小倉昌男の名言 一覧

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小倉昌男のプロフィール

小倉昌男、おぐら・まさお。日本の経営者。ヤマト運輸社長・会長。東京帝国大学経済学部卒業後、父が経営する大和運輸へ入社。父の後を引き継ぎ社長に就任する。クロネコヤマトの宅急便により、日本に個人向け荷物宅配サービスを普及させた。運輸省と正面から意見を対立させ勝利するなど数多くの伝説を残した。享年80。

デメリットを恐れて立ち止まったら発展はない。


儲からないから止めてしまう、というのでは情けないではないか。それをやるのが経営者の意地ではないか。


数千人の社員にいろいろなことを徹底させるには、短い言葉で伝えないと浸透しない。


企業が悪い循環に入っているときは、目先の損得だけを考えていると失敗することが多い。


経営は倫理に支えられていないと、しっかりとしたものにならない。クリスチャンの方がそういう意味で、経常倫理を理解しやすい。


お金はまるで無いと困るけど、一杯飲むくらいのお金があればね。それ以上、あってもしょうがないでしょう?


勲章をもらって何になりますかな。親父は旭日三等とかをもらいましたがね。立派そうなルビーが付いていましたよ。古道具屋に売り飛ばしてしまいたかった。


烏になったつもりで、高い所から鳥瞰してみたらどうだろう。


成功するために必死に勉強したり、努力したりすることが大事。若い人は高い志を持って、一生懸命努力してほしい。


ヤマト運輸は、監督官庁に楯突いてよく平気でしたね、と言う人がいる。別に楯突いた気持ちはない。正しいと思うことをしただけである。


良いサービスを提供すればお客様に喜んでいただける。
お客様に喜んでいただければ荷物が増える。
荷物が増えると、エリア当たりの荷物の個数が増えて密度化が進む。
密度化が進むと生産性が上昇し、自然に利益が出る。
とにかく良いサービスを提供することだ。


これからは収支のことは一切言わない。そのかわりサービスのことは厳しく追求する。
【覚書き|宅急便のサービスを始めるにあたり社員に語った言葉。当時は小口宅配では儲かるわけがないと言われていた】


サービスとコストは二律背反の関係だから、利益を強調するとサービスが中途半端になってしまう。だから、あえて採算意識を捨てさせた。


「なんでだろう」から、仕事は始まる。


悪い環境から脱するには、全然別の場所に移り、まったく新しいところで仕事をしたらどうかと考えた。
【覚書き|ヤマト運輸が工場と店舗間の商業輸送から、個人間の宅急便に業態を変化させた理由について語った言葉】


宅急便を考えたとき、単なる一企業の事業ではなく、社会的なインフラになるし、そうしたいと思っていた。思い上がったことだったかもしれないが、それは私の志だった。


ドライバーは荷物を届けたお客さんからありがとうと言われるうちに、宅配のやりがいを感じてくれるようになりました。


リーダーに求められる条件はいろいろありますが、その第一は論理的に考えることだと思います。


論理的に考え、倫理観を持ち、わかりやすく説明する。それを続けることで、良い社風ができるのです。


リーダーには説明能力も必要です。社員がやる気にならないことには、どんな事業も成功しません。


自分の都合だけを考えて商売を続けていると、会社は駄目になります。いい例が銀行でしょう。どんどん借りてくれる客ばかり相手にしていたから不良債権に苦しむことになった。いまは「借り手がいない」と言っていますが、銀行にとって都合がいい借り手がいないということでしょう。


すべてのものごとにはメリットとデメリットがあります。個人宅配は、いつどこから荷物が出るかわからず、集荷や配送が非効率になるので、必ず赤字になると思われていました。だからトラック業者は一社も参入せず、郵便小包の独占状態でした。しかし法人客と違って値切られることはないし、現金で支払ってくれる。私はデメリットをどうやったら解消できるか考え、宅急便の成功を確信しました。


私も運ぶ荷物を選り好みして失敗した経験があります。当時、取締役営業部長だった私は、運ぶべき荷物が集まらないのに弱り、大口の契約を取ることを最優先しました。一方、手間がかかり、コストが割高になると思われた小口の貨物を断るよう現場を指導したのです。結果的に売上高はそこそこ伸びましたが、利益率が低下してしまった。トラックの運賃は、重量が重くなるほど、輸送距離が長くなるほど割安になる方式です。当然、大口貨物の長距離輸送が増えれば、全体の利幅は薄くなってしまう。その事実に気付いたことがのちの宅急便につながります。


ヤマト運輸は戦前、関東一円にネットワークを持つ日本一のトラック輸送会社でした。その成功が災いし、長距離輸送に出遅れました。社長だった父、康臣を説得して東京大阪間の免許を申請したのは1957年のことです。すでに西濃運輸など長距離輸送で先行した会社が、厳しい競争を繰り広げていました。


ヤマト運輸の「宅急便」が運ぶ荷物の数は、いまでも伸び続けています。その一番の理由は、荷物が早く、安く届くことではありません。サービス内容が充実していることでもありません。もっとメンタルなことです。お客さんは千差万別です。荷物を届けるのは朝がいいか、夜がいいか、みんな違う。わがままなお客さんに対応するのはドライバーです。彼らは担当地域のお客さんの希望を頭に入れ、相手の都合に合わせるようにしている。宅急便が伸びている理由はそこにあります。


デメリットのあるところに、ビジネスのチャンスがある。


嘘をついた管理職には降格などの罰を与えた。このころ、管理職の人事評価は人格を基準にすべきだと思うようになる。成果主義は考え方としては正しいが、測定が難しい。ある時期に上がった成果が、現任者の功績か、前任者の種まきによるものか、はっきり分けられないからだ。それなら誠実、部下の面倒見がいいといった人間性を重視した方がいい。


消費者の知恵とバイタリティが新しい需要を生み出し、市場が育っていく。そこで市場の変化についていけない会社はつぶれてしまっても仕方がない。会社を潰したくなければ、消費者の動向に常に敏感にならなければいけないし、逆にそうした行為が会社を成長させ、さらには日本経済の活性化につながっていく。そこにはもはや、護送船団方式などといった役所の論理が不要であるということはいうまでもありません。


96年度に配送された郵便小包が4億個なのに対して、宅急便は7億300万個と郵便小包の約1.8倍ものご利用があった。正直なところ、なぜこんなにたくさんのお客様にご利用いただけたのか自分でも不思議でしょうがなかった。しかしよく調べてみると、わが社が提供するサービスを利用してお客様がありとあらゆる使い方をされているんです。


旅行先の朝市で新鮮な魚を買ってすぐに市場からクール宅急便で自宅に送れば家に着いた時には新鮮なままの魚が食べられる。お客様の知恵とバイタリティがわが社のビジネスの幅をさらに広げてくれているわけです。これからもお客様の知恵とバイタリティに応えられるような新しいサービスを提供し続けなければ、競争の激しい市場の中では生き残っていけません。


戦後50年という一つの時代が終わり、時代の潮流がその流れを大きく変えようとしている。まさに時代の大きな変わり目に来ていると思います。過去100余年の歴史を振り返ってみますと、日本はこれまでに2度、時代の激変を経験しています。ひとつは明治維新。つぎに昭和20年の終戦のときです。現在はそれらに匹敵するぐらいの規模で時代が大きく変わろうとしています。


幕府という牙城が崩壊したからこそ、近代国家・日本が誕生した。ところが、いまは旧来型の官僚組織を残したまま新しい時代に突入しようとしている。これが今の時代の最大の不幸だと思っています。日本全体に「時代の大きな変化の中にいる」という意識が希薄で、構造改革の重要性がいまひとつ理解されていない。ですから行政は構造改革はするが自分の既得権は守るといった中途半端な政策しか打ち出せないわけです。


時代の変わり目にあるということが、実感として世の中にあまり伝わっていません。そこに問題があると思うんです。明治維新では幕藩体制が解体するという大事件があって、新しい国を作ろうと若い下級武士や公家たちが立ち上がった。昭和20年には敗戦によってアメリカの占領という大事件を経験した。そして公職追放で20万人以上の人が公職から追放され、かわって30代、40代の若手が行政や経営などの第一線に立ったわけです。「俺たちがやらなければ日本の国はどうなってしまうのだろう」という強い危機感があった。ところが今の時代は人々を立ち上がらせるための起爆剤となるような事件がない。


理論だけじゃ利益は出ない。しかし経営に筋道を立てないと利益が出ないことも事実。過当競争で構造不況だという。しかし儲けている企業もある。なら、どうして自社がだめなのか、どうすればいいのか。トップは汗を流すことだけじゃ十分ではない。【覚書き:理屈が多い経営と揶揄されたときの返答。理論と行動の両輪が必要と言う趣旨の発言。】


人から信用を得ようと思ったら、言葉だけでなく態度でも誠実さや真剣さなどを示さなければならない。企業が不祥事を起こしたとき、会社の幹部がテレビカメラの前で申し訳ありませんと謝罪しても世間が納得しないことが多いのは、その態度が心から謝っているように見えないからだろう。人々は、口先から発せられる言葉だけで物事を判断しているわけではない。


経営者として社員とコミュニケーションを深めようと思ったら、社長室に閉じこもっていてはいけないと思う。めったに人前に現れず、どこか神秘的な雰囲気さえ漂わせている経営者もいるが、それではトップがどんな人間で何を考えているのか、社員には伝わらないだろう。社員の前に姿を見せ、ときにはスキンシップを図ることも、社長にとっては重要なコミュニケーション手段だと言うことだ。


いやな話をするときほど腰が引けてしまい、言うべきことを言えなくなってしまう。何かを断るとき、あるいは相手の考えを返させたいときほど、相手のまたぐらに足を突っ込んで斬りかかるくらいの覚悟で間合いをつめたほうがいい。敵の懐に飛び込むつもりで事に当たるべきだ。おそらく気の強い人というのは、無意識のうちにそれができるのだろう。しかし、気の弱い人間は、それを意識的にやらなければいけない。私はそれを意識するようになってから、気が楽になった。


社員は将棋やチェスの駒ではない。それぞれが自分の生活を豊かにすべく生きている生身の人間である。そして彼らの幸福は、社長の腕一本にかかっていると言ってもいいだろう。社員の家族も含めれば、雇用している人の何倍もの人間の人生を社長は一人で背負っていることになる。


粉飾決算は絶対にやってはいけない。売上が目標に届かなかったときの不安や動揺はわかるが、そこは歯を食いしばって耐えなければいけない。いったん誘惑に負ければ、あとは地獄が待っていると言っても過言ではないだろう。ひとたび粉飾に手を染めたら最後、毎月毎月、必死になってごまかしつづけなければならないのだ。悪事を働いているのだから同情の余地はないが、それはそれは大変な苦労だ。しかも嘘はいつか必ずばれる。


とくに困るのは現場のリーダーが今日のことしか考えていないケースだろう。どんな将来に向かって努力を積み重ねるのかわからないまま、ひたすら目先の結果だけ求められたのでは、その下で働いている社員がいやになるのも当然だ。やる気が湧かないから当面の成績が上がらず、そのため上司はよけいにプレッシャーをかける。結果的にやる気も成績も低下する一方になってしまうのである。


人間にとって何がつらいといって、自分が何の役にも立っていないと感じるほどつらいことはない。仕事の価値は収入の多寡で決まるわけではない。その仕事を通じて社会にコミットメントして、世のため人のために役に立っているという実感が得られたときに初めて、私たちは働く喜びや生きがいを持つことができるのである。


リーダーとしての責任を果たすためには、多少の遠回りは覚悟の上で、自分の頭で考えられる部下を育てなければいけない。あいつらに任せるより自分でやったほうが早いと短気を起こすと、結局は忙しくなって自分の首を絞めることにもなる。


論理的な思考とは、物事をシンプルに考えるということにほかならない。シンプルな論理的思考を心がけることだ。物事をできるだけ単純に考えることが、真の目的に到達する近道なのである。


部下が意欲的に目の前の仕事に取り組めるようにしたかったら、現場のリーダーは長期的なビジョンを説明しなければいけない。今の努力が将来どのような形で報われるのかを部下に説明する責任が上司にはある。それもビジョンと言うからには、目に見えるような具体的なものでなければいけないだろう。


どんな企業にも、目的と言うものがある。それを達成する手段として、最も合理的で効率の良い方法を考えて結果を出すのが企業経営だ。経営者には、それを理論的に考える力が求められる。それが経営者として成功するための最低条件であり、もっとも必要な条件だと言っていいだろう。


数学の理論では1+1は必ず2になる。だが、経営の論理では必ずしもそうとは限らない。1+1が3になることもあれば、1にしかならないこともあるのが企業活動というものだ。なぜ1+1がいつも2にならないかといえば、それは人間のやることだからだとしか答えようがない。


モノやサービスを提供する側がまず考えなければいけないのは、価格ではない。大切なのはあくまで中身だ。無論中身が同じなら、価格が安いほうがいいに決まっているが、価格を抑えるために中身を犠牲にするのは本末転倒というものだ。


リーダーが考えるべきは部下に仕事を任せることだろうと私は思う。全体的な方針や仕事の大枠はリーダーが決めたとしても、具体的な仕事の進め方は部下に任せる。ここはお前に任せると言われれば、誰だって自分で考えようとするだろう。「仕事を任される」と「自分の頭で考える」は表裏一体の関係にある。マニュアル人間が自分で何も考えようとしないのは、何一つ任されていないからだ。


自分に合った理想の仕事を探すのではなく、目の前にある仕事に惚れることが大事だ。最初は意に染まないと思っていた仕事でも、やっているうちにおもしろくなるということはいくらでもある。与えられた仕事に惚れようと思ったら、まずはその仕事と社会との接点に目を向けてみるのも一つの方法だと思う。


長期的な視野で企業にいい循環をもたらそうと思ったら、大切なのは細かいことの積み重ねだ。今は悪くなっている企業も、そうなる前にはいい循環が起きていたはずで、それは一朝一夕に作られたものではない。多くの先輩たちが、地道にコツコツと日常的な作業を積み重ねてきたことが、いい循環の土壌になっている。それを取り戻すための近道はない。同じように、細かいことを一つ一つ積み上げていくしかない。企業活動の循環は山登りにも似ていると言えるだろう。


長い不況の七で、グローバルスタンダードという言葉は、日本社会の悪い流れを好転させる切り札のごとく使われてきた。もういままでのような日本のやり方ではグローバルな競争社会の中で生き残ることができない、というわけだ。しかし、本当にそうだろうか。たしかに現在のビジネス環境はグローバル化しているが、だからといって何でもかんでもアメリカのスタイルを取り入れればいいというものではないだろう。日本とアメリカとでは、前提となる社会構造が異なるからだ。


経営者にとって、周囲の人間というのは極めて貴重な情報源である。そして意思決定の際に参考にする情報には、いいものも悪いものもなければいけない。ポジティブな要素とネガティブな要素を総合して、何かベターかを決めるのが、論理的な思考というものだ。ネガティブな要素があることを知らずに意思決定を行えば、まず間違いなく会社は悪い循環に突入していくだろう。


事業のアイデアがどんなに素晴らしいものだったとしても、それは一人で実現できるものではないはずだ。もちろん経営者には企画力のようなものが必要だが、それと同時に、人を動かす術を持ち合わせていなければ、自分の企画を形にすることはできない。当たり前の話だが、情報収集力に長けた若い人は往々にして頭でっかちになってしまい、その当たり前のことを忘れがちなのではないだろうか。


社長も社長と言う役柄を演じなければ責任を果たせない。ケンカっ早い人間になる必要はないかもしれないが、強気に出るべきところは強気に押し、戦うべきところで戦わなければ、会社の理念を実現することはできないのである。本来の性分と異なる役柄を演じるには、それなりのテクニックが必要だ。テクニックと言っても要は心がけの問題だ。思い切って斬ることだ。相手のまたぐらに足を踏み込んで斬りかかれば、たいがい相手のほうが倒れている。


働いている人間は、必ず自分の仕事に対する評価を求める。自分自身でよくやったと思えたとしても、それだけで満足できる人はまずいない。いい仕事をしたという手ごたえがあるときほど、他人にもいい仕事をしたと認められたいのだ。評価の程度や内容は仕事によってさまざまだが、それが次の仕事への意欲につながると言う点ではなんら違いはない。その評価が収入の増減に結びつくとなれば、なおさら本人にとって大問題だ。


偉い経営者とはどういう人のことを言うのだろうか。会社を急成長させた人、新しいビジネスを創造した人など、世間的に偉いと思われている経営者は大勢いる。しかし私がこれまで付き合ってきた経営者の中に、本当の意味で人間的に偉いなぁと思える人はそれほど多くなかった。


私は従業員と言う言葉があまり好きではない。会社が雇っている人々のことは、必ず社員と呼ぶことにしている。それほど深い意味があって使い分けているわけではないが、従業員の「従」という語感がどうも好きになれないのだ。社長が社員を従業員と呼べば、それは相手を会社の業務に従う者としか認識していないと言うことにもなる。そういうことでは、彼らの人生に対して担っている責任を自覚できないではないだろうか。


書類の上で経営者になれたからといって、それだけで経営者ができるかと言うものではない。経営とは、生身の人間と付き合う仕事だからだ。インターネットで誰でも膨大な量の情報を手に入れることができるし、企業経営のノウハウを教えるマニュアル本や雑誌なども山のように出ている。だから、余計に情報や知識の価値を過大評価してしまうのだと思う。


いまは効果を上げているように見えるアメリカ式のリストラも、本当に日本に合ったやり方かどうかは、はなはだ疑問だ。ひたすら効率を求めて大胆な人員削減を行えば、とりあえず数字は良くなるだろう。しかし長い目で見た場合、その手法で日本の流れが良くなるとは私には思えない。企業が悪い循環に入っている時というのは、目先の損得だけを考えていると失敗することが多い。目の前の問題を解決したからといって、将来へ向けた流れが良くなるとは限らないからだ。


人件費を減らせば業績が上向くかというと、そんなこともないから厄介だ。経費を節減した以上に売上が落ちてしまうのである。このあたりが、悪い循環の恐ろしいところだ。


好奇心のない人間は新しいものを生むことができないし、自分を成長させることもできない。当然、仕事も面白くはならないだろう。逆に、旺盛な好奇心を持ち、自分の頭で考えられる人間は、退屈な仕事を与えられても、それ自体をなんでだろうの対象にできる。決められたマニュアルがあるなら、その仕事にそのマニュアルが用意されている理由をなんでだろうと考えることができるわけだ。


部下に仕事を任せるのは非常に勇気のいることだ。安心して任せることのできる右腕的な部下がいればいいが、現実はそう甘くない。どの部下も頼りなく見えてしまい、つい自分ですべてをやってしまいたくなる人が大半だと思う。だが、それをやっていると、いつまでたっても部下は自分で考えるようにならない。気がつくと決められたことを黙々とこなすだけの人間ばかりが現場で働いていることになってしまう。


やりたいことが見つからないと言う若者は、どこかに必ず自分にぴったりあった仕事があって、いつかそれに出会えるはずだと言う錯覚を持っているような気がしてならない。それは順番が逆だ。どこかに好きな仕事があるのではなく、目の前にある仕事を好きになれるかどうかが大事なのではないだろうか。


本当は税金を納める能力があるにもかかわらず収入をごまかしたり、補助金をもらって普通の人よりも贅沢な暮しをしていたりする人間は「タックス・イーター」と呼んでいい。他人が苦労して払った税金を食って、自分だけ楽をしているのだ。これは本来、国民の一人として恥ずべきことだろう。ところが、大半のタックス・イーターは悪知恵を絞って楽な生活を手に入れている自分を、他人よりも賢いと思っている。


富の再分配という救いの手を差しのべられている割には、ゆとりのある暮らしをしている人間がいる。みんながみんなそうだとは言わないが、たとえば公的な補助金を受け、税金もあまり払っていないと思われる農家のガレージに自家用車が二台も三台も並んでいたりすれば釈然としないのも当然だろう。公営住宅でも年収の上限があってお金持ちは住めないことになっているにもかかわらず羽振りよさげに高級な外車を乗り回している人間が居座って出て行こうとしないといったことが良くあるらしい。弱者を保護する社会の仕組みを逆手にとってうまい汁を吸っている人間が大勢いるわけだ。


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