井村荒喜の名言 一覧

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井村荒喜のプロフィール

井村荒喜、いむら・こうき。日本の経営者。工具・工作機械メーカーの不二越工業創業者。長崎医学専門学校に入るため蘭医系統の私塾・行余学舎で学ぶも、家の財政難から中退。その後、長崎民友新聞で配達員や事務員としての勤務を経て、台湾に渡り台湾帝国製糖で南投鉄道敷設を担当。帰国し中越水電支配人を経て、不二越鋼材工業(のちの不二越)を創業。衆議院議員。日本機械工業会副会長、富山テレビ社長なども務めた。

私は従業員と心をひとつにして戦った。従業員は創業から今日に至るも私をオヤジと呼んでいる。私もまたオヤジの気持ちに変わりはない。


外国の工具は日本には適用しないという点があることがわかった。日本と外国の機械工業技術の差異が、現れているということを知った。日本の方式に合うものをつくるという考えが必要だということも痛感した。これによって日本方式に適うものをつくったところ、よく売れるようになった。量産にも成功して、販売も製造も、共に調子づいてきた。


創立当時の苦心は誠に言語を絶したものであった。技術面ももとよりだが、ことに金融面ではひどく困難した。設立早々ではあり、舶来万能の時代に国産化という事業に対して銀行融資は不可能である。年末が来た、ボーナスを出す金がない。一晩中思案に暮れた。打つ手がない。家内が見かねて、ものを売って、シャツと下駄を買ってボーナス代わりにしたこともある。


私が勉強し、わからないことを聞くという態度は、社員たちの間にも「新しい支配人は知ったかぶりはしない。知らないことを知らないとして一生懸命に勉強し、努力する。いいマネージャーだ」という空気を生じたようである。私の態度とやり方に対して、人間としてついてきたのだと思う。私の勉強の結果はたかが知れたものである。問題は結果ではないということだ。
【覚書き|中越水電支配人時代を振り返っての発言】


せっかく南投鉄道が完成したのに、台湾人は長い間歩く習慣がついているので、一駅や二駅は乗ろうとしない。客車をつないでもガラ空きだった。こんな状態では経営が引き合わぬ。どうすればいいか、ということになった。そこで私は、1か月間開通記念という名目で一駅二駅間は無料ということにしたらいいと提案した。一度乗ればきっと乗るようになると。好奇心も手伝って、用もないのに乗る。昨日と打って変わった大繁盛で、箱を増結せねばおっつかぬ。人間というものは自転車をオートバイに変えて乗れば自転車に乗れないのと同様に、歩行よりも車の方をとるのは当然で、1か月の期間が済んでみると、もう問題は解決していた。
【覚書き|台湾帝国製糖で鉄道敷設の仕事を行っていたときを振り返っての発言】


私は電気事業についてはまったくの素人である。私は主任技術者の池田君を呼んで「君、明日から僕を生徒にしてくれたまえ」と切り出した。池田君は京都大学の工学部を出た優秀な技術者だった。池田技師長も突然のことにだいぶ面食らったらしい。「折に触れて説明しましょう」と言うから、「説明ではないのだ。これから毎晩生徒として君の家へ通うから、迷惑でも第一歩から教えてもらいたい」。それから毎晩技師長のところへ通い、一生懸命になって勉強した。
【覚書き|中越水電支配人に就任したときを振り返っての発言】


私は人間勉強すれば必ずできるものだと思っている。不二越には工員より上がった幹部社員は少なくない。みんな勉強家だ。学歴はもとより尊重するが、それも力次第である。学閥は派閥と同様、私には無縁のものである。


資本金を超える借金は絶対にしてはいけない。どこまでも自分の力で行きたいというのが私の信念であり、素志である。戦時体制の強化とともに、不二越は軍の要請によって拡張を続けた。借り入れは無際限に自由にできたのであるが、私は資本金とのバランスに苦心した。借り入れはできるだけ抑制した。借入金の限度に関する私の信念はともかく貫いた。


一体人間というものは何かと考えてみると、これは頭のてっぺんから足のつま先まで物欲の塊である。しかし、正しい欲望は充足されねばならぬ。人間誰しもより良い生活を望まぬ者はない。それには高い収入がなければならぬが、それは一に高い生産能率から生まれるものである。高能率高賃金でなければならぬ。高能率高賃金が私の理想である。


私は中越水電の持ち株全部を売り払った。これに退職金も加えてほぼ半数に及ぶ株を持った。それよりさき、研究費に資材をほとんど投じ尽くしていた。ただ家内と相談して、3年間の最低生活費だけを別にした。石の上にも3年で、私は3年間会社から一文も給料をもらわぬつもりだった。物心両面共にこの難事業と生命をともにする覚悟であった。
【覚書き|不二越創業時を振り返っての発言】


私は生来山河を愛する。草木の風趣を解さない人の感情の粗暴さを恐れる。私は人から仕事の虫だと言われるのであるけれども、がむしゃらな仕事をもって能事とするものではない。戦争中、軍の月月火水木金金に対しては、最後まで抵抗を試みた。私自身は身体も頑健だし、戦時中は毎日遅くまで仕事を励んだが、しかし週に一回の休養まで返上して、仕事の能率が上がるものではない。


石の上にも3年で、その次が10年。10年で社業の基礎を固めねばならぬというのが設立のときの覚悟であった。だいたい10年で所期のごとく社業の基礎を固めることができた。


私は少年時代、家庭の事情によって進学することができなかった。世の中にはそういう少年がたくさんいる。才能を抱きながら不運な少年の志望を少しでも満たしたいものだと思った。それで全国の小学校に呼びかけて、恵まれぬ秀才を推薦で入学せしめた。私はいまでも入学試験はいらぬと思っている。生徒は全員寄宿舎に収容した。わずかに筆紙墨代とこづかいを別にして、一切は無料とした。卒業後は、他社に就職するも自由で、なんらの義務を課すこともしなかった。
【覚書き|不二越工業高等学校の運営について語った言葉】


従業員の生活の向上と幸福は、高賃金だけで解決されるものではない。そこに会社の福利厚生施設ということが問題になる。これが従業員の生活の向上と安心感を側面から支えなければ十分とはいえない。
【覚書き|この思想に従って不二越は太平洋戦争前から社員宿舎、社員用病院(のちの県立中央病院)、工業高校(不二越工業高校)などを建設した】


得意先に満足してもらうためには、いい製品を安く提供しなければならぬ。技術の進歩に絶えず遅れないようにしなければならない。そのためには不断の研究が必要である。のみならず、工具の性能が一歩先んじて工作技術そのものの進歩を刺激するようにならねばならぬ。結局、量産と優秀な均一性能の問題である。


企業とは一体何か。私の理想は一言にしていえば、東洋思想としての「不二」。それを近代産業の中にいかに生かすには、第一がお得意先、次に従業員と資本だと考えた。
【覚書き|不二越の「不二」は仏教用語の「善悪不二(ぜんあく・ふに)」のことで「善も悪も別のものではなく、仏法では無差別の一理に帰着する」という意味】


私が長ずるに及んで、ことに人のことなどについても、どうやら私心を去ってそれに対処することができるようになったのも、こうした学びの中の孔孟の教えと母のしつけによるものだと思われる。


私は私の職責について誠実であろうとした。これは先師道伯の薫陶によるところが多い。道伯先生は「どんなことがあっても嘘は言うな。これが誠の始まりである」ことを徹底して教えられた。骨の髄までしみこんでいる。私もまた我が子女を育成するのに「嘘だけは言ってはならぬ」ということを、ただその一事をもって訓育してきたと言っていい。自分の生活にどんな秘密もあってはならぬと思ってきた。
【覚書き|道伯先生とは外科医末永道伯氏のこと。井村氏が幼いころに漢学を教えた人物】


毎日の仕事の上で、私はわからぬことをわかったような顔をすることをしなかった。少しでも疑問があれば納得のゆくまで聞き出した。単に職務としてでなく、それもまた肝要な学習だと考えたのである。
【覚書き|中越水電支配人時代を振り返っての発言】


私の台湾在住6年は鉄道建設を中心にして経過した。私の生来の強情さが、台湾という植民地的荒っぽさの中で試練されたことは、私をいろいろな意味で鍛えることになったと思う。


人の一生は短いものであるが、事業は尽きることない永遠のものであると思っている。しかし、事業を永遠のものにするためには、日に新たに、絶えず己を更新してゆかねばならぬ。もしそうでなかったら事業は人の一生よりもっと早く老衰し、短命であるに違いない。


日に新たでなければ楽しみもなければ希望もない。人生の経営というものは、一切をかけて、ただ生涯の最後のものにつながってゆくのだろうと思う。


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