原安三郎の名言 一覧

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原安三郎のプロフィール

原安三郎、はら・やすさぶろう。日本の経営者。日本化薬会長、東洋火災海上保険株式会社(のちのセコム損害保険)会長。徳島出身。早稲田大学商学部を首席で卒業後、日本化薬製造に入社。その後、同社社長に就任。そのほか、日本化学工業協会会長、政府税制調査会会長などを歴任し、日本財界の重鎮として活躍した。

7つもある雑誌をやめる段になって、最後まで思い切りがつかないのは編集部の人々であった。やむなく僕は11月3日の天長節の日に、庭に雑誌の原稿を積み上げて火をつけると言った。それでも思い切りがつかず、せめて新年号だけは出してくれと言って聞かない。気持ちはわかるが人情に溺れていては駄目なので「新年号を出すとまた後を引くから、この際思い切って全部焼いてしまう」と宣言した。僕の言葉を聞いて、中には泣く者もあった。
【覚書き|教科書専門の大手出版社金港堂の経営再建時を振り返っての発言】


僕は荒手術を決意し、まず会社の不急不要のものをどしどし処分してしまった。会社につぎ込むため、創業家所蔵の書画骨董を売り立てることにし、それは当時誰も試みなかった写真入りの売立目録で宣伝した。なにしろ毎日5、6本出る手形の不渡りを片づけなければならないので、ずいぶん骨が折れた。そんな苦労が報いられて、3年後には1割2分の配当までやれるようになり、金港堂は息を吹き返した。
【覚書き|教科書専門の大手出版社金港堂の経営再建時を振り返っての発言】


拝見するとお宅の御嬢さんたちはまるで婚礼のようなきらびやかな姿でいられる。それなのに山では給料遅配のため、険悪な空気がみなぎっています。ここに採金を持ってきたが、これは現金に換えてもらって絶対に持っていく。
【覚書き|薬丸金山の会計の仕事をやっていた際の発言。本社から山の労働者たちに給料が支払われなかったので暴動が起きそうになった。そのため直接社長の家に行き直談判した際の発言】


僕は学校を出たら実業界に就職を求めるつもりでいました。そのときの商科の科長は、僕を日銀に紹介してくれました。しかし、僕の気持ちとしては銀行に入るより、産業界に入りたい。広く銀行が大衆から集めた金を借りて、国に役立つ事業を育成していく仕事はさぞ面白かろうと思っていました。


会社も古くなると、よほど思い切った手術をしなければならない。【覚書き|上記発言は金港堂という出版社の経営再建を引き受けた時の言葉。金港堂は当時有数の教科書に重点を置いた出版社で、原氏が経営再建にあたって7つの不採算雑誌を即座に廃刊にした】


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