塚田公太の名言 一覧

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塚田公太のプロフィール

塚田公太、つかだ・こうた。日本の経営者。倉敷紡績(のちのクラボウ)社長。新潟出身。東京高等商業学校(のちの一橋大学)卒業後、三井物産に入社。ボンベイ支店に駐在しインド奥地で綿花の直接買い付けに従事、ボンベイ支店次長を経験したのち、三井物産の綿花部門が独立した東洋綿花(のちのトーメン)に移籍。ボンベイ支店長、大阪船場支店長、取締役、綿花部長、常務、専務を経て会長に就任。太平洋戦争終結後、貿易庁長官、富山紡績会長を経て、倉敷紡績社長に就任。綿花同業会会長、日本綿糸布輸出組合理事長。

私にとっては、すべての先輩、友人が大恩人であったと言える。そこに善悪の別、成功と失敗の差はあっても、それぞれになにものかを教えてくれた。私がどうやらここまでやってこられたのは、まったく先輩の導きと同僚と後輩の友情のたまものであるということがしみじみと痛感される。


東洋綿花の発足とともに、これまで三井物産のボンベイ支店次長だった私が、支店長に昇格した。ほとんど例外なく次長は支店長へ、支店長が重役へと、一階級ないし二階級特進したものである。もともと綿花部には、仕事の性質上、血の気の多い若い人たちがひしめいていた。それらの人たちがこの異例の人事に刺激され、これまでの月給取り商売でなく、我々の仕事のためにやろうじゃないかと大いに張り切った。
【覚書き|三井物産綿花部が独立し東洋綿花(のちのトーメン)になった当時を振り返っての発言】


戦後いろいろと職名は変わったが、いつも恵まれた環境にあった。それも、これも、みんな友人知己の温情のたまものだと心から感謝している。


たった3回の経験だったが、大学時代に禅寺にこもったことは、私にとっては大きなクスリになった。おかげで後年、三井物産に入ってボンベイで社宅生活をするようになったとき、とにかく感情に左右されがちな環境の中にありながら、ちっとも苦しまずに過ごせたのは、あの禅寺における共同生活のたまものだと、いまも感謝している。


一橋(大学)時代、寄宿舎生活にはきちんとした規律もあり、またそれぞれ違った家庭事情や環境のもとに育ったものが一緒になっての共同生活は、社会勉強の上で大いに役立った。


私は子供のころ体が弱くて、しょっちゅう身内のものに心配をかけていたものだ。私はいつも「弱い弱い」と言われ通しだったので、世の中に出るまでに何とかして丈夫な体になってやろう、という願いが頭の中から離れなかった。そんな緊張感もプラスになったかもしれない。そんなことで、大学では選手にはならなかったが柔道とボートで体を鍛えたし、学校を出て渡印してからも、暇を見てはテニスをやった。こうして生きていて、どうやら元気で働いていられることは私は何かに感謝したいほど、嬉しく、ありがたい気持ちである。


イギリスからもらった名目だけのタイトルなんか返上したらどうか。日本にも明治33年までは居留地があって外人から見下されていたが、日本人自身の自覚と努力によって、ついにその壁を打ち破った。
【覚書き:英国領インドで綿花取引を行っていた際、現地のインド人ブローカーに言った言葉。このブローカーはのちにインド独立運動に身を投じ、ガンジー派の幹部として活躍した】


人はパンのみで生きるものではないとよく言われるが、個人主義の徹底した欧米諸国で、老人のための施設がいかに完備していても、そこに友情とか愛情と言う精神的糧が欠乏していては、人間は長生きできにくいのではなかろうか。


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