安川第五郎の名言 一覧

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安川第五郎のプロフィール

安川第五郎、やすかわ・だいごろう。日本の経営者。安川電機創業者。日本原子力発電社長。福岡県出身。安川財閥の創始者・安川敬一郎の五男として出生。東京帝国大学工科大学電気工学科卒業後、日立製作所での1年間の勤務、米国ウエスティングハウスでの研修を経て、兄とともに安川電機を創業。モーター電動機に事業特化して同社を大きく成長させた。そのほか石炭庁長官、日銀政策委員、九州電力会長、九州経済連合会初代会長、東京オリンピック組織委員会会長なども務めた経営者。

いいものをつくるなら多少値段が高いのは当たり前だ。安かろう悪かろうよりは、良いものを少し高い値で売るのが我々製造業の商売常識である。さらに経験を積めばそれだけコストが下がり、製品もよくなるはずだ。


新しいことをやるときは流行に乗って、やれテレビだ、洗濯機だといたずらに間口を広げるのには賛成しない。2、3年は赤字を出しても、経験を積めば次第にプラスになるような、底堅く将来性のあるものを選んでほしいと思う。


現在の事業でも、障害は山ほど横たわっている。しかし、これを闘争的に強行することは自分の性格上まずない。必ず迂回作戦をとることになるだろう。目標を失わないようにしていると、急速にはそこに行かないが、結果はそこへ行ってしまう。


私は中学に入る前、ずいぶん乱暴な連中と一緒だったが、自分では喧嘩をしたことはなかった。これはいまでも変わらない。仕事上でも人生上でも、何か障害があると、それと争って喧嘩をして突破するということは一度もなかった。喧嘩をしないで、そこを避けて通る。どうかすると180度くらい逆行して遠回りをする。しかし結局自分の思うつぼに行ってしまう。


現在、安川電機は電動機のみしかつくっていない。これを安川電機の社憲のように厳しく考えている人が社の中にいるらしい。だが、私としてはそんな窮屈な考え方はやめてくれと言っている。私がやったのは会社の浮沈の瀬戸際にいたからである。時代が変わったし社の基礎もあるのだから、いつまでもこの線を守るという理由もない。


会社浮沈の瀬戸際に来て、未練がましいことを言っていては何もできない。モーターの担当者を残した他は全部辞めてもらった。そのことが今日までの私の生涯中、一番苦難の絶頂であった。私は涙をのんで訳を話した。それを言い渡すときの苦しさはいま思い出してもぞっとする。しかし、みんな私の苦しさと私の考え方をよくくんでくれて、誰ひとり私を恨む者はなかった。その代わり私は辞めてもらった人たちをどこまでも世話をしてやった。
【覚書き|昭和5・6年の大不況で経営難に陥った当時を振り返っての発言】


人員整理をするとますます悪くなってきた。これは危ない。整理すればするほど縮こまるばかりで発展の機会は出てこない。整理するなら、やはりひとつの方針を立て、その方針に沿い目標に向かって整理しなければ、いくら人を減らしたって駄目である。
【覚書き|昭和5・6年の大不況で経営難に陥った当時を振り返っての発言】


私は経営上の経験もなければ経済上の経験もない。ただ父から「やってみろ」「では」という次第で始まったから、その考えたるや極めてコチコチだった。インチキな仕事は絶対にやらない。いいものさえこしらえれば人は買ってくれる。真面目に製品本位でやれば会社の経営は成り立つと思った。ところが世間はそうスムーズにはいかない。いいものをつくっても、製品の良し悪しを簡単に認めてくれようとはしない。


このとき、私はふと日本を出るとき言われた先輩の言葉を思い出した。「米国へ行ったら遠慮をするな。遠慮をすれば損をするばかりで徳はしない。受け入れられないことは仕方がないが、決して遠慮はするな」これだと思った。そこで、勇気百倍、元気を奮い起こして、いきなり重役に面接を申し込んだ。
【覚書き|米国の電機会社に研修に行ったとき、不景気でやる仕事がないと言われたときを振り返っての発言。兄の友人の重役に紹介を取り付けた】


小さな規模で大工場を向こうに回して、何でも来いと言ったところで、大工場には勝てるものではない。この工場として何を作るのが一番適しているのか、またそれが将来性があるかと品目を定め、その方に一路力を注ぎ、他の雑多な方面はいっぺんに整理すべきだと考えたのである。


事業に障害が出ても決して強行突破しない。必ず迂回作戦をとる。目標を失わないでいれば、急速に目標にはいかないが、結局はうまくいく。


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