北条重時の名言 一覧

このエントリーをはてなブックマークに追加

北条重時のプロフィール

北条重時、ほうじょう・しげとき。鎌倉前期の武士。鎌倉幕府第二代執権北条義時の三男(一説には四男)として出生。小侍所別当、修理権亮、駿河守、六波羅探題北方、相模守、幕府連署、陸奥守などを務めた。和歌に詳しく、藤原定家と親交があった。現存する最古の武士の家訓『六波羅殿御家訓』『極楽寺殿御消息』を残している。

願っていればこそ物事も叶う。願わずして叶うためしはない。


誠心誠意の宮仕えもせず、主人の御恩に与(あずか)ろうと思うのは、ちょうど、舟無しで海を渡ろうとするのと同様で、無理な願いだ。


善いことをした際、人に知られなくとも、また、喜ばれなくとも、神仏のみは御照覧なされて、今生のわが身をお守り下され、後生をもお助け下さる。


一時の腹立たしさから、部下を勘当して追い出すようなことがあってはならない。腹立たしい気持ちも治まり、過去の出来事といまの振る舞いとを比べて、改心の気持ちがない様子なら、仕方なく勘当しなければならないこともあるだろう。ただ、腹立ちまぎれに事を処理したならば、後悔しなければならない。


人に対して物を施しておけば、それだけの恵みは、天が自分にお与え下さるものだ。だからといって、分にすぎた振る舞いをしてはならない。すべて程々でなくてはならない。


人とまじわってゆくには、老いた人を親のように思い、若い人を弟のように思うがいい。また、幼い者を子と思い、粗末に扱ってはならない。また、自分よりも若く幼い者を弟のように思えといったとしても、決して無礼な振る舞いをしてはならない。過ちを許す心を持っていとしめ、という意味だ。


弓矢をとる身(武力を行使する立場)の常として、義理ということを忘れてはならない。武士の道として、心と技とは車の両輪のように考えるべきだ。義理をわきまえている人というのは、身が滅び家を失うような事があっても、正義を曲げずに、強敵たりとも屈せず、常に真心をもって事にあたるのを指すのである。


上位の御方から用事を仰せつけられた際は、用事を仰せ下されたことを嬉しく思って、すぐに行なうようにしなさい。


くれぐれもよく思い定めて、世の中は夢のごとく短いものであることを知っておきなさい。


大勢の人たちと一緒に座り込んでいるとき、茶菓子などが出された場合に、自分もそれを取って食べるように振る舞っても、わざと取りはずしたふりをして、他の者にたくさん取らせるといいだろう。それも人の気付かぬように。


人には貪欲な心があるものだ。その心に従って、わが身を任せてはならない。貪欲な心は、地獄よりの使者と思うといい。その心に誘われて地獄へ落ちて行くのである。


人の教訓に従うのは、他人の言を受け容れることだから、自分の心は水のようにしていなくてはならない。古い言葉にも、「水は方円の器にしたがう」とあって、教典にも、聖賢の教えとして詳しく説かれている。くれぐれも人のいうことをよく受け容れ、教訓につき従うようにしなさい。


人を裁くのに都合の悪いことがあるならば、後に第三者とも相談しなければならない。人にも相談せず、直ちに決定して、善悪を判別するようなことをしてはならない。


自分を敬う部下がいるならば、その者以上に敬ってやるといいだろう。また、自分を敬わぬ者だからといって、敬ってやる心を捨てるのはよくない。人の心というものは、本心は誰しも変わらぬものだから、自分が敬って人から敬われぬようなことがあっても、恩を仇で報いる憐れむべき輩と考えて、一層それを敬ってやるといいだろう。


自分の妻子の話はよく聞いてあげるといいだろう。その際、僻(ひが)み言を言ったとしても、女子供の常であるからと思ってこらえ、また道理のあることを言ったとしたら、いかにももっともなことだと感心し、これから後も、このように意見を聞かせてくれ、と言うといいだろう。


たとえ身分の低い者であっても、見送りをしてくれるならば、馬をそちらの方向に引き向けて、丁寧に礼をするといいだろう。身分の低い者でも、帰る際には少し見送ってやるのがよく、とにかく、人よりも余計に礼を尽くすのがよろしい。


他人の家へ行った際には、どこかに穴があいていて、そこから人がいつもながめていると思って、挙動を慎みなさい。怪しげにながめわたしたりするのはよくないことで、身の用心を十分して、油断があってはならない。


悟りを開いた境地に到達するには、物に捉われぬ心が大切だ。他人のためにわが財を惜しまず、また、賢者であっても天下の要職に登用してもらおうと気にかけたりなどしないことが肝要だ。つねにこのような心でいなさい。


よく心得ている事柄であっても、大切なことは然るべき人にたずねてからするようにしなさい。古い言葉にも、知っている事柄も工夫して行なうのを礼という、とある。


身の振る舞いも、住む家屋も、持ち具足(鎧)なども、すべて、地位や身分に従って、適当なものを選ぶべきだ。身分に過ぎたことがあれば、人から煩わせられがちで、また、それを後々まで維持し全うすることはとうていできない。


ひたすらに、人のため世のために尽くすように努力することを念願としなさい。それは、行く末のためというものだ。白い鳥の子はその色が白く、黒い烏には黒い色の子が生まれるものである。また蓼(たで)という草は幾度生えかわっても、その味の辛さは受けつぐものであり、甘いものの種は甘い味を受けついでいくものである。そのように、ひとつの事柄は次から次へと影響を及ぼすものであって、人間も、人のためによくしようと思う者は、後の世になってわが身によい報いは来るものである。自分のことばかりを考えないで、世のためになる事を考えなさい。


主人よりの御命令であっても、第三者が見て、道に外れたことをする奴だ、といわれるような事柄や、また、他人に危害を与えるような事柄は、決してしてはならない。御主人に対し奉っても、それは思いとどまり給うように申し上げなさい。それによってお叱りをこうむり、勘当されるようなことになっても、致し方ない。しかし、その進言によって御思案なされ、道理をもお悟りなさったならば、大いに感心なされることもあるだろう。また、神仏も必ずや御恵みを垂れさせ給うことであろう。


どんなに身分の低い者にも、かれこれ非難をしてはならない。まして恥のある人のことはいうまでもない。美点ならば取り上げてもよいが、悪い点はどこまでも隠してやるように心がけなさい。この点をよく思いわきまえていないと、わが身に対して受ける恥も多くなってきて、功名も何も廃れてしまう。


たとえ冗談であっても、人の落度をかれこれいってはならない。自分では冗談だと思っても、それをいわれた当人は、非常に恥をかき何事かしでかすようなことがないとも限らない。人の喜ぶことを口にするのはよいが、欠点などをかれこれいってはならない。万事注意して、人情を尽くさなくてはならない。


舟に乗ることにも慣れ、山や川の地理をもよく心得るようにし、寒さや暑さにも我慢できるように、日頃から修錬を積んでおきなさい。


古い言葉にも、人は死して名をとどむ、虎は死して皮をとどむ、ということがある。人の命も定まったものであり、身体の衰えるのも疑い得ないところだ。身命を惜しむことなく、立派な最期を遂げるように心がけなくてはならぬ。


酒の席では、はるか下座の者にまでもつねに目をかけ言葉をかけるといいだろう。同じ酒でも、情をかけて飲ますならば、人は一層嬉しく思うだろう。なお、無礼に振る舞いやすい者には、とくに情をかけてやるといいだろう。そうすれば、嬉しさもことの外で、用をする際にも大切にと思うものだ。


人がどのようなことをいったとしても、物事をやかましく議論してはいけない。くだらないことをいうのは、たとえ一言でも無駄なことに違いない。それをよそにいて聞く人があったならば、大変差し出がましい奴だ、と思われるに違いない。


神様は、人の心は善悪を映す鏡となされた。人のすることは、何事でも御照覧なされぬものはないが、それも、ただ人の心を正直に持たせようとの思召しがあるからである。だから、この神国に生まれた者とても、心の緩んだ者は、どうして神の思召しに適うことができるだろうか。他人を欺くようなことをするならば、必ずそれに越すほどの報いがふりかかるものだ。それを、愚か者は知らないのだ。


同じ夜でも、闇の夜を喜ぶ人はなく、月の光の美しく照らす夜を誰しも喜ぶものだ。また、天候も、曇った空が見たいという人はなく、晴れわたった空を見たがるのが人情だ。身分の低い女でも、明らかな日の光を尊び、曇らぬ鏡を望まない者はいない。だから、同じく人間でも、心の正しい人を尊ぶのがよろしく、心の曲がった人に親しみを感ずる人はないのだ。神仏の御恵みも正しい人にのみあるもので、実に人の心は誠であってほしいものだ。これは、よくよく考えていただきたい。


所領の田畑の事について、みすぼらしい身なりをして、恥じらいながら、ご相談がしたいといって、やって来る者がいるならば、家に上げてやるがよい。それが、たとえ卑しい身分の者であっても、侮ったものの言い方をしてはならない。やって来る人の位や身分によって、もてなしは違ってもよいが、ことに百姓の者がやって来た場合は、できれば酒を振る舞ってやるといいだろう。そのようにしてやると、同じ公の事であっても、喜び勇んで注進にもやって来るのだ。また百姓の下男でも、卑しみ侮ってはならぬと、家の者たちにいいつけておくとよいだろう。


物乞いの者が来たら、型通りでもよいから、すぐに物を与えるとよいだろう。たとえ物を与えなくとも憐みの心をもって同情の言葉を与えてあげるといい。何も与えないで、邪険な言葉を吐くようなことがあってはならない。物乞いのやって来るのも、仏の御指図と考えるがよい。


有力なる者にだけ味方するのは真の賢者ではない。曲がった事をすれば罪科が多い。それを怖れるのも賢者である。また、身分が低くて無力な者に味方するのも、真の賢者である。誰もがそのような賢人を望んでいる。


人からの用事を請け合ったならば、急いで終わらせるようにしなさい。たとえ大した事柄とは思われなくても、努力しなければならない。もしそれが自分の力でどうにもできない事であったならば、その訳を話し、よくよくお詫びしなくてはならない。


目立って働きをあらわさない人でも、熱心に努力しているなら、何か事情があるものと思いなさい。たとえ取るに足らない働きをしていても、いつまでも人に後れを取ることはないものだ。それというのも、心の上では熱心に働いているが、それほどの効果もあらわれ出ていないのであって、それも思いがけい事柄に出会っては、案外役立つこともあるのだ。


親類の者、子供、召使いの者など、いずれに対しても、ことさららしくしばしば小言を申してはいけない。もしも召使いの者たちの怨みが重なるなら、ついには他へ走り、他家へ行って悪事を働くようになる。その源はわれに十分罪があることで、それは聖人の好まないところだ。


すべてにわたって良い点ばかりの者はいない。たとえひとつでも良いところがあれば、それでよしとし、人を選ぶに際し、あまり不平をいってはならぬ。自分の気だてについて考えてみても、自分で良いと思うときもあれば、悪いと思うときもある。人の心がどうしてそのまま自分の心にぴったりと当てはまることがあるだろうか。


どのように善行をしても、自分でそれをよくしたと考えたり、人にも優れていると誇る心を起こしたりするならば、天魔の家来にも等しい者となって、少しの利益もないのみならず、罪深きこととなって、悪業をする結果ともなるのである。


女子供だからといって、決して軽く扱うべきではない。天照大神様も女神であらせられるし、また、神功皇后も御后様であられ、しかも三韓出兵という大業をなされ給うたのである。なお、幼い者とても軽く扱うべきではない。老いたる者に頼ってはならず、また、若い者にも頼ってはならない。心を正直にして、君を尊崇し民を可愛がる者こそ、聖人と称していいのだ。


心がけのよい人は、縁が尽きて別れるようなことがあっても、別によい縁が早く見つかるだろう。どこに住んでも、何事を行なっても、優しい人だといわれるような心こそ、最も望ましいことだ。そのような人には、神仏も御憐れみの心を垂れさせ給い、今生も後生もめでたく送ることができるのである。


60歳にもなれば、何事をもうち捨てて、一度唱えるたびに後生一大事ということを祈願して念仏を唱えるといいだろう。それくらいの歳になれば、たとえ子が亡くなり孫を失っても、浮世の無常に気を落とすことなく、ますます道のために努力し、我々はこの世にないものだと覚悟して、すべての煩悩を思い切るといいだろう。(この世を去った)親や子のことを思っても、無常の風にひとたび誘われた人は、再びこの世へ帰って来ることはないのである。


生まれ出る喜びがあれば、また、必ず死する悲しみがあり、悲喜はこもども到来するのである。昔の塞翁という人は、この意味をよく知って善悪禍福に対する心構えを定めた賢い方であった。これは、未来に対しても同じことである。


人から物を頂いたり、役目などを仰せつかったりすることがあったならば、仰せに従う際に、よくその心持ちを推し量らなくてはならない。


現世で人に悪く接したとすれば、来世では反対に人から悪く扱われる。因果応報。その因果の道理をよくわきまえて、悪い人にもよく接するようにしなさい。人から良く思われるならば、わが行末をよろこんでくれるし、人から悪く思われるならば、わが行末を恨まれるだろう。


自分にとって気持ちの良い人によく振る舞い、悪い気持ちを抱かせる人に辛くあたるのは、とてもよくない態度だ。畜生の犬などは、可愛がられる人には尾を振ってなつき、反対にいじめられる人には逃げて吠えまわるが、人と生まれた以上は犬などとは違い、自分に対して良い人にはもちろんのこと、悪い人に対してもよく接するようにすれば、そのうちに、悪い人もだんだんと心を改めて行くようになる。もし、改心せず、そのままの気持ちであっても、神仏は御憐み下されるし、また、それを見たり聞いたりする人は、同情の心を寄せるであろう。


自分の用事は後回しにしてでも、人の用事は聞き届けるといいだろう。また、人に用事を命じるときには、なるべく差しひかえて、仕方のない用件以外には人を使わないようにしたい。別に忙しくなさそうな人に対しても、遠慮して斟酌(しんしゃく)することを忘れてはならない。しかしながら、あまりに殊更らしく振る舞うと他の者も用事をいってこなくなり、面白からぬことになる。それゆえ、よくよく思慮をめぐらしなさい。大きな用事であっても、人から頼まれたことは、よく聞き届け、自分はなるべく人に小さな用事を頼むようにしたい。


殺したからとて、自分らになんらの利益もない生き物の命を、むやみやたらに殺してはいけない。生き物の姿を見ては、それがなんであるかにかかわらず、憐みの心をもって接してあげなさい。たとえ小さな虫けらでも、命の惜しい点では、人と変わらぬものだ。わが身にかえても、生き物を助けるようにしなさい。


身分の低い者だとしても、道端にたくさん出ているときには、挨拶の一声もかけてやるといいだろう。そうしたからといって、少しも損はない。身分の低い人々から、あれこれいわれるのは、なんとしても残念ではないか。


人の親か子どもか、また、男でも女でも、あの世へ旅立たれて、悲しんでいる家があるならば、その家の近くにいて、遺った人びとに聞こえるように笑うようなことをしてはいけない。悲しみは誰でも同じことであるから、同情して一緒に嘆き悲しんであげるほどの心を持ちなさい。


乱れ遊ぶとき、平常おとなしい人が気分をゆるして自由な振る舞いをするからといって、一緒になって狂いまわるのは、浅はかなことだ。よく心得て、そんなことのないようにしなければいけない。鵜の真似をする烏は溺れ死ぬ。むやみに人真似をすることは厳に慎むべきだ。狂い遊ぶことがあって、どんなに酒に酔っていても、自分よりおとなしい人がいる前では、着物の乱れにも注意して直すようにしなさい。どんなに騒がしく振る舞っても、精神だけはしっかりと保って、落度のないよう注意することが大切だ。


人がうしろ暗いと思っているようなことを、決して口に出してはいけない。良い事柄はどこまでも喜び好み、人の悪いことは口に出してはならない。


同僚などが、主人から見離されるようなことがあったら、わが身の上のこととも思って悲しむといいだろう。その人について、根も葉もないことを主人が仰せになるなら、適切に、良いように申し上げなさい。強いてお言葉に反対して、後々まで心憎く思われるようなことがあってはならない。


扇は、たとえ尊い方から立派なものを賜わっていても、自分では百文の金で三本も買えるくらいのものを持つといいだろう。衣裳のことについても、いろいろと選り好みをすべきではない。同輩の人たちよりも差し出た、きらびやかな物を着てはならない。


服装や身なりの注意として、どのような人からも、あまり汚ながられるようにはしないで、また、身分の低い者にまじわっても、適切にして、かけ離れたようにしてはいけない。見苦しい身なりの人の中にいて、決して派手な身なりをしてはならない。心ある人から物笑いの種となるような装いは、かたく慎むべきだ。


自分で読まなかったとしても、経書とか教訓書などの書物は、文字をよく知っている者を招いて読み講じさせ、側にいてそれを聴くといいだろう。それがすぐに身の知識とはならなくても、そのようなこともたびたび聴聞しなかったなら、知恵もつかず、心も偏狭になってしまうのである。


できるだけ素直な心になって、人の教訓を聞き容れるようにしなさい。教訓として物語るほどの事柄は、すべて悪い意味のものであるはずがない。だから10人の者の教訓に従うなら、良いことを10もすることになり、また、100人の者の教訓に従うならば、良い事柄を100する結果となる。


道理の中に非道理なことがあり、また、非道理の中に道理に適ったことが含まれているものだ。この点をよくよく心得ていてもらいたい。道理の中に非道理なことがあるというのは、わが身にとってどんなに道理のあることがらでも、そのために一生の不幸を招くほどのことではないのに、それを意地を張って通すことによって、他人が生涯の不幸を招くというような事柄があるとするなら、そのような道理を通して、自分のことばかり考えるのを、道理の中の非道理というのである。また非道理の中に道理に適ったことが含まれている場合があるというのは、たとえば、人の命を取りあげることは、非道理な事柄と見なされているが、命を取っても差し支えない者の命を助け、許してやるようにする。そういう場合はこれを、非道理の中の道理というのである。このように心得て、世の中をも人民をも救済するなら、それを見る人、聞く人は、感化を受け、また助けられた人の喜びはいかばかりであろう。


お客に対して料理など出す場合があったなら、人に差し出す分よりも、自分に多くするようなことがあってはならない。だからといって、ことさらに少なくするのもわるく、程々にしなければならない。


宮仕えをしていても、他家のことを思わず、わが身の行ないと思って、仕事をしなさい。


奉公や宮仕えをすることがあるならば、百千人の多人数の者とそれぞれ気安くまじわるようなことをせず、ただただ、お仕え申す主人の御事のみ大切に思いなさい。主の御為には、命をも、いかなる宝をも、惜しんではいけない。


生死のことについ、はっきりと覚悟を決めておかなければ、たとえ孝行をしたいと思っても、親のない後はどうにもしがたく、死別の後はたとえ肉親であっても逢うことができない。


人は必ず死ぬものであり、空しく死んでしまったら、生き残った者から思い慕われることもない。生前の心を慎み深く修養しなければならない。


考えてみると、世の中の出来事はすべて儚いものであって、夢の中でさらに夢みているようなものだ。昨日見た人も今日はあの世へ旅立ってしまったり、今日ある人も明日の命がおぼつかなく思われ、息するたびに人の寿命は縮まって行く。朝でた太陽も夕べには山の彼方へと沈んで行き、夕暮れより浮かぶ月の影(月の光)も明方よりは薄れて消え、咲き誇って見える花もやがて吹く風を待っては散って行く。そんなことから考えてみて、姿あるものが滅び行くのは、人間のみならず、万物に共通したところだろう。


楽しいときでも、悲しい時でも、無常の心持というものを忘れてはならない。それについて、いかにして楽しくなったか、何ゆえにわびしいかなどと、因果の道理を考えてみるがよい。生死の常ならざることを思い定めておくがよい。


思わぬ失敗をしたり、不慮の災難に遭ったりなどして嘆かわしいことが起こってきたとしても、むやみに嘆き悲しんではいけない。これも前世の報いだと思って、早く諦めるがよい。


人名ランダムピックアップ


経営・ビジネス・投資・仕事・お金・経済的な分野で成功を収めた人たちの名言を収録しています。

ページの先頭へ