳もおこるはずです。世の中もどんなに明るくなるかもしれません。


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