岡本太郎の名言 一覧

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岡本太郎のプロフィール

岡本太郎、おかもと・たろう。日本の芸術家。第二次大戦前フランスにわたり、抽象美術運動、シュルレアリスム運動を体験。戦後は日本に戻り絵画や立体作品を制作。メディアに積極的に出演し「芸術は爆発だ」というセリフで親しまれた。代表作品に太陽の塔、明日の神話、オリエンタル中村、午後の日、そのほか多数。工業製品のデザインも担当した

危険だという道は必ず、自分の行きたい道なのだ。


よく、あなたは才能があるから、岡本太郎だからやれるので、凡人には難しいという人がいる。そんなことはウソだ。やろうとしないから、やれないんだ。それだけのことだ。


自分らしくある必要はない。むしろ、人間らしく生きる道を考えてほしい。


僕だってしょっちゅう行き詰っている。行き詰った方が面白い。それを突破してやろうと挑むんだ。もし、行き詰らないでいたら、ちっとも面白くない。


自分自身にとって一番の障害であり敵なのは、自分自身なんだ。その敵であり、障害の自分をよく見つめ、つかんだら、それと闘わなければいけない。戦闘開始だ。


人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。僕は逆に、積み減らすべきだと思う。財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。過去の蓄積にこだわると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きができなくなる。


画家にしても、才能があるから絵を描いているんだとか、情熱があるから行動できるんだとか人はいうが、そうじゃない。逆だ。何かをやろうと決意するから意志もエネルギーも噴き出してくる。何も行動しないでいては意志なんてものありゃしない。


自分はあんまり頭もよくないし、才能のない普通の人間だから何もできないんじゃないか、なんて考えるのは誤魔化しだ。そういって自分がやらない口実にしているだけだ。才能なんてないほうがいい。才能なんて勝手にしやがれだ。


自信はない、でもとにかくやってみようと決意する。その一瞬一瞬に賭けて、ひたすらやってみる。それだけでいいんだ。また、それしかないんだ。


自分を他と比べるから、自身などというものが問題になってくるのだ。我が人生、他と比較して自分を決めるなどというような卑しいことはやらない。ただ自分の信じていること、正しいと思うことに、脇目もふらず突き進むだけだ。


人生、生きるということ自体が、新鮮な驚き、喜び、新しく開かれていく一瞬一瞬であり、それは好奇心という浮気っぽいもの以上の感動なんだ。


人間にとって成功とはいったいなんだろう。結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか、ではないだろうか。夢がたとえ成就しなかったとしても、精一杯挑戦した、それで爽やかだ。


本当に生きるということは、いつも自分は未熟なんだという前提のもとに平気で生きることだ。それを忘れちゃいけないと思う。


自己嫌悪なんて、いい加減のところで自分を甘やかしていないで、もっと徹底的に自分と闘ってみよう。すると、もりもりっとファイトが起こってきて、己自身を乗り越えてしまうし、自己嫌悪なんか吹っ飛んでしまう。


僕は、プライドというのは絶対感だと思う。僕がバカであろうと、非力であろうと、それがオレだ、そういう自分全体に責任をもって、堂々と押し出す。それがプライドだ。


農作業でも、コンピュータの操作でも、強制された労働としてやれば苦役だが、自由な遊びとして創造的に取り組む限り、それは喜びだ。


人間は誰もが未熟なんだ。自分が未熟すぎて心配だなどというのは甘えだし、それは未熟ということをマイナスに考えている証拠だ。僕に言わせれば、弱い人間とか未熟な人間の方が、はるかに膨れ上がる可能性を持っている。熟したものは逆に無抵抗なものだ。


夢を見ることは青春の特権だ。これはなにも暦の上の年齢とは関係ない。10代でも、どうしようもない年寄りもいるし、70、80になってもハツラツとして夢を見続けている若者もいる。だから年齢の問題ではないが、青年の心には夢が燃えている。


「いまはまだ駄目だけれど、いずれ」と絶対に言わないこと。「いずれ」なんて言うヤツに限って、現在の自分に責任を持っていないからだ。生きるというのは、瞬間瞬間に情熱をほとばしらせて、現在に充実することだ。


人間本来の生き方は無目的、無条件であるべきだ。それが誇りだ。死ぬのもよし、生きるもよし。ただし、その瞬間にベストを尽くすことだ。現在に強烈に開くべきだ。未練がましくある必要はないのだ。


何か、これと思ったら、まず、他人の目を気にしないことだ。また、他人の目ばかりでなく、自分の目を気にしないで、委縮せずありのままに生きていけばいい。これは、情熱を賭けられるものが見つからないときも大切だ。つまり、駄目なら駄目人間でいいと思って、駄目なりに自由に、制約を受けないで生きていく。そうすれば、何か、見つけられるチャンスがおのずから開けてくる。一日も早く実行してみるといい。


激しく挑み続けても、世の中は変わらない。しかし、世の中は変わらなくても自分自身は変わる。世の中が変わらないからといって、それでガックリしちゃって、ダラッと妥協したら、これはもう絶望的になってしまう。そうなったら、この世の中がもっともっとつまらなく見えてくるだろう。だから、闘わなければいけない。闘い続けることが生きがいなんだ。


いま、この瞬間。まったく無目的で、無償で、生命力と情熱のありったけ、全存在で爆発する。それがすべてだ。そうふっきれたとき、僕は意外にも自由になり、自分自身に手ごたえを覚えた。


自分を認めさせようとか、この社会の中で自分がどういう役割を果たせるんだろうとか、いろいろ状況を考えたり、成果を計算したり、そういうことで自分を貫こうとしても、無意味な袋小路に入ってしまう。


僕は生きるからには、歓喜がなければならないと思う。歓喜は対決や緊張感のないところからは決して生まれてこない。


多くの他人との出会いによって、人間は「他人」を発見する。「他人」を発見するということは、結局、「自己」の発見なのだ。つまり、「自己」を発見するためには、大勢の協力者が必要になる。


人間には、自由という条件が必要だ。自由というのは、たんに気楽にやりたいことをやるのではない。そうではなく、できるかぎり強烈な人生体験を生きるのが、自由の条件だ。


自由に、明朗に、あたりを気にしないで、のびのびと発言し、行動する。それは確かに難しい。苦痛だが、苦痛であればあるほど、たくましく挑み、乗り越え、自己を打ち出さなければならない。若いときこそそれが大切だ。この時代に決意しなければ、一生、生命は開かないだろう。


上手くやろう、成功しようとするから、逆に上手くいかない。人生上手くやろうなんて、利口ぶった考えは、誰でも考えることで、それは大変いやしい根性だと思う。世の中上手くやろうとすると、結局、人の思惑に従い、社会のベルトコンベアーの上に乗せられてしまう。一応世間体もよく、上手くはいくかもしれないが、本当に生きているのではない。流されて生きているにすぎない。


若い人たちに言いたい。ただの生ぬるいサラリーマンになることは容易だ。しかし、そこでは本当の自分を誤魔化して、画一化するよりほかはないのだ。それよりも、自分の目、手で触れる、だからこそ危険な道を切り拓いていくべきだ。決して遅くはない。諦めて、投げてしまってはならない。あえて敗れることを決意して、社会にぶつかるのだ。それによって、さらに大きな、輝かしい人間像を形成していくのである。


俗に「失敗は成功のもと」という。そんな功利的な計算ではなく、イバラの道に傷つくことが、また生きる喜びなのだ。通俗的な成功にいい気になってはならない。むしろ「成功は失敗のもと」と言いたい。その方が、この人生の面白さを正確に言い当てている。


生涯を通じて、瞬間瞬間の危険に賭けるのが真の人間の在り方だと思う。


才能のあるなしに関わらず、自分として純粋に生きることが、人間の本当の生き方だ。頭がいいとか、体がいいとか、また才能があるなんてことは逆に生きていくうえで、マイナスを背負うことだと思った方がいいくらいだ。


ひとりぼっちでも社会の中の自分であることには変わりはない。その社会は矛盾だらけなのだから、そのなかに生きる以上は、矛盾の中に自分を徹する以外ないじゃないか。


この世に苦しみ悩んでいるのは決して自分だけじゃない。世の中のほとんどが、同じ悩みを持っていると言ってもいい。不満かも知れないが、この社会生活以外にどんな生き方があるか。ならば、まともにこの社会というものを見据え、自分がその中でどういう生き方をすべきか、どういう役割を果たすのか、決めなければならない。


社会内の個。純粋であればあるほど人生というものは悲劇だ。人間はすべて矛盾の中に生きている。だから矛盾に絶望してしまったら負け、落ち込むのだ。それよりも、矛盾の中で面白く生きようと、発想を転換することはできないだろうか。


僕はかつて、出る釘になれと発言したことがある。誰でもが、あえて出る釘になる決意をしなければ、時代は開かれない。僕自身はそれを貫いて生きてきた。確かにつらい。が、その痛みこそが生きがいなのだ。この現代社会、システムに押さえ込まれてしまった状況の中で、生きる人間の誇りを取り戻すには、打ち砕かれることを恐れず、ひたすら自分を純粋に突きだすほかはないのである。


矛盾は結構だ。矛盾をむしろ面白いと考え、そのズレを平気で突きだせばいいのだ。そうすれば、いままでのオッチョコチョイとは違ってくる。今度はみんなが本当に喜ぶ不思議な魅力を持った人間になる。


自分を大事にしすぎているから、いろいろと思い悩む。駄目になって結構だと思ってやればいい。最悪の敵は自分自身なんだから。自分をぶっ壊してやろうというつもりで、そのくらいの激しさで挑まなければ、いままでの自分を破壊して、新しい自分になることはできない。


友達に好かれようなどと思わず、友達から孤立してもいいと腹を決めて、自分を貫いていけば、本当の意味でみんなに喜ばれる人間になれる。


なぜ、友達に愉快な奴だと思われる必要があるんだろう。こういうタチの人は自動的にみんなに気を使って、サービスしてしまうんだろうけれど。それは他人のためというより、つまりは自分の立場を良くしたい、自分を楽なポジションにおいておきたいからだということをもっと突き詰めて考えてみた方がいい。もっと厳しく自分を突き放してみてはどうだろう。


自分は消極的で気が弱い、何とか強くなりたいと思う人は、いまさら性格を変えようなんて変な努力をしても難しい。強い性格の人間になりたかったら、自分がおとなしいということを気にしないこと、それが結果的には強くなる道につながる。強くなろうと思えば思うほど余計、コンプレックスを持つだろう。


持って生まれた性格は、たとえ不便でも、かけがえのないその人のアイデンティティなんだから、内向性なら自分は内向性なんだと、平気でいればいい。内向性の性格は悪いことだと思っているから、ますます内向的になってしまう。


生きるということを真剣に考えれば、人間は内向的にならざるを得ない。また逆に、自分が内向的なために、かえって外に突きだしてくる人もいる。だから内向的であると同時に外向的であるわけだ。これが本当の人間的な人間なのだ。歴史的に見て、英雄とか大きな仕事をした人は、みんな内向性と外向性を強烈に活かしている。


自分は内向的な性格で、上手く話しもできない。友人でもできないと悩んでいる人が多い。だが、内面的であることは決して悪いことではない。そう思い込んでいるから暗くなり、余計、内向的にしているんじゃないだろうか。内面的ということを、マイナスと考えたり、恥じちゃいけない。


芸術なんてもの、それを見極めて捨てたところから開けるものなんだ。芸術に憧れたり、恐れたり、糾弾したり、追いかけたりしている間は、まだ本当の芸術に到達することはできない。


僕は「幸福反対論者」だ。幸福というのは、自分につらいことや心配なことが何もなくて、ぬくぬくと、安全な状態をいうんだ。ニブイ人間だけが「しあわせ」なんだ。僕は幸福という言葉は大嫌いだ。僕はその代わりに、「歓喜」という言葉を使う。危険なこと、つらいこと、つまり死と対決するとき、人間は燃え上がる。それは生きがいであり、そのとき湧き起こるのが幸せではなくて「歓喜」なんだ。


下手ならなお結構、とは僕が昔から言っていることだ。たとえば、上手いと評判の絵にロクな絵はないし、上手いと言われる歌にしても、ちっとも感動しない。だからといって、自分から引き下がって、ジメジメして下手であることを認めてはダメだ。そうじゃなく、自由に明るく、その人なりのユニークな下手さを押し出せば、逆に生きてくると思う。また、その方が人に魅力を感じさせる。下手なことを明るく自認すれば、コンプレックスを持たずに済むじゃないか。


未熟ということをプラスの面に突き上げることが人間的であり、素晴らしいことだと思わなければいけない。よく世間一般では完成された人は素晴らしいというが、この世の中には、完成なんてことは存在しないんだ。完成なんてことは他人が勝手にそう思うだけだ。世の中を支配している基準という、意味のない目安で他人が勝手に判断しているだけだ。


芸術家でもタレントでも、有名になればなるほど本当に気の毒だ。自分の地位や世間の評価ばかり気にして、逆に意味のないマイナス面を背負っている。その方がはるかに虚しいんで、名もない人間の方が、よっぽど無条件な精神力をもって、世界に挑むというファイトを持ち得る。


人間はマイナス面の方も多く持っている。マイナス面があればあるほど逆にファイトを燃やして、目の前の壁と、面と向かって対決するわけだ。


他人に対して自分がどうであるか、つまり、他人は自分のことをどう見ているかなんてことを気にしていたら、絶対的な自分というものはなくなってしまう。プライドがあれば、他人の前で自分をよく見せようという必要はないのに、他人の前に出ると、自分をよく見せようと思ってしまうのは、その人間にコンプレックスがあるからだ。


人間として生まれてきた以上、恐怖感があるというのは、むしろ自然なことなのだ。これから文明がさらに発達するにつれて、恐怖感を持つ人はもっと増えてくると思う。恐怖感は自分一人でなく、これは人類全体の運命なんだと思って、取り組んでいけば、以外に救われるんじゃないか。


あっちを見たりこっちを見たりして、まわりに気を使いながら、カッコよくイージーに生きようとすると、人生を貫く芯がなくなる。そうじゃなく、これをやったら駄目になるんじゃないかということ、まったく自信がなくってもいい、なければなおのこと、死に物狂いでとにかくぶつかっていけば、情熱や意志が湧き起こってくる。


意志を強くする方法なんてありはしない。そんな余計なことを考えるより、本当にいまやりたいことに、全身全霊をぶつけて集中することだ。ひたすらそれを貫いてみる。はたから見れば、あの人はなんという意志の強い人なんだろうということになるんだ。


僕はいつでも最低の悪条件に自分を突き落とす。そうすると逆にモリモリッと奮い立つ。自分が精神的にマイナスの面をしょい込むときこそ、自他に挑むんだ。駄目だ、と思ったら、じゃあやってやろう、というのが僕の主義。最大の敵は自分なんだ。


自信に満ちて見えるといわれるけど、僕自身は自分を終始、落ち込ませているんだ。徹底的に自分を追い詰め、自信を持ちたいなどという卑しい考えを持たないように、突き放す。僕がわざと自分を落ち込ませている姿が、他人に自信に満ちているように見えるのかもしれない。


よく「どうしてそんなに自信があるんですか」とか、「自信に満ちていてうらやましい」と言われる。だが、僕は自信があるとは思っていない。自信なんてものは、どうでもいいじゃないか。そんなもので行動したら、ロクなことはないと思う。ただ僕はありのままの自分を貫くしかないと覚悟を決めている。それは己自身をこそ最大の敵として、容赦なく闘い続けることなんだ。


一度でいいから思い切って、僕と同じにダメになる方、マイナスの道を選ぼう、と決意してみるといい。そうすれば、必ず自分自身にワァーッと盛り上がってくるに違いない。それが生きるパッションなんだ。いまは、ほとんどの人がパッションを忘れてしまっているようだ。


みんなどうしても安全な道の方を採りたがるものだけれど、それが駄目なんだ。人間、自分を大切にして、安全を望むんだったら、何もできなくなってしまう。計算づくでない人生を体験することだ。


人間が一番つらい思いをしているのは、「現在」なんだ。やらなければならない、ベストを尽くさなければならないのは、現在のこの瞬間にある。それを逃れるために「いずれ」とか「懐古趣味」になるんだ。懐古趣味というのは現実逃避だ。


過去にこだわったり、未来で誤魔化すなんて根性では、現在を本当に生きることはできない。ところが、とかく「いずれそうします」とか「昔はこうだった」と人は言う。そして現在の生き方を誤魔化している。だから、僕はそういう言葉を聞くたびに、怒鳴りつけてやりたくなる。「いずれ」なんて言うヤツに、本当の将来はありっこないし、懐古趣味も無責任だ。


何かを始めても、続かないんじゃないか、三日坊主に終わってしまうんじゃないか、なんて余計な心配はしなくていい。気まぐれでも、何でも構わない。ふと惹かれるものがあったら、計画性を考えないで、パッと、何でもいいから、自分のやりたいことに手を出してみるといい。それでもし駄目なら、つまり続かなかったら続かなかったでいいんだ。いいと思うべきだ。


何にもしないで、人生を無駄に過ごすなんて、つまらないじゃない。そういう生活を続けていると、世界全体を見失うし、また、自分自身を見失うことになる。


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