内海桂子の名言 一覧

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内海桂子のプロフィール

内海桂子、うつみ・けいこ。日本の芸人、漫才師、女優。大正時代、千葉生まれ、東京育ち。尋常小学校3年時、神田錦町の蕎麦屋「更科」に丁稚奉公に出される。その後、三味線や日本舞踊を習っていたことをきっかけに舞台に上がる。漫才の世界に入り、数々の賞を受賞した。

小学3年の時に東京・神田にあるおソバ屋さんに奉公に出ました。以来80年、私は自分でお金を稼いできました。学問なし、師匠なし。世間様のこと、芸のこと、お金のこと、すべて見よう見まねで勉強してきました。人が失敗すれば、気をつける。人がうまくいけば、より良いものをと工夫する。私、怒られるのが大嫌いだったから、周りを見てきたんです。


今も浅草で都々逸などを披露しています。ゲストの方と漫才をやることもあります。同じネタでも全く違う雰囲気になるし、相手を思う心ひとつで、最高にも、最悪にもなる。それが芸も人生も、面白いところね。


相方の(内海)好江ちゃんとギクシャクしていたとき、マセキ芸能社の社長とリーガル万吉師匠が「時の氏神様」になってくれ、仲を取り持ってくれたんです。そこで「コンビ永続法」を教えてもらいました。その中に「相手の立場でまず動く」という言葉がありました。相手のことを見て配慮して、先回りして動いてあげる……。確かに、それぐらいでちょうどいいのよ。舞台ではお客様の様子を見て、相方を考える。あたしと相方とお客様。三角形で話すのが漫才。最近の子はお客様を無視して2人で話しているのは困るわね。


(内海)好江ちゃんとコンビを組んだとき最初は相当きつく当たりました。そのとき彼女は何もできなかったので、「ばか」とか「間抜け」とか言いました。でも、あたしゃ江戸っ子だから、そう言っても「こうだからダメなんだよ」とちゃんと理由も説明しましたよ。


これまで10人以上と漫才をしてきたけど、一番長かったのが(内海)好江ちゃん。彼女とコンビを組んだのは、終戦から5年たった1950年。私が28歳の時です。本当は別の相手と姉妹漫才をするつもりだったんだけど、それがダメになり、仲介してくれた人が連れてきたのが、当時14歳のあの子。三味線は弾けない。踊りもダメ。着物も自分では着られなかった。私には夫も子供もいた。こんな若い子と一緒にやって家族を養っていけるかしら…。さすがに一度断ったんだけど、彼女がどうしても「頑張る」と言うから始めることにしたんです。気持ちがなければ、続きませんからね。


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