和田完二の名言 一覧

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和田完二のプロフィール

和田完二、わだ・かんじ。日本の経営者。丸善石油(のちのコスモ石油)社長。兵庫県出身。豊岡中学卒業後、満州鉄道、神戸彌生商会などを経たあと独立し海運業の原田商会を創業するも破たん。丸善鉱油(のちの丸善石油)に入社し大連・上海支店長を務める。太平洋戦争終結後、人員削減で同社をクビになった海外組社員たちと太平公司を設立。その後、丸善石油から呼び戻され営業部長、大阪支店長、営業部門担当常務を経て社長に就任し同社の立て直しを成し遂げた。丸善石油和協会名誉会長、日本馬術連盟副会長、関西馬術団体連合会会長、神戸乗馬クラブ会長、丸善石油高等工学院初代院長。

私の経験からいって、人間の頭というやつは、真剣に仕事に取り組んでいるときが一番回転が早いようだ。そう信じているから、私はどんな大きな仕事でも、ものの1時間も考えたことがなく、いつでも即決主義でやっている。しかもそれで、少なくともいままではひとつも間違いを起こしたことがない。


深慮とか熟考とかいう言葉があるが、どんなに考えても人間の頭には限度がある。数学を集計したりするような仕事は別だが、会社の経営方針などは家で静かに考えてみたところでいい案が浮かぶはずもないし、まして温泉へでも行ってじっくりとなんていうのは間違いだ。名案や妙案というものは、日ごろの仕事に忙殺されている間に生まれるものだと私は思っている。


我々は一滴の油、一枚に紙をも粗末にしない。一切の冗費を省いて会社伸長の用に供し、社力低下の原因になる災害防止に万全を期する。


人生を楽しいものにするには、1日のうちで私たちが一番長く過ごす職場を明るく楽しいものにしなければならない。互いに仲良く譲り合い、結び合っていくようにしなければならない。


各自の信用はすなわち会社の信用となる。常に良心に従って職務を公明に遂行し、然諾はこれを重んずる。


世間では、合理化といえば経費の節約ということでいろいろやっているようだが、私の考えはその逆で、真の企業合理化は思いっきり金を使ってこそ、初めてその目的が達せられると思っている。
【覚書き|膨大な資金を使って技術者養成のための丸善石油高等工学院を設立したことを振り返っての発言】


いま私にあるものは「石油報国」の一念だけである。先年、いち早く石油化学に手を付けたのも石油製品の対米輸出に乗り出したのも、とどのつまりはこの石油報国につながっている。


「人生に夢を持て。若人よ、開拓者たれ」。これは、私がいつも口にしている言葉である。言うまでもなく、私の青年期は、すでに遠い過去のものとなったが、人生に描く夢だけは、昔もいまも変わらないつもりでいる。


学校をつくるとしても中途半端なものでは意味をなさない。少なくとも従来の工員養成所式なものではなんにもならない。同じつくるなら、いままでにない理想的な学校をつくりたい。もとよりそれには膨大な金がいるけれども、会社の将来には変えられない。すぐに役立つ技術者の養成ということは、大きな目で見れば一種の企業合理化である。


うちの会社もこれまで技術者や技術要員の獲得にはずいぶん悩まされてきた。しっかりした頭脳の持ち主なんてなかなかいないし、あったとしても精神の方がひねくれていたのではかえって困る。精神も健全で頭のいい者を採りたいのはやまやまだが、それには募集の方法がない。そこで私は、これは人任せや人頼みではいつまでたっても解決できないから、ひとつ自分の手で学校をつくろうということに踏み切った。


これから先、日本が発展し繁栄していくためには、どうしても技術に頼らなねばならない。そう考えることには誰も異存はないはずだ。ところがどういうものか現実には、日本人は技術についてあまり関心がなさすぎる。無関心ということは、つまり知らないということだ。


いまや私の喜びと楽しみは、人生の果てしない夢を追うことと、その夢の実現に突進することだけになった。


いま会社は順調に発展しているけれども、経済界というものは客観情勢の急変で、いつ何時不可抗力な事態に巻き込まれないとも限らない。だが、仮にそんなことになったとしても、不況のしわ寄せをすぐに従業員の待遇に持っていくようなことはしたくない。よしんばどんな事態が生じてもできるだけ協和会の手で吸収し、従業員には好況時も不況時も変わらぬ待遇を維持していきたいというのも、その狙いのひとつである。
【覚書き|社員に対する会費のいらない共済会を立ち上げた理由について語った言葉】


私はかねがね「和の団結」こそ丸善の精神だと説いてきた。従業員諸君はその私の指揮下に、よくここまでやってきてくれた。それを思うと、社長としての私は、単に口先だけでなしに、当然何かをもって報いなければならない。そういう考えのもとに、この和協会は生まれた。
【覚書き|社員に対する会費のいらない共済会を立ち上げた理由について語った言葉】


私はいつも従業員に感謝している。なんとか日ごろの苦労に応えねばならない。丸善石油は社長以下全員が同じ月給取りだ。月給取りにとって一番心配なことは、自分が死んだらどうなるか、自分が病気になったらどうするか、会社を辞めた後どうしていくかの3つだと思う。この3つの心配がなくなったら、私たちサラリーマンの生活はどんなに明るく楽しいものになるかしれない。またそうなれば、いきおい後顧の憂いなく仕事にも専念できる。


私は社員に、プライドということをやかましく言っている。各自それぞれが、自分は会社に対してこのくらい大きく貢献しているという自覚に徹すべきだ。自己を愛し、自己の行動にプライドを持つ者は、自分の言動のことごとくが常に会社のためになっていると確信すべきで、会社のためだといって自己を没却する必要は少しもない。丸善石油の今日を築いたものは、そうした我々の自覚と誇りの集積だと私は固く信じている。


正しい行動で自分のために働くということは、とりもなおさず「己を愛する」ということだ。己を愛せない者が、会社を愛せるはずがない。


私はよく若い連中をつかまえて「自分というものがなくて会社があるか。己があってこそ一切の『他』があるのだ。会社のために働いていると思わずに、自分のために働くという精神に徹して働くべきだ」といっている。ただし、自分のために働くといっても、その行動は常に正しくあらねばならない。


各経営者の選択は、会社の興廃を左右する。社務に尽瘁(じんすい)し、人物、才腕、識見ともに社憲に最も忠実な者の中から会社の経営を推挙する。


我々は一人一業主義をとる。会社と生涯を共にする覚悟をもって、各自の本分に最善を尽くす。


我々は家族的情義に基づいて明朗健全な会社を建設する。互いに敬愛し、喜憂はともに分かち合う。家族もまた会社と志を一にする。


会社の一員として誇りと責任を持つところに愛社精神が生まれる。各自会社の柱であることを自覚して、その職場をまっとうする。我々は組織を重んじ、規律に従う。各部署は互いに緊密な連絡を保ちあい、協調して社務の円滑な運行に努める。


我々は至誠を傾け、会社中心に行動する。冷静綿密にものごとを考察して軽挙を慎み偏見を排し、所信は堂々とこれを披瀝する。


家に家憲があり、国に憲法があるとしたら、会社にも社憲があっても不思議ではない。かねがね私は「団結」と「大和」を説いてきた。よし、この精神をもとに社憲をつくろう。と思っても、前例がないので苦心した。やっと出来上がったが、それも押しつけでは意味がない。重役諸君にはかり、異議なしということで社憲を発表した。


我々が人間として生きてきた以上、限られた人生をある意味エンジョイしなければならない。ところで、私たちの毎日で本当に楽しい時間は、1日の仕事が済んで家に帰ってから女房や子供と団らんしているときくらいだと思うが、その楽しく貴重な時間もせいぜい1時間か、長くても2時間ぐらいのものだ。それに比べれば、我々は1日8時間は職場に居なければならない。その長い時間を不快に過ごしたら、人生はつまらないものになってしまう。


私が社長になってから丸善石油の性格はガラリと変わった。まず、派閥というものがなくなった。それまでの丸善石油は派閥争いでバラバラになり、実に乱れ切っていた。こんなことではどんなにいい人材があっても駄目だ。そこで、一日も早く一本化しようと考えた。


社長になってみたものの、私はまったくの一本立ちであった。私には学閥も門閥もない。田舎からのぽっと出で満州などで過ごしたのだから、金融界や財界にも知己はない。私をバックしてくれるものは誰もいなかった。仕方がないから、私はいつも一人で歩いてきた。政界には分相応に政治献金もしているが、だからといって「ああしてほしい、こうしてほしい」と頼んだことはない。そんなことで、私は孤立無援、きれいに生きてきたと自負している。


家内があれを売ったり、これを売ったりでどうやら入院費をまかなった。まさに不幸のどん底といってよかったが、そのどん底にあって、私は人の心の美しさと温かさを知った。全国の友人知己が、和田をもういっぺん働ける体にしたいと各地の神仏に祈願し、そのお札を送ってくれた。病室を埋めるほど贈られたお札を見ながら、私は友情のあつきに泣いた。
【覚書き|昭和27年、戦後動乱期の専務時代。働きすぎで入院し半身不随になった当時を振り返っての発言】


食料も住宅も不足して、生きていくこと自体が必死だった時代。会社はできたというものの太平公司はもとよりお先真っ暗だ。だがその頼りない太平公司に、生死を共にしようという同志が次々と集まった。なにはなくとも、心をひとつにした同志の集結は、嬉しくもあり、心強くもあった。
【覚書き|太平洋戦争終結直後、丸善石油の冷酷なリストラに怒り、退社して太平公司を創業したときを振り返っての言葉】


原田の家に何十万の資産があって、私の家が赤貧洗うがごとしであっても構わない。「小糠三合あれば養子に行くな」のたとえもある。私は自分の努力で和田の家を立派にしてみせる。12月に入営して軍隊の義務を終えたら、一生懸命に働きます。
【覚書き|旧制中学卒業後、商売をしている金持ちの伯父の家に養子として預けられたがそりが合わず実家に帰って言った言葉】


心身ともに私はへばっていたらしい。昭和27年5月。意識を失って国立病院に入った。どん底にあって、私は人の心の美しさと温かさを知った。


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