宮本武蔵の名言 一覧

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宮本武蔵のプロフィール

宮本武蔵、みやもと・むさし。江戸時代初期の剣豪、兵法家。兵法・剣術流派「二天一流」の開祖。播磨国(のちの兵庫県の南西部)出身。数々の勝負に勝利し、二天一流を立ち上げる。著書に『五輪書』。その生涯は演劇、小説、映像、そのほかの媒体で題材とされた。水墨画や工芸品作りにも秀で、それらの作品はのちに重要文化財に指定された。

何ごとも勝つということは、道理がなくて勝つことはできない。


じっくりと構え、兵法を修行することは武士の役目と心得て、今日は昨日の自分に勝ち、明日は自分より下の者に勝ち、後には上手に勝つというように考え、修行して、少しも脇道に心引かれないように心がけるべきである。


物事において余るのは足らないことと同じである。よく吟味すべきである。


誰でも初めて取りかかるときは、太刀は重くて振り回しにくく、弓も引きにくく、長刀も振りにくいものである。いずれもその道具に慣れてくれば、弓も力強くなり、太刀も振り慣れればその力がついて、振りやすくなるものである。


わが兵法を学ぼうと思う人は、修行の法がある。
第一に、邪(よこしま)でないことを願うこと。
第二に、兵法の鍛錬に励むこと。
第三に、もろもろの芸(武芸・芸能)を学ぶこと。
第四に、さまざまな職能の道を知ること。
第五に、ものごとの利害・得失をわきまえること。
第六に、あらゆることについて鑑識力を身につけること。
第七に、目に見えないところを洞察すること。
第八に、わずかな事にも注意をすること。
第九に、役に立たないことをしないこと。
おおかたこのような道理を心がけて、兵法の道を鍛錬すべきである。


戦いの姿勢は、平常の姿勢を兵法の姿勢とし、兵法の姿勢を平常の姿勢とすることが肝要である。よくよく吟味すべきである。


武将も兵卒も武器を好き嫌いするのはよくない。使うときに工夫が大切である。


兵法の道において、心の持ちようは平常の心と変わってはならない。平常のときも戦いのときも少しも変わらず、心を広く素直にして、緊張しすぎず、少しも弛まず、心に偏りがないように、心を真中におき、心を静かに揺るがせて、その揺るぎのなかにも一瞬たりとも揺るぎを失わないように、よくよく吟味すべきである。


太刀を執るということは、何としても敵を切るということなのである。受けようと思い、張ろう、当たろう、粘ろう、触ろうと思うから、切ることができないのである。何事も切るための切っ掛けと考えることが肝要である。よくよく吟味しなければならない。


合戦においても、敵の人数の多少を知って、その戦場の状況に応じ、こちらの軍勢の兵力をわきまえ、その長所を生かして、軍勢を編成して戦いを始めること、これが合戦の要諦である。


合戦にしても、四つに組んで張り合い気味になれば、戦いは捗らず、士卒も多く損なうものである。早く戦法を変えて、敵の意表を突いた方法で勝つことが大切である。


心に片時も兵法のことを忘れず、正しい道に励めば、技術的にも勝ち、ものを見る目において人に勝ち、また、鍛錬によって全身が自由自在になるので、身体的にも人に勝ち、さらにこの兵法に馴れ親しんだ心であるので、精神的にも人に勝つ。この境地まで到達すれば、どうして人に負けるということがあろうか。


総じて太刀にしても、手にしても「いつく(固着すること)」という事を嫌う。「いつく」は死ぬ手であり、「いつかざる」は生きる手である。よくよく心得るべきものである。


兵法で「早いということ」は実の道ではない。早いということは、何ごとも拍子の「間」が合わないので、早いとか遅いとかいうのである。その道の上手な人になると、早くは見えないものである。


敵に先手をとられたときと、自分から先手をとって敵にしかけたときとでは、倍も違うものである。


敵と戦うとき、兵法の技や戦法によって表面上は勝ったように見えても、敵の戦意まで絶えさせなかったため、表面的には負けても、心の底までは負けていないことがある。そのような場合は、自分が急に気持ちを替えて、敵の闘争心を絶やし、敵が心底負けた気持ちになるところを見届けることが大事である。この底を抜く(戦意を喪失させる)ということは、太刀によっても抜き、また体でも抜き、また心によっても抜くことがある。心底から崩れた敵には、警戒心を残すに及ばない。そうでないときには警戒心が残る。警戒心が残るようでは、敵は崩れにくいものである。


敵と自分が戦ううちに、同じことを度々するのは悪いということである。同じことを二度するのはやむを得ないとしても、三度とするものではない。敵に技をしかけるのに、一度で用をなさないときは、もう一度急(せ)きかけても効果がなければ、まったく違ったことを不意にしかけ、それでも上手くいかないときには、またもっと違ったことをしかけるべきである。それゆえ、敵が山と思えば海としかけ、海と思えば山としかけるのが兵法の道である。よくよく吟味すべきことである。


敵を弱く見なし、自分が強いと思って押しつぶすという気持ちが大切である。合戦の場合にも、敵の少人数を見下し、または大勢であっても、敵がうろたえて弱みをみせたならば、潰すといって、最初から嵩(かさ)にかかって押し潰すということである。潰しかたが弱いと盛り返されることがある。手のうちに握って潰すという気持ちを、よくよく分別すべきである。


脅えるということは何ごとにもあるものである。思いもよらないものに脅えるものである。合戦の場合も、敵を脅やかすことは当然のことである。あるいは鳴り物の音でも脅やかし、あるいは小勢を大軍にみせて脅やかし、また脇から不意を突いて脅やかすこと、これで敵は脅えるものである。その脅える拍子をとらえ、その有利さによって勝つのである。


敵を動揺させることは肝要である。ひとつには「危険と思わせること」、ふたつには「無理と思わせること」、みっつには「予期しないこと」をしかけることである。よく吟味すべきである。合戦では、動揺させることが肝要である。敵が予期せぬときに激しくしかけて、敵の心の動揺が収まらないうちに、こちらが有利なように先手をかけて勝つことが肝要である。


合戦では、敵に落ち着きがなく、ことを急ぐようにみえるときは、少しもそれに構わないようにして、いかにもゆったりと構えてみせると、敵も自分のことのようになって気持ちが弛むものである。そのゆったりした気分が移ったと思ったとき、自分の方から、虚心になって、早く強くしかけて勝つ利を得るのである。


「陰を動かす」というのは、敵の心が読みとれないときの方法である。合戦においても、どうにも敵の勢力や動きなどが見分けられないときは、自分の方から強くしかけるように見せかけて、敵の戦略を見るものである。敵の手の内を知れば、格段に有利になり勝利が得やすくなるものである。


「四手を離す」とは、敵も自分も同じ気持ちで張り合う状態になっては、戦いは決着がつかないということである。張り合う状態になると思ったら、すぐに戦法を変え、別の手段で勝つことを知るのである。


合戦にしても、敵といえば強いものと思い込んで、慎重になるものである。しかし、自分は常に有能な軍勢を率い、兵法の道理をよく知って、勝ち方をよく承知していれば、心配することはない。


自分が敵になり替わって考えよ。世の中を見ると、盗みなどをして家の中に立てこもったような者でも、敵は強いもののように思いこむものである。しかし、敵の身になって考えてみれば、世の中の人をみな相手として、逃げ込んでどうしようもない気持ちである。立てこもつたものはキジであり、討ち果たしにくる人はタカである。よくよく工夫すべきである。


「崩れ」ということはなにごとにもあるものである。その家が崩れる、身が崩れる、敵が崩れるというのも、時機にあたり、拍子違いになって崩れるのである。合戦においても敵が崩れる拍子をとらえて、その機を逃がさないように追い立てることが肝要である。崩れるときの呼吸を逃せば、敵が立ち直ることがあろう。


合戦では敵軍の勢いの盛衰を知り、敵軍の心理状態を知り、その場の状況に応じ、敵の様子をよく観察して、自軍をいかにしかけるかを考え、この兵法の作戦によって確かに勝てるという自信を持って、先手の優位を知って戦うことが重要だ。また、一対一の戦いにおいても敵の流派を見分け、相手の強弱や性格を見分け、敵の気持ちと違うことをしかけ、敵の戦意や調子の高低を知り、その間の拍子をよく知って、先手をかけることが肝要である。それぞれの景気(状況)というものは、自分の智力が強ければ必ず見えるものである。


人が世を渡るにも一生の内には、渡(川の難所)を越すということが多いことであろう。船路にあっても、その「渡」の場所を知り、舟の規模や性能を知り、日の善し悪し(吉凶)をよく知って、友舟(ともぶね)は出さなくてもその時々の状況に応じて、あるいは横風を利用し、あるいは追い風を受け、もし風が変わっても二、三里であれば櫓(ろ)や櫂(かい)を漕いで港に着くつもりで、舟を乗りこなして「渡」を越すのである。その旨趣を理解して、人の世を渡るにも、全力をあげて困難を乗り越えようという意志が必要である。


固く決意して、朝な夕な鍛練して技を磨きつくして後、自然に自由になり、おのずから奇跡的な力を得、神通力の不思議があるのである。これが武士として兵法修行をする心意気である。


観・見ふたつの目の付け方があり、観の目(大局を見る目)を強く、見の目(細部を見る目)を弱くして、遠い所をしっかり見極め、近い所を大局的にとらえることが、兵法では最も大切なことである。


兵法の智恵は、とりわけ稽古と実戦では違う。戦場では、万事あわただしいときであっても、兵法の道理を極め平静な心が保てるよう、よくよく吟味しなければならない。


書物を読むばかりでは兵法の道に達することはできない。この書に書き付けたことを、自分自身のこととして、ただ書物を見るとか、習うとか思わず、物真似をするというのではなく、すなわち、自身の心の中から見出した道理とするよう、常にその身になって、よくよく工夫しなければならない。


ものごとにはそれぞれ拍子というものがあるが、とりわけ兵法の拍子は鍛練なくしては会得できないものである。


馬は強く反応して、癖のないことが大事である。総じて武道具に関しては、馬もほどほどによく歩き、刀・脇差もほどよく切れ、槍・長刀(なぎなた)もたいがい刺し通り、弓・鉄炮も過度に強い破壊力はないほうがよい。武器そのほか好みが偏ってはいけない。余るのは足りないのと同じこと。人まねをせず、自分の身に応じ、武器は自分の手に合うようでなければならない。


道というものには、学者・僧侶・茶人などの風流者・礼法家・能役者などの道があるが、これらは武士の道ではない。武士の道ではないけれども、これらの道を広く知れば、それぞれに納得するものがある。いずれも人間は、それぞれの道々によく研鑽を積むことが肝要である。


日々にその道に励んでも、心が本道に背けば、自分ではよい道と思っていても、正しい道からみれば実の道ではない。実の道を究めなければ、少しの心のゆがみにつれて、後には大きくゆがむものである。


棟梁が大工を使うには、その技術の上中下の程度を知り、あるいは床の間、あるいは戸・障子、あるいは敷居・鴨居、天井以下、それぞれの技量に応じて使い、腕の劣るものには床板を張る横木を張らせ、もっと悪いものには楔(くさび)を削らせるといったように、よく人を見分けて使えば、仕事もはかどり、手際がよいものである。はかどり、手際がよいというところ、何事も手抜きしないこと、使いどころを知ること、やる気の程度を知ること、励ますこと、限界を知ること、これらの事どもは棟梁の心得である。兵法の道理もこのようなものである。


大将は大工の棟梁として、天下の法や規範をわきまえ、その国の利非・曲直を正し、その家の秩序を保つこと、まさに棟梁の道である。大工の棟梁は堂塔伽藍の寸法を覚え、宮殿や楼閣の設計図を理解し、職人たちをつかって家々を建てる。これは大工の棟梁も武家の棟梁も同じことである。


武器の用法を習得せず、それぞれの武器の利点をも知らないというのは、武士としては少々嗜みの浅いことではないか。


世の中には、兵法の道を習っても、実際のときの役には立たないだろうという考えもあろう。そのことについては、いつでも役に立つように稽古し、いかなる事態にも役に立つように教えること、これが兵法の実の道なのである。


だいたい武士の考えていることを推測すると、武士はただ死を覚悟すること、という程度に考えているようだ。しかし、義理を知り、恥を思い、死を覚悟するということにおいては、武士に限らず、出家した僧でも女でも、百姓以下にいたるまで、その差別はない。


  • 世の道にそむくことなし

  • 身に楽しみをたくまず
  • よろづに依估(えこ=えこひいきすること、頼ること)の心なし
  • 身をあさく思い、世をふかく思う
  • 我ことにおいて後悔せず
  • 善悪に他をねたむ心なし
  • いづれの道にも、別れを悲しまず
  • 恋慕の思いによる心なし
  • わが身にとり、物を忌むことなし
  • 私宅において望む心なし
  • 一生の間、欲心思わず
  • こころ常に道を離れず
  • 身を捨てても名利は捨てず
  • 神仏を尊んで、神仏を頼まず

我ことにおいて後悔せず。


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