小形真訓の名言 一覧

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小形真訓のプロフィール

小形真訓、おがた・まさのり。日本の牧師。神奈川県出身。慶應義塾大学経済学部卒業後、積水化学工業に入社。同社の広報部長などを務めた。また、在職中からキリスト教の伝道活動を続け、定年退職後、牧師になった。著書に『イエスの生涯』『日曜日、部長は牧師になる』『いまを生きぬくビジネスマン聖書塾』ほか。

他人の欠点に目が行ったときは、自分と他人を比べるのではなく、自分とキリストを比べるのです。自分はキリストに何ひとつかなうところはない。キリストに比べれば何もかも不完全だと気がつけば、少しは謙虚になれるし、他人に対する期待過剰もなくなるのではないでしょうか。


聖書にはこんな言葉があります。「あなたは、兄弟(他人のこと)の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」。つまり「自分の欠点には気かっかないのに、他人の欠点にはよく気がつく」のが人間というものなのです。


私たちは誰しも、他人から信頼されるのは素晴らしいことだと思い、信頼される人間になりたいと願います。しかし聖書には、「みんなから信頼きれるような人間を目指しなさい」とは、一言も書いてありません。


信頼を得るために行動するから信頼されるのではなく、信頼とはあとからついてくる付随要素にすぎないのです。本当の信頼というのは、「自分はこう考える」というような、何か拠りどころのある生き方を持って生きていくうちに、やがて周囲の人から得られるものだと思います。私にとっての拠りどころは、聖書であり、教会の礼拝です。仕事以外の領域で何か支えを持って生きることで、自然と信頼はついてくるものではないでしょうか。


私たちがお互いに赦(ゆる)しあい、信頼関係を築くにはどうすればいいか。非常に難しいことです。たとえば自分にとって腹立たしい人物がいるとする。その人のことがどうしても赦せない。赦すべきだとは思うし、あるときはもうすっかり赦せたような気がする。しかし再びその人物の気に食わない言動を目撃すると、また腹が立つ。現実の人間とは、こういう混沌としたものだと思います。そういう人間同士の関係に、神と人間との関係を持ち込んでみたらどうでしょう。つまり、その憎い相手のことも神はすでに赦しているのです。そして自分もまた、神に赦された存在です。世界中で使われている「主の祈り」というものがあります。クリスチャンの人生の指針のひとつとなっている有名な祈りです。その中に、「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」という一節がある。つまり神が自分を赦してくれたように、自分も相手のことを赦そう、と考えるわけです。


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