山本為三郎(経営者)の名言 一覧

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山本為三郎(経営者)のプロフィール

山本爲三郎(為三郎)、やまもと・ためさぶろう。アサヒビール社長。サントリーにも関係し、日本のビール王と呼ばれる。また、新大阪ホテル、大阪ロイヤルホテルを設立しホテル王とも呼ばれた経営者

お客様の立場に立って仕事をすることを忘れてはいけない。


大正3年に三ツ矢サイダーの瓶の供給契約を更新した。ところが、同年欧州戦争が始まった。瓶の原価が上がった。こちらはそれにつれて値段をあげたいところだが、そうすると鉱泉(サイダー)会社は成り立たない。瓶の値段は鉱泉会社の採算と金融を一番大きく左右するものなのである。私は大きな犠牲を払って、大正3年に契約した値段で最後まで供給した。そのために自動製瓶機でマスプロ(大量生産)をさらに高め、コストを下げた。


渡辺崋山の商人訓のなかで、私の記憶にあるもうひとつの戒めは「近所に同業ができたら、よしみを厚くして相励め」ということである。これは実にいい言葉だと思う。同業は競争者ではないという精神である。この精神があるからこそ、大阪の道修町は町の端から端まで4、5丁の間、全部薬屋でやっているし、また本町といえば、昔から繊維業者ばかりが軒を並べている。ときに消長はあるにしろ、こうしてみんな何代、何十代と続けていくのは結局、よしみを厚くして相励んでいるからではなかろうか。


私はことを処するのに、相手の立場に立ってものを考えるということが身についた。私は、その人になりきってしまって、その人が怒るときには私も怒り、その人が泣くときは私も泣いてものを考えている。ただ、その人と私の違いは、私には感情や憎悪や利害関係がないということで、そういったものを取り除いて考えると、大抵のことはスムーズに解決できるものだ。


私はいままで、多くの人物と接触してきたが、昔の古い型の実業家は貫禄や、そのスケールの大きさ、得も言われぬ良さなど、私が学ばんとして学びえなかった何ものかを身につけていたと思う。私は20歳から45年間、多くの優れた先輩に接触し、数々の偉大な美点と人間性に接し、仰いで学ばんとしながら足元にも及びえなかったことを顧みて、忸怩(じくじ)たるものがあるのである。


大正12年、当時大阪に誕生したばかりのロータリー・クラブへ入会を許された。当時のロータリーはまことに気分のいいものであった。クラブは皆で忌憚のない意見交換もできるし、なんでも安心して話し合える。ロータリーは大阪のために、いろいろな意味でプラスになってきたと私は考えている。とにかく私はこのクラブの人々によって、人生観も広くなり、人間勉強も大いにさせてもらったので、誰よりもまず自分に役だったなと深く感謝している次第である。


数十年にわたる事業活動の中には、私も先輩知友に勧められたり頼まれたりして、ビール以外のいろいろな仕事に手を染めてきた。しかしいずれにしても私はそれらのことに、自分なりの信念を持たなければ始めなかっただろうし、またやりかけたことは、それなりの情熱を持って当たったつもりである。


ビール事業は、一見、平たんな道を歩いてきたように見えるが、戦争中の液体燃料工場への転換問題といい、食料メーデーのときの生産ストップ議論といい、また減量削減の要請を受けたときといい、大変なきわどい目にもあっている。


ビールは軍需品に近いもので、これを供給して軍に協力しているではないか。山本五十六元帥は横山中佐をビール会社へ送って「ビールは爆弾よりも必要だ。空中戦をやるときにはどうしてもビールがなければならない。というのは機上では炭酸ガスが不足するので、ビールと一緒に、中に含まれている多量の炭酸ガスを飲んで耐久時間を長くする」と言われたことがある。だから我々がビールをつくることもひとつの国策ではないか。
【覚書き|太平洋戦争中に軍からビール工場を接収し、その工場の機材で燃料をつくるという命令を受けたときに語った言葉。説得は失敗し工場と原料すべてを取り上げられてしまった】


今日のビール業界の繁栄の裏には、幾多の先輩の血のにじむような苦労が隠されていることを忘れてはならない。あなた方は今日ビールをおやりになって、すぐ技術者もいる、麦もホップもある、またその需要層もあるということは、我々の先輩が80何年間、営々として築いた地盤の上に乗っているということだ。その過去の有名無名の功労者や、実際面を担当した工員とか農夫に対し、十分の敬意と感謝をささげてもらいたい。


私は大阪の北野中学を出たが、卒業後は店の仕事があるので上級校へ進むことをせず、父の配慮により英国人で神戸商大と京都大学の先生をしていたフランクリンという人のところで個人授業を受け、忙しいときは家に来てもらって、足りないところは補ってもらい、その後外国にも勉強に行った。私の場合、実業が先で、教育はあとから受けたというわけである。
【覚書き|実家の瓶工場を17歳で引き継いだ当時を振り返っての発言】


大阪には渡辺崋山の書いたという商人訓がある。その一番はじめに「召使より先に起きよ」とある。これは主人が使用人の生活を支えてやっているという考え方ではなく、使用人たちに自分の商売をしてもらっているのだ、だから主人は召使より先に起き「おはよう」というあいさつに、心から感謝をこめて、そして使用人を励まして働かせていくという心構えをいったものである。このごろのようにともすると重役は、朝はゆっくり11時ごろ出てくる。反対に従業員は8時からの出勤時間を1分遅れても、遅刻のハンコを押されるような風潮の逆を行くものである。


物への愛というものは、自分のからだを離れて愛するものだ。だから極めて客観的なものである。一方、人への愛というものは、思いやりということでつながるものである。自分がその人の立場に立ってものごとを考えるということをしなければ、人に愛されず、また人を愛する資格もないということを、常住坐臥聞かされた。
【覚書き|幼少期に祖母から受けた教育について語った言葉】


その人になりきってしまって、その人が怒るときには私も怒り、その人が泣くときは私もまた泣いて、ものを考えているのである。


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