井植歳男の名言 一覧

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井植歳男のプロフィール

井植歳男、いうえ・としお。三洋電機の創業者。パナソニック創業者の松下幸之助の義弟(姉が幸之助の夫人)。三洋電機創業前はパナソニック創業メンバーとして発展に寄与した。太平洋戦争終了後、GHQによる公職追放令が出されたため、松下幸之助をかばうために松下を退社。その後、松下電器の工場の一つを譲り受け三洋電機を創業。洗濯機事業に経営資源を集中するなどして三洋電機を日本を代表する家電メーカーへと成長させた

私はかつて失望落胆したことがない。


小さい心で考えてばかりいると、いつの間にか人間まで小さくなってしまう。


いま開発した商品が、ひとつも売れなくなるような研究をしろ。


私は「大風呂敷」と言われながらも、とにかく自分なりの夢を持ち、それを追い続けてきた。「歳男には困ったもんじゃ。いつも雲つかむようなことばかり言いおる」と母はこぼしていたそうである。母が生きていたら叱られそうだが、これからもまた、私は前ばかり向いて歩いていきたい。


どんなときでも、相手の立場をまず考えよう。相手の便利、経済、楽しみ、喜び、そして繁栄が第一だ。それを自分の事業に結び付けてこそ自分の幸福が得られるのだ。


生まれて初めてという仕事は、これまで再三やってきたし、無から有を生じるようなことも好きであった。船もやってできないことはあるまい。そう思って私は引き受けた。私は堺と合わせて100隻ばかりを進水させた。
【覚書き|太平洋戦争中、政府から200トンの木造船建造を依頼されたときを振り返っての発言】


私が創業当初から描いていた夢のひとつは、輸出によって海外へ進出することであった。社名の「三洋」も、太平洋、大西洋、インド洋になぞらえたものである。


与えられた仕事をこなすだけでなく、気づいたことはなんでも提案した。私はたちまち一風変わった存在となり、重宝な職工として認められるようになった。一か月働くと90円も払ってくれた。年配の熟練工に匹敵する収入であった。
【覚書き|他社の状況を知るために、松下電器から離れて朝日電気で職工として働いたときを振り返っての発言】


何事にもよらず、人が困っているときこそ、当面の利害を越えて相手に便宜を図っていくことが、あとあとに大きな信用となり、利益となって返ってくるのではあるまいか。
【覚書き|関東大震災直後、震災前の卸値で商品を売ったときを振り返っての発言。当時、物資の不足と便乗値上げで物価が上がっていた】


一人一日の選択量を100匁(もんめ)とすると、5人家族で1か月15貫、3年で540貫だ。これは動物園のゾウ一頭分の目方である。こんなものを黙ってごしごしやっている日本の奥さん方は、大変な重労働をしているわけである。それを機械がやってくれるとなれば、大いに歓迎されるであろう。私はこの洗濯機にとりかかってみようと考えた。


自由にものを創造し、改善することの好きな私の性格では、軍隊は窮屈すぎる。自分の実力通りに働けるところが一番幸福であり、世のためにもなると考えていた。
【覚書き|兵役中に模範兵だったため除隊時に軍の幹部に軍人にならないかという誘いを断ったことについて語った言葉】


よっしゃ、品物は全部引き揚げよう。いままで出したもの全部を回収して、軸を取りかえるのだ。
【覚書き|三洋電機創業期、初の商品である自転車の発電ランプの軸に不具合が発覚し即刻回収を決断した言葉】


私は人と話すことが好きだ。多くのよき先輩、友人、また後輩を持っている私は幸せといえよう。ことに若い人たちがいい。私のつたない経験や考えを語り、夢を聞く。会社の幹部や社員だけでなく、最近は他社の若い経営者の皆さんとも接する機会が多くなった。


60年の半生を振り返ってみると、私はその大半を事業一途に生きてきたと思う。しかし、私とて決して仕事以外に楽しみや喜びを求めなかったわけではない。ときに遊び、また憩うこともあった。むしろ、仕事への打ち込みが激しかっただけに、その反作用も人一倍大きかったのではなかろうか。ひどく凝り性で、何事によらず、すぐに没頭してしまう。


会社は会社の信用、内部の信頼、どちらが欠けても成り立たない。


我々の仕事は、「消費者大衆」「得意先」「取引先」「従業員」「会社」の5者がそれぞれ満足できるようにバランスのとれた経営をすることが、永遠の繁栄を約束される根本であろう。どのひとつが犠牲になっても、決して長続きするものではない。


小さいながらも会社をこしらえ、その社長ともなると、責任は急に重くなった感じである。事業の成否は、すぐさまこれを取り巻く多くの人々の幸福につながっている。必ず発展させなければならないと誓いを新たにした。
【覚書き|三洋電機を株式会社化したときを振り返っての発言】


今回の事故は、出発したばかりの前途ある我々にとって、将来に対する刺激であり、示唆でもある。将来の発展のためには、むしろ幸いであったと考え、決して意気阻喪(そそう)することのないよう、従業員とともに頑張ってほしい。
【覚書き|三洋電機初の製品に不具合が見つかったとき、製造部門の責任者に言った言葉】


お客様が使っていて折れるようなら不良品に違いはない。我々の武器は、どこよりも良い品をつくることである。そうでなければ、これまでに実績のない我々の存在価値はない。出発したばかりで不良品を出すようでは致命傷である。資金繰りは度外視しても事業の将来の方が大切だ。
【覚書き|三洋電機創業期の発言】


あくまで前向きに進みたい。どこよりも立派な品質、性能を備えた大衆価格のものをこしらえ、我々の手によって国土を再建しよう。
【覚書き|太平洋戦争直後、三洋電機を立ち上げたときに語った言葉】


我々は、先輩各社を追い越して、全国生産量の半分をつくりたいと思う。私の狙いは国内だけでなく、技術と経験を基礎として海外へ進出したい。世界25億のうちまず10億ぐらいが自転車に乗るとみても、膨大な需要があると考えられる。これまた半分は我々の背品を使ってもらうのだ。
【覚書き|三洋電機の創業期に自転車の発電ランプの製造をスタートさせるときに語った言葉】


松下電器を辞した私は守口市本町に6畳ほどの部屋を借り、ここを事務所として新しい事業プランを練り始めた。これまでは多くの人を使い、手一杯の仕事をしてきた。これからは、小さくてもよいから、本当に魂のこもった仕事をし、世間のお役にたつこともできる。
【覚書き|太平洋戦争直後、公職追放で松下を去り、三洋を立ち上げたときを振り返っての発言】


売掛金は半分に割り引きますから、現金で払ってください。そのかわり、新しい商品は全部以前の価格で届けましょう。【覚書き:関東大震災2カ月後の発言。震災のため掛け金を払えない取引先を思いやっての言葉。また、震災直後はモノ不足になり、不当な高価格で儲けようとした会社が多く、その点からも震災前価格を打ち出すことで取引先の助けとなった。】


一つの仕事を守るための厳しさ、苦しみを味わうくらいなら、むしろ事業をより安定させるための苦しみを求める方が賢明ではないだろうか。【覚書き:ニッケル輸入制限が制定され、主力製品の発電ランプが作れなくなってしまった時の言葉。決まってしまったことはしょうがないので別製品へシフトすべきと主張】


兄貴(義兄の松下幸之助)は尋常小学校、俺は高等小学校(現在の中学1から2年相当)。兄貴の方が3年早く社会に出ている。この差は一生かかっても追いつけないかもしれないな。


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