井上貞治郎の名言 一覧

このエントリーをはてなブックマークに追加

井上貞治郎のプロフィール

井上貞治郎、いのうえ・ていじろう。大手製紙会社レンゴー創設者。高等小学校卒業後、神戸の商家に丁稚に出る。多数の職を転々とした後、満州に渡る。4年の放浪ののち、東京で国産ダンボール紙を技術的に完成させ、聨合紙器株式会社(現:レンゴー)を設立した。「日本の段ボールの父」と呼ばれた人物

私はいま幸せだ。折に触れて追憶し、楽しめる「苦しかった過去」を持っているからである。苦あればこその楽しみだ。苦しみを経た者しか、真実の喜びは味わえないと思う。


人よりいい商品を安く売ることだ。こうすれば金は自然に儲かる。金は儲からないのではなく、人が儲けないのだ。そして、天から授かった福運は絶対に自分のものとすること。つまり、握ったら離すな!


苦しかった青春時代を通じて私が得たのは、「寝れば一畳、起きれば半畳、五合とっても三合飯」の雑草の根強さであり、二畳の座敷で考えた「良心に従って全力を尽くして働き、気になることひとつもなく、ぐっすり眠れるようになろう」との気持ちはいまも生きている。
【覚書き|20代に無一文で大陸を放浪していた時代を振り返っての発言】


旅路の果てのどん底の生活。私には、人間がどんなこともできる。いかなる悲惨、困窮にも耐えられる強い忍耐心を天から授かっているように思えてくる。いよいよ食えなくなれば、往来へ大の字に寝転んでやろう。3日ぐらい食わずとも死ぬこともあるまいと、私はこのどん底の生活に、すっかり捨て身になっていた。
【覚書き|20代に無一文で大陸を放浪していた時代を振り返っての発言】


真面目に働こう。これまでのような放浪生活とはキッパリ縁を切って地道に暮らそう。いまから思えば、大陸生活で私が得た、たったひとつのものはこの決心だったかもしれない。そして私は「金なくして人生なし」という私なりの哲学を持つようになった。
【覚書き|20代に無一文で大陸を放浪していた時代を振り返っての発言】


私は過去の追憶にばかりふけっているのではない。会社の部屋に日本地図を広げて、タコの足のように八方へ伸びていく聯合紙器(レンゴー)の未来図を描くのに忙しいのだ。私の後進たちが、存分に活躍できる舞台を用意するのがこれからの仕事でもあろう。かつて若い栄吉を駆り立てた並はずれて大きい野心の炎は、いまでも79歳の老人の心に燃え続けている。
【覚書き|栄吉とは井上氏のもう一つの名前。10代末から20代前半まで大阪で石炭商をしていたときの呼び名】


世の中で理想の女房、あるいは夫というものはない。夫婦はむしろお互いがつくるものなのだ。私は太ってすっかり出不精になった妻を仕事や旅行にも引っ張り出し、私と同じように見聞を広める機会を与えるようにしている。放浪を続けた私だったが、いまさらのように、家庭こそ、夫婦が力を合わせて築いていくべき砦だとつくづく思うのである。


人の比べれば、波乱の多い青春時代を過ごしたが、いまから思えば、私は波乱の中での経験を肌で受け取り、自分の生きるための糧とすることができたのは幸いだった。


終戦。外地の工場はすべて接収され、国内でも半分以上が焼失した。私は残った工場と従業員たちで、軍から払い下げられた19式梱包用の原紙を使い衣装箱をつくって売り出し、家財道具を失った人々に好評を博した。


赤字続きの悪戦苦闘の中で、出資者たちは次々と私から離れていった。荒川(出資者の一人)など別れ際に私の来ているドテラや、布団まで取り上げていったものである。しかし私はかえって元気を出した。商売には浮気は禁物!あくまでやり遂げよう。私は独立独歩できるのを喜び、別れていった3人の出資者にも心から感謝をささげた。ちょうどそのころ、私が苦心して組み立てた機械とその製法が実用新案特許を出願して認可されたので、製品の名も「特許段ボール」として市場に出すことになった。


巫女は白髪の老婆だった。御幣を上げ下げしているうちに、体が踊りだす、目がつりあがる。巫女は上ずった声で言った。「他はいかん、いかん。紙じゃ、紙の仕事は立て板に水じゃ……」。よし、これで決まった。それから50年、私はカミのお告げに従って、紙にしわを寄せながら生きてきた。
【覚書き|29歳のとき、これからどんな仕事で生きていくか悩んでいたとき、占い師に意見を聞きに行ったことを振り返っての発言】


「寝れば一畳、起きれば半畳、五合とっても三合飯」の明るさと、「今にえろ(偉く)なったるぞ」の意欲が私の力だ。


人名ランダムピックアップ


経営・ビジネス・投資・仕事・お金・経済的な分野で成功を収めた人たちの名言を収録しています。

ページの先頭へ