坂信弥の名言 一覧

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坂信弥のプロフィール

坂信弥、さか・のぶよし。日本の経営者、警察官僚。大商証券の社長、警視総監。大阪出身。旧制中学卒業後、堺税務署に2年勤務し旧制高校に進学。東京大学卒業後、内務省入省。茨城県警警部、長野県警警務課長、滋賀県警警務課長、京都県警警務部長兼保安課長、内務省の北海道土木部総務課長、奈良県経済部長、鹿児島県警部長、上海領事館領事・上海警察部長、警視庁官房主事、大阪府警察部長、警視総監を務めた。その後、大阪商事(のちの大商証券)に入社し社長・相談役。そのほか富山県知事、農商務省農政局長、新日本証券相談役、日本粉食協会理事長なども務めた経営者

いかなる場合でも、あきらめずに最善を尽くしていれば、いずれは陽の目を見る。それを自分の力だけでそうなったのだと思ったら、その人間はすぐ奈落の底へ落ちてしまう。


あるとき、私は木村14世名人に素人と玄人の違いを訪ねてみたことがあった。木村さんは「素人とは白紙に字を稽古している人、玄人とは真っ黒になった紙に習字をしている人だ」と言った。素人の方がいつも反省する機会がある。私は素人で結構だと思う。素人はまだ上達の余地がある。


どうやら「借金してでも」と決心して立ち向かうヤツには借金が逃げていくらしい。


飛行機をつくろうという決断と努力があってはじめて飛行機ができるんだ。例がない、例がないでは何ひとつ新しいことはできない。
【覚書き|北海道の内務省土木部総務課長時代、函館が何度も火事で大被害を出していたので火災のない町をつくろうと企画したところ、大蔵省に「前例がない」とつっぱねられたことに対しての発言】


雨が降り、水がだんだん山から落ちて石清水になるように、時間はかかったが我が社も一応の基礎はできた。今後の私の抱負としては社員の息子たちが「ぜひ父のあとをついで大商に入社したい」と言ってくれるような会社に仕上げたいと思っている。


社名が世間に通る通らないは会社の真面目さと努力の相乗積によって決まる。そのうちとてもいい名前だということになってくるだろう。
【覚書き|大阪商事から大商証券に社名変更したときの発言】


私は大阪商事(のちの大商証券)を引き受けたとき、3つのスケジュールを考えた。第一は老骨を引っ提げて会社の財政状態を改善する。第二に若い人々に証券業の持つ社会的使命をよくわきまえさせ、自分の天職としてこれを楽しむ心境に導く。こうして第三に自然と証券を通してお客様と接する。


この会社のいいところは社員がとても素直だったことだ。そして皆よく自分のいうことを聞いてくれた。それまで沈滞していたのはその人なりに素質はあったが、いってみれば稽古を積まなかった相撲取りのようなものだった。
【覚書き|大商証券社長時代を振り返っての発言】


私は暇があるたびに支店を回って若い社員と接した。どこの馬の骨かわからないような社長のもとでは、社員たちも張り合いがなかろうというところからだ。金がないから安い牛肉屋でなべをつつきながら、一人一人と盃を交わし「やってくれよ」と手を握りあった。
【覚書き|大商証券社長時代を振り返っての発言】


証券会社は天下の公器であって、自分自身の食う道ではない。ただお客さんの方を向いて一生懸命勉強しておけば自ずと我々が養われていくのだ。諸君自信がそれを忘れて株に手を出すようなことがあったら、私は断固たる処置をとる。
【覚書き|大商証券社長時代の発言】


自分の口から言い出した以上、その責任からどうしても再建を果たさなければならない。私はそこへ自分を追い込んで背水の陣を敷こうという考えてあった。
【覚書き|大商証券の経営再建にあたり、社員に大風呂敷を広げたことについて語った言葉】


君たちも会社の経営が思わしくないとは聞いていただろうが、赤字が18億円もあるとは知らなかっただろう。しかし、もうこんなものは考えるな。来年の今月この日にもう一度支店長会議をやるが、そのときには「鬼も十八、番茶も出花」というようにこの十八娘はちゃんと片付いているはずだから安心してみんな頑張ってくれ。
【覚書き|大商証券の経営再建にとりかかって初めての支店長会議での発言】


ふたつの条件を出した。月給は一銭もいただかない。それから役員は全部辞表を出すことのふたつである。
【覚書き|大商証券の経営再建を引き受けるにあたって出した条件】


これから自分の仕事をやろうとしているのだ。骨董品を売って金をつくることはいわば背水の陣だ。人に頼ってやるようなことでは成功しない。
【覚書き|太平洋戦争後、満州から引き揚げてきた友人とともに濃硫酸を扱う東京酸曹を立ち上げたときの発言。坂氏が家に代々伝わる骨董品を設立費用のために売ろうとしたとき友人に止められて上記の発言をした】


私は富山県知事時代、官舎で一人住まいをしていたのだが、それにはわけがある。子供が学校に上がるころになって私は子供たちが官舎に住む弊害を感じた。それは出入りの者が私の娘や息子を「お嬢ちゃん」「お坊ちゃん」とチヤホヤすることだ。私はそんな周りの空気が子供たちを人間的にスポイルするものだと思った。


権力というものは相手、国民の身になって使えばまことにいい味の出るものだが、出世のために使うとなると両刃の剣である。子供に刃物を持たせたようなものだ。その点、権力の中にいる人間は、よほど練り上げておかないと国民がえらい目に合う。まして民衆は生身の人間である。人間は人間同士だ。頭の中だけで役所の仕事ができるはずはない。


つまらぬことをするものだ。漢民族には悠々たる時を味方にして勝つという血が流れている。2年や3年でいい情報を持ってこないからクビにするとはまったくの島国根性だ。これでは「日本は何と情けない国だ」と思われるだけだ。
【覚書き|日華事変中、上海領事館領事だったころの発言。上海の日本領事館に雇われていたスパイがいい情報を持ってこないという理由で解雇されたことを知り、ポケットマネーで再雇用した。そのスパイは恩義を感じ、8か月後、当時日本の要人を次々と暗殺していた上海の地下組織の全容を調べ上げ戻ってきた】


親分が変わるたびに下の者の首を切られるのでは首がいくつあっても足りないじゃないですか。部長だっていちいち首を切ったのでは部下の信頼を失いますよ。どうしてもおやりになるならまず私の首を切ってからにしてください。
【覚書き|京都県警警務部長時代の発言。新政権の政争で田中内閣時代の警察署長が更迭されそうになったときに更迭担当の上司に言った言葉】


文官試験を通ったというだけで若い私のいうことを聞いてくれる。自分は果たしてこれに甘んじていいのだろうか、年配の者たちをこういうふうに使っていいのだろうか。私はせめて自分の気持ちを部下にあらわそうと、年末の非常警戒のときには管内を寝ずに回って部下の苦労をねぎらった。声をかけるくらいしないとまったくバチが当たる感じであった。私のこうした気持ちもまた部下に通じたのだろう。在職中はみな私に協力してくれた。
【覚書き|滋賀県警警務課長時代、20代で500人の部下を持ったときを振り返っての発言】


私が宗教心の厚い祖母との生活で教えられたことはいろいろあるが、今日までその影響を及ぼしていることは「生あるものは自分の子供だろうが、よその子供であろうがあるいは動物であろうが差別なく慈しまなくてはならない」という思想である。


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