堀久作の名言 一覧

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堀久作のプロフィール

堀久作、ほり・きゅうさく。日本の経営者。映画会社日活の社長。大倉高等商業学校(のちの東京経済大学)卒業後、炭鉱会社の経理係、石炭ストーブ販売会社日本完全燃焼の営業マン、石炭小売販売店店主、東京瓦斯常務松形乙彦氏の秘書、山王ホテル社長を経て日活に入社。常務取締役になってからのち、同社の経営再建に尽力。同社社長に就任。同社を大きく成長させたが、その後、ワンマン経営が裏目に出てしまい社長退任に追い込まれる。戦後日本映画の黄金時代を築いた経営者。そのほかにも日活国際会館、日活国際ホテル、江ノ島水族館などの設立を行った。

無理をして出発しただけに、私も我武者羅に働いたものである。たとえば当時(日活の経営再建をスタートさせた頃)から20数年、日曜、祭日、元旦と私は一日も会社を休んだことがない。これは私が健康だからできるのでもあるが、事業に対する情熱が、自然に私の体を鍛えたともいえる。


私は8歳のときに父を亡くしたが、私の今日あるのは父が死ぬときに残した言葉が大きくあずかっている。「お前が世の中に出て、もし食うのに事欠くことがあっても、決してものを質に入れてはならない。質に入れるほど困ることが起きたら着物でも売ってしまえ。売ってしまって悔しかったら、それ以上のものをつくるように努力しろ。着物でも同じ着るならいいものを着ろ。悪いものは決して着るな」と遺言したのである。


私の事業哲学は借入金によってものをつくるときは、必ず良いものをつくろうということだ。金を借りて悪いものをつくったら回収がつかない。2つとない良いもの、あとで真似のできないものをつくること、これが事業の要諦である。中途半端のことをやっては駄目である。


金というものは信用で借りるのだ。信用がなかったらいかに担保を持っていても駄目だ。私はあとから剥げるような嘘は決してつかない。悪いことは全部さらけ出す。私の知っている以外第三者が知るわけがない。第三者の中傷の方がよほど実情より「まし」だというありさまだった。
【覚書き|日活の経営再建に着手した当時を振り返っての発言。千葉銀行に経営状況をすべて話し、多額の再建費用を借りることに成功した】


世の中というものは1万円いるというときに、あと千円足りないで失敗をする。私の場合は1万円欲しいときに9千円足りないのだ。最初から足りないんだから、必ずつくってみせるという勇気が湧き、これに全精力を注ぎ込む。


ここを自動車の置き場にしておいた方が日本経済の復興に役立つか、あるいはここに国際的なものをつくって米国商社のオフィスあるいはホテルにした方が日本の経済復興に役立つか、ご考慮願いたい。
【覚書き|日活国際会館を建てるために、予定地を接収していた米軍のエベリー少将に接収解除をかけあったときの言葉】


映画は休むことなく流れ、人が休息をとるときに、活動しなければならない仕事である。経営者として、休日だからといって安閑と鼻歌を歌っていられないのである。自分の打込んだ事業には、このくらいの熱を持たなければ嘘だと思っている。事業は、この熱と、信用である。


なぜそんな大金を借りられたか、またなぜ貸したかというに、貸借のことで、私が微塵も嘘をつかなかったということが、大きな効果となって現れたのである。私は千葉銀行から金を借りるについては自分の台所をひっくり返して、はきだめから天井裏まで説明している。だから他からどんな中傷が入ろうと、私が白状していることより、はるかに中傷の方が生やさしいのだ。
【覚書き|経営が傾いた状況から千葉銀行から大金を借り入れできたことに対するコメント】


サイレント(無声映画)からトーキー(有声映画)への転換を図るが、借金は200万に膨れ上がった。なぜそんな大金を借りられたか。またなぜ貸したかというと、賃借のことで私が微塵も嘘をつかなかったということだろう。
【覚書き:日活を買収し企業再建を始めた際、千葉銀行から多額の資金を融資を得られたことについての回顧】


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